30.思春期
「アリエッタ様はつい最近までリチャード様をアルバート様との御子だと思っていたそうですよ」
「は?なんでだ?」
そう思う可能性が本当にあったのか?
アリエッタと何もないというのはアルバートの保身なのか?
エドワードの頭の中で考えたくないことが支離滅裂に浮かんでは消える。
「幼いうちは瞳が青色なことが多いんですよ」
「青い目……ああ、そうか」
グルグルと回っていたものがパッと消えて、金髪碧眼のアルバートが浮かぶ。
「アルバートの子を産んだとしても同意がない行為、襲われたアリエッタは被害者だ」
「理屈はそうでも関係を持ってしまった、汚れてしまったと女性は思うのです」
「汚れたなんて……そんなことで嫌ったりするわけないのに」
「それを本人に、今すぐ言うべきです、と再三言っているのですが」
母にも同じことを言われ、侍女にも同じことに言われる。
誰に相談しても自分の意見は「アリエッタを嫌いになるわけがない」で終わり、母や侍女みたいにその人にも「それを本人に言え」と言われるだろうなとエドワードは苦笑した。
(結局は自分次第、か)
「アリエッタのところに行ってくる」
「ご安心ください」
「万が一のときはアリエッタが父たちの養子に迎えられるから、だろ?」
「まあ、正解でございます。アリエッタ様が若奥様だろうとお嬢様だろうと、私たちには大した問題ではありませんから」
「俺にも安心要素をくれ」
納得いかないという顔をするエドワードにラーラはすました顔を返しつつ、内心では大笑いだった。
両片思いは第三者にとって娯楽でしかないのだ。
***
「寝ているのか……」
意を決してアリエッタの部屋に来て、ノックしても反応がないから静かに部屋に入った。
書類上は夫婦であるが夫婦ではないため、未婚のアリエッタの部屋に忍びこむことへの罪悪感はない。
最初の頃はあったが今ではすっかり麻痺して、「いつも夜に忍んできていたし」と開き直ってさえいた。
(アリエッタの香り……消毒のニオイが薄くなってきたんだな)
荒れて青白かった肌は健康的になり、髪も根本の部分は黒くて艶やかだった。
料理長たちが栄養を考えて食事を作っている効果だろう。
今までアリエッタの世話をやいていたキャロによると、アリエッタは目立つ黒髪を隠すためにアルコール度数の高い酒を使って脱色していたという。
ヴァルモントの黒髪。
アリエッタの自慢であり、亡き父とのつながりを強く感じるもの。
「俺は、自惚れてもいいのかな……こんなになっても隠れるほうを選んだことを」
ヴァルモント伯爵令嬢、アリエッタ・ラ・ヴァルモント。
父親の遺品の懐中時計を掲げて名乗り出ればすぐにでも最高の環境の中で生きて行けたのに、働かなくても母子が余裕で生活できるほどの資産があるのに。
「君が姿を隠し続けたのは、俺への想いがあるからだって」
夢のようだと思った。
夢のように舞い上がる甘い気分と、アリエッタが苦しい思いをさせた苦い思いが重なる。
アリエッタが騙されたと分かったいまでも、アリエッタが苦労した原因は自分にもあるという気持ちはぬぐえない。
しかも、苦労の末に死なせてしまうかもしれなかった。
運ばれてきたときの夥しい血の量と青白いアリエッタを思い出し、アリエッタを傷つけたリッパーと同じくらい自分が憎らしい。
アリエッタが血を流して苦しんでいるとき、自分は何をしていた?
