32.理由
「理由を、聞いても?」
アリエッタの同意を得ずに結婚したから、離縁を申し出られるかもしれない。
ずっとそう思ってきたくせに、本当に言われるとエドワードの頭は真っ白になり、理由を問うなどありきたりな返ししかできなかった。
そんな自分の情けなさにエドワードは項垂れたくなった。
しかし項垂れた姿を見せるなんて情けなさ過ぎると、エドワードは男の矜持だけで冷静な振りをした。
(理由を聞いて、好いた男がいるとかだったらどうするんだ?バカなのか、俺は?)
脳内で理由を問うた愚かな自分をボコボコにしたが、何度バカだと罵られても「分かった」と簡単に了承したくなかった。
(心の何処かで、アリエッタはこのまま俺の妻でいてくれると思っていたんだ)
ヴァルソー商会やリチャードのことを考えれば、離縁より婚姻関係を継続させたほうが合理的だ。
(でもらアリエッタもそれを分かっていて、結婚したままを選ばなかった)
アリエッタは世間から隔離されてきたが、愚か者ではない。
幼い頃から読書家だったから知識はあるし、社交界について学び始める十三歳になると次期公爵夫人として教養と作法を身につけるために高名な家庭教師に師事している。
離縁するデメリットを理解した上での選択。
アリエッタの言葉の意味が、エドワードにずしりと圧し掛かった。
だから、
「ズルいからです」
「……え?」
エドワードはアリエッタの言葉の意味が理解できなかった。
そんなエドワードを置いてきぼりにして、
「私はこのまま結婚を続けていたいと思っておりましたわ」
「え、ちょっ……」
アリエッタの意外な告白に戸惑うエドワードをよそに、アリエッタの口は止まらない。
「私の身の安全のためにエドワード様がこの三年をムダにしたと理解しておりますのに、商会や子どものことがあるのだから結婚したままのほうが得だからって……愛する人がいても、愛人にすればいいと思って」
「……”愛する人”?」
アリエッタに愛する人がいる。
その事実にエドワードは頭を強く殴られた気がして、低い声がでてしまった。
「だから君は離縁したいと、そういうのか?」
「はい……分かっています。夫の愛人くらい笑顔で受け入れなければ公爵夫人など到底務まらないことは分かっていますが、やっぱり私は……」
「は?”夫の愛人”って……俺に、愛人?」
「……はい」
ちょっと待て。
どうしてこんな話しに?
エドワードの頭の中に『?』が乱舞する。
「誰かが、俺に愛人がいると言ったのか?」
アリエッタは沈黙でエドワードの疑問に『是』と答えた。
一方で、エドワードは身に一切覚えのない愛人疑惑に頭痛がする思いだった。
「愛人なんているわけがないだろう、俺はそんな器用なタイプじゃないぞ」
「……愛人、ではないなら……愛する方?」
「~~~だからっ!愛する人ならここ、いま目の前にいるからっ!!」
エドワードの大きな声にアリエッタはビクッと体を震わせる。
そんなアリエッタの反応にエドワードは『しまった』と体を強張らせる。
「すまない……大きな声を出すつもりはな……「”目の前”って?」……え?」
琥珀色の瞳がころっと出てきそうなほど目を瞠るアリエッタにエドワードは戸惑ったが、一拍落ち着くと自分が放った先ほどのセリフが脳内で再生される。
(俺……何を言って……)
自分が本心を吐露してしまったことが信じられなくて、エドワードは口を覆って、視線を壁のほうに向ける。
「……エドワード、様?」
沈黙に焦れたのはアリエッタのほうで、答えを急かすように呼ばれた名前にエドワードは覚悟を決める。
まあ、覚悟を決めたのだが……
「愛人なんているわけがない……俺は、この三年、君を探すのに忙しかったんだ……君を愛していたから、心配で……」
全部空振りだったけれど……と自嘲的に嗤うエドワードにアリエッタは声が出なかった。
「愛人は……いない?」
「いない」
アリエッタの疑問を叩き落とすように否定したあと、エドワードは思い切りため息をつく。
「なんで俺に愛人がいるなんて……家を留守にすることが多かったからか?仕方がないだろう、黒髪の女性を見たと聞けばそこに行って、君を探していたんだから。王都だって隅々まで探したと思ったのに……まさか酒精で色を抜いているとは思わなかったよ」
「黒髪は目立つので」と言いながら、アリエッタはいろいろと申し訳ない気持ちになる。
「すぐに見つかると思ったのに三年も……本当に無事でよかった」
「……無事、とは言えませんでしたが」
こうして再び公爵邸にくるキッカケになった腹部のキズの辺りをみながらアリエッタが呟くと、エドワードはアリエッタのいるベッドの脇で膝をつき、アリエッタの手を両手で包む。
「もっと最悪な想像をしたこともあったから……」
「……ご心配、おかけしました」
シュンッと項垂れるアリエッタに庇護欲をそそられ、エドワードはその頭をポンポンと叩いて気づく。
(……何を気安く触っているんだ?手も……俺は彼女を襲い、乱暴した男だぞ?)
