初恋
※この作品は前後編の予定でした。→前中後編の予定になります。
『大和撫子』という言葉がある。
この言葉には二通りの意味があり、一つは『河原撫子』というナデシコ科の多年草の異名なのだという。
そしてもう一つは、清楚で美しく、お淑やかな日本人女性を指す際に使われる。
一般的には後者の意味で知れ渡っているが、今となっては絶滅危惧種であり、ほとんどファンタジーと言ってもいい存在だ。
恐らくお嬢様学校などには存在しているのかもしれないが、少なくとも普通の学校に通う生徒がお目にかかることはないだろう。
そう思っていたからこそ、初めて彼女を見たとき――僕は我が目を疑い、そして強い衝撃を受けた。
放課後、彼女は学校から少し離れたところにある図書館で読書をしていることが多い。
今どきの高校生がわざわざ校外の図書館を利用することなどほとんどないため、このことを知るのは恐らく僕くらいのものだろう。
(神宮司さん、今日も綺麗だなぁ……)
彼女の名前は神宮司 桜さん。
僕と同じ学校に通う、高校一年生の女の子だ。
この名前を聞いてピンときた人は、恐らく高確率で中年以上の年齢だと思う。
何故ならば、彼女の名前は僕が生まれる前に発売されたとあるゲームのヒロインにソックリなのだ。
当時はかなりの人気作品だったらしく、ゲーマーであれば一度は聞いたことがあるというくらい知名度が高かったらしい。
そんな時代のゲームを何故知っているのかというと、単純に僕のやっているゲームアプリでコラボしていたことがあったからだ。
だからといって、一々名前を憶えているような若者は僕のようなオタクくらいのもので、クラスメートは誰一人ピンときた様子はなかった。
唯一反応していたのは、担任の江原先生くらいだろう。
僕は単純なので、それだけでなんとなく江原先生のことを少し気に入ってしまった。
僕が初めて神宮司さんを見たのは、入学式の日の校舎裏だった。
ウチの学校はほとんどの生徒が電車通学のため正門を利用するのが普通だが、僕のような少数の地元民は裏門を利用することが多い。
だから人通りはほとんどなく、あの日も周囲には神宮司さんくらいしか生徒はいなかった……と思う。
確信がないのは、僕の目に彼女以外の姿が映らなかったからである。
校舎裏には、一本だけしだれ桜が植えられている。
神宮司さんは、その満開のしだれ桜を見上げながら、とても穏やかな表情を浮かべていた。
それを見た僕は―――その瞬間、恋に落ちた。
完全に一目惚れというヤツである。
それも恐らく、初恋だ。
今までも、女子に好意を持ったこと自体はある。
でもそれは、漠然とただ可愛いなぁと思っていただけで、恋とまで呼べるものではなかった。
本当の恋を知った今だからこそ、ハッキリと断言できる。
あの日、頭と心臓に強いショックを受けた僕は、頭の中が彼女のことでいっぱいになり、入学式どころの話ではなかった。
はっきり言って、先生方が何を喋ったかなど、何一つとして憶えていない。
一目惚れした瞬間以降の記憶は……、教室で再び彼女を見た瞬間まで完全に飛んでしまっている。
神宮司さんのことを一言で形容するとしたら、『大和撫子』以外ないだろう。
その上品で美しい顔立ちは彫りも深くなく鼻も決して高くはないが、良い意味で日本人らしく、表情は常に穏やかだ。
肩甲骨の辺りまで伸ばされた黒髪もまた美しく、まるでシャンプーなどのCMで採用されるモデルの髪のように、ツヤツヤとした光沢を放っている。
神宮司さんの名前にソックリなキャラも、少なくとも見た目については『大和撫子』系キャラと言われている。
もしかしたら、彼女のご両親もそれを意識して名前を付け、そうなるように育てたのかもしれないが、こればかりは僕の想像でしかないので実際のところはわからない。
ただ、どんな理由にせよ僕は彼女の両親に感謝するしかなかった。
僕がこうして日々目の保養ができているのも、彼女の両親のお陰なのだから。
(……ん?)
