7話 癒しの雨の奇跡
胸の内に芽生えた、神託迷宮への好奇心に、ノルンは足を次の小部屋へと動かす。
タッ、タッ、と軽い靴音を連れて、移動した先の小部屋には、ひときわ人々が集まっていた。
静かに入り口をくぐったノルンの銀の瞳に、数組の解読者たちが壁や床や天井に刻まれた神託を見つめて、ああでもないこうでもない、と意見を交わしている光景が映る。
そっと近くの壁に寄り、神託に夢中な人々を眺めながら、ノルンはそう言えばと、父アトアの説明を思い出した。
(父さんは、解読者になる人たちには、色々な目的があるって言っていたな。
この人たちは、神秘の探究者……と言う雰囲気ではないから、迷宮に隠された宝を求める者?)
少し先の壁に刻まれた神託を、読むふりをしながら、ノルンは人々の観察を続ける。
「あ~~この神託迷宮、神物を授かる神託がないじゃねぇか!
何でもいいから神物さえ授かれば、金になるってのに!
次だ次!」
荒々しく髪を片手でかき乱し、そう叫んだ見知らぬ男性の言葉を聞き、ノルンは神物のことを思い出す。
(たしか……神の力のひと欠片が宿るって、父さんが言っていた物だよね。
つまり――奇跡を起こす力が宿っている道具、と言うことかな。
それから、その神物という物はお金になる、と)
見知らぬ人々の言動であっても、まだ多くを知らないノルンには、学びを得ることが出来る貴重なものだった。
(床のすみを探っている人は……何をしているのだろう?)
美しい黒の長髪を揺らし、小首をかしげる。
残念ながら、一部の人間の行動は、今のノルンには理解が出来ないものに見えた。
ただそれでも、やはり学ぶことの方が多いと、ノルンは右側の壁の前に立つ、先ほど迷宮の入り口近くで見かけた三人組の男女へと視線を注ぐ。
「う~ん? 土、壁……これなんだ?」
「叩くとか、攻撃する、みたいな意味の紋様だった気がする!」
「叩く、殴る、だ」
「そうそう、それよそれ!」
「叩く……神託の紋様を、殴れってことか?」
ノルンに服装の知識をもたらしてくれた、二人の男性と一人の女性の解読者たちは、壁に刻まれた神託を前にして、そう言葉を交し合っている。
少し遠い位置から、ノルンも彼らや彼女が悩んでいる神託の文を、銀色の視線でなぞった。
([豊かな土を求める者は、この神託の下の床を叩くこと。さすれば、豊穣を約束する土を少し授けましょう]
惜しい。叩くのは神託の紋様ではなくて、神託が刻まれた壁の下にある床の方だ)
腕に巻いていた帯状の布を外し、拳に巻き付けて保護をしつつ、神託の紋様を殴る男性たちと、続けて掌で叩いていく女性の様子を眺めながら、ノルンは迷う。
床を叩けばいいのだと、助言を伝えに行こうか、行くまいか。
そもそも、他の解読者たちが読み解こうとしている神託について、横から口を出していいものか、と。
そう束の間、悩み――答えが出る前に、殴られ叩かれていた神託の上の天井が、小さく崩れ落ちた。
硬質な音を立て、天井を形作っていた数個の石が落ちてくる光景が、まるで時間の流れを遅くしたかのように、殊更ゆっくりと銀の瞳に映る。
「あぶな!」
「下がれ!」
「きゃっ!」
落ちてくる石を避けようと、三人組の男女が慌てて壁から離れる動きと、床に落ちた石から散った欠片が、女性の足をかすめる様子までを見届け、ノルンはタッと駆け出した。
入り口近くの壁から、小部屋の中心部の床に刻まれた、神託のそばへと走り、足を止める。
この神託は、天井の小さな崩落の結果、怪我人が出てしまったこの現状でこそ輝くものだと――ノルンには、すでに分かっていた。
「《水》」
凛と発した言の葉に応じ、軽くかかげたノルンの右手の上に、一瞬で神の文字から転じた、水の球が出現する。
水球はまたたく間に、銀の瞳が見下ろす床へと飛来し、ほっそりとした手が導くままに、薄く刻まれていた神託の紋様を、素早くなぞり水で濡らした。
[傷つき癒しを求める者は、この神託の文字を全て水に浸すこと。さすれば、癒しの雨を授けましょう]
そう書かれた神託の解き方は、刻まれた神託の紋様全てに水をかけること。
ノルンが紋様秘術で出した水球が、見事神託を解いた、刹那。
――紋様が水色に輝き、次いで同じ色に天井が光った後、淡い水色に煌く雨が、小部屋にしとしとと降り注いだ。
誰もかれもが、唐突な神託から与えられた奇跡に驚き、唖然として天井を見上げる。
薄暗い小部屋の中、鏡のように澄んだ銀の瞳に映った、煌く雨が降る光景はあまりにも美しく。
「きれい……」
思わず、そうノルンの口からも小さく、感動の言葉が零れ落ちる。
静かに人々の心で渦巻いていた感動は、やがて声となり、ついにはワッと歓声が上がった。
小部屋に響くのは、神々が地上に刻んだ神託から授けられる、奇跡の素晴らしさと喜び。
驚愕、感動、そして感謝の感情を肌で感じ、ノルンははじめて神が人間にもたらす恩恵に対して、人間がどのような反応をするのかを知った。
それはまるで……長く続いた日照りの日々が終わり、恵みの雨が降って来た時のように。
溢れ出る喜びに満ちた小部屋を見回して、ぱちりと銀の瞳がまたたいた。
奇跡の雨は降り続き、何事かと小部屋の入り口へと駆けつけた、他の小部屋を探索していた解読者たちにも優しく注いでいく。
その中で、この奇跡を起こすきっかけとなった、天井から崩落した石の欠片で怪我をしていた女性が、ふとせわしなく足を確認して、声を上げた。
「えっ! 怪我が治ってる!」
「ほ、ほんとか!?」
「見せてみろ」
女性の声に、二人の男性たちが驚きながらも、女性の足元を確認する。
しかし、たしかに薄く肌を裂いていた足の傷だけでなく、傷口を流れていたはずの命の雫の赤さえも、そこには見当たらなかった。
「……本当だ、治ってる」
「命の雫さえ、消えているな」
「でしょう!? きっと、この神託の雨のおかげね!」
驚く男性たちへと、そう笑顔を見せた女性の言葉に、他の解読者たちもかすり傷が治っていると、次々に癒しの雨が与えた奇跡に気づいていく。
多くの人々が声を上げる小部屋の中心から、ひっそりと抜け出したノルンは、とたんに乾いた雨の雫に、奇跡の形の多様性を垣間見て――また感動に、小さく微笑んだ。