5.レオン兄弟と超常主義
この世界のどこかに、悪魔帝国を復活させる鍵がある。
その鍵がどんな形で、どこにあって、どんな風に使うのかは誰も知らない。
―――だったら存在しても意味が無いのでは?
くすんだ金の短髪。
灰色がかった薄青の目。
黒縁の眼鏡。
白いワイシャツに黒いネクタイ。
社員証の顔写真を見て、フィリップは小さく溜息を吐いた。
真面目な顔をしたつもりだが、カメラに映った自身の顔は苛立っているように見える。
加えて、フィリップがかすかに首を曲げているのか、写真が曲がっているせいなのか、因縁をつける不良のような印象があった。
しかしながら今更、社員証の写真を変えようとは思えない。
何度写真を撮り直しても結果は目に見えているのだ。
「―――よし」
フィリップは社員証を握り締め、喫茶店のドアを開けた。
「いらっしゃいませ」
すると褐色の肌をした店員が対応した。
黒い髪を頭の天辺でまとめた、妖艶な体つきの女である。
「お好きな席にどうぞ」
店員はにっこりとフィリップに笑い掛ける。
「は、はぁ」
フィリップは頷き、店内に目を向ける。
平日の午前中ということで、店内にはスーツ姿の者が目立った。
中には純粋にコーヒーを味わおうと来ている者もいるようだが、多くは打ち合わせをしたり、端末を操作しながら作業したりしている。
フィリップはカウンター席の端に腰を掛けた。
すると先の女がメニュー表を持って来る。
「ご注文が決まりましたらお呼びください」
女はにっこりとフィリップに笑い掛ける。
「えっと、兄から連絡が行ったとは思いますが……」
フィリップがおずおずと社員証を見せると、女はあら、と声を出した。
「もしかして、ダニーの弟さん?」
「フィリップと言います」
フィリップが会釈すると、褐色の肌の女は目を瞬かせた。
「本当に似てないのね?」
女はまじまじとフィリップの顔を覗き込む。
「えっと、トスカ・ドラゴネッティさん、でよろしいんでしょうか?」
フィリップは目を泳がせつつも、念のために確認する。
「ええ、その通り」
女―――トスカ・ドラゴネッティは大きく頷いた。
「フィルって呼んでもいい?」
「もちろんです」
トスカが首を傾げると、フィリップは二回、首を縦に振る。
するとトスカはくすくすと笑い出す。
「そう言えば、この前、ダニーと一緒に来ていたわね?」
トスカが言った。
「はい」
フィリップは頷く。
「〈赤〉は美味しかった?」
「はい。とても」
「今日はどうする? 他のも食べてみたい?」
「いえ。今日も〈赤〉でお願いします」
フィリップはやや緊張しながら注文した。
「飲み物は?」
「ブレンドで」
「分かったわ。待ってて?」
「はい」
フィリップの返事に、トスカは目を細めて笑う。
柔和な表情に、フィリップはわずかに頬を赤らめた。
しかしトスカが踵を返すと、頭を振って気持ちを切り替える。
とりあえず、今は〈アイゼン・ヘクセ〉に通うだけでいい―――。
ダニエルがフィリップに託した仕事は、たったそれだけであった。
フィリップは兄に喫茶店に通う意味を聞いたが、明確な答えは得られないままである。
フィリップは静かに深呼吸をし、視線を左右に動かして店内の様子を探る。
しかしこれと言って怪しい者も奇妙な物も見つけられなかった。
「はい、ブレンドと〈赤〉ね?」
そうこうしている内に、フィリップの前にコーヒーとイチゴのタルトが置かれた。
「ありがとうございます」
フィリップは軽く頭を下げる。
「そんなに畏まらなくていいわよ」
トスカがフィリップの肩に手を置いた。
フィリップは思わず、息を止めて硬直した。
「気を楽にしてて、フィル? あと、コーヒーはおまけしてあげる」
「そ、そんな」
