温泉街での一幕
夕暮れは、人の心に郷愁の念を覚えさせるという。アスモデウスの領域を脱した俺たちを待っていたのは、美しい夕陽だった。戦いを終えた俺たちに帰ることを促しているかのような、そんな夕陽だった。だが、俺の心はそれを受け入れない。悪名高き魔王との戦いに向けて熱を上げ続ける。今の俺にとってあの夕陽は、心の深淵に燃え盛る闘志の写し身だ。
「――とまあ、人が張り切っていたのに、なんでこんな所に連れてきた?」
あちこちから湯気が立ち上っている。人々の楽しそうな声が聞こえてくる。サタンどころか、魔物一匹いやしない。当然だ。ここはどう見ても、ただの温泉街でしかない。
「ここにサタンがいるからよ」
自分の耳を疑う。予想外過ぎる言葉に、ルーナの顔面を凝視してしまった。
「正確には、あの山にだけどね」
そういって指差したのは、街を出てすぐの所にある大きな山――煙を噴いていることから、火山だろう――だった。山の中腹より上は岩肌が剥き出しになっている。
「正気か? 町のすぐそばだぞ。なんでそんなところに」
「町のそばに山があるんじゃなくて、町が山のそばにあるのよ」
いまいち要領を得ない説明、なんて頭の悪い女だ。
「サタンがあの山に棲んでるってことが分かってから、この町が造られたってこと。観光地の目玉にしようと考えてね。まあ、見れば分かる通り、その目論見も成功したわけよ」
俺の意思が通じたのか、ちゃんと捕捉の説明を追加した。しかし、なんともまあ、神をも恐れぬ所業と言うが、これはまさに悪魔をも恐れぬ所業だな。
「そうか。ま、何にしても行くことは変わらないんだ。さっさと山に向かうか」
てくてく歩き出そうとすると、三人がそれぞれに反応を見せる。
「仕切ってんじゃないわよ、サル」
「何言ってんだ、ハル。せっかく温泉街に来てんのに、温泉入らないでどうすんだよ」
「えっと、私も服を直してからの方が……」
さらに、イナコーがこそこそと耳打ちしてくる。
「ほら、周りの温泉宿の看板見てみろよ。混浴って書いてある店もあるんだぞ。行かないでどうするんだ? 人生投げ捨てる気か?」
混浴風呂に入ることが人生かよ。――いいじゃないの。混浴なんて、現実なら見え見えのハニートラップでしかないが、ここはゲームの中、夢を追って生きることが許された場所だ。踏み込んでみる価値はあるだろう。いや、間違いなくあるね。
「たしかに、一度休んでから行くというのも悪くないな。じゃあ、皆で温泉に行きまし――」
突然、悪寒を感じた。何か、とてつもなく恐ろしい何かが迫ってきているような、不吉な予感。一歩一歩確実に近づいてきて、もう、すぐ後ろに立っているような気配が――
「あら、浩輔じゃない」
「あ、本当だ。浩輔君、やっほー」
背後から聞こえたそれは、イナコーを呼ぶ声だった。とてもフレンドリーな口調なのに、なぜか威圧感を伴っていた。どこか、聞き覚えのある声だった。なので、とりあえず振り向く。
「――おおう。イナコー、お前温泉どころじゃないらしいぞ」
二人の女性が立っている。一人は栞ちゃんだ。イナコーを君付けで呼んだ方だな。相変わらずの茶髪に活動的な服装をしている。だが、肝心なのはもう一人の方だ。これが面白いことに、イナコーの彼女(本命)の城崎麗奈さんだった。髪型はネイと同じ黒髪ロングで、長い睫毛に切れ長の目、身長は俺と同じくらいだが、足は俺より長い。いわゆる、クールビューティだな。
「人見君も一緒だったんだ。ゲームで会うのは久しぶりね」
「そうですね。どうもお久しぶりです、城崎さん。栞ちゃ、九条さんは一昨日ぶりだね。と言っても、挨拶もろくにしてなかったから、俺の事は覚えてないかな」
「ううん、そんなことないよ。人見君の事は浩輔君からよく聞いてるからね。昨日も……、あ、そうそう、昨日は人見君いなかったけど、昨日も私、浩輔君と一緒だったんだ。朝からずっと」
聞いてもいないことを話してくる上に、目が俺の方を向いていない。横目で城崎さんの方を見て、いや、心なしか睨んでいる。対して、城崎さんは栞ちゃんににっこりと笑いかけた後、その笑顔のままゆっくりとイナコーの方を向いた。
「実はね、浩輔。私、この子とも意見の行き違いがあるみたいなの。だから、貴方から話してあげてくれない? ほら、唯ちゃんだっけ。今日、あの子に話したみたいに、ね?」
唯ちゃん? 知らない名前だな。ここは一つ、聞いてみようか。
