#1
少年はやっぱりそこにいた。
ウォルターが見間違うはずなかった。
と言うのも、傍らの所持品がちょっと独特だったから。
イーゼルと絵の具箱。紙袋の上には色褪せたGジャンが引っ掛けてある。
前に見た時と違いがあるとすれば、そのジャケットを少年自身が羽織っていたことくらいか。
前回は夕方で、寒かったのだ。
場所はローワーマンハッタン。サウスブリッジタワーズに程近いB・D病院のバス停。
そこにはシェードが設置してあって雨露くらいなら十分にしのげた。
後方には病院の専用駐車場が広がっている。
ウォルター・ヴァレンは外科病棟勤務四年目の研修医だった。
当直明けで、晩秋とは言え、太陽の陽射しがキラキラして目を瞬く。
一回通り過ぎてから、戻った。
「何してんの?」
少年は別に驚く風もなく答えた。
「友達を待ってるとこ」
それから、ウォルターの顔をじっと見て付け足した。
「デートなんだ」
ウォルターは手を振ってその場を離れた。
自分の青灰色のアキュラは職員専用駐車場の一番端に停めてあった。そのせいでもなかったが。
そこに行き着く前に引き返して来た。
「思うに」
と、ウォルター。
「おまえのデート相手のお友達は日にちを取り違えているんじゃないかな?
また夜までここで待つつもりなら……それまで俺のとこへ来たら? 時間潰しにはなるぜ。TVもあるし」
少年は微笑んで、即座に荷物を掻き集めた。
ウォルターの家はトライベッカにある。
ハドソン河沿いの倉庫街の一画。今にも崩れ落ちそうな古い十三階建てのビルだ。
それでも、一応、海運業華やかなりし頃の威光に満ちた煉瓦造りだし、見た目より遥かに──近頃建設されたビルなどよりは遥かに──頑丈だった。
一時は隣接するソーホー同様、芸術家たちに持て囃されもした。
今でもこの手の風情を愛する(または家賃を愛する?)少数派が住み続けている。
ウォルターもその一人で医学生時代からずっとここを離れたことがなかった。
実はウォルターは医者ではなくて芸術家になりたかった。
今でも、気が向くと写真を撮るが、才能がないのはとっくに知っていた。
一方、医者なら才能がなくてもそこそこやって行けると言うものだ。
大腿動脈に注射針を突き刺したり、喉頭鏡を覗いて気管チューブを挿入するのに特別の才能はいらない。
そういうわけだから──
少年に惹かれたのは、所持品のせいか、外見のせいかウォルター自身よくわからなかった。
多分、両方。
両方とも最上級に魅力的だ。自分の急所を見事に突いている。
芸術に携わる可愛い少年ときたら……!
ウォルターが内心自慢に思っている──三ヶ月を費やして自分で貼ったのだ──美しい松材の床に立って少年が最初に言った台詞はこうだ。
「あれは嘘なんだ」
「はあ?」
てっきり、フラットに対する賛辞を聞けるものと期待していたウォルターは面食らった。
「嘘って……何が?」
「デートする友達を待っている、ってヤツ。見栄を張ったんだよ」
荷物を床に下ろしながら、少年は息を弾ませて囁いた。頬は上気して薔薇色だ。
(恥ずかしがってるんだな?)
ウォルターは微笑まずにはいられなかった。
「聞いてよ。俺は普段は正直なんだ。さほど嘘は言わない。でも、さっきは──あんたみたいな素敵な人の前で、つい、恥ずかしくってさ。だって、住む家もないんだと知られたくなかった」
「住む家もないのか?」
「追い出されちまって……」
それについて少年は多くを語りたがらなかった。
「あんたは医者だろ?」
窓際の乱雑なデスクコーナーに目をやって少年は訊いた。
「精神科医とか? だったら、嫌だな。俺の嘘、とっくにバレてた?」
精神科医でなくっても、とウォルターは思った。
おまえの嘘はすぐバレる。あんな所に荷物と一緒に一晩以上座り続けて。それとも、皆、コロッと騙されちまうのかな? こんなコなら?
