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忠兵衛と隠密

作者: くまいくまきち


天正十八年(一五九〇)六月の末であった。當馬忠兵衛はいつものように出仕すべく、早暁に役宅を出た。役宅は小田原城下の一角にある、百姓家の納屋かと見まがうばかりの小屋である。


すると、いつになく表が騒がしいことに気づいた。

破れ帷子をまとった足軽どもが、どたどたと血相を変えてすれ違っていった。忠兵衛は足軽どもの勢いに押され、道端に尻餅をつきそうになる。いつもなら文句のひとつも言ってやるところだが、どうもただごとではない様子だ。

 忠兵衛は急いで大通りへ出た。松原大明神に発するこの大通りでは、籠城のさなかであっても毎日市が立つ。


今朝も足軽や百姓の老若で溢れていた。

餅が焼ける香ばしい匂い、汁が煮える匂いがした。だが人びとは今朝ばかりは、売り物買い物どころではないようだった。

皆いち様に、城の南方を見上げている。

忠兵衛は背が低い。四尺八寸に満たぬ短躯であったから、見上げれば肩と頭と、明けつつある空があるばかりである。


「――ちょっと、ちょっとのけてくれんか。頼む、のけてくれ」

と言いつつ忠兵衛は人なみを掻き分けて、ようやくおのれの身の丈にちょうどよい位置、背の曲がった老婆と子供たちの後ろに辿りついた。


見上げて、忠兵衛は息を飲んだ。

城の南方は早川口の方角である。その先に笠懸山という、そう大して高くもない山があるが、その笠懸山の中腹から何と三層の天主櫓が突き出しているではないか。


「都の関白さまというお方は、天魔ずら」


「いんや、天狗にちげえねえ。あげなものを、たったひと晩で拵えるなんぞ、人にできることじゃねえずら」

百姓ども口ぐちにそんなことを言いあっている。彼らの多くが、関白が前右府(信長)配下の武将のひとり羽柴筑前守であるという認識を持たなかった。

都におわす関白が、突如として西国の兵をこぞって引き連れ、この東国に攻め入った、とそんなふうに思っていた。


(――こりゃあ、えらいことぞ)


微禄とはいえ忠兵衛は士分である。百姓どもとは違った感慨をもって、笠懸山を見つめていた。

東の相模湾から朝日が昇る。その朝日を受けて、天主櫓や曲輪の白壁があかね色にもえるがごとく、輝いていた。


(――西国の兵どもは銭で雇われた者どもが多いと聞いたが……やっぱり奴らめはいつまででもこの地におれるということか)


今をさる永禄四年(一五六一)、越後の長尾景虎(上杉謙信)が十一万といわれる大軍でこの小田原に攻め寄せたことがある。景虎は諸城を抜き三月に包囲を完了したが、一ト月後には攻め落とすことを諦め領国越後へと撤収を始めた。この時、城方はここぞとばかりに追撃に出て大きな戦果を挙げたのである。

景虎が囲みを解いた理由は、長く領国を空けると隣国の武田晴信がまたぞろ動きだすという懸念もあったが、兵農分離が未だ確立されていない彼らの軍隊は農繁期をまたいでの遠征ができなかったのだ。


永禄十二年(一五六九)に今度は武田晴信(信玄)が小田原を囲んだが、やはり景虎と同様に確たる収穫もなく領国甲斐へ引き上げている。

謙信、信玄が領国を出て戦さをしたのに比べ、北条は敵の大軍を自領深く攻め込ませ、籠城によって相手の兵站と持ち時間(農繁期までの)が尽きるのを待つ、というのが言わば伝統的な戦術であった。これは小田原城に限ったことではなく、岩槻、八王子、鉢形といった重要な支城も同様であった。名将と言われた三代氏康にしてもこれら支城と連携しつつ各々に籠城し、これらの難敵を退けている。また、天正十五年ごろから総構えと言われる外曲輪の構築が始まっており、この年のはじめには総延長にして五里(二〇キロメートル)という未曾有の巨大城郭となっていた。これにより防御力はさらに増大した。隠居した四代氏政は「この小田原城には謙信、信玄すら攻める手だてなく退散いたしものを、秀吉ごとき、何の恐るるに足らず」などと豪語したという。城内には籠城のノウハウを心得た者が多くいたし、城はまさに天下の要害。籠城して半年、しかし雑兵小者にいたるまで将兵の士気は依然として高かったのである。――籠城しておれば、遠国の兵どもはいずれ窮して引き上ぐる。


その機に乗じて追い討てば必ずや勝機はあろう。 

多くの者たちが、そう考えていた。

忠兵衛とて、そのひとりであった。

 だが……。

と、その時、どろどろどーんという耳を突き刺すような轟音が山々にとどろきわたった。 笠懸山から、鉄砲を一斉に撃ちかけてきたのである。笠懸山からは一里ほどもあり、弾が届くことはないが、一夜にして現れた城に衝撃を受けていた人々はその銃声に肝を潰す思いがした。


