#5
夕方、陽が落ちてから起きて、素肌にセーターを引っ掛けて居間に出て行くと少年はキッチンで夕食の支度をしていた。
テーブルの下に蹲っている《雪解け》を撫でる。
「おい、おまえ、やたらに吠えてたなあ?」
「ペンキの匂いが気に障るんだろ」
スペアリブを並べたフライパンを揺すりながら少年が言う。オレンジ・マーマレードをドバッと投入した。続けて、ソイ・ソース。
「ペンキ?」
見ると、アトリエに使っている部屋のドアが珍しくピッチリと閉じられているではないか。
ウォルターはそっちへ行ってドアを開けた。
「!」
途端に冷たい風が体を吹き抜ける。
向かって左側、通りに面した窓が二つとも全開でアトリエ中、十一月の木枯らしが舞い狂っていた。
だが、ウォルターが驚いたのはそのことではなかった。
窓と反対側の、コンクリート剥き出しだった壁一面、ペンキが塗られている。
宛ら、特大のキャンバスのよう。
壁右隅のクローゼットさえ塞いで塗り潰してあることからもその徹底ぶりがわかる。
新聞紙を敷いた床の上にはコンクリの袋とペンキの缶。イーゼルや画材、描きあげた絵の方は部屋の隅に寄せられていた。
刷毛の後も生々しい大胆なタッチで塗り上げられた銀青色の壁……!
勢い余って? ところどころ点々と雫が飛んでいる。が、それはそれでとても美しかった。
思わずウォルターは唸った。
「うーん……」
やはり、色の選択が抜群だ。俺なら、こんな色、絶対に思いつかないだろうな?
いつから、そこにいたのか。
真後ろに少年が立っていた。
塗りたての壁を指差して、ウォルターは訊いた。
「海?」
飛び散る銀色の点々が波飛沫のように見えたから。
少年は否定も肯定もしなかった。
ちょっと微笑んで、
「そんな風に見える?」
黒い髪の先と頬、鼻の頭にも銀青色のペンキが散っている。
凄くセクシーで身震いした。少年自身が迸らせる──を連想させる。
ドアを開けるとそこが何処だろうと飛び込まずには気がすまない《雪解け》が今日に限って、テーブルの下から動こうとしなかった。泥色の前足に泥色の顎を載せて寝たふりをしている。
それをいいことに──
ウォルターは少年を床に押し倒した。
二人はアトリエの新しい銀青色の壁の前で愛し合った。
勿論その際、窓は閉めたが。
ウォルターも激しかったが、少年はもっと情熱的だった。
少年の喘ぎ声がいい具合にくぐもって、反響して、水の中のようだ。
ちょっとした隙に──例えば、貫いたまま、キスの合間に──チラと壁に目をやってはウォルターはニヤついた。
やっぱり海だな?
深く、深海まで沈んで行った。
翌日は非番で、出勤した翌々日。
職員専用食堂の丸テーブルに同期の面々と座った際、またしても懲りずにバルバは極秘情報を開陳した。
驚くべきことに、その日のトップニュースは、麗しき心臓外科医サンドリーヌ・ファーブルの失踪の報だった。
バルバの声は掠れて、目の下には隈ができていた。
それで、ウォルターは彼が本気で女医に恋していたのだと、気がついた。
「ここ数日、何度電話をしても応答がないことから、家族(両親と兄)が警察に届け出たそうだ。
アパートの部屋は最近まで生活していた痕跡が残っていたとか。
病院も今日で四日間、無断欠勤の状態。愛車のメルセデスは院内専用駐車場に停められたままだ」
何か事件に巻き込まれてなきゃいいんだが、とロベルト・バルバはボソッと呟いた。
ウォルターはファーブル医師が細い手首に巻いていた若草色のゴムバンドを思い出した。
ウォルターの目の前で彼女は砂色の髪を項で束ねたっけ。何と言いながら?
── 嘘つきね?
ユウコ・サガワからフラットに電話が入ったのは次の日の昼だった。
少年の絵が売れたのだと言う。
画商は弾んだ声で、今から小切手を持って、そっちへ行くわよ、と言った。
「ぜひ、次の絵も欲しいし。それに、売れた絵のことで二、三、耳に入れておきたいことがあるから」
「ちょっと待った!」
ウォルターは慌てて遮った。
この時、幸運にも少年はシャワーを使っていて、ウォルターの傍にはいなかった。
バスルームのドアを窺いながらウォルターは声を落として言った。
「俺はこれから夜勤なんだ。そうだな──明日、仕事帰りに直接あんたのギャラリーへ寄るよ。
この件は俺なりに特別の計画を立てているんで、まだあいつには知られたくないんだ」
ユウコは察してくれた。
少年が雫を垂らしてバスルームから出て来る前に、ウォルターは素早くギャラリーの住所を書き留めて電話を切るのに成功した。
病院へ行こうとして外へ出ると、思いのほか冷え込んでいて吃驚した。
ゆっくりと車を発進させながら、季節が確実に冬に向かっているのを知った。
ハドソン街からキャナルストリートにぶち当たる辺り、ちょうど地下鉄の昇降口近くの交差点で信号待ちで停まった。
道脇のビルの壁の看板が新しく取り変えられるのだろう、その作業の真っ最中だった。
広告の四角い断片がクレーンに吊るされて昇って行く……
ただそれだけのことなのに妙にウォルターは心動かされた。
何かが、体の内側をチクチク刺激して、そっちへ目をやらずにはいられない。
ジグゾーパズルのように嵌め込まれて行く広告版。
フィレンツェの壁画を思い出した。
聖アルティーノ病院の回廊にあった大天使のモザイク。
そう、実はあの壁画も、そう言う意味では完璧ではなかった。
つまり、所々剥げ落ちて剥き出しの空白の部分が──
「!」
後ろのアバロンにクラクションを鳴らされてウォルターは我に返った。
信号はとっくに青に変わっていた。
結局、その日、ウォルターは仕事の後で、ノリータはマルベリーストリートにあるというユウコのギャラリーへは行けなかった。
夜勤が明けない朝の内に、病院に直接電話が入った。
個人的な呼び出しで、電話の主は隣室に住むキキ・バイアライだった。
バレリーナは酷く興奮していて、彼女の話の内容がウォルターには中々理解できなかった。
外科治療台の横、点けっ放しのハロゲンランプの光が目に痛い。
片耳を押さえて、症状を聞き取る時の職業用の声でウォルターは繰り返し尋ねた。
「落ち着いて、順序立てて言ってみてくれよ、キキ? ちゃんと聞いてるからさ」
「だから、警察が来て……警官が来てるの……!」
受話器の向こうでバレエ・ダンサーは泣き喚いた。
「何度言わせるのよ、ドクター! あの子が連れて行かれちゃうわ!」
「え?」
「いい? 警官が、あの子を、連れて行こうとしているの!」
慌ててウォルターは外へ飛び出した。




