序章
馬に乗って駆けている。長きに渡って苦楽を共にしてきた戦友二人と共に、森の深層を駆けている。真昼の日差しは木々に遮られ、冷たく湿った空気は全身の体温を奪っていくかのようだ。苔むした岩肌、聳え立つ樹木、仄暗く厳かな雰囲気が、余計にそう感じさせるのかもしれない。辺りには雨の後の草木の匂いが満ちており、馬を通して感じる土の感触はとてもやわらかく、ここが肥沃な土地であることが伝わってくる。
周囲に目をやれば、ウサギやリスなどの小動物、オオカミやクマなどの大型動物が視界に映る。しかし、干渉してくる気配はない。追われることも、吠えたてられることもない。静かな森だ。馬蹄の音を除けば、木々のざわめきや、時折こだまする鳥の囀りだけが、この耳に届く全てなのだから。
やがて、景色が移ろい始める。前方には霧が立ち込め、耳に微かな波音が聞こえてくる。その音を頼りに、上りと下りが交錯する緩い傾斜を駆け抜ける。少しずつ平坦になっていく道、その先を目指して、更に馬を走らせ続ける。すると漸く、目的地となる開けた場所に出た。
湖のほとり、辺り一帯を薄い霧に包まれているため全容は視認できないが、大きな湖が目の前に広がっている。馬から降り立つ。しばしの間、その光景に目を注ぎ、波の音に耳を傾ける。
「……ここに、いるんだな」
一人の友が口を開いた。呟くようなその言葉に、もう一人が反応する。
「ああ、間違いない。……しかし、改めて考えてみると、今回の依頼は厄介だな」
嘆息交じりの重い口調が耳につく。しかし、それには共感もできた。なぜなら……。
「おっと、どうやらお出ましみたいだ」
思索に耽っていると、二人目の友が声を上げた。見ると、霧の奥に二つの大きな黒い影が浮かんでいる。徐々に、こちらに近づいてきているようだ。
「……見えてきたな」
双影の姿が次第に明瞭になり、それと共に獣の息遣いが聞こえてくる。ぼんやりと浮かぶ獅子の頭、その背上には山羊の胴体、尻尾は大蛇そのものに見える。
――キマイラだ。火炎を吐き、雷を呼び、猛毒を吹き付ける怪物、それが番で姿を現した。目測だが、どちらも体長は五メートル前後、体高は三メートル近くある。一般の人間であれば、一目散に逃げだすのが正解だろう。……やがて、二頭の姿がくっきりと目に映る。その時だ。突如、強烈なアラート音が鳴り響く。遠い昔に聞き慣れた音、これは、己以上の強者に遭遇したときに鳴る警告音だ。しかし、そんな警告など、自分には余計な世話だ。そも、キマイラなど、これまでに百を数えるほど狩り殺してきたのだから。
…………ではなぜ、アラート音は鳴ったのか。それは、今回に限って発生した此方側の事情に起因している。――そう、
「なにせ、面倒な条件だ。『キマイラ二頭を防具無しで倒せ』なんてな」
俺たちは、パンツだった。
「――来るぞ!」
嗚呼、ならば開戦といこう。この手に剣を、この身に布切れを、二頭の魔獣討滅が此度の我らが使命なればこそ。――俺の視界の左上では、二本のゲージが新緑と黄葉に染まっている。
【Eosphorus】 それが、このゲームのタイトルだ。
二〇三〇年十二月、《VR・MMO・ARPG》として日本からリリースされたこのゲームは、瞬く間に全世界で流行し、約半年ほどでプレイ人口は六千万人に到達した。
その要因は、大きく分けて二つある。一つは、同時リリースされた《CVギア》により、意識と五感の全てをリンクさせることで、あたかも遠き別次元の世界にいるかのような錯覚を覚えさせてくれる《完全同調システム》が、人々を熱狂させたのだ。
そしてもう一つ、「果てなき自由」を謳うこのゲームは、RPGでありながら、明確な目的が設定されていない。プレイヤーを縛るものを可能な限り排除したそこでは、戦いに身を置く、産業に従事する、世界を渡り歩く、一つの土地に住み着く、それら全てが自由だ。
だからこそ、裾野は広がり続ける。
現実の大陸図を投影したその世界で、人々は第二の人生を謳歌するのだ。
其は正に新時代の到来を告げる存在、【Eosphorus(明けの明星)】となった――。