 忠兵衛は相かわらず笠懸山を見上げている。(一夜にしてあんなものができる訳もないから、大かた城の完成とともに山を覆っていた林を伐り払ったのだろう。それにしても……) 忠兵衛が驚いたのは城の規模と出来映えであった。攻城のための付け城としては、その普請はあまりに本格的すぎるように思われた。壮大な石垣は山の一画を覆わんとするばかりである。(事実この石垣により、後にこの山は石垣山と名を変え、城も石垣山城と呼ばれた)付け城ならば井楼櫓で十分だし、機能的にも優れているだろうし、周囲にめぐらせた曲輪にしても、わざわさ白土で塗り固めることもない。(これは白土ではなく、白紙を間に合わせに貼ったという説もある)城攻めのため、というよりその城にあってこの地に君臨し、統治するためのものであるように思われた。


いったいどれほどの費用がかかろうか……。忠兵衛は頭で計算してみる。

(……四、五か月ほどでこれだけの普請をやってのけるとすれば、毎日数万の人夫を雇わねばならない。もし全部銭で払うとすれば……人夫の日当を五十文として、三万人が、百日ほどで……何と十五万貫!)

永楽通宝が一億五千万枚である。いったい天下の銭を全部集めたとて、そんなにあるのかどうか。銭十五万貫の収入を得るには四公六民としても、約四十万石という途方もない領国が必要となるのである。さらに雇い兵どもの賃金もある。


(――いったい関白は銭の成る木でも見つけたのだろうか?)

忠兵衛は戦さ場に臨んだことがなかった。今年で三十になる。謙信、信玄の襲来も記憶にない。しかし、銭勘定だけの推測でも関白が兵を引くとは到底思えなかった。


(あれだけの銭をかけた城を、ただ敵にやるために置いていく馬鹿もあるまい……)

忠兵衛は両手に力をこめた。

(戦さが長びけば、今度こそ儂にも出陣する機会が巡ってくるやも知れぬ)

そう思うと、あの笠懸山の城が逆に頼もしく思えてきた。あの城が健在である限り、戦さは終わらぬのだ。

忠兵衛はきびすをかえした。人ごみを掻き分けて大通りを城へと向かう。忠兵衛の持ち場は蓮池門を越えた、三の丸にあった。

蓮池門はかつて謙信が激しく攻め寄せた場所だったが、今はここも総構えの中に取り込まれている。


  まくわ瓜、からす瓜

  赤いか、青いか、塩っぱいか

  からすがくわえて、どこへ行く

  かあかあ、かあかあ……


 子供たちが囃し立てる。

振り返ると、破れ帷子を纏った裸足の餓鬼どもが三人ばかり、意地悪そうな笑いを浮かべて忠兵衛を見ている。


「――こらっ」


 忠兵衛が一、二歩と踏み出し追いかける素振りを見せると、餓鬼どもは「わあーっ」と声を上げて逃げて行った。忠兵衛は、それ以上追うことはしなかった。餓鬼どもには、見覚えがあった。奴らは、忠兵衛の長屋の近くにある鉄砲放ちどもの長屋に住んでいる。

今に見ておれよ、と忠兵衛はひとりこちてから、子供らに背を向ける。何事もなかったかのように水堀を越えた。



諸肌ぬぎとなった忠兵衛は長い樫の棒を、「えいやっ、えいやっ」という気合とともに、ぶんぶん風音をたてて振り回す。夏の夜のこと、忠兵衛の上半身はたちまち汗みどろとなる。棒は七尺ほどもあって節々に鉄環が嵌めてある。そして鉄芯を仕込んでいるのだ。忠兵衛はこれを鍛冶屋に特別に造らせた。最初は鉄芯の量も少なかったが、だんだんと鍛練が進むに従って多くした。いま使っている棒はもう五本目で、目方は何と十八貫と五百匁(約七十キログラム)もある。こんなものでぶっ叩かれては、たとえ兜の上からでも失心してしまうだろう。


手足に当たれば、骨が砕ける。

小柄な忠兵衛の上半身は、まるで甲冑のこどく強靭な筋肉で覆われている。体格のよい者でも持つのがやっとという樫の棒を軽々と振り回しているのである。まさに、執念の賜物であった。

もう少し重い、今度は二十貫の棒を造らせようかとも考えたが、もう時がない。


「――鮎」

 忠兵衛が黙々と鍛練を続ける様を、鮎は板の間に端座して見守っていた。

「はい」

 棒を振りながら、忠兵衛は言う。

「儂は必ず今度の戦さで名のある大将首を取ってみせるぞ」

「はい」

「必ずや、儂は立身してみせるぞ鮎。もっと大きな家に住み、家来もおいて、そなたにはもっとよいものを着せ、旨いものを食わしてやる」

そう言われて鮎は、はにかんだように俯いた。

忠兵衛は敵味方が入り乱れる乱戦となったら、算木を打ち捨ててこの棒をひっ提げて戦さ場へ向かうつもりであった。

津田八右衛門が何と言おうと、そうする覚悟である。持ち場を勝手に離れることは軍法違反となる。軍法に背いた者は切り捨て御免となるのが、定めである。


(そうなったらそうなったで、仕方がない……)