フィリップは反射的に首を振る。
するとトスカは二つ折りにされた伝票をシャツの胸ポケットに仕舞い込んだ。
「っ!」
「じゃあ、コレは私のモノにしちゃおうかしらね?」
「いやっ、それはっ!」
フィリップは狼狽えた。
なにせ、胸ポケットである。
下手に手を伸ばせば痴漢として訴えられてしまうはずだ。
伝票を取り返したい―――。
しかし手を伸ばしたらアウト―――。
フィリップはどもりながらトスカとその胸元を交互に見る。
しかし女の胸に目を向けることに罪悪感を覚え、天井や床やカウンターテーブルに目を向ける。
そうしている間に動悸が激しくなり、息苦しさを覚え、顔に熱が上がる。
「今日はあなたの就職祝いよ? たくさん食べてって?」
動揺し切ったフィリップに、トスカが優しく言い聞かせた。
「就職祝い……」
フィリップはずれてもいない眼鏡を押し上げる。
「今日だけは私のおごり。だから明日からもウチに来てコーヒーとタルトを食べて? いい?」
トスカはそう言ってカウンターテーブルに肘をつく。
そのせいでトスカの顔がフィリップに接近する。
「わ、かり……ました………」
フィリップはやっとの思いで言葉を紡ぐ。
一方でトスカは微笑みながらフィリップの頭を撫でる。
「成長期の男の子はしっかりお肉と野菜とお芋も食べなくちゃ駄目よ?」
「はい。そうします」
幼児のように頭を撫でられながら、フィリップはぼんやりとしながら返事をした。
その結果、フィリップはイチゴのタルトの後にハンバーグとサラダとフライドポテトを食べる羽目になった。
さらに、就職祝いの品も貰った。
食事を終え、フィリップは〈レオン兄弟社〉に戻った。
社員証を使ってセキュリティー・ゲートを通り、ビルの二階にあるオフィスに入る。
「ただいま」
ノックをしながらドアを開けるが、オフィスは無人だった。
「………」
フィリップはきょろきょろと広くないオフィスを見渡すが、どこにも兄の姿はない。
その代わりに、応接テーブルの上に雑誌が広げてあった。
「ったく」
フィリップは雑誌を片付けようと手を伸ばす。
しかし、紙面の文字に目を細めた。
『新世界の崩壊、そして悪魔帝国復活のシナリオとは―――!?』
普段であれば一笑に付す内容であったが、フィリップは兄の雑誌を手に取り、ソファに座って読み始めた。
「お? 行って来たか?」
フィリップが雑誌を読み終える頃、ダニエルがオフィスに戻って来た。
仕事中でありながら、胸に『超常主義』と書かれたTシャツにダメージジーンズというカジュアルすぎる格好である。
「ダニーは悪魔帝国の復活を信じているのか?」
フィリップは雑誌を閉じ、テーブルの上に置いた。
そして気が付いた。
雑誌のタイトルは、兄のシャツに書いてある文字と同じだった。
「というか、そのシャツ……」
「『月刊超常主義』創刊五周年記念のヤツだが?」
ダニエルがしれっと答えれば、フィリップはそうだよな、と頷く。
「そんでもって、俺は帝国の復活を心待ちにしている男だ」
ダニエルは真顔で言った。
「何でだよ?」
フィリップは目を細める。
「考えてもみろよ?」
ダニエルは腕を組み、神妙な顔で語り始めた。
「悪魔帝国が復活してこの世界が崩壊するとしたら、今までの秩序と言うか、世界の理は通用しなくなるだろ? ってことは男女の垣根が取り払われて両性具有の美少女が俺の前に舞い降りることになる」
「……両性具有なのに、美少女なのか?」
フィリップは頭痛を覚えた。
ついでに兄の思考が常人とは異なっていることを思い出した。
「両性具有とは言っても、厳密にいえば男成分と女成分が一対二で女成分が優勢になる。つまり、美少女である」
「どんな計算だ?」
「簡単に言えばチ、」
