2-18、夜の浜辺、月夜の白波
宴もいつしか終わり、各自は部屋に戻って布団に大の字になって寝ていた。
前原は楽しすぎて興奮が冷めやらないのか寝付けず、サンダルを履き、夜の浜辺へひとりで宿から向かった。
月明かりが、碧い海を濃紺の海に変えている。波間に揺らめく月の白が、濃紺の海にふわりと浮かぶ。ほわぁと輝く月虹は、丸い満月を囲って、白い砂浜を歩く前原を照らしていた。
さしゅ さしゅ さしゅ さしゅ
砂を踏む感触に続いて、足元は心地よい音を立てる。
月夜に歩く砂浜は、波の音を受け止めては優しく返し、また受け止めては優しく返す。
前原はふと空を見上げると、そこには満天の星空が拡がり、月虹を纏ってより一層光り輝く満月が浮かんでいる。その美しく幻想的な光景に、見とれていた。こういう夜の楽しみ方も、あるんだなぁと。
さく さく さく さく
「・・・・・・ん?」
波音に包まれ佇む前原の横へ、小さく響く足音が。
月に見とれていたためか、前原は人が近づくのも気づかなかった。
「前原センパァイッ・・・・・・こぉんな時間に、お散歩ですかぁっ? くすくすっ」
浜辺に現れたのはどうやら小笹らしい。月明かりに照らされた白い肌で、美鈴ではないと前原は確信した。
「す、末永さん! なに? やっぱり眠れなくて、起きてたの?」
「くすっ。そぉかもねッ。ワタシにとってここは、やっぱり生まれ育った故郷なの。栃木も、好きですよ? でもワタシは、おばーちゃんや美鈴のいるここがね、やっぱり、居心地良くて・・・・・・」
「そうなんだね。今日は、空港で泣いてたりもしたし、やっぱりその、感極まった?」
「・・・・・・あはは。当たり前じゃないですかぁ、前原センパァイ。多分ね、みなさんがインターハイ終わって栃木に帰ると、似たような感傷に浸りますよ、たぶんネ?」
「そうかなぁ? 僕はそんな感じにならないと思うけど・・・・・・。どうなんだろう」
「ドライですねぇ、前原センパイは。ま、いーですよぉっ。・・・・・・でも、前原センパイって、変な気遣いせず、思うままのこと言ってくれるんですね? なんか、変に固い時もあるケドさ」
「そ、そうかなぁ? 僕は普通に生きてるだけだし、これが僕の普通なもので・・・・・・」
「くすっ。面白いなぁっ。・・・・・・ねぇ。そこに、砂の上に転がってる丸太、見えますぅ?」
小笹が指差す先には、月明かりに映し出された黒い一本の丸太が砂浜に横たわっていた。
「ん? あ、あぁ、それか。ずいぶん大きな丸太だね? 古くから埋まってそうだけど」
「これね、ワタシが小さいころから、自主トレに使ってるモノなんですよぉ。センパイ、見てて?」
そう言うと、小笹はサンダルを脱ぎ、白砂にぼうっと浮かぶ丸太に飛び乗った。
そして、月光をバックに、丸太の上で剛道流最高峰の形「壱百零八歩」を演武する。
前原は、月夜に照らされた小笹の演武を、心から惹かれて見とれてしまった。そしてこう思った。
何かこの場面に合うクラシック曲があった気がする。そうだ、曲名は『月の光』。それがBGMで流れそうな、そんな雰囲気だ。丸太の上で形を打つ小笹の姿は、どこか嬉しそうで、どこか儚そう。彼女が醸し出すその不思議な気に、完全に惹かれてしまっていた。
「・・・・・・ふぅっ。どーぉ? これも、いい鍛錬具になるでしょぉ?」
「・・・・・・すごかった! 僕もやってみていいかな? 丸太に乗ればいいの?」
「なめないでよぉ、前原センパイ。丸太の上では、足底の細かな筋肉もコントロールして、自分の重心や体軸をブラさないようにしなきゃぁ、だめよぉ? じゃ、サンダル脱いでネ」