とまで、腹を括っているのである。

忠兵衛とて、北条方が負けるとは夢にも思ってはいない。

 この小田原城はいかに力攻めをしたとて、到底攻め落とせるものではない。兵糧攻めにしようにも、城内にはまだまだ潤沢に食料はあって、干上がる心配はまだまだなかった。家財奉行配下の忠兵衛はそうした事情にも明るい。


天下の兵を率いてきたのはいいが、長対陣ともなればさらに大な銭がかかる。

小田原城が干上がるのが先か、関白の銭がなくなるのが先か……。

(もたないのは、関白の方だろう……)

 一戦して、和議となるか。あの笠懸山の城に押さえの兵を残して引き上げるか。

それにしても万事銭の世の中だ、と忠兵衛はいまさらながらに思った。戦さも銭がなければ、勝てはしないのだ。

(そういえば信長の旌旗は嘘か誠か、永楽通寳だったそうな。謙信は毘沙門天、信玄は風林火山。なのに信長は銭……。戦さには何より銭が大事と知っていたのだろうよ)

 鍛練をひと休みして、忠兵衛は鮎の隣に腰をおろした。鮎が湯冷ましを持ってくる。がぶり、と飲んだ。

 忠兵衛が役宅へ戻るもうひとつり理由が、この鍛練のためであった。

ひと働きした後、北条で認められなければ退散し、他に主を求めるのみである、と忠兵衛は思っている。何しろ天下の大名がこぞってこの小田原に集まっているのである。武士としてその名を上げようと願う者にとって、


こんなよい機会は滅多にない。

「――鮎」

鮎は忠兵衛を見る。忠兵衛は鮎の雪のように白い頬に、およそ文官らしくない節くれだった手をあてた。

「儂は、そなたのことを想うと、こう全身に力が沸いてくるのじゃ。そなたさえいてくれれば、儂は戦さ場で誰にも遅れは取らぬ。だから――」

 忠兵衛は鮎の幅のある肩に腕を回した。鮎はわずかに身を引く。「おやめくださいまし、このような所で、人が見まする」と言うが、忠兵衛はそれには応えない。


「――鮎、どこにも行かず、儂がそばへずっとおってくれ」

 忠兵衛は鮎を抱き締めた。はずみで湯飲みが落ち、敷石にあたって砕けた。それに構わず忠兵衛は鮎を抱き締めている。

遠くで馬が嘶いた。息を詰めて対峙する数十万という人の声が、まるで地の底から響く陰鬱な読経のように低く聞こえた。時おり、どどーんという鉄砲の音が暗い山々へ響き亙る。

耳を澄ますと、虫の音が聞こえた。

男たちの剥き出しの野望と功名を望む心をあざ笑うかのごとく、虫はこの上なく清浄な声で鳴いている。


(まるで、鮎のような……)

忠兵衛は思った。

日に日に地獄のごとき様相を呈しているこの城に迷い込んだ、美しく可憐な草花。偶然にも手にすることができたそれを、忠兵衛は手放したくなかった。

実は鮎には、ふに落ちぬことがいくつかあるのだ。

鮎は、都の近くで生まれ育った、という以外におのれのことを話さなかった。まあ、これは混血ということを思えば、話したくない理由もわからぬではなかった。

 もうひとつは、乞食坊主のことであった。一度、まだ陽のあるうちに帰宅した際のことであった。家の前で鮎が破れ袈裟をまとった坊主と向かい合って立っているのを目にした。坊主は錫杖を鳴らし、低く経を唱えている


様子である。鉄鉢には鮎が布施した握り飯が入れられている。鮎は手を合わせて、坊主を拝んでいる。別段、何の不思議もない姿だった。しかし、忠兵衛は鮎の表情を見て、はっとした。

それはほんの一瞬であった。目だった。その時の鮎の目は、いつも忠兵衛との暮らしでは見せたことのないような、真剣な光りを宿していた。

いや、真剣というのは生やさしい。まるで獲物を狙う野獣の気迫が感じられたのだ。

さらには、時おり鮎は夜更けに家を出ることがあった。忠兵衛がふと目を醒ますと、同衾していたはずの鮎がいないのである。しばらくして、うとうととしていると、鮎は戻っていた。こればかりは忠兵衛は鮎に尋いた。


すると鮎は「旦那さまのご無事を祈って、杉原大明神さまにお百度を踏んでおりまする」と、応えた。

「儂の無事を祈願してくれるは有り難いが、今は通常の時ではない。この城にもいろんな輩が入り込んでおる。


夜中のひとり歩きは危ないゆえ、やめてくれないか」

 と、忠兵衛が理を尽くして言い聞かせたが、鮎は首を縦にしない。

「神仏との約定がございますゆえ、なにとぞお許しくださいまし」

と言うのみであった。

忠兵衛とて、鮎の言い訳のすべてを信じている訳ではない。歩き巫女であったころのしがらみが何かあるのだろう、と思っていた。いずれ時がくれば、鮎もすべてを話してくれよう、そう考えて、問い詰めるようなことはしなかったのである。