アリエッタが寒空の下にいるとき、自分は公爵邸の温もりに包まれていた。
アリエッタが空腹に耐えているとき、自分は空腹も知らずに美味しいものを食べていた。
「自分で自分がイヤになるのに、君の言葉が嬉しくて堪らないんだ」
アリエッタはリチャードの瞳がウィンソーの翠であることを喜んでいた。
あの夜の思い出がない以上、それだけがいまここにエドワードが立っていられる唯一の理由だった。
「それなのに……俺は足ることを知らない」
あの朝、逃げずに話して欲しかった。
頼って欲しかった。
でも過去を変えられないことをエドワードはよく分かっている。
この三年、一日も欠かさずにあの夜に戻ることを願ったのに、時は戻らなかった。
(どんなに願っても、金を積んでも過去は変わらない……お金で変えられるならとっくに父さんが成功させている)
アリエッタの父であるヴァルモント伯爵セシルが事故に遭って亡くなったのは、エドワードが十三歳のときだった。
もう一人の父として慕った優しい小父さんの死はショックだったが、それ以上にショックだったのはあの強い父親が泣く姿を見たからだった。
翌日にはいつもの父親に戻っていたが、アネットは今でも当時を振り返るたびにアリエッタがいたことが唯一の救いだと言っている。
(いまなら父さんの気持ちがよく分かる)
あの日、あまりの出血量にアリエッタの死を覚悟して受けいれろというハリーに詰め寄らず、理性で恐怖を抑え込めたのはリチャードがいたからだった。
(想像もしたくないが、あの日アリエッタが……万が一のときはリチャードだけが救いだっただろうな)
家族も友人も大事だが、自ら家族になって欲しいと思ったのはアリエッタだけ。
学院時代の友人には「親に決められた政略結婚だろ」と言われたし、「政略結婚の相手に好意を持つ必要はない」とも言われたが、エドワードはアリエッタが好きだった。
友人の誰かが女の子を褒める言葉を発するたびに、エドワードの頭に浮かぶのはアリエッタだけだった。
妹に向ける親愛に近い感情。
もしかしたら、幼い頃に飼っていたうさぎのプーレスに感じた庇護欲に似た感情もあったかもしれない。
でもそんな、優しさだけでできているようなキレイな感情だけではないことに直ぐに気づいた。
三歳下の少女の成長はあっという間。
親戚に引き取られたアリエッタは、しばらく会わないうちに爽やかな色香を放つ女性になっていた。
妹のように可愛い子。
守ってあげたい大事な子。
宝物のように大事に飾っておきたい気持ちに、ドロリと仄暗い欲が混じる。
自分を映す瞳に微かに灯る熱情に対する満足感。
「私は何も知らないから」といってエドワードを頼るアリエッタへの独占欲。
まだ相手は子どもだからと抑えても、熱情は湧き続けて直ぐに溢れた。
婚約者なのだからと密やかに口づけを教え、重なった唇を離すたびに情欲で喉が渇いた。
それまでエドワードは誰にも強い欲望を感じなかった。
貴族は結婚が早いため房事を学ぶのが早く、エドワードも十五歳のときに学び、つけられた講師相手に実戦で経験を積んだ。
その後は親の目がないことをいいことに、友人とその手の店に行き、好奇心で何人かの女性と肌を重ねた。
気持ちいいと感じたし満足感もあったが、エドワードはそれだけだった。
友人たちの中には初めての相手だった講師に熱をあげたり、娼婦に夢中になって大金を貢いだりしたが、エドワードにそういう熱はなかった。
適当に戯れて肌を重ねて精を放てば生理的な衝動は直ぐにおさまり、それで満足するエドワードを友人たちは「淡白だ」と笑ったし、自分もそうなのだと思っていた。
そんな余裕にも似たものは、十八歳のとき、アリエッタと初めての口付けをしたときに木っ端微塵に吹っ飛んだ。
初めての口づけに戸惑い頬を真っ赤に染めて照れるアリエッタの姿に体が熱くなった。
その場で花を散らさずにすんだのは、偏にアリエッタへの想いの根底に「大事にしたい」という庇護欲があったに他ならない。
― アリエッタを傷つける全てのものから守る ―
少年のとき、アリエッタの両親に誓ったことが、アリエッタをエドワードの情欲から守ったのだった。
気の知れた友人に、友だちの話として悶々とする気持ちを相談したら「欲求不満だ」と笑われて娼館に行くことを薦められた。
過去に何度か娼館に通ったし、相手も仕事だしあと腐れもないから。
そんな言い訳をたんまり用意していたくせに、いざ事が終われば罪悪感で押しつぶされようになり、仕事の忙しさを理由にエドワードはアリエッタに会うのを一時期避けてしまったこともあった。
(そのぎこちなさを付け込まれたなんて……情けなさ過ぎだろ)