司祭は聖女に懺悔する
膝を折り、私の知らない神に祈る。
王都では常にささくれていた私の心が、静かに和らいでいくのを感じる。
この湖畔の神殿は、生まれ育った世界から切り離された私の唯一の心の拠り所だ。俗世の喧騒から遠ざかった静けさ、権力争いの影が及ばない空気。それも理由のひとつだけど、最も大きな理由は、この神殿を預かる司祭の存在だった。
祭壇の前で、燭台の火を整える音がかすかに聞こえる。私の祈りをそっと見守るように。
クリスフェルト司祭。この神殿を司る神官。
質素な衣を身にまとい、華やかな装飾を持たず、ただ神の御心に身をゆだねる人。彼は慈悲深く、穏やかで、全ての人を平等に救う。神の言葉を盾に欲望を隠し、裏では貴族や権力者に取り入る王都の神官たちとは違う。
聖女としてこの街を訪れたとき、付き添いの神官たちは彼を見下していた。
「地位も名誉もない下級の司祭」とか「神殿とは名ばかりの寂れた礼拝所に籠もるだけで、神のご加護を説く資格などない」と。けれど、そんな陰口を耳にしても、彼の瞳は静かに凪いでいた。それは、しもじもの言葉など理解できない神のようだった。
無欲な彼の声はどこか無機質で、冷たい静けさを宿していた。
彼の神殿は小さく素朴だ。それなのに、どこよりも神に近い場所のように思えた。
だから私は、名ばかりの聖女になった今も、この神殿に足を運ぶ。
マシェル、と耳になじまない名で呼ばれるようになって、どれほど経っただろう。
生まれ育った日本から、いや地球からも遠く離れた異世界に召喚されたのは、今から3年前のこと。
戦争で神の力が弱まったことで生まれた穢れ。それを浄化する力は異世界から召喚した聖女にしか使えない。そんな身勝手な理由で役目を負わされた私は、ひたすら言われるがままに長い時間をかけて世界を浄化してきた。逆らったところで生きてはいけなかったし、これが終われば元の世界に帰れると心底信じていたから。
でも、役目が終わっても私がこの世界から解放されることはなかった。
残念そうな顔で、「帰る方法が見つからなかった」と告げる王の顔を、今でも覚えている。
ひどい裏切りだと思った。初めは怒りと失望で世界を呪っていた。帰れないからといって自由になることもなく、私は王都の神殿に囚われた。別に囚人のように扱われているわけではない。衣食住が保証され、食べたいもの、欲しいもの、行きたい場所、望めばなんでも叶えてもらえる。十分に恵まれた生活だ。これ以上を望むのは贅沢だと言える。
でも、ここには気の置けない友達がいない。聖女ではない私を見てくれる人も、誰もいない。
私を一番に愛してくれる家族はいない。
私が死んだら悲しんでくれる人はいるだろう。でも、身が裂けるほどの苦しみを味わう人はいない。
私が生まれた世界から切り離されて感じたような痛みを、感じてくれる人は、どこにもいない。
頬を水が伝う。
「聖女様……どう、されましたか? 何かお辛いことでも……」
祭壇の前でクリスさんが蝋燭を置いてこちらをうかがっている。
何でもない、と言わなくては。聖女らしく、安心させるように微笑んで、きつ然としなくては。そう思うのに、口角が震えて言葉が出ない。
「どうか、無理をなさらないでください。私は神のしもべ、聖女様の不利益になるようなことは致しません。ここであなたが何を言っても、私以外の耳に入ることは無いとお誓い致します」
クリスさんの低く落ち着いた声が、心の奥に優しく染み込んでいく。人々を導く聖女である私が、司祭に弱さを見せるべきではない。けれど、彼の前にいると、ふとすがりたくなる自分がいる。それがどれほど愚かで、許されないことか分かっているのに。
「……帰りたいんです」
分かっているのに、言葉が出てしまった。心の奥で必死に抑えつけていた想いが、声になってしまった。誰に聞かせるつもりもなかった、驚くほど小さな声だったのに、静寂を保つ小さな神殿の中では、思いのほか大きく響いた。
静かにクリスさんが私の告白を聞いている。
「……帰りたい。私が生まれた、私を育んだ世界に、帰りたいんです」
抑え込んでいた感情が、言葉と涙になって、とめどなく溢れてくる。
「……マシェル様の苦しみは、私には計り知れません」