「うわわっ、と。・・・・・・たしかに、難しいね! こんなことをずーっと、こっちで繰り返して育ってきたの?」
「こういう地味な稽古はネ、おばーちゃんもそうだけどぉ、お父さんが良く『やれ』って言ってたのぉ。丸太とか、漁船とか、砂浜とか、とにかく不安定なところで安定を創れ、って」
「末永さんのお父さん、たしか、海の事故で・・・・・・。でも、いろいろ考えてくれたんだね?」
「今思うとそう。でもね、ワタシ、お父さんが亡くなる前かな? 小学五年くらいだったと思う。その頃ね、よく、そういうお父さんがもう嫌で・・・・・・。謝りたいけど、もう、いないんもんなぁッ」
「なにが、嫌だったの?」
白い砂浜に佇む前原。その白砂に小さく座って膝を抱える小笹。
月の碧い光が二人を緩やかに包む。
「ワタシはさ、おばーちゃんも師範だし、お父さんも剛道流五段の師範代だったの。空手やるのが普通だと思ってたの。空手やって、それで進学して、ずっとずーっと空手をバックボーンにして人生築いてって、ネ・・・・・・」
「末永さんは学年ひとつ下だけど、僕は、とんでもない力を持っててスゴイと思うよ? 空手がバックボーンなんて、羨ましいと思うけど」
ふるふると、小笹は首を横に振った。
「ワタシ、空手は好きなの。でもね、やっぱり、学校の同級生とかが普通に話していることにもついていけなかったし、空手中心の人生が、早々と嫌になった時期もあった」
「そうだったんだ・・・・・・」
「お父さんがとにかく、空手中心で物事を言ってくることも多かったし。ある時、ワタシが『お父さんなんてワタシより空手が大事なんでしょ!』って怒鳴っちゃってネ。お母さんがフォローして、なんかそのあとモメてたけど、それがね、ちょうど、今日と同じ月の夜でね。・・・・・・思い出しちゃった」
膝を抱え、次第に肩を震わせる小笹。前原は、「こう言う時、どうしてあげたらいいのかわからないな」と歯痒そう。
その時、きらりと、小笹の目尻から月光で輝く雫が一粒、こぼれ落ちた。
「でも、お父さんもさ、末永さんのことを思うがゆえのことじゃなかったんかな?」
「ワタシを・・・・・・」
「あ・・・・・・」
「失敗した」と前原は思った。自分で口走ってからすぐにこれはわかった。言ってはだめだった、と。
「だったら! ・・・・・・だったら、ワタシの気持ちもっと汲んでくれても良かったじゃないですか! しかも、お父さんと言いあって、お母さんともモメた次の日にね、漁船が時化に見舞われ、亡くなっちゃったんです。・・・・・・当時は嫌だった。本当に。でもね、ワタシには一人だけの、たった一人のお父さん。それがプツっと、いなくなっちゃった。悲しかった。とにかく、悲しかったぁッ!」
泣いている。目の前で、ではない。見た感じ、でもない。心で小笹は、大泣きをしている。
前原は、小笹の口調と、時折震える声に、それを強く感じていた。
「・・・・・・こうして、夜の海を見てると、お父さんが帰ってくるんじゃないかと思って。ワタシが空手うまくなると、お父さんは喜んだ。お父さんは、ワタシの成長が誇らしかったんだって。だから、ワタシはもっと強くならなきゃって、空手に没頭したの」
「だから末永さんは、その年齢でそこまでのレベルに・・・・・・」
「でも、強いだけじゃだめなのも、気づかされた。難しいですねぇ、人生ってさ。・・・・・・前原センパイ、わかってくれますか?」
前原は心の中で「正直、僕なんかの人生経験値じゃ、末永さんの壮絶な人生の前では何も言えない」と感じていた。でも、そんなことを気にせず、前原は月明かりに照らされた中でこう告げた。
