四
昼休み、裕司達は定食屋で食事をしていた。
「ああ、また見合いだよ」
「またかよ」
三ツ谷の愚痴に江夏は呆れた表情で言った。
「またお袋さんか」
「今度は親戚」
「もてる男はつらいな。いっそ決めたらどうだ」
「そうだな。本気で見合い地獄から抜け出すにはどこかで決めるしかないか」
「好きな子はいないのか」
二人の会話に裕司が入った。
「いや何だかな。出会いが無いと言うか……」
「会社の子とか」
「いや無理無理。なんか明るいだけって感じでさ」
三ツ谷の愚痴を二人で聞いていると料理が来たので三人は黙って箸を割って食事を始めた。
普段通りの振る舞いを装っていたが裕司は女との再会を楽しみにしていた。
「昨日いつもの店に行ったら、ヤクザみたいな連中がぞろぞろ入ってきて店の中を見回して出て行ったよ。」
「あの辺、事件があってから雰囲気悪くなったよな」
二人の会話が裕司の心に冷や水を浴びせた。
「木瀬も気をつけた方がいいぞ」
「ああ、行く時には気をつけるよ」
祐司は三ツ谷に笑って答えたが内心不安になった。
そして夕方。裕司は急ぎ足で会社を出た。駅に入って伝言板を見ると缶コーヒーはなくなっていた。
混雑している電車に割って入り祐司は女と別れた駅で降りた。
駅前の広場は人通りが多かった。
約束の八時まで十分時間があったので裕司は近くの喫茶店で時間を潰した。
そして辺りがすっかり暗くなってきた頃、裕司は店を出て街灯の下で待った。
午後八時、誰かが裕司の背中をつついた。
振り向くと女が立っていた。
「まさか本当に来るなんて思わなかった」
黒いジャケットを着た女は笑って言った。
「いや、暇だったから」
女に馬鹿にされた気分になり裕司は強がった。女の表情がハッと暗くなった。
「振り向かないで。この先の信号を右に曲がって高架を抜けて左に曲がると公園があるの。そこの噴水の前で待っていて。二十分後に会うわ」
女は早口で言うとそのまま駅の方へ歩いて行った。
緊迫した女の表情に裕司は従うしかないと思い、緊張した足取りで歩き始めた。
約束した公園の噴水の前に着いた。
水の止まった噴水の周りには誰もおらず、遠くから車の行き来する音だけが響いていた。
街灯が照らすベンチに腰掛けて裕司は女が来るのを待っていた。
間隔の短い足音と共に噴水の前に女が現れた。
裕司は立ち上がり「おい」と声を掛けた。女は振り向いた。
「ありがとう。ちゃんと来てくれたんだ」
「ここに行けと言ったのはあんただ。何かあったのか」
「ううん。何でもない」
明らかに嘘の笑顔を浮かべた女に裕司は思わず笑った。
「君は嘘が下手だな」
「本当よ。何でもないって」
女は少しふてくされた口調で言った。
「でも嬉しい。それで何で来たの?」
「それは……それは気になったから」
「私に気があるって事?」
「さあ、どうだか。あの電話ボックスで倒れていた君を見てから何となく気になっていたんだ」
裕司は噴水を見ながら答えた。
「それだけ?」
「ああ、それだけ。単純だろ?」
「そうね。つまらない位に単純ね」
女も水の止まった噴水を見ながら答えた。
「名前聞いていいかな?」
「えっ?」
裕司の問いに女は不意をつかれた表情をした。
「あっごめん。言いたくなかったらいいんだ」
「美佐よ。まだ言ってなかったわね」
「美佐さんか。俺は裕司、木瀬裕司」
「そう。裕司さんでいいのかな」
美佐は穏やかな口調で言った。
「ああ、いいよ」
裕司は笑って答えた。
「美佐さん、何か困っているのか?」
「えっどうして?」
美佐の表情が固くなった。
