試し行動の過ぎた恋人に別れを告げました
私は、友人から送られてきた写メを彼に見せた。
私とはクラスの違う大我が、仲良いメンバーで遊びに行った時の写真だ。
友人は大我と同じクラスだからその集まりに参加していて、この場面に遭遇したのだけど。
「これは、どういうことでしょう」
私が見せたのは、彼と、彼に抱えられるように身体を軽く丸めた女性が、ラブホの入り口に足を向けている写真だ。
「あ、これはね」
私に問われた彼……大我は、悪びれる様子もなくむしろ嬉しそうに話し出す。
聞けば、クラスの誰かが呼んだ女子大生が途中から合流し、その女子大生の中の一人がカラオケで誤って他のメンバーが頼んだお酒を飲んでしまい、気分が悪くなって介抱するためにラブホに入ったそうだ。
「もちろん、千砂が想像してしまうようなことはしてないよ?彼女をベッドに寝かせたら、俺は直ぐに皆と合流したからさ」
まあ、そんなところだと思っていた。
でも、それに付き添うのは大我じゃなくて、一緒に来た女子大生の役目ではないかな。
この写メを送ってくれた友人も、「直ぐに戻ってきたけど、こういう行動はどうかと思うよ、あんたの彼氏」とわかりやすい言葉を添えてくれていた。
因みに、写真の中の大我はカメラ目線である。
つまり、撮られていることを自覚していながら、笑顔で他の女性とラブホに入って行ったのだ。
こうなることを見越して。
友人が、私に情報提供をすると、わかっていて。
「俺が付き合ってるのは千砂だし。千砂だって、俺が千砂以外とどうこうするわけもないって、何もないって、わかってるでしょ」
「そうだね」
私は一度、大きく深呼吸した。
大我は、こうした試し行動を頻繁に仕掛けてくる私の困った彼氏であり、かつ幼馴染でもある。
大我は付き合ってから……いや付き合う前から、誰から告られただの、女の子もいるメンバーで遊びに行っていいかだの、誰に連絡先を聞かれたけど必要だったから交換しちゃっただの、ともかく私に対して不必要な情報を与えることが多かった。
小さい頃大我の母親が不倫の末に恋人と駆け落ちして、仕事人間の家庭を顧みない父親がシングルで育てたという大我の家庭事情を私は知っている。
だから常に私の愛情を確認せずにいられないのだろうと、その行動を表立って非難することはなかった。
やめてとは何度も言ったけど。
「もしかして千砂、嫉妬しちゃった?」
「……」
大我はずっと、愛情に飢えている。
同じくシングルの母親を助けるために料理を習得していた私が、小学五年で同じマンションに引っ越してきたよしみで夕飯を一緒に食べるよう誘ってから、大我は私に執着するようになった。
幼い弟妹の世話を好きでしていた私は、世話焼きオカンタイプだから、そんな大我の様子が可愛くて仕方なかった。
私が男女関係なく他のお友達と遊んでいれば大我がすっ飛んできて、僕とふたりで一緒に遊ぼうと泣きそうな顔で懇願され。
私がクラスメイトの男の子と仲良くなれば、ちーちゃんの一番の友達は僕だよね、と確認する。
中学にあがりクラスが変わっても毎日の登下校は必ず一緒に隣を歩き、自分は誰からデートに誘われたと嬉しそうに報告するのに、私が似たようなことを報告すれば「ちーちゃんの一番は僕じゃないの!?」と怒った。
同じ高校に合格すると、大我が私の彼氏というガセネタがなぜか広まっており、困るから距離を取ろうかと提案してみると、大我は当たり前のように「え?俺たち付き合ってるんじゃないの?だって千砂、俺のこと好きだろ?」と言ってきた。
私は確かに、大我が好きだった。
会った時から世話焼きな性格が災いして、人を信じられないのに人からの愛情を激しく求めるという不安定な大我から、目が離せないでいた。
