5
依途空良。ぼくの親友。
3年間一緒にいた。友人として戦友として、或いは勝手に夢に出てくる厄介な男の子として。
隕石を吹き飛ばしたり異界を潰して回ったり核の発射を阻止したり……思い返すと迷走した長寿シリーズものくらいには色んな状況を二人で変えてきた。彼は阿呆でぶっきらぼうで、どこか他人に興味がなさそうに見えるけれど。その実、これ以上なくぼくのことを分かってくれた。
だから勘違いをしていた。ぼくもまた彼のことを理解出来ている、と。それは慢心で傲慢で、失礼なことだった。
彼の言う通りだ。他人は理解出来ない。
けれどその言葉を、理解を諦めるために振りかざす気にはならない。何でかと言えば、ぼくは彼を理解したいのだ。
慢心だろうと傲慢だろうと失礼だろうと不可能だろうと、依途くんを理解したい。恋だなんて都合のいい概念を当てはめる気はない。これは性欲だ。ぼくは単なる性欲のために彼の過去も思考回路も暴こうとしている。
これを猿と言わずして何と言おうか。
『ピンポーン』
猿たるぼくは欲求に準じ、殉ずる。何度彼に拒絶させても、未だ利口にはなれない。
「はーい」
玄関の戸を開けて彼のお姉さんが顔を出した。
「未神です」
「お、来たね」
「依途く……空良くんは?」
「学校でいい子にしてるよ」
「ふふ、悪い子ですみません。おじゃまします」
「どうぞーっ」
お姉さんに案内されて中へ。靴を脱ぐ。
「お時間とってもらってすみません」
「んーん。これでも姉だからね、あきらを好きな人は幾らでも応援しちゃうよ」
「あはは」
事前にお姉さんに連絡していたのだ。依途くんのことで相談したいと。結果この電撃会談が決定したわけである。
お姉さんがお茶を出してくれた。
「さて。相談したいことっていうのは?」
「はい。依途くんは……何か、強迫観念のようなものに囚われているらしくて」
「うん。そうだね」
あっけらかんとそう言われた。
「……分かるんですか?」
「うん。あきらは確かにトラウマじみたものを抱えてる」
驚いた。こうもあっさりと肯定されるなんて。
「でも、なんで気付いたの?」
「……夜海ちゃん。このまえ一緒にお邪魔したあの子が、依途くんに告白したんです」
「あらあら」
「そしたら依途くんは冗談はやめろ、と……」
「言いそうだねー」
「いくら言っても、自分を好きになるはずがないだろうと繰り返して……」
話しているうちに自分でも少し腹が立ってくる。
「教えていただけませんか? 依途くんに何があったのか」
お姉さんはわずかに沈黙して、笑んだ。
「んー。で、どうしたいの?」
「え?」
「知った上で、未神ちゃんはどうしたいのかな」
試すように。
「殺します。その絶望を」
彼女が腹から笑った。楽しそうだ。
「いいね。自信があって」
「自信がなければ何もできません」
「確かにそうだねっ。…………ま、あの子を救えるのは未神ちゃんくらいしかいなさそうだし、全部話すよ」
お姉さんが茶を啜った。
「まぁそんな難しいことじゃない。女性恐怖症みたいなもんだよ」
「恐怖症……?」
「あきらが中学生の時にね。クラスの女の子に告白したみたいなんだけど、それをネットに晒されちゃったんだよね。オタクキモいって文章と一緒にさ」
「…………」
「それだけの話だよ。けどまぁ、それが割と話題になっちゃってさ。思春期少年を殺すには十分だよね」
聞いたこともない話だった。
「まあ勿論、本人から聞いたわけじゃないから絶対に本当だとは言えないけど。その晒された画像のアイコンと名前があきらのだったんだ」
「……それで、女性恐怖症を?」
「うーん。正確に言うと、恐怖症っていうか。これ以上傷付くのを恐れて可能性を消しているっていうか。拒絶される前に拒絶してるっていうか。血濡れのハリネズミ?」
「依途くんは……」
「もう勘違い野郎だって笑われたくないんだよ、多分……
ま、内心までは分からないね。もしかしたらてんで見当違いのこと言ってる可能性だってあるし」
「……この3年間、そんなの感じたことも無かった」
単に人の気持ちを理解出来ないんじゃない。理解できないことにしているんだ。
「そりゃ隠すよ。もし女の子として意識してるってバレて、未神ちゃんに拒絶されたらもう何も残らない」
意識、されてたのだろうか。もしもそうなら嬉しいけれど…………それを必死に隠そうとする彼の苦悩に、ぼくは一切気が付かなかった。
それどころか、好意に気付かない彼に苛立って当たったりもした。それはどれほど彼を苦しめただろうか。
許されないはずがない。ぼくは罪人だった。
「……」
どうするべきだ。彼の強迫観念を解くには、依途くんに好意を証明するにはどうすればいい。
「さて、実はこの件でわたしから未神ちゃんに提案があるんだ」
「なんです?」
