第38話 類は「友」になる
「フィクソン神父、おはようございます」
子どもたちの声にフィクソンは振り返り、「おはよう」と挨拶を返す。
そして元気よく走り去る少年たちから一人遅れて自分の横を通り過ぎようとした少年をフィクソンは呼び止めた。
「はい、神父様」
海を閉じ込めたようなアクアマリンの瞳に自分が映る姿にフィクソンは満足する。
「持っているそれは聖書かい?」
「はい。神父様が神様は信じる者を決して見捨てないと仰ったので、朝の掃除のあとに読もうと思っています」
「ああ、君の素直な心は本当に美しいね。瞳もとても澄んでいて……」
フィクソンの頭にあの強烈なエメラルドが浮かぶ。
途端にアクアマリンで満足していた自分が嘘のように消えて、あの威圧的に煌めくエメラルドに自分が映ったときの強烈な満足感を思い出してゾクゾクッと興奮する。
(あれがウィンソーのエメラルド)
「神父様?」
「……ああ……なにをしているんだい、みんなに置いていかれてしまったよ。朝の掃除の時間なのだろう?」
「でも……」
少年の目がフィクソンの手元をチラチラ観察しているのを見て、この子がいつも内緒で渡していた甘い飴を求めていることに気づいた。
(卑しい、ああ、女のように欲に満ちた瞳だ。このアクアマリンはもう汚れてしまった、もともと高貴さにも欠けていた……私はどうしてアクアマリンごときで父が私を認めてくれると思ったのだろう)
「みんなの元に戻りなさい」
「神父様?」
神父は少年に笑顔でそう告げると背を向け、振り向かずに自分の執務室に向かった。
執務室には誰もおらず、いつも仕事をしている机の上には朝の新聞があった。
いつもは夜に読むのだが、見出しに踊る『ウィンソー公爵家』という文字に惹かれて新聞を手に取った。
「アリエッタ次期公爵夫人がお茶会を主催……あの公子の奥方か」
(孤児院慰問の帰りに人を助けようと馬車を下りたからリッパーに襲われたんだったな、ご立派なことだ)
リッパーが死んだことで安心して社交を再開したのだろう、と大して面白くなかったためフィクソンは新聞を閉じようとしたが、
「……後継者のお披露目」
ウィンソー公爵家でお披露目される男児といえば、最近巷で話題にあがるウィンソー公子の二歳になる息子。
病気を理由に領地にいた夫人が産んだ子で、貴族は嫡子の公表に気を使うという事情を加味しても色々疑わしいとところがあると噂になっていた。
「この子もエメラルドなのだろうか……エメラルドの瞳の少年?」
フィクソンの頭にエメラルドの瞳をもつ少年が浮かんだ。
母親が店で働いている時間だけ預かって欲しいと擁護院に来ていた少年で、最初は多くの子どもと同じ淡い青色の瞳だったが数カ月前に幼い顔立ちに不似合いなほどの迫力がある煌びやかな緑色に変わった。
地面を這いずり回るよくある芋虫だと思っていたのに、それが希少な美しい蝶だったと知った瞬間は雷に打たれたような感動を味わった。
(母親が死ねばあのエメラルドが手に入ると思ったが、うまくいかなかった。あのエメラルドはどこに行ったのか……ウィンソー公子の子どもならばあのエメラルド以上に美しいかもしれない)
フィクソンは間近にみたエドワードの瞳を思い出し、恍惚とした表情を浮かべながら『後継者』の文字を撫でる。
「ウィンソーのエメラルドを継いだ子ども、若芽のようなペリドットも美しいが迫力が違う、魔眼というものがあればエメラルドの瞳に違いない」
ウィンソーだけでなくヴァルモントの血も継ぐ少年。
どれほど厳重に守られているか想像するだけでフィクソンは興奮した。
フィクソンは大人の瞳には興味がない。
大人になると純粋さを忘れ、欲深くなった瞳は美しくないからだ。
気に入った瞳が大人になるのがイヤだった。
だから子どものうちに手に入れたいと常々思っている。
「あれを手に入れれば私は父に認められるに違いない」
(こうなると分かっていたら、リッパーの自殺を真剣に止めるべきだったな……ああ、損をした)
***
フィクソンと下町を騒然とさせた『リッパー』は、娼婦だった母親が死に、同じ時期に同じ孤児院に引き取られたという過去を持っている。
(僕は十二、リッパーは二歳年上だったか?)