そして、それより数日後のこと……。

「成田下総守さまには、お指し図の通りに曲輪内に火を放ち、寄せ手の軍勢を引き入れる手引きをしてもよい、との仰せでございます」


「――うむ」

「返書はこれへ」

 総構えの中、町屋のいまは無人となった商家の蔵の中にふたりはいる。小田原城の総構えは城下の町屋をも取り込んでいる。だがこの家の主は戦乱を嫌い何処へと逃散したようであった。

この蔵が、ふたりの密会の場所であった。 ひとりは例の乞食坊主、そしてもうひとりは、鮎である。

鮎は墨流し染めの黒布で全身を覆っている。 坊主は受け取った書状を小窓からわずかに差し込む月光にかざして、改めた。


「――確かに」

坊主はそう言うと、書状を破れ袈裟の懐に丁寧に仕舞った。

成田下総守氏長は武州忍城主にて、早雲以来五代の重臣であった。忍城は水攻めにあっており、城に残してきた妻子家臣の生命は風の前の灯火に等しかった。それらの助命と引き換えに、氏長は寝返りを申し出たのだ。

実は寝返りを承諾したのは氏長だけではなく、同じく五代の重臣で当主氏直の寵臣であった松田秀憲もまた、安国寺恵瓊を通じてその意があることを秀吉に伝えてきている。現場を受け持つ兵たちの士気はさほど落ちてはいなかったのだが、上層部の腐敗が進んでいたのである。

だが、それらの事情は鮎たちのような下忍の知るところではない。


「それはそうと、鮎よ」

「――はい」

 鮎の瞳が、月の光に蒼く煌らめいている。

「そなた、あの家財方の男と夫婦のように暮らしおるが、そろそろ始末をつけた方がよいのではないか。儂らの仕事も大詰めじゃ。落城も近いぞ」


坊主は言う。言うといっても彼らの会話は言葉をしゃべるのではない。互いの唇を読むのである。先日、忠兵衛がふたりを見かけたおりも、唇を読んで会話をしていたのだ。読唇には非常な集中力が必要となる。若い鮎には、平生と変わらぬ表情で唇を読むことができなかったのだ。


「……いま少し、いま少しこのままにて」

 鮎はやや躊躇がちに応えた。

その躊躇を、坊主は見逃さない。顔をぐっとばかり近づけた。

「……わたくしの容貌は目立ちますゆえ、なかなか変化が効きませぬ。いま少しあの者のそばにいた方が安全かと」


坊主は値踏みでもするように、鮎の瞳をじっとのぞき込むと、得心がいったとばかりに顔を遠ざけた。

何かを言おうとして唇を動かしかけて、思い止まった。

そして、深く息を吐いた。

「……風摩どもに気取られてはことだぞ。くれぐれも自重せよ」

「――はっ」

 ふたりは別々に蔵から出た。坊主の姿は、すっと闇に溶けた。鮎もまた、月の光りを避け、闇を拾うようにして走り去る。

鮎は甲賀の女忍びである。

 母は近江は安土の富裕な商家の娘であったが、不義をして異人の種を宿した。生まれた女児を甲賀の中忍、杉本九郎三郎に託した。杉本は鮎の母の兄であった。杉本は鮎に幼時から忍び技を教え、鍛えた。


くだんの乞食坊主こそ、杉本九郎三郎なのであった。

鮎は忠兵衛の役宅へと急いでいた。急いで戻らねば忠兵衛に怪しまれるかも知れない。不安であった。もし正体が露見すれば、鮎は忠兵衛を殺さねばならい。

杉本九郎三郎が何を言いかけたか、鮎にはわかっていた。

「鮎よ、そなたは女忍びとしては忍び技も武術も申し分がない。だがな、そなたの姿かたちは、いつかそなたに徒をなすことになるやも知れぬで、よう心得ておくことや」

 いつか杉本九郎三郎はそう言っていた。

そう言われたころは、何のことやら分からなかったが、今となっては痛いほどに理解していた。

忠兵衛のことである。


忠兵衛は、姿かたちで差別されてきた鮎を心から哀れみ、慈しんでくれた。鮎もまた、忠兵衛の、容姿身長のことで周囲から侮蔑を受け続けたことの痛みが、よく理解できるのだ。忠兵衛の夏の陽光のように真っすぐな想いは、鮎の閉ざされた心を照らしている。

忠兵衛とふたりでいると、時に鮎はずっとこのまま、當馬忠兵衛の女房でいられぬものかと思ってしまう。

その忠兵衛を始末することなど、果たしておのれにできるものであろうか?