「もういい。分かった」
フィリップは溜息を共に言葉を吐く。
「結局、神も悪魔も根本は同じ、人ならざるモノだ」
ダニエルは上機嫌に続ける。
「聖教会が定義して分類しただけで、結局はどっちもどっちなんだよ、フィリー?」
「そうか」
フィリップはソファに体を預け、天井を仰ぐ。
「それに、新世界の崩壊はすでに始まっているんだ」
「へぇ」
フィリップは天井のシミを眺めながら兄の言葉を聞き流す。
「そもそも考えて見ろよ? どうして俺なんかが亡霊を実体化出来るんだ? どうして聖教会は亡霊共を駆逐出来ていないんだ? つーか聖教会が上手いこと機能してれば俺らの仕事は無いはずだろ?」
「………」
「新世界が始まっても、幽霊は出続けている。それはつまり、聖教会のチカラが人間の心を完全に封じ込められないってことだろ?」
「……聞かれても困る」
フィリップはちら、と兄に目を向ける。
ダニエルは人を小馬鹿にするようににやにやと笑っていた。
「覚えておけ。一般的に、霊ってのは人の心の残りカスだ。死んだ後に霊が出てくるのは、死に直面した時に初めて心の残像をこの世界に刻み付けるだけの強い感情が出るからだ」
「そうか」
フィリップは再び天井を見る。
しかし天井にあったはずのシミを見失ってしまった。
「聖教会が新世界の在り方を決めて、ルールを作った。だがそのルールは人の強い感情によって少しずつ変えられていった。だからこそ、聖ラプルニャ教会にも黒人神父がいる。最初の聖典には、人間の肌というのは白で、他の色の肌を持つ者は悪魔である、と書かれているのにな」
「……初耳だ」
フィリップは思わず姿勢を正した。
「だろうさ」
ダニエルは鷹揚に頷く。
「この六〇〇年で聖教会も丸くなった。原理主義派も一定数残っているが、今じゃ他の宗教や文化と上手く共存していこうってほざく融和派と寛容派が主流になってるんだ。だからこそ聖教会の規律が緩められている―――そうやって、聖教会は弱体化しているんだよ」
フィリップは無言で兄の解説を反芻する。
しかし生活に深く根付いた宗教である聖ラプルニャ教会が弱体化していることは、にわかに信じられなかった。
世界の信仰の中心―――それが神の規律を信じ、実行する聖ラプルニャ教である。
「人間が人間であるのは、人間はかくあるべしというルールがあるからだ」
ダニエルは語る。
「ルールがあるから俺たちは人間だ。だがルールのせいで潜在的に持っているはずのチカラを発揮出来ないこともある」
フィリップは再び兄の言葉を聞き流すことにした。
「お前は眼鏡があるから、細かいモノがよく見える。だが眼鏡があるせいで思い切った殴り合いが出来ない」
「……どういう意味だ?」
フィリップは聞き捨てならない言葉に、兄を一瞥した。
「例え話だよ」
ダニエルは肩をすくめる。
「聖教会の規律はお前にとっての眼鏡だ。安全に生活するためには必要だが、もしもの時は枷になる」
「………」
「一度低下した視力は戻らない。だが眼鏡以外にもコンタクトレンズだってあるし、手術って手段もある」
「……それで?」
「時期が来れば、世界は再び崩壊する」
ダニエルがフィリップを見据えた。
底冷えするような灰色の目を向けられ、フィリップは悪寒を覚えた。
「そしてまた新しい世界が生まれる」
ダニエルは冷酷な笑みを浮かべる。
「六年後に全ての封印が解けるぞ、フィリー?」
兄は低い声で言葉を紡ぐ。
「〈リウ=リドア〉の誕生で、世界がひっくり返る。ふたなり美少女が降臨するんだ」
「結局それか!」
フィリップはテーブルを叩いて声を荒げた。
「東洋人の発想は神の規律を超越する」
ダニエルは恍惚の表情で天井を仰ぎ、正しい手順とは逆の手順で十字架を切る。