高校に入ってからは遊びに行った先でスカウトされ、モデルのバイトも始めた大我。
バイトで忙しくなっても、いつも私との約束だけは優先してくれた。
そんな大我が私に懐いてくれるのはとても嬉しく、そして自分の存在が特別であるかのように感じたのだ。
だから、私は好きだと伝えて、その時からお付き合いがスタートした。
大我は何かと、私に「俺のこと好き?」と尋ねてくる。
それは、高校三年生になった今でも変わらない。
付き合い始める前は、私から連絡がなければ直ぐに不機嫌になっていたが、付き合い始めたあとは、彼女に話す内容としては不適切な、嫉妬心を煽るような話をして頻繁に愛情の確認をされた。
大我を優先しなかった時に、「どうせ俺のことなんてどうでもいいんだろ、もう別れよう」と言われた時も、そんなことないと、大我が一番大切だと、友達と彼氏は違うのだと一生懸命説明した。
「千砂?」
けれども私の愛情は、どうしても大我には伝わらない。
どれだけ好きだと言っても、嫉妬するからやめてと言っても、大我の試し行動はなくならない。
私の初めては全部大我に捧げたのに、高校一年からいつも大我が満足するまで身体を繋げているのに、どうやっても大我の不安は解消されないのだ。
ラブホに入る、大我と知らない女の人。
この写メを見た瞬間、何かが壊れた気がした。
もう無理だと思った。
大我のためではなく、自分のために、現実を見なければ。
薄々と感じていたけれども、私では、大我を愛情で満たすことは……大我を変えることは、できないのだ。
「……大我。もう、ついていけないよ。別れようか」
いつだって、別れをちらつかせるのは大我だった。
それも試し行動のひとつだとわかっているから、いつも宥めて、えっちして、元に戻っていた。
どんなに別れようと言われても、大我が本気で別れる気なんてないこと、私にはわかっていた。
けど。
けどね。
私だって、傷つくんだよ。
「え……っ、と、でも、本当に何もなかったんだよ? ラブホだって、単に介抱のために一緒に入っただけだし」
大我は慌てたように、あれは人助けだったのだと、さきほどと同じ話を繰り返す。
きっと、別れを切り出した大我を私が宥めたように、別れを切り出した私を大我が宥めれば、元に戻ると信じている。
何もなかったことなんて、わかってる。
けど、無理だ。
「大我、これはやりすぎだよ。こんな写メを見せられて、私が大我を笑って許すと思ったの?」
「だから、俺はこの人とは」
「わかってる!」
感情が昂って、普段は上げない大きな声をあげた。
大我は目を見開いて、私を見ている。
でも、限界で。
大我の瞳に、大きな不安が渦巻いているのが手に取るようにわかるけど、もうこの決定を覆す気はない。
大我は本気で別れようと言ったことはないけれども、私は本気でしか別れようと言わない。
これが最初で、最後だろう。
「わかってるよ。大我が私を、試そうとしていることくらい。私に、仕方ないなあって笑って許して欲しいって思ってることくらい」
「だったらどうして、別れるなんて言うんだよ」
傷ついたような顔をして、大我は私の両肩を掴んだ。
いや、本当に傷ついたのだろう。
まさか、私から別れようと言われるなんて、思ってもいなかったはずだ。
今まで一度も言ったことがなかったんだから。
大好きだったのだから。
「悪かったよ。もう、二度と他の女には触らないから」
「そういう問題じゃない」
写真の大我は、笑って私を見ている。
でも、私は笑って見られない。
「大我は、何をしたって私が傷つかないと思ってる?」
「いや、そんな……でも、何もなかったんだから、千砂が傷つく必要なんてないだろ」
「そうじゃなくて。じゃあ、私が介抱で他の男性とラブホに入っても、大我は平気なの?」
「平気なわけ……っっ!! な、い……」
