20話 ノアティラトアの大地を行く
遥か遠くに星々が煌く夜空を、樹々の葉陰から見上げつつ、夜の森をノルンは歩く。
夜の暗さに染まる森の姿を、鏡のように鮮明に映すノルンの銀の瞳が、ふと右側にも連なり立つ樹々の奥を見る。
方向を変え、ノルンが向かったその先で――金色の瞳と、視線が合った。
「狼さん。こちらまで、来てくれていたのですね」
ウォンと小さく吠えた、銀色の毛並みを持つ大きな賢い狼は、ノルンを導くようにゆっくりと歩き出す。
再会したノルンと狼は、すぐに大きな葉が頭上を覆うように伸びる、今夜の寝床へとたどり着いた。
その場でさっそく食事を楽しみ、そののち狼と共に横に寝転んだノルンは、心地好い眠りへと導かれながら、銀色の毛並みを優しく撫で、狼に問いかける。
「また……私と一緒に、旅をしてくれますか……?」
金の瞳を神の子へと注いだ狼は、小さくひと吠えして、肯定を返した。
夜が明け、新しくはじまった一日。
その日の朝から、また新しい神託迷宮を目指して、ノルンと狼は旅を再開した。
狼の背の上で、美しい黒の長髪を跳ねさせながら、ノルンは狼へと声をかける。
「大きな川の先に、大きな街があるらしく……そこには【大迷宮】と呼ばれる神託迷宮があるのだと、教えてもらいました。
その場所へ、行ってみようかと」
ノルンの言葉に、ウォン! と吠えた狼は、進路を変えることなく、そのまま走り続けて行く。
(元々、狼さんもその場所に連れて行ってくれようとしていたのか)
改めて、狼の賢さに感服しながら、古神殿の神託迷宮からの帰り道で、あの三人から教えてもらっていた、次の神託迷宮があるのだろう前方を銀の瞳で見つめる。
注がれた銀色の視線の先にはすでに、木漏れ日に水面を煌かせる、大きな川が姿を見せていた。
素早く駆ける狼の背から、徐々に近づく川を見下ろし、ぱちりと銀の瞳がまたたく。
「綺麗な川ですね」
思わずそう零したノルンには、澄み渡り煌きながら流れて行く水を湛えた大きな川が、とても美しいものに見えた。
小さく微笑むノルンの声を、ピンと耳を立てて聴きながらも、狼は駆ける速度を上げて行き――川の淵で大地を蹴って、空中へと飛び上がって川を越え、対面の大地へと着地する。
「お、落ちるかと思いました……少しだけ」
反射的に狼へとしがみついていたノルンは、ゆっくりと狼の首に回していた腕をほどき、ほっと安堵の吐息を零す。
「よく考えてみますと、私には足飾りの神物もあるのですから、空中から落ちても空中を移動出来るのでした」
狼の背から後ろを振り返り、飛び越えた大きな川を眺めながら、静々とそう呟いたノルンを、狼は金の瞳で見つめる。
「あ、少し驚いただけですから、大丈夫ですよ。
――先へ進みましょう」
心配気な金色の視線に、小さく微笑みながら言葉を返したノルンへ、狼はまたひと吠えして、颯爽と駆け出した。
ノルンと狼の旅路は、あっという間に一日が過ぎ、二日目の朝。
ふと、前方に冷ややかな恐ろしさを感じた刹那――狼がザッと土を散らして、急に脚を止めた。
問いかけのために開かれたノルンの口は、半ば無意識に別の言の葉を発する。
「《光》」
とたんに、ノルンのそばに出現した白く光る文字が光球へと転じ、朝の陽光に負けない輝きを放った。
白く輝く光球の下、じっと前方を見つめる銀と金の瞳の先で……木漏れ日の届かない暗がりから、ゆらり、と闇色の煙のような何かがうごめく。
(混沌の影だ……)
胸の内で呟いたノルンは、樹の陰からゆらり、ゆらり、と少しずつ数を増やしてゆく混沌の影が、小さな闇の球体を作り出す光景を見つめ、短く狼に告げる。
「走って」
次の瞬間、地面を蹴った狼とその背に乗るノルンへと、幾つもの闇色の光球が飛来した。
ザッと土を散らし、狼は駆ける。
左、右、左斜め前、右斜め前へと素早く場所を移し、風を切って飛来する脅威を回避。
その間、狼の背へ低く身を伏せたノルンは、周囲の樹の陰でうごめく混沌の影を銀色の視線で捉え、口を開く。
「《光の剣》」
神の子の言の葉に応え、白く輝いていた光球が、一瞬で数個の神の文字となり――転じて形作られた光の短剣の全てが、混沌の影へと放たれた。
《光の剣》は、闇色の球体を幾つか切り裂き、勢いよく混沌の影へと突き刺さると、その鋭い身にまとう白光で、またたく間に闇色を消し去っていく。
幸いにも、ノルンが目覚めた時に中に居た、混沌の神が創り出した神託迷宮の内部とは異なり、混沌の影からの猛攻はなく、飛び交う闇色の球体も次々と空中で消滅していった。
攻撃を避けるために駆け続けていた狼が、ようやくその脚を止めると、ノルンは狼の背に伏せていた身を起こし、長い黒髪をサラリと揺らして、後方を振り返る。
鏡のように澄んだ銀の瞳は――現れた全ての混沌の影を退け、闇色を消した森が、射し込む陽光を木漏れ日に変えて煌く、美しい光景を映した。
混沌の影との戦闘からはじまった二日目を終え、またたく間に迎えた三日目。
昼に近くなり、いっそう天で輝く陽光があたたかさを増してきた頃。
唐突に拓けた前方に、ゆっくりと脚を止めた狼の背の上から、銀の瞳が眼下の景色を映した。
「わあ。本当に、大きな街ですね」
変わらない無表情のまま、それでも高めの声音に驚きを乗せて、そう言葉を零したノルンは、小高いこの場の眼下で広がる景色に、ぱちりと銀の瞳をまたたく。
降り注ぐ陽光を受け、黄金色に照る植物が、広い大地で風にそよぐその横で――石造りの高い壁が周囲を囲う、大きな街が栄えている様子が、遠くからでも確かに見えた。
(あの黄金色の植物は、ムギかな?
……ムギって呼ばれていた食べ物が、あった気がする)
定かではない記憶をたぐりつつ、ノルンは静かに街を見つめる。
周囲を囲う壁と同じく、石造りの家々が建ち並び、鮮やかな色の大きな布が、あちらこちらにかけられた街並みは、新鮮で美しい。
その中央にそびえ建つのは、薄黄色の巨大で荘厳な、四角の建物。
「あの大きな四角の建物が――【大迷宮】かな?」
神の子の力によって、束の間の疑問はすぐに、確信へと変わった。
再び、狼が移動を再開し、森の中を駆ける。
ノルンの銀の瞳は、ただひたすらに、目的地の街と神託迷宮へ注がれていた。




