#3
よっぽどウォルターの撮った写真が気に入ったのだろう。
次の日から少年はそれを素材に絵を描き始めた。イーゼルにキャンバスを置いて。
勿論、画材は、必要な分、ウォルターが買ってやった。
ウォルターは帰ってくるたび、絵の仕上がり具合を見るのが楽しみだった。
それから、少年の求めに応じて何回か、写真を新しく撮った。
何度撮っても少年の微笑は完璧で、違っているとしたら──当然ながら──腕の中の子犬が少しづつ少しづつ大きくなって行くことだけ。
最初の計画に反して薬物治療の件やHIV検査の話をウォルターは少年に持ち出すのをやめた。
少年の状態は一見してマトモで、(例え、陰に隠れて何かやっていたところで)生活に支障を来たすほどではなかった。台所の戸棚にウォルターがストックしている酒類が異常に減ってるわけでもなし。
言うまでもなく、ウォルターはセックスに関しては安全なそれを心情にしている。
少年はあまり外へは出たがらなかった。
外は寒いと言って家で絵を描いている方を好んだ。
冬服に限らず衣類をほとんど持っていなかったせいもあるかも知れない。
が、ウォルターにとっても少年が自分のフラットでいい子にしていてくれた方がありがたかった。
ウォルターが休みの日には二人して一緒に出かけた。
車でハドソン河上流のベアーマウンテンやハリマン等、州立公園をドライブしたり、でなければ、トライベッカ界隈をブラブラ歩いて昔ながらの定食屋でゆっくりと食事をした。
ウォルターの職場に近いサウスストリート近辺まで足を伸ばしたこともあった。
それは十一月とは思えないよく晴れた暖かな一日だった。
風は少々強かった。
尤も、この辺りはいつもそうだ。
木の桟橋を歩きながらウォルターは少年の髪が潮風に嬲られる様を見て胸疼いた。甘美な感傷。
今ややんちゃ盛りになった《雪解け》もリードを付けて連れて来た。
犬の名は二人して決めた。ロマンチックな響きだが、実態は雪が溶けた舗道のグチャグチャした色が体毛とそっくりだったからだ。春になるとあちこちで嫌でも目に入る。
「やあ! 近くで見ると、こんななんだ……!」
対岸に伸びるブルックリン橋を眺めながら少年はふいに呟いた。
「でも、やっぱりここも〈飛翔する街〉じゃないなあ……」
吃驚してウォルターは訊き返した。
「何だよ、それ?」
「知らない? エッチングだよ。親父の書斎の壁に飾ってあった。素敵なタイトルだと感動したよ。
うーん、絵自体はさほどでもない。と、言うか──俺はもっと別の風景を勝手に思い描いたわけ。
以来、本物のソレを見てみたいと痛切に思うようになってさ」
少年は指でフレームを作って覗く真似をした。
「窓枠に嵌った豆粒みたいな街、死ぬほど見て来たけどさ、何処も俺の〈飛翔する街〉じゃなかった」
「要するに」
ウォルターは尋ねた。
「理想の街ってことか? それとも、心象風景とか?」
「どうかな。わかんないけど。そうだな、俺にとってそこは天国に一番近いって意味かも知れない。
そこにいて、フツーに暮らして、そのまま天に近づける街……なんてね。
ああ、死がそんなだといいな!」
凄い、とウォルターは思った。
── こいつ、画才があるのみならず詩人でもあるんだな?
口に出してそう褒めると、意外にも少年は顔を顰めた。
「よせよ」
傷ついたようにそっぽを向いてポケットに両手を捻じ入れる。
苔色に赤の縁取りをしたチロリアンコートはウォルターが貸してやったものだ。サイズこそちょっと大きいけれど少年によく似合っていた。
「俺はさ、ガキの頃から他に遊びようがなかったんだ。いつも一人で絵を描いたり、本を読んだり……でなきゃアレコレ空想したり。どんな人間でも暇を持て余してるのに自由に好き勝手できなかったら、多少は上手くなるってもんさ。絵にしろ、何にしろ」
当直明けのその日、ウォルターが帰って来ると玄関ドアの前でユウコ・サガワが待っていた。
ユウコはキキの恋人だった。何度か顔を合わせたことがあるので憶えていた。
いつもパンツスーツにヒールの高いパンプス。真っ黒い髪をキリッとした顔の輪郭に沿って吃驚するほど短く切り揃えている。
「キキは仕事に行ったわ。あなたの同居人は留守みたい」
ウォルターの姿を目に止めるなりユウコは言った。
「それで、あなたを待っていたのよ」
鍵を開けながら、少年が留守とは珍しいな、とウォルターは思った。
きっと、《雪解け》と散歩にでも行ったんだな?
