31 一撃
やはり授業が始まってしまうと、なかなか時間が取れない。
いや、そう思っているだけなのかもしれない。
先送りにする理由を探しているだけ。
自分でもそう、分かっていた。
彼女への答えの、前提条件。
それは失われた記憶と、七海との再会以来、抱えている感情。
彼女は、俺の中にあるものが何なのか、気付いているのかもしれない。
それは、自分で気付かなければならないもの、であるという事も。
だがそれと同時に抱いたものが、行動を封じていた。
恐れ、だ。
そんな逡巡によって、以前と同じように接しているつもりでも、ちょっとずつすれ違いが生じる。
こと、当事者となれば、尚更だ。
それは、一瞬の気の緩みか。それとも、無意識下の行動か。
そして、それによる疑念の重なりは、不信へと変わっていく。
「何かあったの?」
いつものゼミ室に、沙紀の声が響く。
「別に何もない、って言ってるだろ?」
「そんなの、いつものウッチーらしくない!」
沙紀に詰め寄られたのは、司と話をした十日ほど後だ。
「最近、全然メグと話してないじゃない!」
「そんな事無いと思うけど?」
和人の言葉に、沙紀は首を横に振る。
「立ち位置にも距離があるような気がするし。それに……昨日だって、全然顔を見ようとしなかった」
昨日、和人と恵美、沙紀、太一の四人で昼食を取った時の事を言っているのだろう。
思い返してみれば……確かにそうかもしれない。
「メグもメグで、何か変だし。答えてよ!」
和人は椅子に座ったまま、そっぽを向いていた。
「旅行から帰ってきてから、なんとなく違和感、感じてた。二人でご飯食べても、なんとなく口数が少ないし」
「気のせい、だろ?」
ここは受け流す一手、だ。
「そんなこと無い!」
沙紀は食い下がる。
「だいたい、ウッチーのその答えもおかしいよ。普段なら、メグを心配する言葉が出てくるはずだもん!」
……そうかもしれない。
だけど、今はそんな言葉が出てこない。
「……なんで黙るの?」
沙紀の言葉に、和人は返す言葉が見つからない。
こうなった彼女に、中途半端な答えが逆効果だという事も分かっている。
かといって、事実を語る気にはなれなかった。
「何とか言ってよ!」
沙紀が和人の肩を揺する。
「井上……」
「ウッチー?」
「悪いけど、話せる事は何も無い。全部、君の気のせいかもしれないだろ?」
こう誤魔化すのが、精一杯だった。
だが、その答えを聞いた沙紀の目は一瞬大きく見開いて、ゆっくりと閉じられた。
その目尻に、光るものが見えた気がした。
……涙?
そう思った瞬間だった。
パァン!
クラッカーでも鳴らしたような小気味のいい音と共に、和人の左頬に衝撃と痛みが走った。
一瞬、何が起きたのか分からなかった。
目の前には、涙目で右手を上げた沙紀の姿があった。
「何よ! それ! 人が心配してるのに、勝手な事ばかり言って!」
井上に叩かれたと、今になって気が付いた。
同時に、彼女が真剣に心配してくれていた、という事にも。
俺が、皆に心配を……?
「井上……」
「沙紀、どうしたの?」
和人が言いかけたとき、オープンドアの向こうから愛の声が聞こえた。
沙紀はその声に振り向くと、鞄を持って足早に出て行く。
「沙紀? ちょっと!」
愛が声をかけても、沙紀は走るように去っていってしまった。
部屋には、頬を押さえる和人が一人、残された。
愛は部屋に入ってくると、後ろ手にオープンドアを閉めた。
「何があったの?」
只ならぬ気配に、愛の声も厳しかった。
和人は椅子に座りなおすと、頬を押さえたまま、ぽつぽつと事情を話し始めた。
ハンカチを水で濡らして、頬に当てる。
その冷たさが、少しずつ冷静さを取り戻してくれる。
しっかし、思いっきり叩いてくれたもんだ。
「大丈夫?」
愛の心配そうな声が聞こえる。
「ああ」
まだヒリヒリするんだけど。
言っても仕方ない、か。
「沙紀も勘付いてる、か。あの子も結構鋭いからね。分からなくは無いけど」
愛の言葉に、和人も頷く。
「情に篤い、んだろうな。でも、直情的なのは、な」
「そうだね。今頃後悔してるんじゃないかしら?」
それも十分にあり得る。
「沙紀まで感じてるとなると、噂されるのも時間の問題かもしれないよ?」
どうするの?
愛はそう聞いている。
「愛さん。井上と柳のフォロー、頼んでいいかな?」
「私はいいけど?」
「俺はしばらく単独で動くよ。いい加減、覚悟決めなきゃ、ね。いい一撃で、目が覚めたよ」
「……そっか。でも、無理しないでね? せめて、私か司には言ってね?」
何を、とは言わない。
「……柳は許してくれない、かもな」
和人はぽつりと呟く。
「え?」
「俺のしてることは、言葉に甘えて、ゆっくりゆっくり、切り裂いてるようなもの、だろう?」
いっそ、バッサリやった方が、傷の治りは早い。
彼女の優しさに、甘えていたかもしれない。
「そこまで気付いたなら、大丈夫ね?」
愛の表情が、いつもに戻る。
「姫、すまない。後は頼む」
「了解。あ、でも、今日は止めときなよ? 顔、ひどいから」
こんな顔で行ったら、余計複雑にするだけだな。
「分かってるよ」
幸い明日からは週末だから、最悪、家に引きこもってれば、こんな顔を見せなくて済む。
あと必要なのは、ちょっとの勇気だけ、だ。