草原である。

 忠兵衛は立派な当世具足に身を包んだ侍大将らしき男と対峙している。馬は忠兵衛の樫の棒によって前脚を砕かれた。男は三日月を模したような大仰な前立てを付けている。その前立てが、陽光を受けてぎらりと光った。


それが合図だったかのように、忠兵衛は棒を繰り出す。ぶんぶん、と棒は風を切る。男は二度三度と避ける。古風な太刀を抜き放つ。槍はどこかへ取り落としたのか、持っていなかった。

真上から叩きつけられる棒、それを男は太刀で受ける。か、受けきれない。太刀は折れ、十八貫五百文目の棒は大仰な前立てを叩き壊して頭なり兜に食い込んだ。

男は口から血の泡を吐き、後ろへ反っくり返るようにして、どたりと倒れた。

やった、急ぎ首を取らねば、と忠兵衛は思う。

だが、忠兵衛ははっとする。


(――鮎、鮎はどうしたのだ?)


鮎と探さねばならぬ、と忠兵衛は思う。草原を這いずりまわるようにして、鮎を探した。すると、もえぎ色の小袖が見える。近づいて、はっとした。

 首がない……。

 忠兵衛はなおも探す。すると、脚のあたりに首がある。手にすると紛れもない、鮎であった。

誰かが鮎の首を掻き、女とわかって捨て首をしたのだろうか。


(――鮎、何ということじゃ。儂が兜首を取ろうというに、鮎が死んでしまえば何のための手柄じゃ)

忠兵衛は鮎の首を抱き、その場に蹲った。(鮎よ、鮎。なんで死んでしもうたんじゃ。こんなことになるのなら、戦さなどに出るのではなかった)

忠兵衛は泣くいた。

 どろんどろんと、馬蹄の音が響きわたる。 返り見ると、赤い具足の武者どもが大勢で寄せてくるではないか。

赤い具足と言えば赤備え、常に徳川の先陣を承るという伊井掃部守の軍勢に違いない。赤備えと聞けばそれだけで、敵方は震え上がるという。

もうよい、誰でもよいから我が首を取るがいい、と忠兵衛は思った。鮎の首を抱きつつ、忠兵衛はその時を待った。

どろんどろん、と馬蹄の音が近づいてくる。 ――と、そこで目が覚めた。

(夢であったか……)

忠兵衛はがばっとばかり、上半身を起こす。 大きく息をついた。

(よかった……)

どとーん、鉄砲の音が響いている。

「――鮎」

 忠兵衛ははっと我に返った。鮎がいなかった。

「――鮎、鮎」

暗い板の間や、土間に向かって呼びかけるが、返事はない。

忠兵衛は夜具を跳ね飛ばして起き上がると、外へ出た。胸騒ぎがした。鮎の身に何か起こったのではないか、と思った。

忠兵衛は打ち刀を下げて駆け出した。杉原大明神へ向かう。

総構えの内外で篝火が燃えている。ことに笠懸山はおびただしい数の篝火に照らされ、まるで暗い中空に城だけが浮かんでいるようにも見えた。


ほどなく杉原大明神へ着く。境内を見てまわったが、鮎の姿はなかった。

仕方なく、忠兵衛は家へと戻る。

入れ違いになったか、と思いつつ庭の前へとさしかかった時であった。

黒づくめの男が、忠兵衛宅の引き戸をすっと音も開け、中へ入っていくではないか。

(――おのれ、くせ者)

忠兵衛はとっさに生垣を飛び越えると、引き戸に手をかけて勢いよく開け放った。

黒づくめの男は驚いて、それでも飛びのきざまに体を返す。背中に仕込んだ短刀を素早い動作で抜き放つと、身構えた。


「――なに者だっ」

忠兵衛は問うた。開け放たれた引き戸から、月の青い光りが差し込んでいる。その光りが、くせ者の白い顔を照らしていた。

「――鮎……鮎か」

 くせ者は、鮎であった。男とみたのは、鮎が女にして骨格すぐれて大柄なせいだった。 鮎は忠兵衛と知ると、構えた短刀をゆっくりと下ろしていく。


「――鮎、そなたは、忍びであったのか」

 鮎はこたえない。

「――すべては役目のためだったと言うのか。そなた、儂をたばかったのか?」

鮎は忠兵衛を見つめている。何もこたえないことが、すでにこたえであると、忠兵衛は感じた。腹の底から、激しい怒りが沸いてきた。


忠兵衛は手にしていた打ち刀の鞘を抜き払った。上段に構えた。

それを見て鮎は、短刀を顎の前あたりに構え直した。

ふたりはそうしてしばしの間、対峙していた。

 どろどろどーん、と鉄砲を放つ音が聞こえた。

先に動いたのは忠兵衛だった。わあ、と叫んで刀を遮二無二振り下ろした。忠兵衛、鮎を斬るつもりはない。


鮎に刺されて死のう、と決めていた。

鮎は、振り下ろした刀を構え直そうとするわずかな間隙を縫うようにして、転げるようにして間合いの中へ飛び込んでくる。その刹那、忠兵衛は刺されると思い極める。が、目前に鮎の美しい顔があった。悲しげな瞳が、じっと忠兵衛を見つめている。