「これはマル秘情報なんだけど。あきらは不健全な割に、健全な男子高校生同様……いや、それ以上の性欲があります」
「!」
「普段の部屋の中なんか、それはもう酷いことになっています」
「な、なんでそんなことを……」
「そりゃお姉ちゃんだからね。弟が健やかに育っているのか、常に見守っているのだ」
プライバシーという語が浮かんだ。
「そんなものはないよ」
返事をされた。
「ともかく、人並みの性欲に人以上の承認欲求。それをまるで無いかの様に振る舞ってるわけで、実にギリギリのところで耐え忍んでるんじゃないかと思うんだよね」
「はぁ」
「そういうわけで。お姉ちゃん的に発動したい計画があるんだーっ」
それからお姉さんのその計画を拝聴した。突飛なような、合理的なような。しかしぼくよりもそばで依途くんを見つめ続けた人の言葉だ。他に良い案が思いつくわけでもない。ならば選択肢は一つだった。
提案に返答すると、お姉さんはにっこりと笑った。
「今日のことは……まああんまり言い触らすようなのはあきらが可哀想だし。伝えるなら未神ちゃんが信頼できる人だけにしてね」
「はい」
「本当ならさ、わたしがあきらのこと助けてあげたいけど。それはあなたにしか出来ないから。任せたよ」
「……やってみせます」
「うんうん。……あきらのこと、よろしくね」
思春期同好会史上最大の戦いが始まろうとしていた。
「ただいまー」
帰宅。返事はない。
夜海も未神も欠席していた為に部活も無く、久しぶりに学校から直帰である。こういう日もいいだろう。
多分姉貴も帰ってないのだろうし、暫く一人でいることになるわけだ。
「なんか食うか……」
餓えた狼のごとくリビングへ突入する。狼狽した。
「やぁ」
「……」
何でお前がここにいる。
「おかえり、依途くん」
微笑みをたたえた未神がそこにいた。
「住居侵入罪って知ってるか」
「法には疎くてね」
「……何で学校に来ないやつが人の家には来てるんだ」
「これを見てくれ」
未神が紙切れを渡してくる。姉貴の字。
『旅に出ます。しばらくは帰らないので、未神ちゃんにお世話を頼みました。おめでとう』
……なるほど、そういうことか。紙切れを破く。馬鹿姉め!
「そういうわけだ。よろしく頼むよ」
「姉貴はいつ帰ってくるんだ」
「さあ。きみ次第、と言っていたけど」
「…………」
「生活費は預かっている。2人で1ヶ月は過ごせそうな額だね」
史上最大の溜息が出た。何てことしてくれたんだ、姉貴。それもこんなタイミングで……
「そう嫌がらないでくれ。ぼくだって悲しくなる」
「…………お前な。この間のことももう忘れたのか?」
「何のことかな」
とぼけやがって…………
「…………親友。あんなことで僕たちの友情は潰えたりしないよ」
……いや。とぼけてるんじゃない。こいつは昨日のことがあった上でこちらの領域に上陸してきやがったのだ。この笑みは、そういう笑みだ。
「さて依途くん。ぼくは一応、きみのお世話を言いつかっている。きみがもし口寂しさを覚えているのなら間食などを用意するが。どうかな」
「いや。いらん」
いつものような言い回しで普段言わない台詞を言われると違和感が凄い。おやつはその辺にある菓子を貪ることとしよう。
戸棚を開ける。ここにビスケットを置いて…………ん? 昨日まであったはずのビスケットはどこかへと消えていた。確かに昨晩まであったはずだが。続いて冷蔵庫を開ける。シュークリームは失われていた。冷凍庫、アイス……は影も形もない。
「…………」
「どうしたのかな、依途くん」
未神がしてやったりと言う顔をしていた。そこで俺は気が付く。嵌められている、という事実に。
「卑怯だぞ」
「何のことかな。甘いものが欲しいなら、ホットケーキを用意できるんだけど」
ここで俺が頷こうものなら、こいつはしたり顔でにやにやと図に乗るのが目に見えている。未神に餌をやってはいけない。こいつは俺に餌を与えるふりをして、自らが捕食しようとしているのだ。
「要らないな」
あいつに背を向けて部屋へ歩き出す。いい時間だ、惰眠を貪ることにしよう。
「そうか、残念だ」
階段を上り自室に戻る。ベッドに身を投げた。カーテンの隙間から暖かな陽射しが差し込んでいる。
「なんなんだ、これ……」
どうして未神が家にいる。どうして姉貴が旅に出る。姉貴が何かしら未神に入れ知恵したことは容易に予測出来るが…………しかし、どんな交渉を経てこんな結果に行き着いた。
まさか姉のやつ……未神と俺を……
「…………」
やめよう、考えても無駄だ。寝てしまえ。そうすれば余計な思考が失せてくれる。瞼を下ろす。暖かな光がちょうど心地良く、眠気を呼び寄せてくれる。
良い夢を見れそうだった…………
甘い匂い、金属がこすれ合う様な音、熱気。いつの間にか、そんなものを近くに感じていた。
何だこれは……夢か?