「キキから、誰かさんがこっそり隠してる可愛い画家の話を聞いてね。それで、職業的好奇心に苛まれて──ぜひ一度、見せてもらおうと思ったの」
と、ユウコ。
それを聞いて、彼女が画商だったことをウォルターも思い出した。
以前、もらった名刺には確かにそんな風な肩書きが記されていたっけ。小さいながらノリータの何処かにギャラリーを持ってるって話。
本人が不在なのでどうかとは思ったが、ウォルターはユウコを招き入れて少年の絵を見せることにした。
別に嫌がらないだろうと考えた。
最近では、少年は〝家具一つない〟例の空き部屋をアトリエ代わりにしてそこで絵を描いていた。
始終ドアは開けっ放しで、いつ何時ふらっとウォルターが入って行っても気にかける様子はなかった。そう言う意味で、少年は全然神経質なタチではなかった。それとも──
── 俺の存在などハナから気にかけていないのだろうか?
画商を従えて部屋に入る際、ウォルターは、この、時折感じずにはいられない〝違和感〟について考えてみた。
出会った最初の日に──貪るようにメチャクチャに愛し合った後でさえ──既に気づいていたのだが。
少年の視線はどこか虚ろで、全く別の世界……他の風景? を凝視しているように見える。
フィレンツェの大天使のように、漂っている/通り過ぎて行く/定まらない眼差し……
一ヶ月足らずの短い期間にも拘らず、改めて並べてみると少年の描いた絵は思いのほか多かった。
キャンバスは五つ。
六つめがイーゼルに乗せてある。
そのどれもが犬を抱いた自画像だった。
執拗と言ってもいいくらい、微笑む自分自身を描き続けているのだ。
白いTシャツとジーンズ、泥色の子犬。
籐椅子の上からこっちを見て笑っている黒い髪の少年。
こっちを見て笑っている?
── 違うな。
ウォルターはつくづくと思い知らされた。
微笑はまたしても朧に揺れ、通り過ぎて行く……
少年の目は決して見る者の目を捉えようとしない。
どの位置に立っても、だ。
そのせいか、これらの自画像が完璧なのか失敗作なのか、ウォルターにはわからなくなった。
そもそも、少年がこんなに何度も繰り返しこのモチーフに執着しているのは何故だろう?
少年自身、納得していないのかも知れない。
求めるものを逃し続けている?
でなければ──習作のつもりだろうか?
── 何てこった! あの罰当たりめ!
苦々しい思いでウォルターは口の中で毒づいた。
俺だったら、一生に一度でも、こんな絵を描いたなら、それだけでもう、明日死んでもいいと思うだろうに。
それなのにあいつはこの絵に満足してないらしい。
一方、傍らの画商は大いに満足したようだ。
ユウコ・サガワは少年の絵が非常に気に入った。
「魅了されたわ!」
ユウコは叫んだ。
「わかるかしら? これはとても素晴らしい作品よ! 何てこと? この子は特別な力を持ってるのね?」
二、三枚自分に預けてくれないかと画商は願い出た。
その熱心さが並々ならぬものだったこともあってウォルターは承諾した。
ウォルター自身、今は自分だけが知っている少年の才能を世間に問うて見たくなったせいもある。
この殺風景な部屋の壁に立て掛けてあるのと、ユウコ・サガワの小さなギャラリーの片隅に並べるのと、行為としてはさほど違うわけじゃなし。
それで、もし、少年の絵を欲しがる人が出現した暁には──
少年には、その時になってから教えてやればいい。
ひょっとして、これは素敵なサプライズプレゼントになるかも。
時間をかけて選んだ二枚の絵を両脇に抱えて、ヒールで蹌踉けながらユウコはウォルターのフラットを出て行った。
その夜、戻って来た少年とウォルターは喧嘩をした。
原因は、勝手に渡した少年の〈絵〉ではなくて、ウォルターの〈写真〉のせいだった。




