25.逃走
(アネット小母様も軽蔑したわよね)
エドワードと顔を合わせるのが怖くて、倒れてからアリエッタはずっと部屋に籠っていた。
ミリアムたちも事情を察して何も聞かず、黙って食事を部屋に用意してくれたし、リチャードを連れてきてくれた。
トーリも「広い部屋ですから、ここを歩くだけで十分トレーニングになります」と笑ってくれた。
(私は本当にダメね)
いつまでもこうして閉じ籠っていられないことは、アリエッタにも分かっている。
子どもがいる以上は男女のあれこれで済まず、話し合いは必要だ。
「リチャードがエドワードとの子どもかもしれない」と思えたのはつい最近のことだった。
それまでのリチャードはアルバートと同じ青い瞳で、アリエッタにとってリチャードは唯一の家族としての愛おしさと同時にエドワードへの不義の象徴だった。
アルバートの隣で目を覚ましたあの朝、アリエッタはエドワードに知られたくない思いだけで逃げることを決めた。
前の晩の盛大な夜会の名残りで使用人たちは忙しなく動き回っていたため、アリエッタは使用人の更衣室に忍び込び、侍女のお仕着せを着てヘアネットで黒髪を隠すと自分が使っている部屋に向かう。
持っていくのは両親の形見である懐中時計と数点の宝飾品。
それだけ手に持つと、アリエッタは勝手口の近くにあった侍女の誰かのコートを借りて公爵邸から抜け出した。
冬の朝は寒く、雪が降り始めた空を見上げてアリエッタは公爵邸の中庭に咲く白木蓮を思い、きっと自分は雪が降るたびにあの木を思い出すに違いないとアリエッタは思った。
公爵邸から抜け出したあとのことは何も考えていなかった。
あとから考えれば身の安全も考えずに下町に来たのだから、やけっぱちだったのだろうとアリエッタは思う。
着の身着のまま、無計画で下町にきたアリエッタが無事だったのは運が良かったに過ぎない。
寒さに耐えかねてアリエッタが入った下町のさびれた食堂は、一人の老婆がいるだけで客が一人もいなかった。
彼女の名前はキャロ。
元は貴族令嬢だったというキャロはひと目でアリエッタを貴族令嬢と見抜き、危なっかしいアリエッタに同情して食堂で働くことを条件に二階の居住スペースにある空き部屋をアリエッタに提供してくれた。
箱入りの令嬢だったアリエッタは不慣れな労働に苦労はしたが、もともと努力家な上に親に似て商才があったのだろう、食堂で働くだけでなく、客足の少ない食堂の改善までするようになった。
キャロはアリエッタの素性を問われると「遠縁のアリー」と紹介した。
かつて人気店だったキャロの店の常連は高齢の人が多く、みんながアリエッタを孫のように可愛がった。
あの日から生理がきていないと気づいたのは、食堂に再び活気が戻った頃。
アリエッタの体型がふっくらしてきたと思ったキャロが気づいた。
妊娠と聞いてアリエッタは顔を青くし、キャロはその反応から望まぬ妊娠だと察したが、妊娠してかなり時間が経ってからの堕胎は危険だと客としてきていた流れの医者に言われて産むことを決意した。
子どもに罪はない。
そうと分かっていても、どうしてこの子がエドワードとの子ではないのかとアリエッタは妊娠が分かってから何度も泣いた。
ときどき見る幸せな夢。
普段のエドワードからは想像がつかないほど強引に迫られ、嬉しさと少しの恐怖で受け入れるあの夢が本当だったらと何度も思った。
生まれた子どもは自分と同じ黒髪で、アルバートと同じ青い目をしていた。
やっぱり夢は夢でしかないなとアリエッタは儚い期待を捨て、唯一の家族となった子にリチャードと名付けて大事に育てた。
キャロも協力的で、リチャードの子守りも快く受け入れてくれた。
自分よりもよほど慣れた手つきで赤子を扱い、ときおりリチャードではない誰かをみるような哀し気な目でリチャードを見るキャロの姿に、キャロも誰かの母親なのかもしれないとアリエッタは思った。
キャロのことは、記憶が戻ったとアネットに言ったときに様子をみてきて欲しいと頼んだ。
リチャードがここにいる以上、勘のよい彼女はある程度は察しているだろうが、だからこそキチンとしなければいけないとアリエッタは思っていた。
しかし、アリエッタが頼むよりも先にエドワードが動いていたと聞いてアリエッタは驚いた。
聞けば、アリエッタが暴漢に襲われたとき、悲鳴を聞いて駆けつけた警ら隊の一人がキャロの店の常連でアリエッタの顔を知っていた。
それと同時にアリエッタが落とした懐中時計からヴァルモント伯爵家の者と判断した警ら隊の上官が、亡き伯爵の親友として有名なウィンソー公爵邸に連絡を入れた。
やがてアリエッタが亡きヴァルモント伯爵夫妻の一人娘と知られ、下町はバケツをひっくり返したような騒ぎになったらしい。
(キャロがリチャードを隠してくれなかったらもっと大騒ぎになっていたわよね)
アリエッタが刺されたことだけでも吃驚したのに、その素性を知ったキャロは黒髪の赤子の翠色の瞳に父親を直ぐに察した。
だからキャロはリチャードを連れて騒ぎの中心になった食堂を抜け出し、アリエッタが運ばれた公爵邸まで来た後、門の守衛に大胆にもエドワードを名指しして呼び出したのだった。
(これから、どうしようかしら。リチャードのことがあるし、小父様たちも優しいから『ここにいていい』と言ってくださるでしょうけれど……)
そこまで甘えるのも申しわけないとアリエッタは思う。
ただでさえアリエッタは勝手に行方不明になり、アリエッタの身の安全を考えて『結婚』してもらったことでエドワードの三年間を奪っているのだ。
「ねえ、ミリアム。子どもがいたら結婚を無効にすることは難しいわよね」
「……なぜその話になったのか、説明願えますか?」
庶民で離婚は珍しくないが、貴族の結婚は跡継ぎや政略など複雑に絡み合うため離婚するケースは少ない。
貴族が愛人を持つことが多い背景には、本妻と離縁しにくいという理由も一つあるのだ。
「あくまでもわたくしの意見ですが、離縁を申し出るのはお止めになったほうが良いかと」
「リチャードのこともあるし商会のこともあるから難しいわよね……やっぱりエド様が愛人を持つのを哀しいけれど認めないといけないのかしら」
「……そういう意味でお止めしたわけではありません」
ミリアムはこの三年間ずっと、後悔に苛まれながらもアリエッタただ一人を求めるエドワードを見てきた。
それこそ代役として立ったエリザベスが勘違いしてしまうほどに。
(まあ、あれで勘違いできる神経もすごいですけれど)
エドワードはアリエッタを演じるエリザベスにとても優しかった。
未来の公爵夫人となるアリエッタに悪感情を抱いていても見せる貴族はいないが、アリエッタがエドワードに愛されていないとなれば話は別。
将来公爵になるエドワードに媚び諂うために、彼に愛されていない妻は貴族たちの格好の攻撃対象になってしまう。
だからエドワードは代役と分かっていてもエリザベスに優しくし、人前では愛する女性として徹底的に大事にしてみせた。
それがどれほどエドワードの心の負担になったのか、夜会のあとに疲れ切って意気消沈する哀し気なエドワードをみた使用人たちはそれを痛いほど理解していた。
(見事なまでの両片思い……どちらかが勇気をだせば直ぐに解決すると思うのですけれど)