何だか知らないが、だとするならそんなに悪い夢じゃない。俺は寝ているはずだった。こんな夢を見るあたり腹が減っているのかもしれない。ホットケーキの夢を見るなんて。
……ホットケーキ?
「ん」
微睡みが失せていく。やがてそこにあるものに気がつく。
「……何やってんだ」
「見ての通り、ホットケーキを焼こうと思ってね」
黄色い生地の入ったボウル。火をあげるカセットコンロに薄く油の引かれたフライパン。これでもかと置かれた調味料に、お玉を握る未神。半ばファンタジーでも見てるかのような光景だった。異常だった。
「いや、おかしいだろ」
「なにが?」
「人の部屋でホットケーキ作らねぇだろ。台所で焼くだろ」
ふむ、と言いながら未神が考えている。
「ガスコンロはパンが一定以上の温度になると火を弱めてしまうだろ? カセットコンロならその心配がない。火力が必要なホットケーキにはぴったりなんだ」
「炒飯でも作る気かお前は」
嘘を付くにしても少々粗末が過ぎる。何でそんなことしてまでここでホットケーキを……と思ったが、直ぐにその企みを察した。
「まあまあ」
パンの上に生地が載せられる。余りに香ばしい匂いが俺の鼻を通り抜けていった。
「うんうん。美味しそうだ」
「…………」
「依途くんは要らないようだからね。ぼくだけで頂くことにしよう」
「リビングに帰れ」
「もう焼いてるもん」
やがて生地が焼き上がった。ほかほかの湯気を上げ、きれいな焼目がついている。未神はそこに塩バニラと書かれたアイスを乗せ、メープルシロップをかけ、ミントを置いた。
「頂きますっ」
どこからか取り出したナイフとフォークでホットケーキを口に運んでいく。ケーキの熱でアイスが融けてシロップと混ざる。
「おいしーなっ」
未神が笑顔でわざとらしい感想を述べた。
「あ、もう一枚焼いちゃお」
パンに油を引き、キッチンペーパーで吸い取り濡れ布巾に乗せる。生地をまた鍋の上に乗せた。
「……」
窓は開かれているのに部屋中に甘い香りが充満する。
「こんなに美味しいのになー、勿体ないなー」
「……おい」
「どうかしたの?」
「一枚寄越せ」
嬉しそうに微笑んだ。
「素直じゃないなぁ」
やつは焼き上がった2枚目を皿に載せ、チョコアイスを置いてベリーソースをかけた。ズルだろこんなの。
「はい」
「……おう」
狭い卓の上で2人でホットケーキを食べる。何でこんなことになったか知らないが、とにかくチョコとベリーは合わないはずが無かった。
「美味しいね」
「ああ」
昨日喧嘩したばっかだってのに、今日は仲良く2人でホットケーキである。何かが間違っている気がする。
「お前、嫌じゃないのか」
「何が」
「昨日あんなに軽蔑した相手とホットケーキなんか食って」
当然の疑問だった。
「依途くん。ぼくは考えたんだ。他人を理解するには、理解しようとしなければならない」
「はぁ」
「これはいい機会だ。同じ場所で過ごし、食べ、寝れば自然と相手のことを理解するだろう」
「無駄なことはするな。帰って宿題でもしててくれ」
「依途くんもぼくを理解するべきだ。宿題なら後にしたまえ」
「傲慢だな……」
「依途くんが強情に同居を拒否するなら生活費はぼくの懐に入れていい、お姉さんからそう聞いている」
「…………はぁ?」
「そういうわけだ。きみも飢えたくはないだろう、諦めてくれ」
何てことだ。そこまでするのか、姉貴。溜息を吐き出して、ケーキを飲み込む。甘味と酸味が絡み合って、よく分からない。
「夕飯、食べたいものはある?」
「そうだな……」
「このあと、買い物に行こう。明日以降もお姉さんはいないのだからね」
こうしてなし崩し的に妙な状況が始まってしまった。姉貴の陰謀か、未神の策略か。昨日の俺を嘲笑うかのように、こいつはがんがんと踏み込んでくる。
呆れるような安堵するような、自分でも感情が分からないままホットケーキをまた一切れ口に運んだ。
「なぁ」
「ん?」
「何でお前と登校してるんだ、俺は」
見飽きた通学路。散った桜を踏みながら学校へと歩く。半分寝ながら通う道に、何故か今日は連れがいた。
「同じ家から同じ学校に向かうんだから、そりゃ道のりも同じになるだろう」
「電車かバス使えよ」
「徒歩圏内だ」
「ならタクシー呼べ」
「きみが馬にでもなればいい」
口の減らないやつだ。
そうこうしているうちに学校に辿り着く。校門を抜け、ロッカーから上履きを放る。
「ふふ」
「どうした」
「新鮮だな、とね」
そのまま4年教室へ向かう。何か当たり前に受け入れ始めてるが、そんな教室あってたまるか。