「いや、あの繁華街で事件があったから、もしかしたら巻き込まれているんじゃないかって」
「ありがとう。心配してくれて」
美佐は微笑んだ。
「でも大丈夫だから」
「そうか。それならいいが……、何でさっき『振り向かないで歩いて』って言ったんだ」
「それは……、まあ色々あってね。ごめんね、気を遣わせたわね」
美佐の曖昧な答えに裕司は不審に思ったが、それ以上は訊かなかった。
「寒いしどこか飲みに行こうか?」
「そうね。じゃあ行きつけの店があるから案内するわ」
裕司と美佐は駅の方向へ引き返して小さなバーに入った。
店の中は暗くジャズのBGMが流れていた。
二人はグラスを持って小さく乾杯した。
「今はこの近くのスナックで働いているの。今日は休んだけど」
「そうなんだ。じゃあ今度行くよ」
「来なくていいわよ。来ても忙しくて相手に出来ないし」
「そうか、でもまたゆっくり会いたいな」
「ふ~ん……あなたは軽いのか真面目なのかわからないわ」
美佐は微笑んでカクテルを口にした。
「俺、軽いのかな。自覚ないけど」
「付き合っている人いないでしょう?」
「それは……ここ何年かはそうだけど」
裕司の戸惑う顔を見て美佐はまた微笑んだ。
「真面目かも知れないけど女と話をするのは下手よね」
「随分言ってくれるなあ」
「私は思った事しか言わないわ。それで誰かと揉める事もあるけどね。でも性格だから仕方ないし」
あっけらかんと言う美佐に少し戸惑いながらも、
「そういうの羨ましいな」
裕司は水割りを飲みながら言った。
「そんな事言う人って珍しいわ」
美佐は祐司の言葉に驚いた。
「思った事を言うのは結構、勇気がいるからなあ。でも無駄に詮索するのは良くないな」
裕司がグラスを揺らして反射する氷を眺めながら言うと、
「何なのそれ。あなた面白いわね」
美佐は声に出して笑った。
それから暫く話して二人は店を出た。
「今日は楽しかったよ。ありがとう」
「私もよ。じゃあね」
裕司は美佐と次に会う約束をせずに別れた。
駅の入口に着いた時、
「よお、兄ちゃん」
裕司はビクッとした。小さく深呼吸してゆっくり振り向いた。
繁華街で声を掛けてきた強面の男だった。
「随分楽しそうだったじゃねえか」
「あなた、誰ですか?」
ニヤケ顔の男に裕司は固い表情で訊いた。
「いや、悪かった。野暮な事言ったな」
男が半分からかいながら答えた。裕司はムッとして、
「勘違いされたら困るので言っておきますが、あの人とは付き合っていませんから」
言い返すと男は意外そうな表情で、
「へえ、あんた結構言うな」
と裕司の顔を見ながら答えた。
「でも女と一緒に酒を飲むって事は、その先まで想像していたんだろう?」
「あの……何か変なドラマでも見ましたか?」
裕司は呆れた表情で言った。男はムッとして、
「そんな事はどうでもいい。いいか、あの女と関わるな」
祐司を睨んで言った。
「なぜです?」
思わず訊いた裕司は内心しまったと思った。
「あんたが知らなくていい事があるんだ。今度会ったら命の保証はしないからな」
強面の男は険しい表情で言うと立ち去った。
裕司はそれ以上言い返せず、男の後ろ姿を見ていた。
翌朝、裕司は伝言板を見たが何も置かれていなかった。
仕事の合間に昨夜の事を思い出したが、浮かれるよりも釈然としない苦味が頭の中に広がった。
(やっぱり会う約束をしないで良かった)
その日の夕方を過ぎて祐司はなぜかホッとした感じになった。
それから一週間程して伝言板を見ると上に缶コーヒーが二本並んでいた。
裕司の胸にふと不安がよぎった。