「名前は?」
訊いても少年は言いたがらなかった。
「ここにいる間は適当に呼んでくれていいよ。あんたが拾ってくれたんだから」
と、来た。
「じゃ、チェリィ……」
「安っぽいの!」
少年は声を上げて笑った。
「丸っきり、売春婦みたいだ!」
空き部屋を貸してやってもいい、と申し出たのは最初のメイク・ラブの後。
四階にあるウォルターのフラットは、だだっ広いだけの居間兼台所兼書斎。
他に、寝室の隣にもう一部屋あって、そっちは全然使ってなかった。
一度模様替えを試みて、途中で気が変わって以来、ほったらかしのまま、壁紙も剥いで、コンクリート打ちっ放しの、壁も梁も何もかも剥き出しの状態。だから家具一つ置いてない。
ところで、家具がなくて何か不都合があるだろうか?
ウォルターは研修医の身。当直も多い。
一人きりの夜なら少年は空いているウォルターのベッドが自由に使えるし、居間のソファで寝てもいい。
そして、二人一緒の夜は──
まさに、そういう夜こそ、スペアベッドの心配をする必要はないはずだから。
実は、売春婦だと思ったから、ウォルターは少年を〈チェリィ〉と名づけたのではなかった。
そこにはもっと純粋で芸術的な……美しい理由があった。
尤も、ウォルターはそれを少年に明かす気はさらさらなかったが。
チェリィはボッティチェッリから採った。
最初に、仄暗い黄昏の中、バス停のオレンジ色の椅子に腰掛けている少年の前を通り過ぎた、その瞬間、ウォルターは思ったのだった。
その際、上着のポケットに入れていた手をギュッと握って、
── ワーオ! ボッティチェッリの大天使みたいだな……!
その絵を知っていて、それから少年を見て、そう思わない人間はまずいないだろう、とウォルターは確信した。
十五世紀後半、フィレンツェはスカラの聖アルティーノ病院の回廊にサンドロ・ボッティチェッリが描いた《受胎告知》の天使ガブリエル……
(完成後、ほどなくこの大画家は有名なローマのシスティナ礼拝堂へと向かうのである。)
ウォルターは学生時代、夏休暇を丸々全部注ぎ込んでイタリアを放浪した経験があって、バックパック一つの貧乏旅行だったが、その際、直接目にした数多くの美術品の中で、その壁画を一番美しいと思った。
壁画を扱った芸術書で、某芸術評論家は〝当時のフィレンツェ派が具有した画風の集大成〟だと解説している。〝構図の気宇の大きさ、律動的な空間の配置。聖母と大天使の描写は甘美な感傷と溢れる熱情で人々を魅了する……〟
甘美な感傷か──
壁画を目の当たりにして、その通りだとウォルターは納得した。
聖母がどんなだったか、とっくに忘れてしまった。
片や、大天使の方は鮮烈に脳裏に焼き付いた。
中世の天才画家が描いたその天使は、濃い色の髪を無造作に風に靡かせて、寝室の前で額づく聖処女など見ずに、全くあらぬ方向を凝視していた。
それで、壁画の前に佇んで、ウォルターは思ったものだ。
── こいつ、一体、何を考えているんだ?
今、ベッドの中、自分の真横で膝を抱いて座っている少年は全く同じに見える。
── 一体、何を考えているんだ、こいつ?
それにしても、物凄い拾い物だぞ!
ウォルターはつくづく思った。
裸に剥いた少年の体がガリガリに痩せていて、腕は注射針の痕だらけだからと言って、何だろう?
明らかに薬物中毒かアルコール中毒(あるいはその両方)の兆候が見て取れる。
それでも、拾い物に変わりはない。
もう少し落ち着いたら──そして、状態が深刻なら──医学的見地からそれなりのアドバイスをしてやろう。HIV検査は早めに受けさせるとして。
枕の形を直しながらウォルターはザッと大まかな計画を立てた。
別の言い方をすれば、恋に墜ちたと言うこと。
季節的にもこれは好ましい。
西海岸の都市ではどうか知らないが、NYでは恋は冬にするべきだと常々ウォルターは考えていた。
朝見るたび、寒暖計が零度近く下がって、街中至る処灰色で、荒涼として、凍てつく季節にこそ恋は相応しい。
そして、今日は十月最後の木曜日。
足早に秋は過ぎ去ろうとしていた。