自分の教室の扉をくぐって席につく。
「…………おい」
「何だい」
「何のつもりだ」
未神が膝の上に…………俺の膝に座っていた。ごく自然に、俺が席についたその上に腰を掛けてきたのだ。
「なにって。見ての通り親友同士の自然なスキンシップだけど」
「不自然だろ」
膝の上のこいつは星でも見るようにこちらを見上げていた。
「ここ、教室だぞ」
直ぐそば、抱きしめられそうなほど近くに未神がいる。香水だとかの臭いはなく、薄っすらとシャンプーの香りだけがした。
「場所を弁えてやるべきということかな?」
「そうじゃない。いついかなるタイミングだろうと人の膝に座るな」
「膝というよりこれは……股ぐらといったほうが適切ではないだろうか」
「尚更どけよ」
「断る。相互理解には適切な触れ合いが必須だろう」
……まただ。こいつはまた俺との理解を諦めていないのか。
「……だがな、未神。周りをよく見ろ。教室でカンガルーよろしく重なって佇んでいたら奇異の視線で穴が開くだろう」
「きみこそよく周りを見るといい」
「はぁ?」
「いいから」
そう言われてクラスを観察する。右前方、扉の前で男女が抱き合っている。左中央、女子2人が互いの指を舐め合っている。黒板、相合傘の下に俺と未神の名前が書いてある。
「どうなってんだ…………」
「知っているかい? 我が高校の総生徒数は600ほど。うち交際相手を持っているのが520、高校内で付き合っているのが230程度だ。
少子化に改善の兆し、この国の未来は安泰だな」
「滅んでしまえそんな国」
「だから見ろ、誰もかれもイチャコラするのに精一杯でこちらを見ていないだろ」
確かに女子生徒を膝に乗せた準性犯罪者の俺に誰も注目していない。……しかし、それよりも。
「あの黒板の馬鹿げた落書きは何だ」
「ぼくが書いた」
「馬鹿め」
しかしそれすらも誰も気にしていない。大発情時代などと笑ったが正しくその通りになっていた。教室は最早そういう店と化し、教育機関としての役目を終えている。
教育と理性の敗北を嘆いていると、ガラリと扉が開いてまた誰かが登校してきた。
「なっ…………」
夜海だった。こちらを見て絶句している。
「な、なな……」
ピーっ! とどこからか取り出したホイッスルを夜海が鳴らした。
「久しぶりに学校に来てみたら…………みかみん! あきらっち! なにしてんのっ!アウトだよっ!」
「なにって…………親友同士の自然なスキンシップだけど」
「そんなわけないでしょっ! どう見てもエロ! そんなのエロだよ! お触りは風営法が許してくれないよっ!?」
「そう言われてもな。黒板を見れば仕方ないことだと分かると思うけど」
夜海が黒板の方を向く。中心に描かれた相合傘を見て髪を逆立てた。ピピーっ! と笛が2度鳴る。
「ツーアウトっ!! なにあれっ!?」
「ぼくと依途くんの関係を示した現代アート」
「い、いつの間にそんな関係に…………」
夜海が怒りに震え始める。
「あきらっち……わたしの告白はすっとぼけたくせに…………」
「いや、何を誤解してるか知らないが。俺と未神は不埒な関係にないぞ」
「そうだよね。互いに純粋な愛を捧げた仲だ」
「お前は黙ってろ。とにかくあの相合傘はこの馬鹿が勝手に描いたんだ」
事態を沈静化させるため、可能な限り冷静に説明をしていく。未神が不満そうにこちらを見ていた。
「じゃ、じゃあなんでみかみんが依途くんの膝にのってるの…………」
「こいつが勝手に載ってきただけだ」
とうとう舌打ちした。
「彼女のことはいい、それより依途くん。バランスが悪いんだ。お腹を支えてくれないか」
「ちょ! そんなのハグじゃん! ズルい! 絶対だめ!」
「そんな気はない。さっさとどけ」
はっきりと強気な姿勢での外交に未神が意味ありげな視線を向けてくる。
「…………収まりが悪いのはきみのせいなんだけどな」
「はぁ?」
「まさか、依途くんがぼくでそんなふうにするなんて」
その意味を理解するのに3秒ほどかかった。確かに彼女の着座を阻害する屹立が俺の股間にある。3秒後、俺は死にたくなった。
「…………」
それから2秒してピピピーっと笛がなる。
「……スリーアウト」
こちらを見下ろすその視線には何の感情も込められていなかった。
「スリーアウト制か……野球なのか?」
「いや。野球にホイッスルは無い。サッカーじゃないかな」
「サッカーにスリーアウトねえだろ」
ぶちっ、となにかが切れる音がした。堪忍袋とかそういうのだろうか。
「せんせーいッ!!!」
「あ、あいつ!」
不味い! 夜海のやつ、公権力を介入させるつもりだ!