「――鮎」

 忠兵衛の唇が動く。その唇に鮎の唇が、重なった。

忠兵衛は上段に構えた刀をゆっくりと降ろした。そして、片腕で鮎の身体を抱いた。

鮎の舌が、忠兵衛の上下の前歯の間をわって入り込んでくる。ふたりの舌が忠兵衛の口内でもつれるように、絡み合っている。


何が何やらわからぬまま、忠兵衛は鮎愛しさの想いに負けて、鮎の口を吸いつづけている。

少し間があって、鮎はゆっくりとその唇を離した。

忠兵衛は、鮎の瞳が相変わらず悲しそうな光りを宿しているのを見た。そして、口の中に異変を感じた。

舌の感覚がなくなっていた。と、そう感じているうちに口全体、喉とどんどんと異常な感覚は拡がっていく。


手指の先が痺れ、気が付くと天井がぐるぐると渦を巻いているようだった。

「――鮎」

と言ったつもりが、ほとんどまともな言葉にならない。

ついに立っていられなくなり、忠兵衛はどすんと尻餅をつく。全身の感覚がなくなり、まるで身体と魂が別々になったようにすら感じた。

鮎がじっと見ている。悲しそうな瞳が見つめている。

忠兵衛は上体をささえ切れずに、ばったりと後ろへ倒れ込んだ。口からだらだらと涎とも泡ともつかぬものが流れ出ている。もう、意識も朦朧としてきた。

戸口から、月が蒼く輝いているのが見えた。(……ああ、儂は死ぬのだ)

と、漠然と思った。不思議に恐ろしいという感じはなかった。


忠兵衛宅を飛び出した鮎は、町屋の方角へ走っている。密会に使った商家の蔵に身を潜め、杉本が探しにくるのを待とうと思った。 仕方がなかったのだ、と思った。

 忍びとしての正体を知られた以上、忠兵衛を生かしておく訳にはいかなかった。

鮎は唾を吐いた。舌が痺れている。

 鮎は、口に含んだ小さな毒袋を直接忠兵衛の口の中へ、押し込んだのだ。多少の毒は鮎の口内にも侵入するが、鮎たち女忍びは幼時から少量ずつの毒を飲んでいるので、身体が毒に対する耐性を持っている。

(苦しまずに、死ねただろうか……)

毒は附子から精製したもので、身体じゅうの感覚が麻痺し、最後に呼吸が止まる。麻痺により死に至るので、あまり苦しまずに済むと思われていた。


鮎は、おのれが思いのほか平静でいられることに、少なからず驚いていた。

忠兵衛への想いは、自分でも始末に困るほどであった。この生活ができるだけ長く続いてほしい、と願っていた。忠兵衛の自分への想いも痛いほど感じられたし、こんなにまで心と心が触れ合ったことは、いままでなかった。


(しかし……。所詮わたしは忍びなのだ。役目のためなら親兄弟をも殺す)

と言っても、親兄弟を知らぬ鮎であった。 篝火が見えた。

 それが、滲んでいる。奇妙に感じて、鮎は目に手をあてた。

涙、だった。鮎は知らぬ間に、涙を流していたのだ。

(――泣いている)

そう思った途端、激しい感情が込み上げてきた。

鮎は脚を止めた。例の蔵はもうすぐそこだった。だが鮎は、もうそこへ辿り着く自信がなかった。狭い路地に身を寄せた。

 そして、泣いた。

泣きながら、鮎の胸中にはある決意が生まれた。

忠兵衛を救わねばならない、と思った。

たとえ我が身を滅ぼそうとも、忠兵衛を救わねばならない。


鮎が忠兵衛宅にとって返すと、忠兵衛はうつ伏せになり、最期に水を飲もうとしたのか台所に頭を向けて倒れていた。

目は、虚空を睨み、意識はなかった。

 鮎は胸に耳を宛てがう。心ノ臓の動きを確かめる。


(――まだ、動いている) 

鮎は、水瓶から柄杓で水を汲み、頬を膨らませて口に含んだ。それを口移しで忠兵衛に飲ませる。それを何度も繰り返す。瓶が空になると、裏庭の井戸で水を汲んだ。忠兵衛の腹が膨れるほどに、鮎は水を注ぎ込んだ。

すると、忠兵衛が呻く。鮎は忠兵衛をうつ伏せにして、胃の腑のあたりに手のひらを宛てがい、ぐうとばかりに押す。すると忠兵衛は飲み込んだ大量の水を吐き出した。

 吐き終わると、鮎は再び忠兵衛の口に水を流し込んだ。  


(胃の腑の毒を全部出さねば……)

飲ませては吐かせ、吐かせては飲ます。それを鮎は明け方まで続ける。すると青黒かった忠兵衛の顔色に、次第に朱がさしてくる。それを見てゆっくり頷くと、鮎は忠兵衛の身体を抱えて、夜具の上へ寝かせた。解毒作用のある丸薬を飲ませる。