想像したのか、大我はぐっと大きく眉根に皺を寄せて声を荒げた。
そして、気づいたらしい。
もう遅いけど。
「そう。だよね。私も、そう。平気なわけない。大我は今回、私の許せるラインを大きく踏み越えた。私は大我に、大事にされていないと思う」
「ごめん。千砂、ごめん……!!」
いくら謝られたって、壊れた心には響かなかった。
大我が、ぽろ、と涙を流したけれども、私はハンカチを出そうという気にすらならない。
泣きたいのは、私のほうだ。
大我に泣く権利なんて、ないと思う。
大我が何をしたいのか、もう私にはわからない。
「今までも、大事にされてないなと感じることは沢山あった。何度もやめてって伝えたと思う。……大我は、別の人とお付き合いをしたほうがいいと思う。大我が大事にしたいと、思える人と」
「違う!俺は、千砂だけが、一番大事なんだ」
ふふ、と思わず嘲笑が漏れた。
大事な人を、わざと傷つけてどうしたいのだろう。
「そう。今まで一番にしてくれて、ありがとう。でも、もう離れよう。そのほうが、お互いのためだと思う」
「そんなわけない。俺には千砂だけなんだ。……捨てないでよ、ちーちゃん……」
こんな時に昔の呼び方をするなんて、大我は狡い。
私よりずっと大きな大我が、小さく見えてしまう。
その綺麗な顔に手を伸ばしたくなる衝動を抑えて、私は立ち上がった。
そんな私の手首を、大我が慌てて掴む。
大きな手。
この手と恋人繋ぎすることが、触れ合うことが、そっと宝物のように触れてもらうことが、大好きだった。
「だ、大学だって同じところ受かっただろ。これから一緒に物件見に行く約束したじゃん」
「ああ……私、大学はやめて、専門学校に行くことにしたから」
「え?」
つい先日、母親が倒れた。
私が大学に通うお金を、無理して稼ごうとしたからだ。
だから、進路を変更した。
大我と同じ大学に行こうと約束したからなんとなく進学を希望したけれども、専門学校は私が納得して選択した進路であり、私が目指していた最短の道だった。
だから本当は今日、その話をするつもりだったのだ。
大学には一緒に行けなくなってしまったけれども、これからもよろしくねと伝えたくて。
「なんで? 一緒に行こうって約束したのに」
「したけど、事情が変わったの」
「俺が……こんなこと、したから?」
「それは違うよ。たまたまこんなタイミングだったけど、まあ……家庭の事情で」
「俺は、別れたくない」
「私は、もう無理」
「どうしたら、別れないでくれる?」
「どうしたら、別れてくれる?」
別れたくないという大我と、別れようという私の会話は、いつまでも平行線だ。
「千砂が俺と一緒にいないなんて、俺の人生から消えるなんて、無理だよ。死にたくなる」
「大我が死んだら、私はそれこそ数年後に他の誰かと恋愛して結婚するんだろうね」
卑怯な言葉で私を繋ぎとめようとする大我に、私は嫌味で応戦する。
でも、そうか。
別れというのは、人生の交わった瞬間があるだけで、その先端は別々の方向を向いている状態を指すのかもしれない。
「千砂が他の男と、なんて、考えたくもない」
「そうだね。私はこうして考えるどころか、写メで見せられたけどね」
「……っ、ごめん。どうしたら、許して貰える?」
「許すことはないよ。一生覚えていると思うから」
試し行動の一環だと分かっていても、自分の彼氏が知らない女とラブホに入る写メを見た時の衝撃を、大我は想像できないし、わからないのだろう。
大我が今までずっと試し行動なんてせずに、もしこれが初めてのことだったとしたら、少しは話を聞いていたかもしれないけど。
もう、今さらだ。
「どうしたら、償える?」
「別れてくれたら」
「それ以外で」
はぁ、と私はため息を吐いた。