「おい、未神!」
「……避難しようか」
未神が何か呟くと、俺たちは次の瞬間には教室にいなかった。
「みかみん、説明して」
部室。陽は昇りきっておらず、青空だけが窓の向こうにあった。
夜海ちゃんが身を乗り出してぼくを問い詰めている。依途くんはいない。実際には追ってきてもいない教師から逃げ回っていた。
「これまでのみかみんなら、あんなことしなかったでしょ」
「うん。そうだね」
「どうして急にあんな……」
戸惑っているようだった。ぼくは依途くんへの好意を隠していなかったし夜海さんも当然それを把握していたけれど、肉体的接触を伴うような求愛はしたことがない。
久しぶりに登校してみれば突然あの様子だったから驚いたのだろう。
「そういうの、わたしの領分だったでしょ」
「そうせざるを得ないから、ってだけの理由だよ」
「?」
今度は疑問符を頭上に浮かべている。
「夜海ちゃんの言う通り、ぼくはこれまできみのような性的で性急な真似はしてこなかった」
「言い方」
「でも、もうそういうわけにはいかなかったんだ。彼は異性からの好意を受け入れられないから」
「あぁ。あきらっち、あんな感じだったもんね…………」
きっとあの海…………彼女が告白したあの時の反応のことだ。ぼくより彼女のほうがこの件で傷付いている。
「一緒にいれば、いつかこちらを向いてくれる…………なんて希望に縋るわけにもいかなくなった。それでだ。ある作戦を発動することにした」
「作戦?」
「そう。でもそれを話す前に、依途くんについて伝えておきたい」
彼女が頷く。
「彼には精神的な傷……強迫観念がある。彼の言動はそれが理由だったんだ」
「心の傷?」
「症状としてはこの前見たとおりだよ。自身が好かれるはずがないと思い込む、好意から逃げる。それが理性的で常識的な認識だとする」
「…………」
「過去の出来事が原因だそうだ。ぼくも知らなかった」
これについては後で話そう。それよりも前に、彼女には伝えたいことがある。
「しかしぼくとしてはその認識でいられると迷惑なんだ。だから、依途くんが自身への好意を受け止められるように、拒絶しないように矯正してやらなきゃならない」
「うん」
ことここに至っては、最早彼自身の意思など汲む気は更々無い。早急に思想の改善が必要なのだ。
「それで依途くんのお姉さんが、ある作戦をぼくに提案してきたんだ」
鞄のクリアファイルから書類を取り出して彼女に見せる。
「…………親類補完計画?」
「うん」
「冗談かな」
「本気なんだ」
ホチキス止めされた紙の束をめくっている。
「なになに…………当作戦は、我が親類、愛すべき弟たる依途空良の精神的欠損を補完するための計画である。
頑なに自分は好かれないと無根拠の主張を続ける対象に対し、異性による共同生活と肉体的接触の両面から電撃的飽和攻撃を行い、心理防衛線を可能な限り押し下げ、瓦解させるのである…………」
そこまで音読して、夜海ちゃんが暫く唸る。
「…………つまり、くんずほづれつで脳みそお猿さんにするってこと?」
「そうなるね」
彼の性欲と愛情とを増幅させ、理性の壁を崩壊させるのだ。
「他人に毒を撒き散らしていた人間が、彼女が出来たり結婚したりした瞬間生温くなったりするだろう? ああいう感じ」
「なるほど。わかった気がする」
妙な例えをしてしまった気がするが、伝わったらしい。有り難い。
「けどね、現状この作戦には足りないものがある」
「足りないもの?」
「……ぼくでは、彼の性欲を引き出すのに不足がある」
彼女は目をまん丸くしたと思うと、腹を抱えて笑い出した。
「それで?」
「可能なら、きみと手を組みたいと思っている」
要するに、これがこの長話の本題だった。その為に経緯の説明をしたのだ。
「夜海ちゃん。彼はきみを傷つけた。憎まれても文句は言えないだろう」
「そうだねぇ」
「それでもまだ、きみは依途くんのことが好きかい?…………もしそうなら、ぼくと一緒に彼を救ってほしい」
その答えに作戦の成否がかかっていると言っても良かった。だから、彼女がイエスを言ってくれることを心の底から願っていた。