「イナコー、一体何があったんだ? 唯ちゃんて誰よ?」
小声で問いかけてみると、イナコーも小声で早口に答えた。
「放課後、麗奈に呼び出されただろ? 合コンで仲良くなった唯ちゃんとちょっと遊んだことを知られてさ、やれ、唯ちゃんを呼び出せだの二度と会うなだのと大騒ぎだったんだ」
「え、何それ。つまり、三股掛けてたってこと? ハッハッ、男前だなあ」
将来の職業はホストか営業回りで決まりだな。きっと、天職になることだろう。
「馬鹿言うな。俺は多分、麗奈一筋だ。三股どころか、浮気一つした覚えもきっとない」
ところがどっこい、世間はそう見てはくれないんだなこれが。その証拠に、後ろに控えている我がパーティの女性陣が、極めて冷たい疑惑の視線をイナコーに向けている。
「ところで、浩輔は女の子の知り合いが多いみたいだけど、後ろにいる二人も、お友達?」
城崎さんが言った。「お友達?」の部分だけやたらと低い声で言った。
「いや、違う違う! 二人とはただの知り合いって言うか、冒険仲間って言うか……。とにかく、無用の勘繰りだって! 二人はハルと仲が良いんだから! うん、そうそう。二人はハルの友達。俺からすれば、友達の友達ってだけ」
素晴らしいな。本人たちが見ている前で、ここまで堂々と嘘をつけるとは。
「人見君、今の本当?」
「私も気になるな。昨日はあえて聞かなかったけどさ。ねえ、教えてよ、人見君」
何か知らんが、俺にとばっちりが飛んできた。ていうか、城崎さんと栞ちゃんはどこでどうやって知り合ったんだ? フレンド同士は互いの場所が大まかには分かるから、ここに現れたことに驚きはない。だが、この二人が一緒にいることが謎でしかない。
「おいハル、上手く答えてくれよ? 頼んだぞ」
まあ、どうでもいいか。とりあえず、どう答えたものか、逡巡する。真剣な目で訴えてくるイナコーが隣にいて、振り返ると、心底嫌そうな顔をしているルーナと、その横で複雑な表情をしているネイちゃんがいる。よし、腹は決まった。
「さあ? 俺もイナコーの人間関係を把握しているわけではないので何とも。ただ、二人は九条さんをイナコーの彼女だと思ってたみたいですから、イナコーとは友達レベルの関係だっていう話は、まあ、本当じゃないかと思いますけどね。本当の所は知らないですけどね」
「おぉいっ! お前、なに言ってんの⁉ なに言っちゃってんの⁉」
イナコーが動揺している。城崎さんが額に青筋を立て、栞ちゃんが優越感溢れる笑みを浮かべている。いやー、正直に話すって気持ちいいなあ。
「ふうん、そうなんだ。いいけどね、別に。全然別に気にしてないわ。誤解は誰にでもあるだろうから。――けど、それはそれとしてね。人見君、浩輔連れて行っても良いかしら?」
全然別に良さそうじゃない。明らかにブチギレ寸前の雰囲気だ。ここで「連れて行っちゃダメです」なんて言ったら、嫉妬の炎の巻き添えを食らうだろう。イナコーが顔を青くして震えているが、仕方ない。俺の保身のために尊い犠牲になってもらおう。
「どうぞどうぞ。今ちょうど一段落ついた所だったので、俺は構わないですよ」
「ええっ⁉ いや、ちょ、全然、全然構わなくないでしょ。これからサタン倒しに行くって話だったじゃん! 俺がいなかったら困るだろ? 困るよね? 俺を庇ってよ、ハルぅ!」
顔が近い。まったく、往来で大声を出してみっともない。……とはいえ、少しは可哀想でもある。二人の彼女から責められそうになってるんだからな。ここは武士の情けで――
「え、これから行こうとしてたのは温泉だけど? お前が勧めてくれた、混浴の、温泉だけど?」
崖の底まで突き落とそう。そして、頑張って這い上がって来てもらおう。
「ふうん、混浴、ね」
「わー、楽しそう。羨ましいなー」
城崎さんは目をそばだて、栞ちゃんは棒読み、イナコーは完全に沈黙状態。――終わった。
「それじゃあそろそろ、お暇しようかしら」
「急に呼び止めてごめんね。温泉楽しんでね」
別れを切り出す二人。二人の手はしっかりと、イナコーの襟首を掴んでいる。彼女AとBに引きずられていく男、その姿には、哀愁が漂っていた……。
――ふう。やっと、重苦しい空気から解放されたか。とんだ無駄な時間を過ごしちまったな。
「さて、嵐も去ったことだし、俺達も行くか」
「温泉に?」
「温泉はもうどうでもいい。ネイちゃんが言ったように、このボロボロの服だけ直して、さっさとサタンの所に行こうと言ってるんだ」
