35.愛妻家の熱加減
「ママ―!おばあちゃまー!」
楽しそうに庭を走り回るリチャードに、向かい合って談笑していたアリエッタとアネットは同時に少年を見る。
ピョンピョン飛んで存在を主張するリチャードに二人の笑みが深まる。
「家から出られないこの状況を窮屈に感じると思ったけれど」
「二歳の子どもにとってこの庭は十分広大、毎日新しい発見の連続です」
そう言いつつも、自室にいるとき以外は常に感じる騎士や使用人の視線にアリエッタが息苦しさを感じないわけではない。
(リッパーと思わしき男の死体が見つかった)
新聞に載っていた姿絵の男にアリエッタは何も感じなかった。
過去のことは思い出したが、事件のこと、特に自分を襲った犯人についてアリエッタはあまり覚えていない。
覚えていることといえば興奮でギラついた狂気じみた瞳。
アリエッタはそれに似た瞳をどこかで見た気がしたが、それがどこだったかも思い出せなかった。
それに……
「リッパーを模倣した者……リッパーもどき」
物証と推察が五分五分だが、ウィンソー公爵家はアリエッタを襲った者はリッパーの模倣犯の可能性があるとしてアリエッタたちを警護している。
通称「リッパーもどき」は年齢も性別もわからないため、公爵家の者は使用人も含めて外出は最低限に、アリエッタとリチャードは外出禁止となっている。
「アリエッタ、いまの段階では考えても仕方ないわよ」
「……申しわけありません」
「謝って欲しいわけじゃないの、気になることは仕方ないのだし。ただね、思い出さないことも大事なのかもしれないから」
思い出さないことが自衛手段になることは、つい最近までエドワードとのことを忘れていたのだから分かっている。
「それよりも、最近あなた宛ての手紙が増えたそうね」
「はい、おそらくリッパーの死亡記事を読んで当時の話を聞きたいという誘いだと思うのですが」
好奇心は猫をも殺すというが、家にいることが多い貴族女性にとって好奇心は抑えられない甘美なものである。
どこそこの夫が妻を裏切っているとか、仲睦まじいと評判だった婚約者たちが破談になったとか。
不幸な話ほど好む、豪奢な檻に閉じ込められた美しい鳥たちは実に悪食だ。
「ただ全体の二割ほどは不可解で、私の知る限り他人の不幸や不運を喜ばれるような方々ではない方からもお手紙を頂いております」
アリエッタがミリアムに「例のあれを」というと、ミリアムがエプロンのポケットに入れていた紙をアネットに渡した。
アネットに相談しようと思って、手紙の送り主をリストにしておいたのだが、
「あなたが丸をつけたこの方々が知りたいのは、リッパーのことではなくエドワードのことね」
「エド様のこと、ですか?」
「正確にはエドワードとあなたのこと。この方々はロマンス親衛隊ですもの」
ロマンス親衛隊、別名「推しカップルのラブラブを愛で隊」。
推しカップルごとの小隊、傾向ごとに集まった中隊、複数の隊を掛けもつ人も多いので規模も実態も不明の団体だが、
「私が推されているなんて……」
ロマンス親衛隊から手紙が来たということは誰かに推されているということで、顔も知らない誰かに自分の恋愛を見られていると思うと恥ずかしくもなった。
「お返事を返すべきでしょうか」
一方的にもらうことに慣れていないため、「せめて」と思って相談したのだが、アネットのアドバイスは意外にも「やめたほうがいい」だった。
「相手が何を推しているか分からないからね。エドワードとの夫婦生活を応援ならいいけれど、誰かとの不倫や侍女との禁断の恋とかだったら厄介だから」
予想していない組み合わせに目を白黒させるアリエッタにアネットは苦笑し、勝手に理想をもっておきながら「理想的じゃない」と激昂されることもあると説明した。
「媚びてくる人や敵意を向けてくる人はいいわ、分かりやすいもの。好意というのは一番の目眩ましね」
好意。
善良な笑顔。
アリエッタの頭にパチリと何かが散ったが、すぐに消えたためアリエッタは「何か」をつかめなかった。
「それにしても手紙も減ったわねえ、今冬は暖炉の焚き付けに困りそうだわ」
「若旦那様と懇意にしたいという愛人希望者が多かったですものね」
衝撃的な暴露に、アリエッタは取り繕うこともできずに「え?」と驚く。
「エド様と……、二人は仲が良かったのでは?」
「旦那様はご自分で思うほど演技派でないんですよ、あのひと相手では嫌悪感や軽蔑が丸出しで……若奥様が戻ったらと頑張る姿は健気でしたが」
ミリアムの言葉にアリエッタはいそいで顔を作ったが、一瞬を見逃さなかったアネットは楽しそうに笑った。
「安心できたみたいで良かったわ」
「……申しわけありません」