でも、いくら大我が好きだからといってここで私が折れたら、また振り出しに戻るかもしれない。
何をしても、謝れば自分の下に戻って来る女だなんて、思われたくない。
ある意味今までそう思われていたからこそ、こんなことを仕出かしたのだろうし。
「じゃあ、三年……ううん、五年。私の前に、姿を現さないで」
「え?」
「大我はさ、もっと私以外の人にも目を向けるべきだと思う」
それは大我だけじゃなくて、きっと私もだ。
大我が嫌がるから、女友達と海に行くことを諦めたし、男友達がいるときは誘われた祭りに行くこともなかった。
「友達くらい、いるよ」
「そうだね。大学に入れば大我の交友関係ももっと広がって、いろんな人に出会えるよね、きっと」
そこに、私の存在は邪魔になるかもしれない。
私は大我を優先するようにしてきたが、大我も私を最優先にしてくれていたから。
いつだって私が求める時は、一緒にいてくれた。
「そうかもしれなけど、千砂の代わりなんていないよ」
「うん。私だって、大我は大我だよ。誰も大我の代わりなんて、できない」
「だったら……!」
「五年経てば、今の怒りも心の傷も、多少は消えているかもしれない。けど、今は許せない。五年経っても大我の気持ちが変わらなければ、また会いに来てよ」
「五年……」
大我の瞳が揺らいだ。
悩んでいるんだろうな。
でも、どれだけ悩もうが、私もこれ以上譲歩はできない。
「五年の間に、結婚とか……」
「したいならどうぞ」
「違う。俺じゃなくて、千砂が他に良い相手見つけて、結婚とかしたらどうしようって」
「いたらするよ、普通に」
私が吐き捨てるように言えば、大我は明らかに動揺した。
ただ、大我以上に私の心を揺さぶる人が現れることもないと思うけど。
「大我の私への気持ちって、好きというより単なる執着な気がするんだよね」
「え?」
「ええと、小さい頃からの刷り込みみたいな……一緒にいすぎて、それが当たり前になっているだけというか」
「さすがに俺だって、自分の気持ちくらいわかるよ」
ムキになって答える大我に、ぼんやりと視線を向けた。
気づいているのかな。
だって私は、大我から好きって言われたことがない。
それは、私が大我にそうした言葉を催促をしたことがないからかもしれない。
男が女にそういうことを言うの、ハードルが高いと聞いたこともあるし。
ただ、付き合っている間の三年間、一度もないというのはどうなのだろうか。
催促しないと言われないなんて寂しすぎるから、これからも私は自分から尋ねることはしないだろう。
好きと言われないということは、私は大我にとって、それくらいの相手だったのかもしれない。
私は大我と一緒にいて、好きな気持ちが溢れるたび、口にしていたから。
「その気持ちが本物なら、五年経ってからまた会いに来て」
「……本気、なんだな」
「うん」
私と大我は付き合いが長い。
だから、大我も私が本気だということは百も承知なのだ。
「五年かぁ……長すぎる……」
大我は頭を抱えた。
「五年なんて、勉強と就職であっという間だと思うよ。新しい友達とか作ってさ」
大我を許せないけれども、まだ大我を好きな私は「彼女でも作って」とは言えなかった。
「勉強と就職かあ……」
ふと、大我が遠い目をする。
そしてそこに、決意と覚悟を携えた。
「……わかった。千砂、これから五年間、恋愛も結婚もしないで待ってて」
「ええー、横暴」
「絶対に会いに行く。千砂を傷つけた分、今度はきちんと信用される男になって、戻って来るから」
「なんだか青春みたいだね」
「高校三年生って青春真っ只中じゃないのか?」
大我に突っ込まれて、私たちは笑い合った。
ああ、険悪なムードではなく、笑い合って別れられるなんて、最高だと思った。