「……好きだよ。大した理由もないけど、それでも大好き。やるよ。その作戦」
知らないうちにガッツポーズを取っていた。彼女ならきっと……依途くんを発情させられる。
「これより我が思春期同好会は親類補完計画を発動する!」
「……それ、やらなきゃだめなの?」
「うん。お約束みたいなもんだよ」
そんな訝しむ様な視線を向けられても、これは思春期同好会の伝統なのだ。やらないわけには行かない。
「……でもいいの? わたしを加えて」
「?」
「この作戦が上手くいったとして、わたしがあきらっち寝取っちゃうかもしれないけど」
笑ってしまった。
「なにそれ、余裕?」
「……違うよ。もし夜海ちゃんが彼と幸せになるなら、それでいい」
「え?」
「ぼくの願いは依途くんがぼくに虜になることだけど、目的は彼の絶望を殺すことだから。
彼が幸せならばそれでいい。よくないけれど、それでいい」
この3年間、依途くんに貰ったものが多すぎる。ぼくの青春は彼ありきのものだった。だからせめて、彼が幸せになれるように背を押そう。ぼくを幸せにしてくれたように。
「…………」
「ぼくは依途くんのラブコメディを取り戻す。そう決めたんだよ」
目覚める。見知った天井がそこにある。
「ふわぁ」
今日も今日とて、平和な一日の始まりである。顔を洗おうと部屋から出た。
「おはよう、依途くん」
「……そういやお前いるんだったな」
「なにを言ってるんだ。昨日もあんなに愛し合ったというのに」
「遅くまでゲームしてただけだろ」
水道で顔を洗う。
「でも楽しかったろ?」
「まぁ」
「ならそれは、過不足なく愛だよ」
名言ぽく言ってるが内容は理解出来ない。朝の支度を終えて階下へ降りる。何か食い物は無いか冷蔵庫を漁ってみた。
「朝食ならもう作ったよ」
「え? まじで?」
よく見るとテーブルの上にラップのかけられた朝食があった。
「……おまえ、料理出来たんだな」
「心外だな。毎朝作ろうか?」
「いや。俺は2日に1回はコーンフレークを食わないと死ぬ体質なんだ」
今日は出された朝食を有り難く頂くことにする。未神の作った料理は以前の弁当くらいしか食ったことはなかった。だがこうして食べてみれば中々いける。
味付けがちょい薄めのあたりに上品さがあった。
「さて、依途くん」
「ん?」
「ぼくは少し出かけてくるよ」
「おう、そうか。気を付けて帰るんだぞ」
「……夜には戻って来る。それまできみの世話係は別の人に任せた」
姉から未神に、未神から某に。
「孫請けか。大変そうだな」
「何のマージンも貰ってないよ。それじゃ、洗い物くらいは自分でしたまえ」
「おう」
未神が部屋を出ていく。食い掛けの朝食だけが残る。
「……」
妙に視線を感じて振り向くと、柱の陰から未神がこちらを見ている。未神はそのままさっと隠れて歩いていった。
暫くして、食い終わった食器だけが残る。言われた通り洗い物まで終えてみると、いやに部屋の中が静かだった。
もうここには俺しかいない。寂しいわけではなかったが、何か妙な感情に襲われた。その感情の名前を俺は知らない。
それから、1時間くらい経っただろうか。ぼーっとしながらスマホを弄っているとチャイムが鳴った。
「おっはー!」
「…………」
部屋の騒音係数が跳ね上がる。多分線路下くらいの数値が出るはずだ。
「あれ、暗いよ? あきらっち?」
「いや……何でいるんだよ」
「みかみんからあきらっちのお世話とお嫁さんを引き継いだんだけど。聞いてない?」
「前者も聞いてないし後者も聞いてないな」
「まあまあ。上がるねー」
夜海が平然と階段を登っていく。当たり前のように俺の部屋に入っていった。いや、そこ許可なく入っていい部屋じゃないんですが。
俺も後を追う。既にベッドを半分奪われてしまっていた。被害甚大である。
「いやー、やっぱ男の子の家は新鮮だなぁ」
夜海は制服……なのだがブラウスは胸元が空き、スカートは膝の遥か上を覆っている。見目がギャルっぽいだけで別に普段から露出が多いわけでは無いのだが。なんか今日はやけに臨戦態勢である。
「いや、ごく自然に人の部屋に入らないで欲しいんだが」