「正直、末永さんぐらいにいろいろ大変なことを経験していないから、僕にはわからないよ。でも、末永さんの真っすぐな思いで空手に打ち込んできた時間は、絶対に無駄じゃないと思う。僕には、わからないことが多すぎるんだけど・・・・・・」
「・・・・・・くすっ。ほんと正直ですねぇ。でも、いいと思います。変に気を使われたり、変に同調されるくらいなら、そのくらいスパっと言ってもらった方が、ワタシもいいです」
そう言って、小笹は濃紺の海を見つめながら、ゆっくりと立ちあがった。
「前原センパイは・・・・・・どうして、空手をやっているんですかぁ?」
「え? ・・・・・・それは・・・・・・」
小笹は、澱み無き眼で、前原へ問いかける。引いては寄せる夜の波の音が、幾度も繰り返す。
足元にあった、名も知らぬ貝殻を前原は拾い上げた。
「僕は、ね・・・・・・。小さい頃、ものすごいヤンチャないじめっ子に・・・・・・いじめられていたんだ」
そう言って前原は、貝殻を月に向かって思い切り投げた。
「へぇぇ。前原センパイ程の人を、いじめた人がいるのぉ!」
「もちろん、今の僕じゃないよ。ずっとずっと昔の・・・・・・小さくて非力な僕を、ね」
「ふぅん・・・・・・。やっぱり、センパイにも、秘めてた過去が、あるんだねぇー・・・・・・」
前原は視線をあげ、月虹に囲まれた満月を見つめ、過去の自分と向き合う。その姿を小笹は、うっすら頬笑みながら横で静かに見つめていた。
足元では、波の先端が白く泡立ち、音を立て、全てを理解したかのように引いていった。
* * * * *
――――。
(やぁい、ゆうきはザコだぁ。おら! おら! おらーっ! やりかえしてみろよぉ)
(・・・・・・やめてよ。やめてよぉ。かえして、かえして、ぼくのたいせつなもの!)
(うるせぇ。なまいきだぞこいつ! やっちゃおう! おら! みんな、すてちゃえ!)
(いたいよ。やめてよ。ぼく、なにもしてないよ。やめてよぅ!)
――――。
(こんのやろう! まえはらをいじめるな! このやろ! このやろ!)
((( わーん。くっそぉ、ふざけんなぁ。おぼえてろよ! )))
(ぐすん。ぐすん。・・・・・・わぁぁん)
(だいじかよぉ。まえはら。おれが、あいつらやっつけてやったからな! どうだ)
(ありがとう・・・・・・ぐすん。たむらくん、ありがとう。ぼく、くやしい)
(あんなやつら、ぶっとばしちゃえよぉ。やっちまえば、だいじだぞぉ?)
(いやだよ。なぐるのは、ぼうりょくだよ。それに・・・・・・なぐると、あいてもいたいよ)
(なんだよぉ、そんなだから、いじめられるんだ。でも、まえはららしいや)
――――。
(・・・・・・ここ? なんか、みんなさけんでて、こわいなぁ)
(ちゃんとしなさい! 田村さんちが誘ってくれたのよ? ほら、なおひさ君、中にいるよ?)
(ああい! ええい! ああい! えええい!)
(わぁ。たむらくん、いる。つよそうだぁ)
(よぉ、まえはら。来たんだな! ここなら、いじめっこもいない。つよくなれるぞ)
(・・・・・・つよく・・・・・・なれるかな、ぼくも)
(なれるさ! みんなで、つよくなろうぜ! あ、ともだちもいるぞ! こいつもだ)
(・・・・・・だれ?)
(おっす。なおひさのともだちって、おまえか。よろしく。おれ、いのうえな!)
(いのうえくん、ね。・・・・・・よろしく。ぼく、つよくなりたい! つよく!)
(なれっから、だいじだ。小学二年生は、たむらとおれだけだけど、つよくなれる!)
(いのうえは、いつも、びびってふるえてるけどな。つよくないんだ、あんまり)
(うるせえ、なおひさ。おれも、いつか、スーパースターみたいにつよくなっからな!)