わずかな静寂。クリスさんの声は、まるで神託のように感情を感じない。それでも、彼が私の為に言葉を選んでくれているのが分かる。彼に、聖女様ではなく、マシェルと呼ばれたのは初めてだった。
「しかし、あなたの願いが神に届くよう、祈ることはできます。私の力など微々たるものですが……それでも祈りが無意味であることは決してありません。どうか、マシェル様の心が救われますように」
私は顔を上げてクリスさんを見つめる。彼は、彫刻のような美しい顔にわずかに悲しみのような感情をのせて、私を見ていた。
私の心の醜い部分を打ち明けなくては、そんな気持ちが込み上げてきて、自然と口が開く。
「聖女としての旅路で、穢れにおかされ子どもを亡くした家族を見ました。悲しみに泣き叫び、今にも命を絶ってしまいそうだった……」
祈りの為に組んでいた指に力が籠もり、目を伏せる。
「私は……うらやましかった。私が死んでも、この世界でそんな風に悲しんでくれる人は、きっといないから」
クリスさんが、ハッと息を呑む音が静寂に包まれた神殿に響く。ああ、なんて愚かな想いを彼に告白してしまったのだろう。聖女の懺悔など、彼に聞かせてはいけなかったのに。
私は苦々しく自嘲する。
「ごめんなさい。神の信徒である司祭様に、こんな、聖女らしくない姿を見せるなんて。失望しましたよね」
「い、え……違います。そういうわけでは、」
クリスさんは、動揺しているように手を震わせて、それでもその場を動けずにいる。
「いいんです。私も、私にがっかりしているから。……クリスさんの言葉は、今まで会ったどの神官よりも真摯で誠実で、心に響きます。あなたはとても、清廉だから」
私とは違う。
「だから、あなたの言葉に救われる人々は多いでしょう。これまでも、これからも。……聞いてくれて、ありがとう」
急ぎ足で感謝を告げた。これ以上情けない姿を彼に見せるわけにはいかない。神殿を去ろうと私は立ち上がる。
もうここには来にくくなってしまった。後悔が胸に滲みながら、去り際ぐらい聖女らしくありたくて、足音を立てないように静かに歩を進める。
「お待ち、ください」
クリスさんが震える声で私を止める。私は足を止めてゆっくりと祭壇を振り返った。
「あなたがここに安らぎを求めているのであれば、こんなことを言ってはいけないのかもしれない。しかし、あなたの苦しみが少しでも救われるのであれば……」
クリスさんはうろたえる様に視線を揺らして私と目を合わせない。彼のこんな姿は初めて見た。私の懺悔のせいだ。罪悪感がこみあげてくる。
「あの、先ほどの話は忘れてください。少し、どうか、してたんです」
「いえ、いいえ。違うんです。そうではない。私は、私も……あなたに懺悔しなくてはならないことがあるのです」
どこかぎこちなく要領を得ないクリスさんに、私は沈黙でもって続きを促す。
クリスさんは、ぎゅっと手を握り、恐る恐るといったように私と目を合わせて口を開く。
「私は、清廉などではないのです」
クリスさんの唇が、震えている。私は彼の思いがけない言葉に、唖然とする。
「……私は、マシェル様を……お慕いしているのです」
「……え?」
クリスさんの口から出た言葉とは思えず、上手く意味をかみ砕けない。”慕う”とは、憧れ、敬意など、色んな意味を含んでいる。でも、彼の言い方だとまるで……。
彼は苦しみに喘ぐように、はくはくと口を何度か開閉させて、続ける。
「あなたが、ここを訪れる度、心が弾み、あなたがここを去ると、またいつ会えるだろうかと……想いを巡らせていました。神に仕える身でこんな想いは間違っていると知りながら、あなたに隠してそのような想いを募らせていたのです。……いえ、それだけではない」
「何を……」
クリスさんは自身の胸をわし掴み、否定するように首を左右に振って私を見る。その表情はいつもの無機質な彼とはまるで違う。罪を告白する罪人のように、苦悩に満ちていた。
頭が、彼の言葉を理解するのを拒否している。なのに、私は彼に強く引きつけられて、目をそらせない。
「私は、私は、あなたに、触れたいと……祈りを捧げる指先が、人々を慈しむあなたのまなざしが、風に揺れる髪が、ただ美しいと、それだけでなく、それに手を伸ばしたいと、そう……願ってしまったのです」
