エピローグ
短いです。
ドレイファス伯爵は、新たに借金のかたに引き取られてきた農民の娘を、ねっとりした視線でじろじろと眺め渡した。
「ううむ‥。なかなかに美人だ。色は黒いが、肌が吸いつくようだな‥。グフフ。」
それから背後に控える執事に、地下牢に入れておけ、と指示をした。
娘は恐怖で震え、悲鳴とも泣き声ともつかぬ声を洩らしながら、ずるずると引きずられていく。
「それで‥? 『勇者』の娘はまだ行方が解らんのか?」
伯爵は自分一人では立つのもやっとな巨体を揺らし、不機嫌そうな顔で執事に尋ねた。
「はい‥。母親の方は掴まえてありますが、娘はどうやら使用人に売りとばされたらしいとかで、誰も行方を知らないそうです。」
執事はくたびれきった顔の中年男だ。
手元の報告書らしい紙に目を落としながら、ぼそぼそと報告している。
伯爵は眉間に皺を寄せながら、机の上の砂糖衣を塗りたくった大きな焼き菓子をつかみ、口に放りこんだ。
「ふん‥! 奴隷商人にも手を回せ。わしの嫁を勝手に売りとばした下賤の者は、見つけ次第、鉱山にでも放りこんでしまえ。まったく、腹立たしいの!」
ぶつぶつ言いながら二つめの菓子に手を伸ばして、伯爵はいましがたまで確かに置いてあった焼き菓子の皿が、空っぽであることに気づいた。
舌打ちして、追加の菓子を頼もうとしたところで、執事もいなくなっていることに気づく。
「おいっ‥! どこへ行った? 誰かおらんか!」
「だあれもいないわよ? ちょっと休んでもらってるの。」
目の前に立っていたのは、虹色に光り輝く髪を靡かせた美しい女性だ。
「‥‥何者だ?」
「あたしはルチア。元勇者の妻よ。あんたが勘違いしているようだから、親切心で教えにきてあげたの。」
「勇者の‥‥元妻だと?」
ドレイファス伯爵の頭上にいきなり、履いていたはずの靴が現れ、ばしんばしんと頭を叩いた。
「いたたた‥! 何だ、いったい‥!」
「バカすぎだわ。『元』は勇者にかかるのよ? あたしは今も正式な妻なの。理解した?」
「その勇者の妻とやらが何の用だ‥‥いたた!」
「『とやら』がよけいね。」
室内用の柔らかな革の靴が、なぜかやたらと重い塊となって容赦なく伯爵を叩き続ける。
「まあ遊びはいいか、時間もないし。」
ルチアが手をひと振りすると、伯爵の目の前にすわりこんだままの女性が現れた。
「久しぶりねえ、アンシア。」
呆然とした顔で周囲を見回していたその女性は、声のする方を振り向いて目を瞠った。
「け‥賢者ルチア!」
ルチアはつかつかとアンシアに近づくと、凍りつきそうなほど冷たい微笑を浮かべた。
「十四年前はよくも、三人がかりであたしを騙してくれたわねえ? ‥まあそれはあたしも短気だったからね、いいとするわ。だけど、あんたがミーシアにしたことは絶対に許せない。身をもって償ってもらおうじゃないの?」
ひい、と押し殺した悲鳴を上げ、アンシアは後ずさった。
震えながら、助けを求めるように部屋中を見回しているが、部屋にいるのは自分の靴で頭を叩かれ続けている伯爵だけだ。
「あ、あたしが何を‥‥」
「そこにいる豚の嫁にはあんたがなるのよ。せいぜい生きながらえることね。」
ルチアは冷たい目でアンシアを見下ろす。
アンシアはさあっと青ざめる。
「そこの勘違いしている豚男。あんた、ずいぶんと非道なまねをするじゃない? ‥地下にいる人たち、みんなあんたに騙されて死にかけていたから、回復させて外に出してあげたから。」
「なっ‥! なんだと? 何の権利があって‥‥痛い、痛い、やめろっ!」
伯爵は怒りながらも、激しくなった靴の攻撃にたまらず、椅子から滑り降りた。そして頭を両腕で庇って、何とか巨体を無理矢理にテーブルの下に潜り込ませる。
しかし息をつく暇もなく、今度は四つん這いになった大きな尻を、絶好の的であるかのように靴が叩き始めた。
「『何の権利があって』ですって? その言葉、そっくり返すわよ。あ、証文はぜーんぶ燃やしたから。」
「‥は?」
「借金の証書だけじゃなく、奴隷契約書とかいろんな契約書、もちろん鉱山関係者との不公正な契約書もね!」
からからと虹色の魔女は笑った。
尻を叩かれ続けていながらも、伯爵は怒りに顔を真っ赤に染め、テーブルの下から這いずり出てくる。
「ふ、ふざけるな! そんなことをして、ただですむと思っているのか!」
「だからねえ、それはこっちのセリフなの。」
ルチアは冷ややかな視線を伯爵に向けた。
「誰に手を出したのか、今からそのむくんだ体にしっかり教えこんでやるわ。‥アンシア、あんたもね。」
ルチアの掌が虹色に輝いて、すうっと二つの指輪が現れる。銀色で、何の飾りもないシンプルなものだ。
「結婚祝いよ。これはね、古代から伝わる禁呪の魔道具で、この世に二つとない貴重品なのよ。二人ともそういうの好きでしょ? 売ればものすごいお金になるわね。外せないから売れないけど。」