(あの男がまたいるかも知れない)
そう思いながらも裕司はその日の夕方、また待ち合わせの場所に向かった。
辺りが暗くなってきた頃、裕司は駅前の広場に立った。
「よお、また会ったな」
あの強面の男が声を掛けてきた。
「ええ、奇遇ですね」
裕司は何食わぬ顔で答えた。
「ちょっと来てくれないか」
「えっ?」
男は裕司の腕を掴んで歩き出した。
「何をするんですか!」
「あいつに会いに来たんだろ? 会わせてやるよ」
男は腕を掴んだまま繁華街に入った。
「わかりました。逃げないから手を離して下さい」
「逃げたら女を殺すからな」
男は裕司を睨むと手を離した。
(やっぱり来るんじゃなかった)
裕司は今朝の直感を信じなかった事を後悔した。
男に連れて来られた古い倉庫の中はホコリ臭かった。
男がスイッチを入れると蛍光灯が青白くついた。角の木箱に美佐が座っていた。
「裕司さん……」
美佐が小声で呟いた。
「どうしたんだ。この男に何かされたのか」
裕司は驚いて美佐に訊いた。
「違うの。この人は私のいとこなの。鈴井よ」
「えっ、いとこ?」
意外な答えに裕司はきょとんとして鈴井を見た。どう見ても強面のヤクザ風の男だった。
「でもさっき一緒に来なければ女を殺すって」
「ああ、すみません。逃げられたら困るので」
鈴井は申し訳なさそうな顔で答えた。
祐司は一瞬ホッとしたが、この状況の異常さにすぐ気がついた。
「それで、これは一体どういう事なんだ」
裕司は美佐に訊くと、
「それは俺が説明します」
鈴井が代わりに話し始めた。
美佐はある政治家と愛人関係にあり、鈴井が経営するスナックで密会していた。
その政治家が自分の命を狙われている事を知り、美佐を店の裏口から逃がして自分も逃げようと店を出た時に男達が発砲してきた。
幸いその政治家は逃げる事が出来たが、人質にしようと美佐が狙われるようになった。
「それで今は雲隠れしているのか」
裕司はため息をつきながら言った。
「政治家の周りの連中が俺達を守ってくれてはいるが、奴らに見つかるのは時間の問題だ」
「その奴らとは?」
「知らない方がいいが、そいつらの親玉も政治家だ」
「何らかの理由で政治家が対立してこの状況になったのか……」
祐司の憶測に鈴井は反応せず、
「そこでだ。あんたに美佐を守ってもらいたい」
こわばった表情で言った。
「えっ俺が?」
裕司は驚いた。
「あんたの身元は割れていないし、今なら海外にでも逃げられる」
「い、いや急に言われても」
「頼む!」
鈴井は頭を下げた。裕司は美佐を見た。美佐はうつむいていた。
「裕司さん、迷惑掛けてごめんなさい。私、やっぱりあいつに会いに行くわ」
「行ったら殺されるかも知れないんだぞ!」
鈴井は怒鳴った。倉庫の中がビリビリと響いた。
「警察……警察に行こう」
裕司が言うとすぐに、
「警察にあいつと繋がっている奴がいるかも知れないのにか」
鈴井が睨みながら答えた。裕司は黙った。
「すまん。あんたに頼む事じゃなかったな。もういい、帰ってくれ」
鈴井が落ち着きを取り戻して言った。
裕司は美佐を見た。美佐はうつむいたままだった。
「美佐さん、逃げても何もいい事はないから。でも君が本気で考えて逃げる道を選ぶならそうしたらいい」
裕司の言葉に美佐は小さくうなずいた。裕司は倉庫を出た。
「何だよ全く……」
裕司はぼやきながら繁華街を歩いた。
翌朝、いつものように改札を出て伝言板を見たが何も置かれていなかった。
昨夜の事を思い出した裕司は自分が今までやってきた習慣に苦笑した。