「楽園は大マセヴァを越えた先にある、ってのはあながち間違いじゃなかった。思想犯の楽園だ、あの国」
「真面目に聞いていた俺が馬鹿だった……」
フィリップは大きな溜め息と共に額を押さえた。
いつになく兄の話に真実味を覚えたが、最後まで聞けば、自らの願望の暴露でしかなかったのだ。
これにはどっと疲労感を覚える。
「あの国の同人誌を読んでみろ、フィリー? 人生観が一八〇度変わるぞ?」
「人生観というよりも性癖だろうが」
「男の娘ってのも捨てがたい」
「もういい。聞きたくない」
「セーラー服に興奮する日が来るとは思わなかった」
「もういいから黙ってくれ、ダニー」
「触手には度肝を抜かれた」
「だからもういいって言ってるだろうが。全く」
フィリップは立ち上がり、踵を返した。
「逃げるのかよ、フィリー?」
ダニエルがけらけらと笑っている。
「終業時間だから帰る」
フィリップは振り返ることもなく〈特異部門〉のオフィスを出る。
「気をつけて帰れよ」
背後から兄の声がする。
フィリップは生返事をしながらドアを閉める。
「全く」
フィリップはエレベーターに向かって歩きながら、何度目なのかも分からない溜息を吐いた。
「別の仕事を探すべきか―――?」
フィリップはぼやきながらエレベーターに乗り込み、ボタンを押す。
ドアが滑るように閉まれば、フィリップは自嘲するように小さく笑った。
「いや、やめておくか」
フィリップの脳裏には、褐色の肌の女の姿があった。
もしここで〈レオン兄弟社〉を止めてしまえば、トスカとの関わりが途切れてしまいそうに思えたのだ。
「あ」
トスカの顔と共に、フィリップは唐突に思い出した。
フィリップはチノパンのポケットに手を入れ、トスカから貰った“就職祝いの品”を取り出した。
それは金貨だった。
胡桃ほどの大きさの金貨には、怪物の姿が描かれている。
爬虫類じみた胴体。
背中にはコウモリの翼が二対。
トカゲのような長い尻尾が三本。
蛇のような長い首の先には角を頂いたワニの頭部が八つ。
それは、八つの頭を持つドラゴンであった。
「これ、ダニーに見せるの忘れていたな……」
フィリップは金貨を裏返す。
裏側には三つのシンボルと言葉が刻まれている。
「『光は闇を貫き、闇は理を覆い、理は光を弾く』―――」
剣、弓矢、鏡という三つのシンボルと共に刻まれた文言はなぞなぞのようだ。
しかしフィリップにはその意味が分からない。
「兄貴なら分かるか?」
フィリップが金貨をポケットに滑り込ませると、エレベーターのドアが開いた。
フィリップはエレベーターから下りようと足を踏み出す。
すると、足に何かがぶつかった。
「?」
その“何か”は小さくて軽い物らしく、エントランスホールの床を滑っていった。
フィリップは怪訝に思いながらも、自身が蹴飛ばしたモノに駆け寄り、拾う。
「これ……」
それは、フィギュアだった。
兄の車のダッシュボードやデスクに並んでいたフィギュアと同じシリーズのモノなのだろう。
牡牛を模った赤い兜を被った男のフィギュアである。
しかし男の下半身は牡牛の体になっている。
フィリップはフィギュアをまじまじと見詰めた。
どういう訳か、その造形に親近感を覚えたのだ。
「どこかで、見たのだろうか……?」
フィリップはフィギュアを弄びながら外に出る。
歩道に出れば、すぐに鳩が飛んできた。
「うわっ!?」
鳩は真っ直ぐにフィリップの手に向かって滑空し、半人半牛のフィギュアを弾き飛ばした。
フィギュアは車道に飛ばされ、走って来た大型トラックに轢かれて粉砕された。
〈 完 〉
最後までお読みいただきましてありがとうございました!
また機会がありましたらよろしくお願いします!