そして忠兵衛の枕元に端座したまま、みじろぎもせず、じっとその様子を見守った。

忠兵衛はそのまま、さらに翌日の明け方まで眠り続けた。


「……鮎」

忠兵衛は目を覚ました。

「気が付かれましたか、旦那さま」

忠兵衛は目を閉じる。そうしてわずかな間、記憶を辿っている様子だった。

「……儂を、助けてくれたのか」

鮎はその問いには応えない。揃えた両膝の前に手をついて、言った。

「わたくしは豊臣方の忍びでございます。いままで旦那さまをたばかっておりましたこと、お詫びを申し上げまする」

忠兵衛は目を閉じた。

「儂がそなたの正体を見てしまったゆえ、殺そうとしたのだな」

 鮎は頷いた。

忠兵衛はゆっくりと目を開け、ぼんやりと虚空を見つめた。

「……そなたは、これからどうするのだ」

鮎は、静かに応えた。

「死にまする。主を裏切った忍びは、生きてはおれませぬ」

忠兵衛は再び目を閉じた。

 目の端から、涙が溢れた。

「……儂のために、そこまでしてくれたのか」 この男の中では、自分を殺そうとしたことなどは飛んでしまい、ただ、女が命を懸けておのれを蘇生させてくれたことだけが、残っている。

「儂も死ぬぞ鮎、ともに死のうぞ」

「――何をおっしゃいます。死ぬはわたくしいち人のこと。旦那さまは望み通り手柄をおたてになって、立身してくださいまし」


 忠兵衛は上体を起こした。鮎が背中に手をあてて、忠兵衛を支えた。

「そなたが死んでは、立身の甲斐もない。せめて名のある侍と手合わせして、あれが當馬忠兵衛の働きよと、敵味方に言われて斬り死にするわ」

 ふたりは、いずれからともなく、ひしと抱き合った。

それからひと刻ばかり過ぎ……。

 庭には重代の甲冑に身を包んだ忠兵衛の姿があった。

 樫の棒を「えい」という気合ととも振る。腰が定まらず、重さにつられて二歩三歩と、たたらを踏んでしまう。


「――旦那さま」

 鮎が心配げに見つめている。

「大丈夫じゃ。身体はじきに戻る」

「申し訳ございませぬ」

「気にするな」

 忠兵衛は再び棒を振る。次第に腰に力が溜まるようになってくる。

忠兵衛は鮎の拵えた湯づけを三杯も腹に収め、水杯を交わす。「しばし、お待ちを」と鮎が言い、家の中へ入る。少し経って鮎が現れる。忠兵衛は、目を見張った。

 長い髪をばっさりと切り、後ろで結んでいた。晒し布を胸にきつく巻つけ、胸乳を覆い隠している。小袖の裾を端折り、剥き出しになった臑には脛巾をあてている。

代え槍を小脇に抱えたその姿は、主人に付き従う若党のそれであった。

忠兵衛は夢を思い出した。あれが正夢になるかも知れぬ、と思うと胸が痛んだ。だがしかし、それも定めならば仕方がない、と思った。いずれにせよ、浄土に旅立つのはひとりではないのだ。

忠兵衛はかねて用意の旗差物を背に差した。 旗差物は、戦さ場で敵味方から誰であるかがよくわかるように各々工夫を凝らし、競って個性的な文様、形をしたものを作らせた。 孔雀の羽をあしらったものや黒鳥毛、唐傘など、変わったところでは張り子の杵や蕪、釣分銅などもある。

忠兵衛の旗差物は、白地の布に長方形が四つ描かれ、その中に×と│と・がそれぞれ白抜きに染め出されている。ひとつは黒に塗り潰されたままである。 

鮎がそれを見上げて首をかしげる。


「わからぬか」

鮎は頷いた。これまで見たこともなかった。「算木じゃ。これが六個ひと組で盤上に並べて四則、開平、開立などの計算をするのじゃ」

「しそく、かいへい、かいりつ……」

忠兵衛は笑った。

「鮎が知らぬも無理はない。おおよそ人が生きていくために必要な計算はすべてこの算木でできる」

「……」

「まあよい。だが算木の旗差物であればな、後で寄せ手からあれは誰だと聞かれた時に、城方の者は、家財方の儂とわかるであろうよ」 なるほど、感心して鮎は算木の旗差物を見上げた。


「――行くか」

忠兵衛が声をかける。「はい」と鮎が応えた。

が、忠兵衛は立ち止まる。

「……どうして総構えを越えようかのう」

勝手に持ち場を離れることは、当然軍令に違反する。無理やり越えようとしても十に八、九はその場で斬り捨てられるし、万が一無事に越えられたとしても、名高い障子堀の手前で寄せ手の鉄砲の餌食となるだろう。

「わたくしにお任せくださいまし」

 鮎が言う。

「われら豊臣方の忍びが使う抜け穴がございます。それを使えば蓮池の先、徳川の陣城の手前に出まする」


忠兵衛は頷いた。


( 徳川か……)