(ほぉら、ナオもヤスも、喧嘩しない! ・・・・・・見学の子かな? どうぞー)
(どうだ、まえはら。きれーなおねえちゃんだろ? すっげぇつよいんだぞ)
(でも、すげーこわいんだぞー)
(うっさいよ。ほら、あんたら二人は基本の続き! じゃあ、見学のボクは、あたしとこっちで見ててね)
(わーお。最近、ちびっ子増えてきたねー。かーわいい! こんにちは! いひっ!)
(こ、こんにちは)
(ナオやヤスと同い年なんだって。入門したらまた、あたしたちがいろいろ教えてあげなきゃね)
(よかったわね悠樹。なおひさ君や、いいお姉さんたちもいて。空手、やってみる?)
(あはは・・・・・・ぼく、つよくなる! からて、やるよ! やる!)
――――。
(わああああああああああああああああ わああああああああああああああああ)
(はぁ、はぁ・・・・・・。か、勝たなきゃ! 井上君が、先鋒で勝ったんだし・・・・・・)
(頑張れ悠樹ーっ! あと1ポイント守れば全国大会だぜぇ! ファイトーっ!)
(・・・・・・パッカァァァァン! ・・・・・・赤の、勝ち!)
(あ・・・・・・。ごめん。ごめんよみんな。僕が弱いから、負けちゃった・・・・・・)
(ドンマイ! だいじだ、だいじ! 前原、よくやった。あとはまかせろなぁ!)
(・・・・・・強くなるって、強いって、どういう感じなのかな? ねぇ、田村君)
――――。
「田村君は、小さい頃の僕にはヒーローみたいだった。喧嘩は強いし、助けてくれるし、同級生なんだけど、憧れの存在だったなぁ」
「・・・・・・前原センパイ、今はどう思ってるぅ? だったなぁ、って、ホントに過去形?」
「田村君は仲間。友人。同門。主将と副将。いろんな肩書きや役はあれど、僕の中できっと、昔からの関係は変わってないんじゃないかと思うんだ。友達だけど、意識がどこか、ね?」
ざざぁ・・・・・・ん どぱぁん ざざぁ・・・・・・ん
月に照らされた黒い岸壁に、白い波が当たって消える。
「だからぁ、どうも同級生なのにたまによそよそしいって感じたのは、そういうコトかぁ。ワタシも、そんなことだろうと思ってたよ。だいじょぶ。なんくるないさぁ。センパイは、強いですよ」
小笹は、前原の後ろから、独特な声のトーンで柔らかく言葉をかけてくる。
「ねぇ。・・・・・・末永さん」
「・・・・・・。・・・・・・なぁに? 改まって?」
ざざぁ・・・・・・ん どどぱぁん ざざぁん ざざぁ・・・・・・ん
「強い、ってさ、どういうことなんだろう? 僕、こういうと恥ずかしいけど、未だになにが強いってことなのかが、わからないんだ。僕は強くなったんだろうか? 空手も、上手くなれてるんだろうか? そもそもの『強さ』ってのがわからなくて、それの答えを見つけたいんだ」
「ねぇ? ・・・・・・この沖縄の人たちと出会って、その空手の精神から、前原センパイは何を学びましたぁ?」
「え? 地元や伝統を大切にする心、とか? 分け隔てなく受け入れる心・・・・・・とか?」
「くすすっ! あははっ! もぉーっ、前原センパァイ、正直に言いましょぉよーっ? そぉじゃないよねぇッ?」
「・・・・・・ごめん。・・・・・・ほんとは、『空手が強くなるには、競技じゃなく実戦』って思った。それが強さなのかは、また、わからないんだけどさ」
「いいんですよぉ、それで。競技で強くなったら、実戦に自然と目が行く。でも、そこからの強さってぇ、わかんないんです。競技はランキングつくけど、武道に本来、体格差もランキングもあり得ませんからねぇ。やるかやられるかだけです。あとは、守るか守れるか、かな」
そう言って小笹は、白砂の上でまたサンダルを脱ぎ、月明かりで光る白い砂浜で両足の重心や踏み込みを確かめた。
前原はその様子を、何も言わずにただ、不可思議そうに見つめている。