クリスさんはかすかに指を震わせて、自制するように手を抑えつけ、目には涙を湛えていた。彼は祭壇の前で崩れ落ちる様に跪き、項垂れる。
心配になった私は彼に駆け寄るべきか迷って数歩だけ近寄りながら、それ以上距離を詰めるのは戸惑われて、手の届かないところで立ち止まる。
「クリスさん……」
「これがどれだけ穢れた想いかは、十分に分かっています。あなたを……汚す、想いです。司祭である私が、こんなことを。神の信徒として、決して許されない、想いです。信仰の影に隠れて、私も欲にまみれる者たちと何ら変わらない……失望なされたでしょう?」
まるで本当に汚れているとでもいうように、蔑むように自身の手を見つめ、クリスさんの目から涙が一粒零れ落ちる。
「……私は、あなたの幸せのためになら、いくらでも、あなたが帰れるように祈りましょう。けれどそれは、決してあなたにこの世界から去ってほしいわけではないのです。あなたが、いなくなったら……私は身が裂けるほどの苦しみを得るでしょう。だから、あなたが……し、死んだらなどと、そのようなこと、仰らないでください……」
クリスさんの声はかすれていた。彼は縋るように私を見上げる。
私は、さっき、子供の家族を羨んだ私の醜い告白に彼が動揺したのだと思っていた。でも、違った。彼は、私が死んだらという仮定の話に、動揺していたのだ。
「このような、穢れた想いを、あなたに打ち明けたくはなかった……しかし、あなたがここを訪れてくれなくなったとしても、この懺悔があなたの救いになるのなら、私は……」
言葉を飲み込むように、一呼吸おいてクリスさんは続ける。
「……あなたの安らぎは、かりそめのものだったのです。申し訳ございません。もし、もし、マシェル様がまたここに来られたら、その時は、この想いは祈りの影に閉じ込め、決して見せないと誓います」
彼の懇願するようなまなざしに、私は眩しさを感じて目を細める。
――かりそめ。
「私の安らぎが、かりそめのものだったと言うのなら、クリスさんも、私の聖女という"かりそめの姿"に惹かれたに過ぎないのではないですか……?」
クリスさんは不意をつかれたように息を呑んで、それから悔しそうに唇を噛んだ。
「あなたが私に見せてきたすべてが、演技だったというのなら、そう、かもしれません……。しかし、ここで祈りを捧げてきたあなたは、聖女ではなく、あなた自身だったはずです。王都で負った心の傷を、苦しみを隠し、ただここで祈るあなたの悲しみを、そのまま包み込むことができたらと、どれほど願ったことか。あなたが……聖女でなかったらと、私がどんなに願ったことか……たとえ、たとえ私が見てきたあなたの姿が、かりそめだったのだとしても、あなたに焦がれるこの気持ちは嘘ではないです。それだけは、どうか信じてください……」
そうだ。かりそめのはずがない。私はクリスさんの言葉に安心して薄く笑った。
「……それは、私にとっても、同じです」
慎重に言葉を選ぶ。
「たとえクリスさんが、どんな想いを胸に秘めていたとしても、私はここだから息が吸えた。あなたのそばだったから、私は私として祈ることができたのです」
目を瞑る。
「私は、聖女だから、あなたの想いに応えることは……」
言葉の続きは、口の中でほどけて、ただそっと首を横に振る。
「私の本当の名前は……柏木、真白と言います。次にここを訪れた時は、どうかマシロと呼んでください」
私は囁くように小さな声で告白した。
これが、おこがましくも、私が彼に伝えられる精一杯の返事だった。
後ろでカタッと、乾いた音が響く。護衛の騎士が扉を開け、こちらを窺っている。長居しすぎてしまったようだ。
私が歩き出した瞬間、後ろで床のきしむような音がした。そして、空気の漏れるようなかすれた声で「マシロ様……」と聞こえた気がした。
それは呼びかけではなく、確かめるような、祈りにも似た響きを持っていたから、私は振り返らずに涙をぬぐって神殿を出て行った。
騎士が一瞬私の目元に視線を落とし、不審げな顔をするが、無視して用意された馬車に乗り込む。
ガラガラという耳障りな音を立てながら、私の心の拠り所から少しずつ離れていく。
いつもは空しくなるこの瞬間。今日はなぜか胸の奥がじんと熱かった。