求める弟
弟が一緒に住むことになったから。
突然母ちゃんが放った言葉を、俺は理解することが出来なかった。
父ちゃんとの子?もう二人とも40になるのに今?いつ?俺と18差?
でも一緒に住むことになった、って言い方引っ掛かる。
「どういうこと?」
「今まで話したこと無かったんだけどさ」
母ちゃんが珍しく改まって食卓に座った。
俺もいつもの席に座る。
「実は幸には弟がいるの。高1の」
ここから母ちゃんの話は始まった。
俺が5歳。弟が2歳のときに両親が離婚した。
弟は父と共に家を出ていき、俺は母と住むことになった。
それからすぐに母は再婚し、というか離婚原因が母の不倫だったらしく、その不倫相手と結婚して今の俺の家族が出来上がったらしい。
つまり父ちゃんは俺の本当の父では無かった。
本当の父が最近亡くなった。
本当の父は男手ひとつで弟を育てていたそうで、弟の身寄りがない。そこで家で弟を引き取ることになったのだそうだ。
「へえ」
あんまり現実味がなくて、開口一番の俺の言葉はそんなだった。
反対に母ちゃんは涙を流していた。
黙っててごめんね、と涙を拭った。
「別に。何も変わらないよ。俺にとって父ちゃんは父ちゃんだけだし」
この時は本気でそう思っていた。
「弟いいじゃん。ずっと欲しかったよ俺。兄弟」
本当に暫くは何も変わらなかった。
弟の名前は鷹兎と言った。
俺の弟とは思えないほどしっかりしていて、繊細なやつだった。
「よろしくお願いします」
深く頭を下げた鷹兎に母は笑顔を向けた。
「敬語じゃなくていいよ!私のことはお母さんって呼んでいいからね!」
「う、うん」
鷹兎は戸惑ったように顔を歪めた。
そっか、こいつには母親がいたことがないんだ。
鷹兎と母ちゃんが会うのも、離婚以来だという。
「こっちはお兄ちゃんの幸ね」
母ちゃんが俺の背中を叩いた。
「よろしく」
笑いかけると、鷹兎は笑い返したつもりだろうがひきつった表情になった。
「よろしく。お、お兄ちゃん」
絞り出すような苦しい言い方だった。
「いいよ無理しなくて。名前幸だから。好きなように呼んで」
鷹兎は頷いた。
「父ちゃんは?」
母ちゃんに問う。
「今日はゴルフだって」
「ふうん」
日曜の午前からゴルフとはいいご身分だ。
「夜には帰ってくるから」
母ちゃんは鷹兎の肩に手を置いて笑った。
すぐに母ちゃんもどこかへ出掛けた。
昼御飯はスーパーで買った菓子パンだ。
「夜は歓迎パーティーだから!」
母ちゃんはそう言って出ていった。
俺は鷹兎と二人きりになった。
取り合えず居間のソファに座ってテレビをつける。
突っ立っている鷹兎を呼んで隣に座らせた。
鷹兎に菓子パンを渡す。
「お母さん達って忙しいんですか?」
「うん?うん、まあ、そうなのかな?小さいときからこうだからよくわからんけど」
「小さいときから?子供の時から?」
「うん。子供んときはよく一人でDVDにやいた戦隊シリーズをこうやってここに座って」
俺は鷹兎が持つ袋から菓子パンをひとつ出すと口にくわえた。
「ほうやっへ、みへた」
「......そんなのおかしいですよ」
おかしい?何が?
そんなことを言われるとは思っていなかったので驚いた。
「俺の父はシングルファザーでしたが、時間があれば必ず遊んでくれたし、俺を長い間一人にしないよう工夫してくれました」
「そうなんだ。いいお父さんだね」
そう返した俺を、鷹兎は哀れみの瞳で見た。
「可愛そうだよ」
俺がか?