***
「メイン出来ました。三番テーブルお願いします」
「は~い」
それから五年と半年後。
調理師免許を取得した私は、首都圏のレストランで働いていた。
ある意味義務で小学生から包丁を使っていたが、私が作った料理を大我が美味しい美味しいと言って食べて笑顔になってくれたことが、この道を選んだきっかけである。
悲しい時も、不安な時も、料理を提供された時間だけは一時忘れて、癒されて欲しい。
喜びに満ちた時や嬉しい時は、美味しい料理でも食べて、誰かとその幸せを分かち合って欲しい。
「千砂さん、もうすぐ上がりですか?」
「うん」
「このあと少し、お時間もらえませんか?」
後輩君から声をかけられて、ああ、と思った。
なんとなく、好意を持たれている気がしたけれども、勘違いではなかったのかもしれない。
私は大我と別れてから、必死で料理の勉強をして、今まで誰とも付き合ってこなかった。
……というのは建前で、本当は大我を待っていたのかもしれない。
しかし、五年経っても大我が現れないということは、私のことは忘れて楽しい人生を送っているのだろう。
そろそろ、潮時だ。
約束は果たしたし、もう先に進んでもいいのかもしれない。
好感の持てる相手だし、今度話を聞くだけでも聞こうか。
そもそも、そういう話ではないかもしれないのに、想像だけ膨らませて話を聞かないという選択は相手に失礼だ。
「ええと、ごめんね。今日はちょっと用事があって……今度でいいかな」
「え、そうなんですか。わかりました」
残念そうな後輩君と、同僚にお先です、と告げて、私は弟妹が予約してくれたレストランへと足早に向かう。
私の働いているレストランで、と言われたけど、誕生日でそれは流石に恥ずかしくて、結局高級ホテルの中にあるレストランで会うこととなった。
弟は大学生で、妹は看護学校に通っている。
姉の私が言うのもなんだが、家族思いのとっても良い子に育ってくれた。
全員が実家から通っているから、皆でアルバイトをして母を助けながら、なんとか学費だけは払えていけている。
急いでいたけれども、本屋の前を通り過ぎて、一度引き返して、雑誌を一冊買った。
レストランにつくと、弟と妹が私に手を振っている。
「姉ちゃん、こっちこっち」
「二人とも待たせてごめんね」
「全然待ってないよ。お仕事お疲れ様」
「お母さんは仕事で来れないから、好きに飲んで良いってお金だけ貰ってまーす!」
「うわ、たくさん貰ったね。残ったお金で、帰りにお母さんにケーキ買って帰ろうか」
「そうだね」
そんなことを言いながら、私たちは美味しい食事に舌鼓を打ちつつ、弾む会話を楽しんだ。
「お姉ちゃん、やっぱりその雑誌買ったんだ」
妹が目ざとく、私の鞄からほんの少し飛び出た雑誌を指差す。
「うん、一応ね」
「大我兄ちゃん凄いよなあ。表紙飾るなんて」
「そうだね」
雑誌の表紙はモデルの「Taiga」のアップで飾られていた。
大我は大学に入ってからモデルのバイトをし、大学は中退してモデルの仕事を本格的にやりだしたらしい。
弟妹から聞いてそのことを知ったあとは、ひっそりと推している。
「誰かモデルさん、俺に紹介してくれないかな~」
「モデルなんて、プライド高そうで大変じゃない?ブランド物のバッグとか強請られるかもよ」
「うわ、無理だ」
弟がおどけたように笑って言う。
でも、本気で紹介して欲しいなんて思っていないだろう。
私は大我と連絡を取っていないが、弟妹はたまに連絡を取っているらしい。
二人にとっては、我が家に入り浸っていた大我はほぼ兄で、二人も大我に懐いていた。
友達との時間を取ることは拗ねられたけど、弟妹との時間は一切邪魔しなかった、というか、むしろ一緒にいた。
「なんだ、紹介して欲しかったなら、言ってくれれば良かったのに」