いつものように神宮司さんを観察していると、彼女はいつになく急いだ様子で荷物をカバンにしまい始めた。
時刻はまだ17時前。
神宮司さんは普段閉館時間間際まで図書館にいるので、帰るのであればいつもより1時間ほど早い時間だ。
結局神宮司さんは、そのまま図書館から出て行ってしまった。
そうなると僕も長居する理由はないため、早々に目的の本を借りて立ち去ることにする。
席を立ち、先程まで神宮司さんが座っていた席の横を通り過ぎる際、机の下に何かが落ちていることに気付く。
(これは……、ワイヤレスイヤホン?)
パッと見では何かわからなかったが、しゃがんで確認すると僅かに音が漏れていたためすぐにそれがイヤホンだと気づく。
近くには他に誰も座っていないし、恐らくは神宮司さんの所有物だと思われる。
そして音が出ているということは、まだ接続が切れていないということでもあった。
つまり、神宮司さんはまだ遠くには行っていないということだ。
(どうしよう……)
拾って追いかけるのが一番かもしれないが、そうすると僕が見ていたことがバレる可能性があり、もしかしたら気持ち悪がられる恐れがある。
かといって放置するのは、何となくだけどもっとダメな気がする。
もしかしたら、僕のように神宮司さんのことを見ていた誰かが盗む可能性があるからだ。
そうなるくらいなら、いっそ僕が……って、僕にはそんな変態的趣味はない。
……まあ、ストーカーまがいのことをしている僕が言ったところで、なんの説得力もないとは思うけど。
自虐的なことを考えたせいか、少し頭が冷静になってきた。
この手のワイヤレスイヤホンは、確か落としたりした際アプリで追跡可能だったハズ。
つまり、もし盗んだりしたら、あとでバレる可能性が高いということだ。
そうなると途端にリスクが高くなるため、盗まれる心配自体はあまりないのかもしれない。
だから、特に触れずに放置するのが正解な気がする。
ただ……
(神宮司さんがどんな音楽を聴いてるのか、やっぱり気になるよね……)
僕自身それなりに音楽を聴くタイプなので、他人が聴いている音楽には興味がある。
それがあの神宮司さんの聴いている音楽となれば、気にならないワケがない。
僕はほとんど迷うことなく、ワイヤレスイヤホンを拾って耳にあてがう。
『ッ!!!!!!!!!!!』
その瞬間、激しいメロディとシャウトが僕の鼓膜を振動させる。
何となくクラシックやヒーリングサウンドのようなものを予測していたので、心の準備がまるでできていなかった。
この音楽は、もしかして――
「あの……」
「っ!?」
後ろからかかった声に慌てて振り返ると、そこには神宮司さんが困ったような顔をして立っていた。
「こ、これは! その! ……すいませんでした!」
僕は慌ててワイヤレスイヤホンを取り外し、神宮司さんに差し出す。
神宮司さんはそれを受け取りつつ、しばし黙ったまま僕を見つめた。
その沈黙に、僕の精神がガリガリと削られていく。
このまま沈黙が続けば、僕は気を失ってしまうかもしれない……
「鳴神君、これ聴いてたよね?」
「っ!? ぼ、僕のこと、知ってるの!?」
「それは、クラスメートなんだから当然でしょう?」
「い、いや、当然じゃないよ。僕、影薄いから、未だに出席番号前後の人にしか覚えられていないし……」
自慢することではないが、僕は自分の影の薄さに関しては自信がある。
クラスメートに最後まで名前を覚えられなかったなんてことが、過去に何度もあったからだ。
「そう? 私はいつもこの図書館で見てるから、多分クラスで一番印象に残ってるよ?」
「ええぇ!? き、気づいてたの!?」
「気づくも何も、こんな図書館を利用するのは私と鳴神君くらいだから、目に入らない方がおかしいでしょ?」
それはそうかもしれないけど、僕は自分の影の薄さを過信していたので気づかれているとは思いもしなかった。
ということは、僕がストーカーまがいのことをしているのも、バレて――
「それより、この曲聴いたんでしょ? ……どう思った?」
