#4
《雪解け》と一緒に帰って来た少年はむっつりとして不機嫌だった。
夕食はとっくにできていた。
ウォルターが腕によりをかけたポロ葱とサーモンのグリル。サフランライス付き。ミモザサラダだってある。
それなのに、どうしたと言うんだ?
少年は一言も口をきかず、目も合わせようとしない。
何より、この、目を合わせない行為がウォルターを苛立たせた。
出会った当初はあれほど自分を夢中にさせた〝宙を漂う眼差し〟だが、こうして恋人同志として一緒に夕食を食べるとなると気に障ることこの上ない。
おまけに、昼間、画商と並んで何枚もの〝通り過ぎる微笑〟を見た後とあっては。
胸の奥に燻っていた漠然とした不安が怒りの火種となった。
それで──
先に、テーブルを叩いて怒鳴ったのはウォルターの方だった。
「その態度は何だ! 気に食わないことがあるんなら口に出してハッキリと言え!」
「……気分が悪いんだ」
とてもそんな風には見えなかった。
少年の頬は薔薇色で、目はギラギラ光っている。
今しも飛びかかろうとしている密林の中の捕食動物のそれだ。
ウォルターは思った。こいつ、血を見たがっているな? OK。
「気分が悪いだと?」
ウォルターはズバリと言った。
「そんな風には見えないぜ」
「気分が悪いんだったら! あんたのクソ写真集のせいで!」
「!」
暫くウォルターは黙っていた。
少年を睨みつけたまま、椅子を引いて、頭の後ろで両手を組んだ。
これでハッキリした。
怒る権利は自分にある。
責められるべきは少年の方だ。
「勝手に見たな? プライバシーって言葉知ってるか?」
「知るか」
少年が何のことを言っているのか、ウォルターにはすぐわかった。
ウォルターが机の抽斗にしまっておいたCD-Rの中のアルバムを少年は勝手に開いたのだ。
秘密保持という観点より、嵩張らない合理性からウォルターは大切な自分の、自分だけの写真をそこに整理保管していた。
彼が出会い、愛して来た恋人たちの写真。
正確には何人いたか、自分でもすぐには数えられない。
一晩きりの相手もいれば、半年以上続いた相手も、二、三ヶ月一緒に暮らした相手もいる。着衣のもあるが、殆どはヌード。
カメラが趣味だというと、皆、喜んで撮らせてくれた。
「……俺のが一枚も入っていないのは何故?」
そういうことか? ウォルターは内心、少しホッとした。
「その理由を聞きたいか?」
ウォルターは座り直して手をテーブルの上に置いた。
少年ではなく、自分の両手を見ながら、言った。
「何て言ったらいいかな。ありゃ──〈カタコンベ〉だからだよ」
「?」
咄嗟に出て来た、その場しのぎの言葉だったから、我ながら吃驚した。
「俺の〈墓場〉……〈埋葬地〉……」
いったん口にしてみるととてもしっくり似合って、気に入った。
「おまえとは終わってないだろ? 少なくとも、俺はそう思ってるんだけど?
それとも──今夜にでも、おまえの写真をあの列に加えようか?」
ウォルターは念押しした。
「加えて欲しいのか?」
少年の言動は予想外だった。
少年は皿をひっくり返して絶叫した。
「あんなもの、焼き尽くしてしまえ!」
こんな激しい少年を見たことがなかった。
ウォルターは自分の怒りを忘れて、火の玉みたいに荒れ狂うその姿を茫然と見つめた。
「カタコンベだって? 聞いて呆れるぜ!」
少年ときたら、テーブルの上のウォルターが丹精を込めた料理の数々を全て床に(美しい松材!)にブチ撒いた。
「で? あんたは何なんだ? 〈墓守り〉かよ?」
── 照準が合っている……!
ウォルターは感動でいっぱいになった。
微笑とは違って、少年の怒りは素通りしなかった。
しっかりと対象──現存する自分──を捉えて照射されている。
試しにウォルターが少し動くと、少年の瞳はそれを追って正確に移動した。
嬉しくなってウォルターはキッチンの椅子から、ソファ、コーヒーテーブルの横、TVの前、と次々位置を変えた。
少年の視線は決してブレなかった。
「畜生! 後生大事に残骸なんかありがたがって……! 腐った亡骸どもを大切にしやがって……!
俺よりも……!」
ブレない瞳から涙が溢れた。
「俺よりもかよ?」
勿論、ウォルターは飛んで行って少年をしっかりと抱きしめた。
「馬鹿。んなはずないだろう? おまえが、一番……大切さ……」
これ以後、日々は平穏に過ぎて行った。
少年は絵がなくなっていることには頓着せず、また新しく描き始めた。
《雪解け》は少しずつ成長し続け、ウォルターは定められた勤務表通り、日勤と当直を今までになく精力的にこなした。
変わったことといえば、一度だけ、ウォルターが耳障りな物音のせいで目が醒めたことのあったくらいだ。
それは、当直明けの昼過ぎ。
前夜は重度の火傷患者の気管切開を完璧にやり遂せて満足でもあり、クタクタでもあった。
「?」
最初、ウォルターは何処かの通りでまた水道管が破裂して、そのために道を掘り返しているのかと思った。
寝室は下ろしてあるブラインドのせいでエニシダ色。何処も彼処もふやけて見えた。
ベッドの自分の横に少年の姿はない。
時計を見ると、午後3時12分だった。
土を掘るようなザラついた音は隣室から聞こえていた。
今まで聞いたことがないくらい《雪解け》が吠えている。
「こら! 《雪解け》!」
一回だけ犬の名を呼んで叱った。
その後、クルッと体を反転して、枕を頭の上に乗せると再び瞼を閉じた。
放っとけ。 ウォルターは思った。
今度は彫像でもやり始めたのかも。
なにせ、俺の恋人は本物の〈芸術家〉なんだから。
その昼中、ウォルターは砂漠を歩いている夢を見ていたような気がする。
ダーティバックの砂漠ブーツを履いて一歩づつ慎重に歩いて行く。
ザク・ザク ザク・ザク
《雪解け》が前後を五月蝿く吠えながら跳び回る。
ワフ・ワフ ワフ・ワフ
その度に砂粒がパッと舞い上がる。
太陽に反射して砂埃は緑から金茶に至るまでの様々なグラデーションで燦きながらウォルターに降りかかった。
少年がその夢の中の何処にいたかは憶えていない──