アリエッタの手を包んでいた両手を離したエドワードに、温もりを失った寂しさを感じながらアリエッタがエドワードの名前を呼ぶ。
「すまない……怖い、だろう」
「怖い、ですか?」
アリエッタは、エドワードはなぜ自分を怖いというのか戸惑っていた。
(クマさんのような見た目は昔からだし……また子どもにでも泣かれたのかしら……あ、もしかしてリチャードに?)
領地の管理を任されたエドワードが、以前領地を見回っているときにクマに勘違いされて子どもに泣かれたと言っていたことをアリエッタは思い出した。
「リチャードですか?」
「え?あ……まあ、間接的にはリチャードのことと言えなくもないな」
箱入りの淑女であるアリエッタに直接的に聞き過ぎたか、とエドワードは頷く。
頷いたエドワードに「やっぱり」とアリエッタは苦笑し、リチャードの未熟な反応を申しわけなく思った。
「泣いたのはきっと慣れていないだけで……回数を重ねればきっと大丈夫になります」
「は?……え、あ……回数?」
(アリエッタは一体何を言っているんだ!?)
エドワードは顔に熱がたまるのを感じ、咄嗟に手で顔を隠す。
そんなエドワードの反応を、アリエッタは喜んでいると勘違いしたが、そこは、まあ、完全に勘違いとも言えなかったりする。
「リチャードはエド様のことが大好きです。パパと遊んだ、といつも嬉しそうに報告してくれるのですよ」
(なぜリチャードの好意の話に?いや、それは嬉しいのだが……いまリチャードの話をしていたか?)
桃色に染まっていた脳に、ポンッと笑顔のリチャードが登場する。
たちまち”パパ”にシフトした頭で、アリエッタの言葉を理解しようと努めるものの、一切答えが出てこなかった。
「ちょっと待って……」
「待ちません……嫌われているかもなんて、そんな誤解されたままではいられません」
「……嫌いじゃない?」
「もちろんですわ」
「嫌いじゃないなら……俺のこと、好き……なのか?」
「当然ではありませんか、あの子……」
アリエッタの言葉の続きは、エドワードの口の中に消える。
三年前によく交わしていた戯れのような口づけではなく、熱のこもった力強い口づけにアリエッタの脳がくらくらと揺れる。
(まるで、あの夜みたいだわ……)
言葉なく始まった口づけへの戸惑いは三年前のあの夜と変わらず、けれどもアリエッタの答えも三年前のあの夜と変わらない。
アリエッタは両腕を伸ばし、エドワードの首の後ろで交差させる。
それがキッカケとなり、。口づけの角度が変わり、その拍子にアリエッタの体が軽くひねられ、
「―――っ!!」
重なる唇から感じたアリエッタの悲鳴に、エドワードは急いで唇を離す。
そして体を折って縮こまるアリエッタにギクリと体を強張らせたが、
「……痛っ」
アリエッタが腹部を抑えて痛みを訴えたことで、何らかの拍子にキズに刺激を与えてしまったのだとエドワードは焦る。
「待っていてくれ、ハリー!すぐにアリエッタを呼んでくるから」
そういって部屋を飛び出していくエドワード。
その後ろ姿を、痛みも忘れてポカンと見送ったアリエッタは、湧きあがる笑いを堪えきれず、
「いたっ……ふふ、っ……いたたた……ふははは」
痛みか笑いか分からない涙を流した。