確かに今思えばあんまり母との記憶はない。
小さい頃はいつも一人だった気がする。
「でも実際俺はちゃんと育ったし、母ちゃんには感謝してるし、母ちゃんの育て方は間違ってなかったかもよ」
鷹兎はそれ以上何も言わなかった。
鷹兎が来て一週間が経ったある日の夜。
母ちゃんは家で泥酔していた。
居間のソファに寝そべって酒をあおっていた。
俺はつまみを所望する母ちゃんのためにだし巻き玉子を作っていた。
「ゆき~~~愛してる~~~」
「はいはい。今行く」
卵焼きを持っていくと、母ちゃんは酒臭い口を近づけて俺の体に腕を巻き付けてきた。
酔ったときのウザ絡みだ。
俺は急いで卵焼きを机に置く。
「持ってきたよ」
体から腕を引き剥がす。
「聞いてよ~~~」
母ちゃんは舌足らずな声で言った。
はいはい、と母ちゃんの隣に座る。
「幸のほんとの父ちゃんはさあ」
「え?うん」
「母ちゃんが不倫したけどさあ、悪いのは父ちゃんなの」
「何で」
「私がさあ」
一人称が変わった。
本音が出るときのくせだ。
「寂しいのわかっててさあ、あの人はさあ、愛情表現が足りないの~~」
「あー、はいはい」
「鷹兎だってあの人には絶対ちゃんと育てられないでしょ~?ほんとは私が育てたかったんだよ~?」
「ちょっと、声」
鷹兎に聞こえそうな大声だった。
「でもさあお金ないし!でもあの人が子育てとか無理じゃん!私とすら向き合わなかったくせに~~~」
「母ちゃん!声デカい」
「い~じゃん別に~。ねえ」
母ちゃんが問いかけたのは俺ではなかった。
俺の後ろにいた、鷹兎だった。
振り返ると、無表情で立ち尽くす鷹兎がいた。
最悪だ。
お父さんの悪口とか言われたら普通に嫌だ。
ほら、謝れよ、と母ちゃんを見る。
しかし、母ちゃんはまったく口調を変えず、寧ろ余計にねちょっこくなった声音で鷹兎に言った。
「お父さん無愛想だったでしょ?でもこれからは私が味方だからね~~~」
は?何いってんだよ。
鷹兎は「おやすみ」と無感情に返して部屋に戻っていった。
「母ちゃん」
窘めるつもりで母ちゃんを睨む。
だが、母ちゃんはまるでけろっとした顔で寝ていた。
何も考えていなさそうなその寝顔を見ていると無性にムカムカしてきた。
ぐわわ、と、心の底から嫌悪感が湧いた。
その日から段々母に対して、あ、嫌いだ、と思うことが多くなった。
反比例するように、母はどんどん明るくなった。
まるで重石がとれたように自分の過去の話をするようになった。時に鷹兎のお父さんの悪口を言うし、過去のヤンチャを武勇伝のように語る。母が昔水商売をやっていたことも初めて知った。
父とのスキンシップが激しくなって、俺たちの前でキスすることも日常茶飯事だった。
急に母が他人になってしまったように感じた。
「ねえ、幸さんは何で家にいられるの」
鷹兎が言った。
「よく居られるね」
「鷹兎は高校卒業したらどうすんの」
「......就職」
「頭いいのに勿体無。俺なんて泣きの推薦で底辺校に進学だぞ」
「あいつらに借りを作りたくないから」
今なら俺にもその気持ちがわかる。
「俺大学から一人暮らしするから一緒に住もうか」
「いいの!?」
鷹兎は強く俺の腕を握って、キラキラとした瞳で俺を見つめた。
予想以上の食いつきに、提案して良かったと思う。
俺は鷹兎の頭を撫でた。
幸せそうな母と父を見ていると、こっちまで幸せになる。
それは今でも変わらない。
母も父も俺にとっては一人だけの大事な存在だ。
でも俺は、二人がこんなにも無神経で、幼稚な、同じ人間だったことに気づいてしまった。
ベッドに入って目を閉じると無駄に頭が回転してしまう。
ぐるぐるぐるぐる、似たような思考が消えてはやってくる。
無理矢理に目を閉じて、寝苦しさに何度も寝返りをうった。
小さな衝撃を感じて目が覚めた。
目を開けると、瞳がくっつきそうなほど近くに鷹兎の顔があった。
まだほんのりと唇に残る感触......。
俺は鷹兎にキスされたのだ。
鷹兎は俺が起きたことに動揺して硬直していた。
俺は頭をもたげて唇に触れた。
柔らかい感触が、微かに俺の口に残っていたものと同じであることを確認する。
ゆっくりと、また頭をベッドに落とす。
動揺のあまり鷹兎の瞳が小刻みに震える。
間近の瞳に涙の膜が張っていく。
あぶれたものがぽたり、と、俺の頬に落ちて視界の外に流れていった。
「つめた」
涙の軌跡と共に肌が冷えた。
鷹兎は涙の跡を上書きするように俺の頬を舐めた。
一瞬暖かい。しかしすぐにまた冷えた。
「あ、の、すっ......」
何かを言おうとして嗚咽を漏らした鷹兎の後頭部に手を置く。
そのまま頭を押した。
鷹兎は俺の肩に顔を埋めた。
鷹兎が風呂に入っている間に食器を片付けようと思い、お盆を持ってキッチンに向かった。
キッチンからは母と父の大きな笑い声が聞こえる。
明日からの旅行の話でもしているのだろうか。楽しそうだ。
俺は深呼吸をして、キッチンに入った。
「あーまだ食器あったのー!」
母が俺を見て声をあげた。
「大丈夫。自分で片付けるから」
「いいよ。母ちゃんがやるから」
「いいって」
「やるよー。今機嫌いいからさ」
そう言って母は半ば強引にお盆を取った。
「ありがとう。明日朝早いの?」
「ああ。5時には出る」
父が嬉しそうに答えた。
「そっか。楽しんできてね」
「うん。もっちろん!」
部屋に戻ってテレビを見た。
暫くして鷹兎がパジャマ姿で戻ってきた。
乾かしかけの微妙に湿った髪は色っぽかった。
鷹兎は俺と同じ、母と同じ、父と同じ、シャンプーの臭いを部屋に撒く。
「ちゃんと乾かさないと風邪引くぞ」
「それ俺がいつも幸さんに言ってるやつ」
鷹兎は柔らかく笑った。
その笑顔のまま俺の首筋にキスした。
この家で血が繋がってないのは父だけだ。
けど、この家で一番家族してんのは他人同士の母と父だ。
変なの。