孤児院に来るまでのフィクソンは母親にとって都合のよい人形だった。
母親が「寂しい」と泣いたら「大好き」といって寄り添い、母親が「あんたなんて生まなければ」と怒鳴ったら「ごめんなさい」と泣いて謝る。
母親が客とのいざこざで死んだときフィクソンが感じたのは「やっと人間になれる」という喜びだったが、いざ孤児院で生活するようになると直ぐに壁にぶち当たった。
「なにそれをやるように」と指示されれば上手くできるが、「好きにやって」「適当にやって」というように『自分』が必要なことに心底困った。
いままで母親の意志で動く人形だったからだ。
自分を動かす人間がいなくなって困っているのだと理解したとき、フィクソンは人間になるのを諦めて、損得を基準に動く人形になった。
相手の表情を読んで、自分がどうすれば相手は自分に最も得な反応を返すかを考える。
(我ながら不気味な子どもだ、いかれている)
自分の異常性を俯瞰的にみて認めることはできるが、直せないと分かっていたので無駄な努力はしなかった。
(人格はそう簡単に変わらないと、アイツも分かっていただろうにな)
同じ娼婦でもリッパーの母親はリッパーを愛していた、母親としてだけでなく女としても。
体格がよく端正な顔立ちをしたリッパーは、その滲み出る幼子のような内面と相まって母性本能強めの年上の女性に好かれた。
ある日、下働きの元娼婦が孤児院の近くで殺された。
彼女は子どもたちに母親のように慕われていたため、彼女の死の知らせに泣く者は多かった。
リッパーも泣いていたし、泣くのが得だと判断したフィクソンも泣いた。
死を悼む泣き声に包まれた感動的な葬式のあと、フィクソンはリッパーに呼び出された。
―――なんで僕が彼女を殺したって言わないの?
そんなことを聞く理由がフィクソンには分からなかった。
確かにフィクソンは女性が死んだ夜に血だらけのリッパーを見た。
建物の陰や植え込みの隙間からこっそり見たとかではなく、建物の角でバッタリという風に見た。
真っ赤な血を滴らせるナイフも、返り血だらけで泣く顔もバッチリ見た。
―――そんなことを話しても僕に得はなかったから。
フィクソンは今でも命を惜しいと思ったことはないが、別に死にたがりなわけではなく、誰かのために死ぬのは損だと思っている。
だからリッパーが快楽的なもので無差別に人を殺したり、口封じするために自分を殺すようだったらフィクソンはリッパーの殺人を密告していた。
でも血に濡れたリッパーを見た瞬間、リッパーも別に自分の命に執着していないと感じた。
そして後日殺された女を知ったとき、リッパーの殺人には何かしらの動機があり、その動機および殺人対象に自分が入ることはないと思った。
そうなるとわざわざ警ら隊に「なんで」や「どうして」を説明するのは手間がかかり、それによってフィクソンが得るのは感謝ばかりでなんの得もないと感じた。
物事を損得で考えるフィクソンをリッパーは面白がり、逆にフィクソンはリッパーの殺人動機を知ってムダなことをするやつだと思った。
リッパーが殺しているのは自分の母。
母としての愛情を与えながら、女として自分に情を求めてきた醜い女。
フィクソンはそれを知ったとき、リッパーは死ぬまで女を殺し続けると思った。
リッパーは一度興味をもったものに執着した。
だから孤児院を卒院して、フィクソンが神父になっても、なんとなくフィクソンのそばにいた。
(あいつは僕があいつの模倣していることを知っていたのに何もいわなかった、まあ、言ったところで得はないからだろうが)
いつの間にか理想のために殺人も厭わなくなった自分を振り返り、
「友だちだったんだな、僕たちは」
フィクソンは友のためならムダじゃないと、友の冥福を神に祈ってみた。