アリエッタの謝罪の声にアネットは笑い、アネットの意味ありげな視線を受けたミリアムが補足する。
「どんな事情であれ、愛する方の傍に女性がいたと聞けばイヤな気持ちになるのは当然です」
その女がエドワードのことを好きならなおさら。
アリエッタは頬を染め、弾んだ甘い声でエドワードを呼ぶ従姉を思い出す。
「嫉妬など、煩わしく思われないかしら」
「若旦那様は喜ぶと思いますわ。愛する女性の悋気ほど甘美なものはございません、若旦那様がお帰りになったらお話してみては?」
「だめよ、そんなことをしたらエドワードはアリエッタを自分の巣に連れて行って三日は出てこないわ」
アネットの揶揄う声にアリエッタは顔が紅くなる。
昨夜もエドワードに優しく愛され、互いの体の境界線も分からなくなるほど蕩けされた自分の体がゾクリと甘い期待を抱く。
「アリエッタたちにはまだスパイスなんて要らないわね」
息子が大切にしている義娘が見せた愛される女特有の甘い顔にアネットは満足する。
アリエッタが戻ると同時にウィンソー公爵家にはリチャードという立派な後継ができたが、公爵家の規模を権力を考えれば「早く次の子を」と望む声が自然と出てくる。
アリエッタの産んだ子はいまは王家預かりとなっているヴァルモントの姓にも関係するため、ヴァルモントの一門も「早く次の子を」と期待している。
正直に言えば、アネットもローランドも「もっと孫が欲しいな」と思っているし、夫婦だけのときにそんな会話はよくある。
そんな圧をアリエッタにかけることを許すエドワードではないが、敏いアリエッタのことだからすぐに気づくだろうとアネットは思っていたし、
(噂のことも……リチャードのお披露目までアリエッタの耳に入る可能性もゼロではない)
次期公爵夫妻が発表した子どものことは社交界のホットな話題だ。
病気を理由に結婚式をあげないことから始まり、夫人は領地で暮らしていたため一年のほとんどは別居状態。
しかも社交場で見る二人は仲睦まじいとは言えず、どう見ても公子は夫人を嫌っていた。
―――不義の子。
(そう思われるのも仕方がないけれど……妻に代わって自分が公爵家の子を産もうと企む阿呆がまだこんなにいるなんて)
アリエッタが作った手紙の送り主リストを見ながらアネットは痛む頭を抑えた。
阿呆だから何をするか分からない。
(エドワードにもっと人前で盛大に惚気けてもらいましょう)
ウィンソー公爵家の内政を仕切る公爵夫人の意向は使用人にとって守らなければいけないものだが、
(毎日のことながら慣れませんねえ)
整っているが無表情な顔が天辺についたクマのような巨体の男が、帰宅の挨拶とともに差し出す虹色のファンシーな箱。
「女性に人気の菓子店と聞いていたが、間違えたか?」
脱いだ上着を侍女に渡しながら首を傾げるエドワードは、大きなクマのぬいぐるみかと錯覚できるほど可愛らしい……これは赤子の頃からエドワードを見てきたヴィクターのひいき目でしかない。
「間違っておりません。ただ護衛をろくに連れずに街を歩くのはお止めください」
「貴族令嬢じゃあるまいし。こんな大男に狼藉を働くのはただの阿呆だろう」
「阿呆なことをしでかすから『阿呆』と言われるのです」
「一人じゃなかったのだから許せ。大勢で列に並んだら店や周囲の迷惑になるだろう?ただでさえ似合わない風体の俺が並んで営業妨害となっているのに」
演技が上手くないエドワードに真意を教えていないが、アネットの目論見通りエドワードは噂話に目がない貴族女性の的になっている。
「それについては一切問題ございません。妻のためと言って行列に自ら並ぶ若旦那様の姿は世の奥様方が『自分の夫に見習って欲しいお手本』の第一位でございます」
「なんだそれは」
「若奥様の株が急上昇ということです」
「それならいいか」
(相変わらずお可愛らしい……少々彼らには気の毒ですが)
また買ってこようと楽しそうなエドワードの後ろ、護衛騎士たちは疲れた顔をしていた。
最近彼らはいつもこんな顔で帰ってくる。
エドワードは普段は寡黙なのだが、菓子店の前に並んでいるときは周囲の視線を浴びて居心地が悪いためか口数が増える。
最初はいいのだ、仕事のこととか領地の警護とかの話だから。
しかし店内が見える位置までくると話の内容はガラリと変わり、「アリーが好きそう」「チョコレートを口の端につけていたアリーは愛らしい」と惚気る。
ひたすら惚気ける。
護衛騎士は「そうなんですね」としか言えないのだが、独り言のような惚気なのでエドワードは一向に気にしない。
結局、会計が終わるまでアリー、アリー、アリー。
主人の惚気だけでも「けっ」と悪態をつきたくなるほど甘いというのに、視界もニオイもひたすら甘い。
(特別手当の支給を検討していただこう)