無表情に問いかけてくるルーナに、真顔で答える。すると、一拍置いてからルーナが一つの建物を指差した。煉瓦造りや石造りの欧風建築物が立ち並ぶ中で、唯一の木造建築物、和風の温泉宿が異彩を放っている。そのためか、足を止めて宿の外観を眺めている人も多い。
「行くわよ」
コイツは俺の話を聞いていなかったのだろうか。温泉はどうでもいいと言ったはずなんだが。……ま、行きたいというなら別に止める理由もない。ついて行ってやろう。
「言っておくけど、混浴じゃないから」
「くそどうでもいいわ」
ネイの手を引いて暖簾をくぐるルーナ。俺もその後に続く。中に入ると、着物を着た女将さんらしき人が応対してくれた。入浴の受付を済ませて奥に進むと、土産物屋やラウンジ、座敷型の食事処や宴会場などが目につく。全体的に、年季の入った建物という感じのデザインだ。
更に進むと、お約束のマッサージチェアがあり、男女で分けられた更衣室に到着する。
「それじゃあね。覗くんじゃないわよ、サル」
「また後でね、ハル君」
二人と別れて更衣室に入る。そこそこ客がいるが、それより、洗濯機の様な物が気になった。
「……なるほど。風呂に入ってる間に修繕してくれるのか」
それならそうと言えよな、あの銀髪女め。悪態をつきながら手早く着替え、機械に服をぶち込む。すると、自動的に起動し、修繕が始まった。建物と違ってこっちはハイテクだ。
風呂場への扉を開けると、やたらと広い露天風呂が目の前に広がる。大きさ的には、風呂と言うよりも温水プールだろう。百メートル四方ほどの敷地にいくつか湯船があり、他にもサウナや、なんか滝みたいなのもある。夕陽をバックに、一番大きい湯船につかる。
「んー、いいもんだなあ」
風呂が広いというのはそれだけで価値がある。そう思わずにはいられない気分だ。他の客も少なくはないのに、ここまで広いと何も気にならない。……ふと、空を見上げてみる。立ち上っていく湯気、夕陽の煌き、そびえ立つ竹柵。
「――しかし、今更だが、男女を分ける意味が分からんよな」
どうせ水着なのに。まあ、気分的にリアリティがあって面白いからいいけども。
「やめといた方がいいぜ、兄ちゃん」
「うぉ⁉」
背後からの突然の声に反応すると、そこには、全く見知らぬジジイがいた。
「なんだ、あんた?」
白髪のゴリゴリ筋肉ジジイは俺の質問に答えず、勝手にしゃべり始める。
「あの柵を上ろうとしたり、壊そうとすれば、おっかない女将が飛んでくるんだよ。無粋だよなあ。ゲー
ムの中でくらい、漢のロマンを追わせてくれたっていいのによう」
筋肉ジジイが無精髭を撫でながら黄昏る。どうでもいいが、馴れ馴れしいなこのジジイ。
「その口ぶりだと、あんた、さては試したな?」
「はっはっは! いや、つい好奇心に釣られちまってなあ。ま、だから止めときなってこった。兄ちゃん、さっき可愛い子を二人も連れてたろ? 絶対やらかすと思って声を掛けたんだよ」
豪快に笑いながら、かなり失礼なことを言う。このジジイ、俺を見くびってやがるな。
「あのな、ジジイ。俺はサタンを倒しに来たんだ。遊び気分で来たわけじゃないんだ」
耄碌したジジイの耳でもはっきりと聞き取れるように、ゆっくりと言ってやった。
「……そうか。無料で女湯を覗き見れる道具を貸してやろうと思ったんだがなあ。いらないか」
「いやー、御大将、素敵な筋肉ですねえ! ぜひ、今の話を詳しくお伺いしたいもんですなあ!」
蠅もびっくりのスピードで両手をすり合わせ、にっこにっこスマイルを作る。
「え、そうかい? まあ、筋肉にはちっとばかし自信があるからねえ! ハッハッハッハ!」
そんなことはどうでもいから、さっさと覗き道具をよこせ。
「ええ、本当に素晴らしい筋肉かと! ……それで、の・ぞ・きがどうとかいうお話でしたが?」
「ん? ああ、そうだったな。兄ちゃんみたいな立派な男なら、こいつを使いこなせるだろ」
と言って渡してきたのは、一台の液晶タブレットだった。
「俺が所有する人工衛星を利用した、世界中どこでも覗けるハイカラな代物よ。貸してやるから、早速見てみな。もろもろの設定は済ましてあるから、あとは覗くだけだぜ」
「御大将! 流石です! 一生ついて行きます(嘘)! ――では、さっそく!」
タブレットの電源をON。点灯&お覗きタイムを開始する。