「仕方無いよ。自然なんだから。人類に制御出来ないんだから」
「お前人類じゃなかったのかよ」
ベットに座ったままぐいーっと伸びをしている。足まで伸ばしている。…………見えそう、てか見えた。
「ていうかなんでそっち座ってんの」
「ベッドは座る場所じゃないだろ。だいたいそれは俺のベッドだ、どけ」
「やだなぁ。それに座るからえっちなんじゃん」
「えっちにしてくれと頼んでない」
「あきらっちはばかだなぁ」
夜海がそのままベッドに寝転んだ。そのまま枕に埋めた顔がわずかに動いている。
「えっちになりたいのは人の性なんだよ。向き合わなきゃ大人になれないよっ」
クンカクンカスーハースーハーとやつがひくひく動いていた。
「いやお前なにしてんの」
「あきらっちを…………吸ってる?」
甘かった。未神が膝に乗ったくらいで驚いている場合ではなかったのだ。こいつは最初から遥かその上の境地にいる。
「不思議だよねぇ。男女逆ならどう見ても犯罪なのに」
「逆じゃなくても犯罪だが」
…………俺には信じられなかった。冗談だか演技だか知らんが、人に告白して拒否されてあれだけ泣いておきながら、どうして彼女は俺に関わるのだろうか。
親の仇の如く憎まれても、或いは一切の関わりを絶たれても何ら不思議じゃない。寧ろそれが自然である。なのにこいつは平然と人の家に上がりこみ、ベッドの臭いを嗅いでいる。
「お前、変態なのか」
「そんなわけ…………え、でも今平然と匂いかいでたし……」
「……それに拒絶した相手の家に上がり込まないだろ、普通」
夜海は天井を仰ぐように転がると、何か考え込んでいるようだった。
「じゃあ変態、かぁ」
「良かったな、気付けて」
やつがしたり顔でこちらを見てきた。
「でも、もっと大事なことに気が付いちゃったぁ」
「?」
「あきらっち。拒絶した、って認識はあるんだねぇ」
唾をのんだ。見透かされた、そんな感覚がした。
「告白は冗談で嘘、あきらっちはそう主張してたはずだけど」
「……」
「拒絶なんて言葉……まるでわたしが本気で告白したの、分かってるみたいじゃん?」
沈黙した。下手に何かを言えば、その時点で色々なものが曝されるようで怖かった。夜海は変わらずどこか影のある笑みでこちらを見つめ続けている。
「馬鹿だよねぇ。こんな酷いひと、嫌いになれないんだもん」
「…………」
「みかみんも同じなのかな。あの子も趣味悪いよねぇ、そういう意味でも変態かも。わたしもあの子も」
どこか慈しむような眼だった。
「きみに拒絶されたのは悲しかったよ。自分を否定されたような気持ちになったし、殺意も湧いたかな。なんであんな男にフラれなきゃいけないんだってムカついた」
「悪かったな」
「それでも忘れられないんだから、人間の脳って欠陥まみれだよね」
温い風が吹く。カーテンが揺れている。そのいつもの光景の中に、彼女がいるのはやはり不思議に思えてならなかった。
「ねぇあきらっち。女の子好き?」
「ん?」
「わたしとかみかみんとか、特定の個人じゃなくてもいい。一般的に女の子は好き?」
以前未神にも同じことを聞かれた。結局あの時は答えなかったが…………
「ああ。好きだよ」
「あれ、はっきり答えてくれた。珍しいね」
「だからだめなんだ。この感情も欲求も消さなきゃならない。存在していてはいけない。これは加害だから」
「あーあー、そういうのはいいや」
夜海が俺の言葉を遮る。元から俺の言う言葉を知っているようだった。
「でもまぁ、よし。素直に話してくれるだけ嬉しいかな。
ともかく、あきらっちは「相手のために」自身の欲求を抑えてるわけだよね?」
「……ああ」
「でもあきらっち。わたしはあきらっちに性的な目で見られたいんだよね」
「何言ってんだよ」
「家に上がり込んでまでそういうふうに見られないってことは、わたしに魅力が無いってわけで。これは女性的尊厳の危機なんだ」
「……?」
「つまりね、あきらっちはわたしを性的な目で見ると加害だと思ってるかもしれないけど。それは否。寧ろ性的な目で見ないことこそ加害なんだよ」
混乱する。性的な目で見ないのが…………加害?