 忠兵衛は夢で見た伊井の赤備えを思い出した。忠兵衛は怖じけを払うように、首を振った。

「では、案内してもらおうか」

 と、歩きかけた時であった。

 庭先から、ぬっとばかり顔を覗かせた男がいた。

組頭の津田八右衛門であった。

「――これは、組頭さま」

津田は目を丸くして、忠兵衛の格好を見た。「――何じゃ、その格好は」

忠兵衛は何と応えていいやら、戸惑っていると津田は続けて言った。

「昨日も今日も出仕せぬゆえ、何ごとかと思って見にきてみれば、いったいどういう事じゃ」 忠兵衛は意を決して、口を開いた。


「――わたくしは戦さに参ります」

「――何と」

津田は何ごとが言わんしているが、あまりのことに言葉らならないのか、口をしきりにぱくぱくさせている。

「止めても無駄でございます。子細あって當馬忠兵衛、武士のいち分を立てんがため、これなる若党とともに敵陣に討ち入り、斬り死にする所存にございます」


「――ば、馬鹿なことを。戦さは終わったぞ」

「――えっ」

「御屋形(氏直)さまが尾張内府どの(織田信雄)の陣所に降られた。昨夜のことじゃ」

「――戦さが、終わった……」 


津田は周囲を見渡すように、首を大きく振った。


「よう耳を済ましてみよ。鉄砲の音がやんでおるだろうが」

 忠兵衛は言われた通りにする。蝉の声がする。その他は、不気味なくらいに静かだった。

「終わってしまった……」


 忠兵衛は全身の力が抜けていくのを感じていた。すとん、とその場に両膝をついてしまう。

「――我らの戦さはまだ終わらぬぞ當馬。城を開け渡さねばならぬかも知れぬ。兵糧から武器、弾薬その他もろもろの目録を作らねばならぬ」

「――儂はいやじゃ」

 膝をついたまま、忠兵衛は駄々っ子のように言った。 

「何のためにそんなものを作るんじゃ。戦さは終わった。我らは負けたんじゃ。もう、どうでもよいではないか」

「――何を言うか當馬」

 津田は泡唾の飛沫を忠兵衛にかけつつ、言う。

「このような折りこそ、しっかりとした目録を作り、憎き関白めに、さすが北条の者ども、あっぱれよ、と言わせてみようじゃないか」


「――言うか、そのようなこと」


「では、おのれ、出仕はせぬと言うか」

 津田は腰に差した打ち刀の柄に手を掛けた。

「軍令に背かば、斬り捨て御免ぞ」

 津田が刀を抜こうとしたその時であった。

忠兵衛が「うおーっ」と獣じみた声を上げ、例の樫の棒を振り回して、津田に襲いかかった。

津田は身を躱したように見えたが、忠兵衛は最初から津田を傷つける気持ちはなかった。樫の棒は津田の斜め後ろにあった柿の木を直撃した。周囲ひと抱えほどもありそうな柿の木は、まるで落雷を受けたかのように縦に引き裂かれている。

それを見た津田は、腰を抜かさんばかりに驚いて、転げるように庭の外へ出た。

「とにかく出仕はせよ。これだけれは言うでおくぞ」

と言い残し、走り去って行った。

忠兵衛は柿の木に突き刺さったままの樫の棒を打ち捨てた。

その場にどすんとばかり、座り込んだ。


「……何ということじゃ。戦さは終わってしまった」

鮎は、かける言葉もなく、ただ立ち尽くした。

「鮎よ、儂は腹を切る」

 忠兵衛は脇差を抜き、膝の前へ置く。具足を脱ぎ、筒袖の前をはだけた。

「――おやめくださいまし」

 鮎は、どうしていいやらわからなかったが、取り敢えず止めねばならぬ、と思った。そして「まず、わたくしを刺してくださいまし」と言った。

忠兵衛は鮎の肩に手をかけた。脇差の切っ先を鮎の喉にあてがう。

が、できない……。

忠兵衛は脇差を放り出した。

「――この先、儂はどうすればいいのだ」

と、その時、ふと目の前に落ちている銭に気づいた。三途の河の渡し賃にと六文を打飼袋に入れておいたのが、はずみで転がり出たのだった。

忠兵衛は、その銭を一枚拾いあげた。

そして、じっと見つめた。鮎も何事かと、同じようにその永楽銭を見つめている。

「……これからは万事銭の世の中か」

 忠兵衛はつぶやくように言った。

そして、その銭を押しいただく懐に仕舞った。

「ここで腹を切ってもせんない話じゃ。いっそ死んだ気になって、ふたりで商人にでもなるか」

鮎は、大きく息を吐いた。鮎は忠兵衛に死んでほしくはなかった。ふたりで生きていたいと、この時心底から思った。


追っ手に討たれれば、それまでのこと。そう覚悟を決めると、心は急に軽くなった。

「わたくしは近江の生まれでございます。あの地には遠くの品々を買い集め、都やお城の市などで商いをする者がたくさんおりまする」 忠兵衛は大きく頷いた。


その夜、忠兵衛と鮎は密かに小田原城を抜けた。

それから数年の後。

移封なって、徳川の城下町となった江戸。 半蔵門の近く、麹町二番町の一角、平河天満宮の近くに諸国の乾物などを扱う店があった。

夫婦と小僧がふたりの小さなお店であったが、商売は堅く、繁盛した。やがて店は代を重ね、享保のころまで続いたという。

屋号は『安土屋』。暖簾にはなぜかこのころは算盤に押されて使われなくなった、算木が描かれていたという。

(了)

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