私は一瞬固まった。
空耳だろうとは思いながら、そろり、と後ろを振り向く。
「大我兄ちゃん、遅いよ」
「悪い。予定空けていたのに、無理矢理仕事を入れられたんだよ」
「えー、可哀想。私たち、ほとんど食べ終えちゃったよ」
そこには、綺麗な花束を抱えたサングラスをかけた男性がひとり立っていた。
大人の雰囲気になっていたけど、直ぐにわかる。
大我だ。
そして、大我を見て、「本物?」とかなんとか他の客席の人たちがざわめいていた。
「お誕生日おめでとう、千砂」
大我はその花束を、私にそっと渡す。
「……ありがとう」
私がそれを受け取ると、弟妹たちは席を立つ。
「あ、私たちもう帰るから、二人でゆっくりしてて」
「そうそう。姉ちゃん、俺たちからのプレゼントは、あとで家で渡すからさ」
「二人とも、本当にありがとうな」
私ではなくなぜか大我が二人にお礼を言い、大我は私の前の席に、当たり前のように座った。
そして、私の鞄を指差して言う。
正確には、大我が掲載されている雑誌を。
「それ。買ってくれたんだ」
「う、うん。まだ中は見てないけど」
「ありがとう。少し恥ずかしいなぁ」
大我はウェイターを呼び止め、軽く飲み物を注文した。
「大我、あの、こんなところにいて大丈夫?」
大我は人目を全く気にしないが、私はチラチラとこちらを見るお客さんが気になって仕方ない。
従業員は流石に教育が行き届いていて、そんな不躾な視線を送ることはなかったが。
「どうだろうね。千砂が気になるなら、個室で話さない?このホテルの部屋、とってるからさ」
「……」
やられた、と思った。
気遣いの出来る弟だから、大我が来るとわかっているなら絶対に個室を予約していたはずだ。
だから、これはわざと個室を取らせなかったであろう、大我の作戦勝ちだ。
私の性格上、有名人となった大我に迷惑を掛けるかもと思いながら、この席に座り続けられるはずがない。
「千砂」
大我が腕を伸ばし、テーブルの上に置いた私の手をそっと掴む。
手の甲を撫でられ、そして昔のように、恋人繋ぎをした。
私の指に、大我の太く骨ばった指が絡まる。
「……うん」
その光景に、泣きそうな気持ちになりながら、私は小さく頷いた。
***
カードキーで部屋に入る。
長い廊下の向こうに広がる夜景に、目を奪われた。
こんな部屋に入れるほど、私たちは大人になった。
「千砂」
窓辺に寄った私を、大我が後ろからそっと抱き締める。
「千砂、誕生日おめでとう。迎えに来るの、少し遅れてごめん」
「ううん。ありがとう」
私は窓に映る大人になった大我の顔を見ながら、微笑む。
大我が忙しくしているのは、知っていた。
SNSだってきちんとチェックしているし、最近は海外のお仕事に行っていたはずだ。
でも、ずっと不安だった。
綺麗な周りのモデルの女の人に囲まれて、キラキラした世界で輝く大我は、もう私とは違う世界にいるように見えたから。
「一応確認なんだけど、千砂、今ってフリーだよね?」
「……残念ながら、フリーです……」
勉強は仕事の合間に大我の推し活をしていた私に、当然のことながら恋人は出来なかった。
「残念じゃなくてラッキーだ。まあ、弟から男っ気なしと聞いていたから大丈夫だとは思っていたけど」
「もう、お姉ちゃんにもプライベートはあるんだって文句言ってやらなきゃ」
私がほっぺを膨らませると、大我は破顔する。
「はは、俺が頼み込んだだけだから、優しくしてやって」
弟は昔から大我が大好きだ。
そりゃ、ゲームにサッカーにキャッチボール、いつだって大我が遊び相手になってくれたのだから、弟が懐くのも当然だろう。
私は姉というより母のように口やかましかったから、反抗期には全然話して貰えなかったのだけど。