分からない。こいつの言ってることが。
「ジロジロとやらしい目で視姦して劣情を催さないとわたしを傷つけてしまう。加害してしまう。わたしはあきらっちを許さない。社会も許さない。
加害した人間は、幾らでも殴ってもいい。インターネットもそう言ってるね」
「え、ん、ああ……」
「そう、このままじゃきみは加害者だ」
何かがフラッシュバックする。かつて見た光景。見ず知らずの誰かが、誰かを嗤って、殴って、蹴飛ばしている。加害者は誰だか知らないが被害者は知っている。確か俺だ。
違う。俺は加害者だ。被害者ぶるな。お前の好意と性欲が加害なんだ。お前への嘲笑は正義の鉄槌なのだ。
やっと反省したのに戒めたのに、加害者にならないように頑張ったのに…………今度は性的な目で見ないと加害者?
分からない。俺はどうすればいい?
「加害はダメだよね?」
「ああ。もちろん」
「ならどうすればいいと思う?」
「…………性的な目で、見る?」
「うんうん。誰を?」
「夜海を?」
「当たり」
夜海が俺の目を見つめている。問うように、逃さぬように。大きく開かれた胸元が嫌でも目に入る。
「でもまだ足りない。証明しなきゃね、きみがわたしを性的に見てるって」
「証明……?」
「そうすれば、きみは加害者じゃなくなるよ」
彼女が起き上がる。両腕を……てのひらをこちらに向けてきた。
何かが俺に囁いた。衝き動かそうとした。それが加害を避けるための理性なのか、ただの性欲なのか、自分でも分からない。
けれど、気が付くと俺は事に及んでいた。体が勝手に動いていた。
「…………」
「へ?」
夜海の膝に座っていた。自分でも何でそんなことをしたのかもわからない。
「ぷっ、あはははははは」
夜海が爆笑していた。
「みかみんかよっ!」
言われてみればその通りだった。まるで未神である。恥ずかしすぎるだろ。
「上手く誘えたと思ったのにさーっ」
「誘え……?」
「うん。この理屈なら心置きなく手出してくれるかなーって」
「…………」
「ごめんね。あ、でも性的に見てほしいのはほんと」
「何やってんだ、俺…………」
その場からどこうとする。
「ちょい待ちっ」
腹と胸とをホールドされた。離れようにも力が強い。
「離せっ」
「やだよぉっ、やっとあきらっちからくっついてきたのに」
腕は万力のように俺を固定して離さない。俺もこの3年間戦ってきた、力はある方のはずだが…………
「はいはい、大人しくしてねー」
残念なことに俺よりタッパのある夜海の内側に俺はすっぽりと収まっていた。何が女性の尊厳だ、俺の尊厳はどこにいった。
「あきらっち、ちっちゃーい」
「小さくない! デカ女! ゴリラ!」
「ひどーい」
言い過ぎたか、そう思った瞬間夜海の顔が俺の首元に触れた。
「何してんだ」
「あきらっちくさい」
「はっなっせっよっ!」
「だめ。このくさいの、好き」
「匂い嗅ぐなゴリラ!」
「はー。あきらっちシコすぎー」
言動の意味を理解するのに時間がかかる。暫くしてそれが酷いセクハラなのに気がついた。
「…………は? シコ?」
「うん」
「…………?」
「わたしあきらっちのことめっちゃ性的な目で見てるからね?」
「嘘言え」
首筋を舐めてくる。
「な、何して」
「今盛りがついてるから。我慢して」
そのまま舌が耳にまで伸びてくる。
「や、やめろ」
「こういうことしても捕まらないんだもん、女に生まれてよかったー」
「やめてくれっ!」
「あきらっちさ。女のことを神聖視しすぎなんだよ」
「は?」
「わたしがあきらっちをエロい目で見るように、あきらっちもそうすればいい。あきらっちの性欲も好意も、わたしは絶対に加害だなんて思わないから」
「…………」
「少しずつでいいからさ。わたしとみかみんのこと、ちゃんと見てほしいな」
それは懇願のようであり、宥恕のようでもあった。そして、今はわたしたちに確りと向き合っていないという忠告のようでもあった。
……こいつにしろ、未神にしろ、何故俺に付き纏うのか。俺にその価値は無い。無いはずなのに。
「よーし。じゃああきらっち、炒飯作ってっ!」
「えぇ……」
「ほら、この前来た時約束したでしょ!」
「勝手にな」
「もう病みつきでさーっ、あの味思い出すと今でも震えるんだよねっ!」
…………完全に中毒じゃないか? それ?
「さ、れっつごー!」
そのまま夜海に背を押され、台所へ降りていく。
俺は…………許されたのか?
そんなよくわからない感情が、頭の中に浮かんでいた。