幸いにも、神宮司さんは僕のストーカー行為について気にしている様子はない。
そんなことよりも、僕にワイヤレスイヤホンから流れる曲を聴かれたことの方が気になるようだ。
「えっと、良い曲だと、思ったよ?」
「……本当に?」
神宮司さんは僕の言葉が信じられないのか、怪訝そうな顔で確認してくる。
確かに神宮司さんがこんな曲を聴いていたことには驚いたが、今の僕に嘘をつく余裕などないので、これは紛れもなく本心である。
「うん、こういう曲って、ハードロックっていうんだよね? この曲は知らないけど、ハードロック自体は僕も結構聴くから……」
「っ!? 本当に!?」
同じ言葉なのに、今度は明らかに食いつきが違った。
初めて見た神宮司さんの反応に、心臓がバクバクと高鳴る。
「う、うん、あまりバンドとか詳しくはないんだけど、僕のやっているリズムゲームにハードロックのバンドがあって……」
「それって、もしかしてBanGaL!?」
「えっ!? そ、そうだけど、神宮司さんBanGal知ってるの!?」
BanGalとは、バンドガールズというアニメを原作としたリズムゲームだ。
その名の通り、少女達のバンド活動を描く作品で、作中には複数のガールズバンドが登場する。
僕はこのゲームを長年やり込んでおり、実はスコアを競うランキングでは上位をキープしているトップランカーだったりする。
「ええ! 私もやっているもの! それでそれで、鳴神君はどのバンド推しなの!?」
さっきから神宮司さんの距離がどんどん近付いており、凄まじい圧力を感じる。
美人のドアップが、こんなにも迫力があるものとは知らなかった……
それに、神宮司さんは普段ほとんど喋ることがないので、今とのイメージ差で頭がバグりそうになっている。
「え、えっと、僕はその、『Rosário』と『Raise My Sword』が――」
「~っ♪ 私も! どっちも大好き!」
「っ!」
至近距離から放たれる「大好き」の破壊力に、一瞬意識を持っていかれそうになった。
自分のことじゃないとわかっていても、美少女の「大好き」は強烈過ぎる……
「でも、成程ね。それなら鳴神君の反応にも納得がいくわ」
「それは、どういう……?」
「普通の人はね、私みたいな子があんな音楽を聴いてると知ると、ドン引きして苦笑いを浮かべるものなのよ」
「……あ~、確かに、普段の神宮司さんからは想像がつかない、かもね」
僕だって正直驚いたから、そういう反応をしてしまうのも理解はできる。
ハードロックはかなり激しい曲が多いため、『大和撫子』である神宮司さんとはイメージ的に全く結びつかない。
「そう、一番の理由はそこだと思うんだけど、私はそれだけじゃないと思っている」
「え……? それだけじゃ、ない……?」
正直、僕にはそれ以外の理由が思い浮かばなかった。
「ええ、理由は――っと、ここで盛り上がるのは迷惑がかかるし、場所を変えましょうか。 鳴神君はまだ図書館に用事ある?」
「いや、僕ももう帰ろうかと……」
「ふふっ、だと思った♪」
その反応に、僕は思わず目を逸らしてしまった。
もしかしたら神宮司さんには、何もかも見透かされていたのかもしれない……
◇
場所を近くの公園のベンチに移し、神宮司さんは特に前置きもせず先程の会話を再開する。
「一般的に、ロックは廃れたと言われているわ」
「そうなの?」
「まあ、完全に無くなったワケじゃないけど、昔に比べれば明らかに減ったのは間違いない。それは今の歌番組とかを見ればわかるでしょ?」
「僕、あんまり普通の歌って聴かないから……。でも、言われてみればラップとかアイドルの歌が多いような気はする……かも」
僕は普段アニソンやゲームソングしか聴かないが、店やCMで耳にするのはバラードやラップ、それにアイドルグループの歌が多い気がする。
「その印象で間違っていないわ。実際、今でも人気のあるロックバンドは80年代後半から90年代に結成されたものが多く、2000年代から数を少しずつ減らしていき、最近結成したバンドに至ってはほんの一握りしかメジャーシーンでは活躍できていないの」