「俺さ、まだ少し自信ないけど……千砂が自慢できるような男に、少しは近付けたと思うよ」
「うん。お仕事頑張ってるもんね」
「千砂に言われて、あれから色んな人と関わったけど、やっぱり変わらなかったよ。千砂が、千砂だけが好きなんだ。愛してる」
「……っ」
ちゅ、と首筋にキスをされ、身体に回された腕に力が込められた。
「……大我は、五年前も、私のこと、好きだった?」
一度も言われたことのない言葉を掛けられ、私はつい、尋ねてしまう。
「好き、というより、好き以上だった。愛してた。重たすぎて、言葉にできないくらい。千砂が俺の全てだった。誰といても、何をしても、千砂がいないとつまらなかった」
「そっか」
ポロポロポロと、別れる時には出なかった涙が流れる。
「千砂、今度こそ大事にする。千砂を傷つけないようにする。愛情表現を間違えないようにするから、どうか、俺の傍にいて?……一生、一緒にいて」
「……うん」
大我の腕をぎゅっと抱き締め、私は返事をする。
くるり、と身体を向かい合わせにされて、五年半ぶりのキスをした。
「千砂、これは誕生日祝い」
「ありがとう、可愛いネックレスだね」
「職業柄、指輪は駄目って聞いたから」
「うん、そうなんだよね」
私は大我に、キラキラと輝くネックレスを首に着けてもらった。
「それと、これ」
「え? これって……」
たった今、指輪は駄目だと本人が言っていたはずだ。
仕事中はつけられないと理解しているはずなのに、それでもそこには、指輪の箱としか見えないものと、一枚の用紙が添えられていた。
「うん、これは婚姻届と、結婚指輪。千砂、俺と結婚してください」
眼下にキラキラと輝くネオンに負けないほど、煌めくダイヤモンド。
大人になった大我はそれを私に見せながら、片膝をついてプロポーズをする。
じわり、と涙が滲んで視界がぼやけた。
「はい……」
喜びで胸をいっぱいにしながら、婚姻届を見た私は首を傾げる。
「……なんで、証人欄が埋まっているの?」
証人欄には、私の母の名前と、大我のお父さんの名前が既に記入されていた。
「今日これから役所に出せるように、先にお願いしておいた」
「ええ?大我のお父さんはまだわかるけど、うちのお母さんって、いったいいつの間に……!」
そんなこと、お母さんは一言も言っていなかった。
「海外の仕事の前……半年くらい前に、千砂の誕生日でプロポーズしたいのでってお願いした」
「でもお母さん、私と大我が別れたままなの、知ってたはずだけど……」
「うん、知ってたよ。でも、娘の部屋を見る限り、大我君ならオッケーしそうだからって記入してくれた」
もちろん、振られたら破棄するって約束はさせられたよ、と大我は続けるけれども、こっちはそれどころではない。
私の部屋。
「ま、まさか大我、私の部屋、見た……?」
「うん」
「嘘でしょ!?」
駄目でしょ、お母さん!
弟といい母といい、なんで家族のプライベートを大我に晒すのよ!!
「俺だらけの部屋になってた」
大我は嬉しそうに笑う。
付き合っていた高校の時は二人で撮った写真をいくつか飾る程度だったけど、大我と別れてから、私の部屋はモデルで頑張っている大我の推し部屋と化したのだ。
「いやあああ!!」
「嬉しかったよ、俺。絶対に千砂と結婚するって改めて誓ったし。海外の半年間も、頑張れた」
「頑張れたのなら良かったけど! けど!」
恥ずかしいの!!
悶える私を、大我はぎゅっと抱き締める。
「これからよろしくね、奥さん」
「……はい」
こうして私は、幼馴染で元カレの大我とよりを戻し、自分の誕生日で結婚した。
大我は「一般人女性との結婚」をさっさと発表し、一時ニュースとなったけれども。
結婚後は大我の試し行動に悩まされることもなく、平穏で楽しい、賑やかな生活を送っています。