八
その晩、裕司は最初の待ち合わせの場所になった公園のベンチに座っていた。
「さすがに来ないか。今頃もう遠くに逃げただろうな」
裕司は自分の勘が外れた事に悔しさよりも笑いが込み上げた。
水の止まった噴水の前で缶コーヒーを飲んでいた背広姿の男が缶を置いて去った。
男が去っていくのを裕司は何気なく見て息を呑んだ。
噴水の前に缶コーヒーが二本並んでいた。
(駅前の広場に向かえって事か)
裕司は立ち上がり急いで駅に向かった。
駅前の広場は事件の影響か人影が少なかった。
裕司は広場の街灯の下に立った。
暫くすると背広姿の男が近づいてきて一緒に来るように案内された。
裕司は大通りの繁華街を抜けて駐車場に入り、白いワゴン車に乗った。
「久しぶりね」
車の後部座席で美佐が微笑んで話しかけた。
「この前会ったばかりだろう」
裕司は緊張した表情で美佐の隣に座った。
美佐は運転席の男に外で待つように言った。
「君は一体何をしているんだ」
裕司の表情が険しくなった。
「詳しく言わないけど、親の敵討ちってところかしらね」
「それで鈴井さんが死んだんだぞ」
「智宏もあの政治家のせいで親を亡くしたの。政治家の力で人が死ぬなんてよくある話でしょ」
黒塗りの窓の外を眺めながら語る美佐の声が微かに震えた。そして振り返って、
「あなたはどうしてここに来たの? 私に会いたかったから?」
「ああ、ずっと気になっていた。好きかどうかわからないが。でも君の話を聞いて何となくわかった。俺も君も同じだって」
冷めた口調の美佐に裕司はゆっくり答えた。美佐の冷たい表情が緩んだ。
「俺の親父は昔、殺人事件の容疑者に間違えられた。すぐに事件は解決したが、それ以来近所や親戚付き合いが悪くなって引っ越した。会社も辞めた。俺も人殺しの子供だとからかわれて嫌だった」
裕司の話を聞いて美佐は「そうだったの」と暗い表情で答えた。
「親父は出来ない肉体労働をやって体を壊して自殺した。お袋も親父の看病に疲れて自殺した。君が言うところのよくある話さ」
裕司の話に美佐は暫く黙った。
「似た者同士なのね。でも私は色々な罪を背負ったわ。政治家のせいで親が死んで水商売を転々とした挙句に政治家の愛人……どこで間違えてこんな事になったのか後悔する事も飽きたわ」
「これから君はどうするんだ」
「あの人達の手で海外に逃げる事になったの」
「そうか。君は逃げるのか……」
裕司はがっかりした。
「ねえ。私と一緒に行かない?」
美佐は裕司に訊ねた。
「えっ? 君は政治家の愛人だろう。そんな事をしたら君まで」
「その時はその時よ」
「君は何と言うか……」
裕司は美佐の提案に呆れた。
「軽い女だと思った? 私はいつも本気よ」
「それは無理だな。君ほど俺は強くないよ」
「そうなの……」
美佐はがっかりした。
「君は強くて綺麗だ。だから逃げなくても生きていけるだろう。こそこそ逃げてばかりじゃ一生惨めな思いするだけだ」
「そうね。忠告ありがとう。どうするか自分で決めるわ」
美佐が裕司の肩に手を回した。裕司も美佐の背中を軽く抱き寄せた。
「今度こそ本当にさよならね」
「ああ、さよなら」
二人は暗い車中で長い口づけを交わした。
外で車が止まる音がした。銃声がした。
「えっ! 何だ」
口づけをやめた裕司はシートの間から前を見た。
「危ない!」
サイドガラスが割れて美佐は裕司の体を押さえた後、「うっ」と叫んだ。
「おい!」
裕司は美佐の手を掴んだ。美佐の腕から血が流れた。
「あなたは逃げて!」
美佐は祐司を睨んで叫んだ。
男達が車に乗り込んで来た。
「この人を外に! 急いで車を出して。裕司さん、少し痛いけど我慢してね」
美佐は息を荒げながらも芯の通った声で言った。
割れた車窓から差し込む光で美佐の微笑んでいる顔が見えた。
「いいか。ドアを開けたらすぐにうつ伏せになれ。銃声が止むまで動くなよ」
ドアの隙間から発砲していた男が低い声で裕司に指示した。
「美佐!」
裕司は思わず名前を叫んだ。美佐は裕司を見て微笑んだ。
車体に着弾する音が止んだ。
「今だ!」
男の合図で裕司は前かがみで外に出てうつ伏せになった。
裕司の耳に二台の車が走ってそれを追う銃声が響いた。
暫くして銃声が遠のいた。
すれ違うようにパトカーのサイレンの音が近づいて来た。
(俺は助かるのか、それとも政治家の息のかかった警察に殺されるのか……)
二つの予想が裕司の脳裏によぎったが、そんな事より美佐の身が心配だった。
パトカーが止まり警官達の足音が近づいて来た。
裕司は警察に保護された。美佐は自首して鈴井と共謀して政治家を殺したと自供した。
殺人の動機となった美佐と鈴井の両親の死の究明が発端になり政治家の汚職が判明した事と状況証拠で主犯が鈴井だったという事で美佐の罪は減刑された。
美佐の愛人の政治家は事件に関与しなかったとして逮捕されなかったが、別のスキャンダルで辞職した翌日に自殺した。
こうして事件は底の見えない闇と時代の境目に埋もれて幕を引いた。