そう言われてみると、僕が知っているレベルだとロックバンドと認識している最近のバンドはギリギリ五つ思い浮かぶ程度だ。
あとは、昔から存在する超有名人気バンドくらいしか知らない……気がする。
「その中でもハードロックと呼べるバンドはさらに限られていて、そのほとんどが古参のヴィジュアル系バンドになると思う」
「ヴィジュアル系って、ハードロックなの?」
「一緒にすると嫌がる人もいるけど、分類的にはそれ以外ないと思わない? だって、あの見た目と音楽性でハードじゃないなんて言えないでしょう?」
「それは、確かに……」
僕がBanGalで推している『Rosário』と『Raise My Sword』はハードロック寄りのバンドと言われているが、どちらもヴィジュアル系的な要素が随所に見受けられる。
厳密には違うのかもしれないが、製作側は年配の方が多いだろうから影響を受けている可能性は大いにあると思う。
「そもそもな話、ロックって昔から人によっては騒音だと思われることもあったくらいで、ある程度素養がある人じゃないと受け入れられない傾向にあるの」
「素養……」
「素養っていうのはつまり、音楽の好みのことよ。これは基本的には幼少時の環境に影響されやすいのだけど、とある研究では「人の音楽の好みは13歳から14歳くらいの頃に聴いていた曲により形成されやすい」と明らかになっているの。つまり、今のメジャーシーンにおける音楽を中心に聴いている若者には、ロックの素養は得られにくくなっているということね」
「……それってもしかして、僕には逆に素養があるって言いたいの?」
「私はそうじゃないかなって予測している。これって別に偏見とかではないのだけど、鳴神君って一般の歌謡曲よりアニソンやゲームソングが好きだったりしない?」
「っ!」
僕は少しの後ろめたさからハッキリと口にはしなかったのだけど、完全に図星である。
一般的にアニソンやゲーソンはオタク的趣味なので、他人の口からそう言われるとやはりどうしても抵抗を感じてしまう。
だから思春期の男女は、それを隠すためにカモフラージュで他の音楽も嗜むものなのだが、不器用な僕にはそんな保険を用意できていない。
「……うん。僕は昔から、アニソンやゲーソンばかり聴いてるよ」
だからこそ、僕は正直に答えざるを得なかった。
恐らく普通の女子であれば、僕のことを「キモイ」と思うに違いない。
でも、もしかしたら神宮司さんであれば……
「やっぱり! 鳴神君、アナタきっと、ハードロックを嗜む素養があるわ!」
「っ!? ちょ、ちょっと待って! それが理解できなかったんだけど、なんでアニソンやゲーソンばかり聴いている僕に、その素養が?」
「フフッ……、実はね? さっきロックは衰退したと言ったけど、その血はアニソンやゲームミュージックにも流れているの」
「そうなの!?」
「まあ、源流がそうだと確証があるワケじゃないけどね。でも、今ゲームやアニメを作っている人達って私達より上の世代がほとんどだから、影響を受けているのは間違いないわ。聴く人が聴けば、ラウド系のリフとかが多用されているのはすぐにわかるもの」
ラウド系のリフというのはよくわからないが、言われてみればアニソンやゲームミュージックにはロック調の曲が多い気がする。
やはりバトルの存在するアニメやゲームにはアップテンポの曲が合うため、ロックとは親和性が高いのかもしれない。
「だから、アニソンやゲーソンが好きな人は、ロックを好きになる素養がある可能性が高いの。私、鳴神君が『Rosário』や『Raise My Sword』を好きって聞いて、正直期待しちゃってる」
「っ!」
そう言って神宮司さんは、僕の手に手を重ね、潤んだ目で僕を見つめてくる。
そのあまりの破壊力に、僕の心臓は警報のように高鳴った。
「鳴神君……、このあと、時間ある? 少し付き合って欲しいの」
――だから、たとえどんな用事があろうとも、僕にそれを断ることなんてできるワケがなかった……