嘘の優しさ、あるいは沈黙の波紋
その病院は、都心から少し離れた、静かな丘の上に立っていた。
高瀬は、仕事終わりの重い足取りで、消毒液の匂いが鼻を突く廊下を歩いていた。手には、途中の売店で買ったばかりの、季節外れの小さな花束を握っている。
十九〇号室。
ノックをして扉を開けると、そこには、かつて十年の歳月を共にした女性、沙也加が横たわっていた。
「……来てくれたのね。ありがとう、高瀬君」
ベッドの上に身を起こした彼女は、驚くほど痩せ細っていた。かつて高瀬の「わがまま」をなじり、束縛し、激しく愛を求めていたあの頃の面影は、病という過酷な現実によって削ぎ落とされていた。
「……具合はどうだ」
「最悪よ。でも、あなたの顔を見たら、少しだけマシになった気がする」
高瀬はパイプ椅子を引き、彼女の傍らに座った。
そこから始まったのは、かつての結婚生活ではついになし得なかった、穏やかで残酷な「答え合わせ」だった。
「あの頃の私、本当に酷かったわよね」
沙也加は、点滴の管が繋がれた手を力なく動かした。
「あなたがどこにいるのか、何を考えているのか、全部把握していないと気が済まなかった。……あなたが自分の世界に閉じこもるたびに、私は自分が透明な人間になっていくみたいで、怖くてたまらなかったの」
「……僕も、悪かったんだ。君の不安を、僕は『束縛』だと決めつけて、逃げることばかり考えていた。君が求めていたのは支配じゃなく、ただの信頼だったのに」
二人は、窓の外に広がる暮れなずむ街の明かりを眺めながら、一つひとつ、過去の誤解を解いていった。
信頼の欠如、言葉の不足、そして何より、お互いが「自分」を守るために相手を傷つけ合っていたこと。
「ごめんなさい。……本当に、ごめんなさい」
沙也加の目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。死を前にした人間の言葉には、もはや虚飾も駆け引きもなかった。
高瀬は、彼女の冷たくなった手をそっと握りしめた。
「……もういいんだ、沙也加。全部、受け止めるよ。君が僕に向けてくれたあの情熱も、苦しみも、全部僕の人生の一部だ。……君の想いを、僕は決して無駄にはしない」
高瀬は決意していた。
彼女が最期の瞬間に求めた「許し」を、彼は全身で受け止め、彼女を孤独のまま逝かせないと。それが、かつて一人の女性を不幸にした自分にできる、唯一の償いなのだと。
*
同じ頃、佐伯麻衣は、自宅のダイニングテーブルで一人、スマートフォンの画面を眺めていた。
高瀬さんからの連絡が、ここ数日、極端に減っている。
朝の「おはよう」は届くけれど、以前のような弾むような言葉のキャッチボールはない。夜の報告も、「今日は遅くなるから」という短い一文で終わってしまう。
(仕事が忙しいのかしら。……それとも)
麻衣の脳裏に、あの和久井奈々子の笑顔がよぎる。あるいは、彼が「一人で考えたい」と言ったあの週末の沈黙。
一度、心の湖面に投げ込まれた不安の礫は、次々と波紋を広げていく。
四十三歳の直感は、鋭く、そして時に残酷だ。
麻衣は、高瀬さんの言葉の端々に漂う「重み」を感じ取っていた。それは、仕事の疲れとは違う、何か重いものを背負い込んでいる者の沈黙。
金曜日の夜。麻衣は意を決してメッセージを送った。
『高瀬さん。今週末、もしよければ久しぶりに家でゆっくりしませんか? 美味しい魚が入ったので、煮付けにしようと思って』
数分後、届いた返信は、麻衣の期待を静かに裏切るものだった。
『ごめん、麻衣さん。今週末は、どうしても外せない用事があって。……また週明けに連絡するね』
用事。
具体的な内容を明かさないその一言が、麻衣の胸に冷たい風を吹き込ませた。
かつての結婚生活でも、同じことがあった。
元夫が「用事がある」と言って帰りが遅くなり、会話が消え、最後にはお互いが何を考えているのかさえ分からなくなった。
(また……同じなの?)
麻衣はキッチンに立ち、一人分の夕食を作り始めた。
けれど、包丁を動かす手はどこか頼りなく、出汁の香りも鼻を通り抜けていく。
もし彼に、他に好きな人ができたのなら、そう言ってほしい。
もし私に飽きたのなら、そう告げてほしい。
一番怖いのは、この「静かな沈黙」の中に閉じ込められることなのだ。
夜の十時。麻衣は、震える指で再びスマートフォンを手に取った。
『高瀬さん。……もし、何か一人で悩んでいることがあるなら、私に話してほしい。私は、高瀬さんの「良いところ」だけを見たいわけじゃない。辛いことや、隠しておきたい過去があるなら、それを一緒に背負いたいと思っている。……沈黙されるのが、一番悲しいから』
送信。
麻衣は、ソファに膝を抱えて座り、スマートフォンの通知音が鳴るのを待った。
窓の外、雨が降り始めていた。
病院のベッドの傍らで、過去の精算に明け暮れる高瀬。
静かな部屋で、未来を信じようと孤独に耐える麻衣。
二人の想いは、誠実であればあるほど、深い霧の中で互いを見失いそうになっていた。
「……話して、高瀬さん。私を、信じて」
独り言が、暗いリビングに溶けて消えた。
四十三歳の恋は、結ばれた後の方が、ずっと過酷で、ずっと痛い。
けれど、麻衣はもう、逃げるつもりはなかった。
嵐が近づいている。
けれど、この雨が上がったとき、二人の間にどんな景色が広がっているのか。
麻衣はただ、彼という人間を、その影も含めて愛し抜く覚悟を決めていた。




