16.白木蓮
「え、……誰?」
自分の名を呼ぶアリエッタを、エリザベスは怪訝な目で見る。
アリエッタを上から下に観察し、再び上に戻ったところで、琥珀色の瞳に視線が止まった。
「もしかして………アリエッタ、なの!?」
「ええ……あ、この髪なら」
大仰なエリザベスの反応にアリエッタは戸惑ったが、髪の毛のことかもしれないと事情を説明しようとしたとき、
「あなた、なんでここにいるの?」
「なんでって……ここが家だもの」
なぜ自分の家にいることをに驚かれなければいけないのか。
「なんでと言うなら、あなたこそ……」
隣国に嫁いだと聞いていたエリザベスがなぜここにいるのか。
先ほどエドワードは客の対応があると言ったが、その客がエリザベスだったのだろうか。
アリエッタが首を傾げている間に周囲が賑やかになる。
ウィンソー公爵家の護衛の騎士たちが続々と庭に集まり、遅れたことを謝罪し、エドワードとアリエッタを庇うように守りの体制に入ったからだ。
「彼女を黒ダリヤの間へ。侵入者はさっさと追い出すべきだが、動機や侵入ルートを問う必要がある」
「はっ 」
短い返事で応えた騎士たちは素早くエリザベスの両脇に立ち、そのまま連行しようとするのを止めたのはアリエッタだった。
「待ってください、どうしてエリザベスがここに?」
アリエッタの質問は当然だったが、エドワードはそれに答えず視線を外した。
その後ろめたい態度にアリエッタは混乱し、二人の様子は騎士を戸惑わせて油断を招いた。
「アリエッタ!」
連行しようとした騎士の手が緩んだすきに、エリザベスはアリエッタに駆け寄る。
「無事でよかった、会いたかったわ」
「……『無事』?」
「あなたったら本当にどうしたの?三年も行方不明だったんだもの、こうして無事な姿を喜ぶのは当然でしょう?」
「三年?行方不明?」
アリエッタの戸惑いに、エリザベスはアリエッタが何も知らないことに気づいた。
「モードレー嬢!」
ムチのようにしなる声で自分を制止させようとするエドワードに、エリザベスは勝ち誇った笑みを向ける。
失いたくないものがあるエドワードとは違う。
何もないから、なんでもできる。
「あなたったら、結婚を発表した夜に行方不明になるのだもの。何かあったのでしょう?」
「……エリザベス?」
「あなたが逃げ出すほどつらいことがあったのでしょう?」
行方不明。
結婚を発表した夜。
(……逃げた?何から?)
「きゃあっ!」
すぐ側で上がった悲鳴にハッと顔を向けると、金髪の騎士がエリザベスを拘束していた。
「離して!」
力づくで抑え込もうとする男に抗って揺れる長い黒髪。
騎士たちやエドワードの声は聞こえるのに、いまのアリエッタには厚い氷の向こうでの騒ぎのようだった。
「みっともない髪型……野垂れ死んではいなかったけれど、それに近くはあったみたいね」
「三年間行方不明なら、私がエドワード様の妻というのは嘘?」
それならあの子どもは?
ヴァルモントの黒とウィンソーの翠をもつ、二歳の少年は誰の子どもなのか。
アリエッタはハッとして、エリザベスの黒髪とエドワードの翠の瞳を交互に見る。
「もしかしてリチャードはあなた……「違う!」」
エドワードの怒鳴る声にアリエッタはビクッと震えて口を閉ざしたが、視線はエリザベスから離さなかった。
それが更に疑問を深める。
「リチャード?誰それ、知らないわ」
全く心当たりがないようなエリザベスに、リチャードがエリザベスが産んだ子ではないかという仮定が崩れる。
(それならリチャードは私の子?)
「やっぱり私がエドワード様と結婚……」
「アリエッタ・ラ・ヴァルモントがエドワード・ラ・ウィンソーと結婚したのは事実だけど、あなたが『アリエッタ』ではないの。『アリエッタ』はこの私」
爵位の継承。
商会の安泰。
エドワード・ラ・ウィンソーとアリエッタ・ラ・ヴァルモントの結婚は必要不可欠だった。
「あなたがいない三年間、エドワード様の妻だったのはこの私。そして、私をアリエッタにと望んだのはエドワード様よ」
エリザベスの言葉の真偽を確認するため、アリエッタはエドワードに目を向けた。
カチリと視線があうと同時に、ギクッと体を震わせてエドワードは目を逸らした。
その態度に、エリザベスの言っていることは本当だとアリエッタは悟る。
「……本当なのですね」
『アリエッタ』はアリエッタではない。
エリザベスもアリエッタと同じヴァルモントの黒を持っていても、従姉妹だから似ているといっても違いがわからないほどではない。
つまりエドワードも、エドワードの両親も、ノラやミリアムも『アリエッタ』がアリエッタでないこと、エリザベスであることを知っていた。
(全てが、嘘?)
アリエッタは突然この世界に独りきりになった気がした。
「戻ってこなければ良かったのに」
エリザベスの声がアリエッタの心に楔を打つ。
優しかった従姉妹はもういないと理解できるほど深く。
「どうして戻ってきたの?お金や爵位が惜しくなったの?あんなことがあったのに?」
「何を言って……」
エリザベスは何を言っているのかと思ったとき、アリエッタは頭の奥でガラスが割れるような音がした。
反射的だった。
隣りにいたエドワードを見たのは。
目があった瞬間、エドワードはギクリと体を強張らせて、アリエッタの肩に触れていた手を離した。
エドワードの温もりを失うと同時に、パキパキという音が響き始める。
「…………ないで」
請うように涙を流すアリエッタに、エリザベスはアハハハと蔑むような笑い声をあげる。
「傑作だわ、アリエッタはエドワード様にあのことを言わずに『妻』と名乗っているのね。なんて滑稽なのかしら、エドワード様は全てご存知なの……」
「嘘よ!」
アリエッタの口から否定する言葉が飛び出たが、それこそ嘘だと分かっていた。
(ああ、思い出した……私はあの夜……)
「リチャード……私のリッチー……」
生まれたときのリチャードがアリエッタの頭に浮かぶ。
父や自分と同じ黒い髪。
ヴァルモントの黒を持つ自分の唯一の家族。
その目が青だと知っても、悲しさや『やっぱり』と諦めの気持ちがあったけれど、リチャードへの愛しさは変わらなかった。
青い瞳が緑がかってきたことに気づいたのは、いつだったか。
「ウィンソーの翠色……エド様、私は本当に嬉しかったのです」
あの夜、エドワードとの結婚が発表された祝福の夜の幸せが戻ってきた気がした。
現実から逃げるように毎夜見ていた夢は本当のことだったから。
(それなのに……私はなぜあのようなことを……)
まだ明け方の、仄暗いベッド。
ぼんやりとしながら横たわる姿勢を変えようとして、筋肉痛に似た未知の痛みに襲われると同時に自分が何も身に着けていないことに気づいた。
なぜこんなことになったのかはアリエッタにも分からなかった。
急に体が火照り出し、誰かが自分の代わりに体を動かしているような違和感は、自分のものではない熱さに触れた瞬間に消えた。
― アリエッタ ―
あの仄暗い朝、自分を呼んだ男性の声。
記憶がどっとアリエッタの頭の中に蘇り、その衝撃にアリエッタの喉が締まり、ヒュッと音を立てて息が詰まった。
その衝撃に頭が揺れて、ぐらりと姿勢が崩れる。
倒れると思うと同時に、視界一杯に広がったマグノリア。
大きな白い花は、あの朝降っていた雪のようで……
「アリエッタ!!」
防御もせずに後ろに倒れる体を支えたエドワードを、そのエメラルドのような瞳に浮かんだ心配以外の感情にアリエッタはエリザベスが嘘をついていないことを知る。
(全てご存知なのだわ)
様々な感情がせめぎ合い、呼吸さえも上手くできない喉から処理しきれない感情が迸る。
「いやああああああ!!」
絹を引き裂くような悲鳴を最後に、アリエッタはそのまま気を失った。
2023年9月23日 全体的に修正しました(話の流れに変化なし)。