「二つとない貴重品がなぜそこに二つあるのだ! 瞞されないぞ!」
「き‥禁呪? 呪い‥?」
ルチアが得意げにかざした指輪を見て、二人はそれぞれ声を上げるが、呪いに怯えるアンシアに対し、ドレイファス伯爵は今ひとつ状況が理解できていないようである。
ルチアは侮蔑と憐憫のたっぷりこもった目で伯爵を見て、にやりと笑った。
次の瞬間二人の指には呪いの指輪が嵌っていた。
「ぎゃあああっ、嫌、嫌だってば! 外して、お願い、謝るから!」
叫んだのはアンシアだ。
「謝って済むレベルはとっくに超えてるのよ、アンシア。良かったじゃないの、伯爵夫人よ? 平民に落とされたあんたには大出世でしょ。」
「勝手に何をほざいている! わしが嫁にするつもりだったのは『勇者』の血を引く娘で、こんなあばずれではないぞ!」
一生懸命指輪を外そうとしながら、伯爵は大声でわめいた。
「それが身の程知らずだと言ってるんだけど? やれやれ、豚だけに人の言葉が理解できないらしいわねえ。」
ルチアは伯爵に向きなおった。
「ルチア・ガレットの名において命ずる。『反作用の指輪』、始動せよ。」
二人の指に嵌った指輪が虹色にきらきらと輝き始めた。
やがて光が収まると、指輪には複雑な紋様がくっきり刻まれていた。
「これはね。心で望んでいることと、正反対のことしかできなくなる呪いの指輪なの。今からざっと八百年ほど前に、当時聖人とまで称えられた王様を悪辣非道な王様に変えちゃったという怖ろしいもので、作ったのは国を乗っ取ろうとした闇魔導士らしいわ。もっとも半年もしないうちにかわいそうな王様は、心が耐えきれなくなって死んじゃって、闇魔導士は捕まえられて逆にその指輪を嵌められ、残りの一生を世のため人のために尽くしたそうだけど。」
ルチアはにっこりと不穏な笑みを浮かべた。
「ほうら、結婚の誓約書よ。」
伯爵は目の前に差しだされた誓約書を受け取ってしまった。
誰が署名するものか、と言おうとしたのに口と手が勝手に動いてしまう。
「アンシア・リュドミラを正式なる妻に迎え、生涯大切にすると誓う。」
(こんな薹が立ったあばずれ女など、せいぜい奴隷だ! 冗談じゃない! ああっ、なぜ勝手に手が‥!)
アンシアも、伯爵の横に寄り添って署名をする。
「う‥。誓います。」
(嫌よ、こんな変態豚の嫁になんかなってたまるもんですか! 逃げるのよ、わたし‥!な、なんで体が動かないの! 何で笑ってるのよ、わたしのばかぁ!)
心の叫びが強いほど、よけいに逆の行動を取ってしまうようだ。
「二人とも大人しく従ってくれて良かったわ。」
ルチアがパチンと指を鳴らすと、ソファの横に呆然と立ち竦んでいる執事が現れた。
青ざめて汗をだらだら流している。
どうやら姿隠しの魔法をかけられていただけで、ずっとその場にいてすべて見ていたらしい。
「これでこの屋敷や領地が消滅する可能性は回避できたかも? なにしろミーシアに手を出そうとしたって言うから、ソレイユがめちゃくちゃ怒っててね。許さん、何もかもぶっ飛ばしてやるって息巻いていたのを止めてきてあげたのよ。ついさっきも、国王がルーシエくんに手を出したから、ソレイユってば王宮を半壊させて騎士団を殲滅しちゃって‥。ま、おかげで国王は代替わり、二度とソレイユとソレイユの子どもたちには手出しをしないと約束を取りつけたんだけどね。ああ、たぶん近いうちに通達があるわよ。」
執事は今にも卒倒しそうだ。
「その指輪はあたしが作った最新版だから。ちょっとやそっとじゃ外せないし、逆らえないわよ? 死んだら次の伯爵に受け継がれるからね、暗殺なんて考えない方がいいわね。アンシアのは死んだら次の伯爵夫人に行くの。」
伯爵はわなわなと震えながらも、顔には不気味な笑みを浮かべている。
「け‥賢者ルチアさまに‥‥か、感謝を‥!」
(ふざけるな、この魔女め! おまえが呪われろ!)
頭を下げたくないと思えば思うほど、深々と下げてしまう。
「さてと。だいたい用はすんだし。帰る前にもう一つ。」
ルチアは怯えてうずくまっているアンシアを振り向くと、にこやかに言った。
「マリアルドやロレッタにあげたのと同じプレゼントを、アンシアにもあげなくてはね。そうれっ、と!」
アンシアの体が虹色に包まれたと思うと、みるみるうちに顔だけ蜥蜴の顔に変わった。
「これで三人お揃い。仲良くしてね。もっとも二人は犯罪者として裁かれるでしょうから、アンシアがいちばん運がいいわね!」
満面の笑顔でそう言いながら、ルチアは手鏡を出してアンシアに渡した。
「きゃあああああああーっ!」
「うわああああ!」
アンシアと豚伯爵の汚い悲鳴が屋敷じゅうに響き渡る。
執事は腰を抜かしていた。
「なんて‥美しいんだ! いつまでもそのままでいてくれ!」
(おぞましい化けものめ! さっさとどこかへ行け、わしの目の前から消えろ!)
泣くにも泣けないアンシアは、絶望的な表情で鏡を見つめている。
その姿を横目で見て、ふふん、と鼻を鳴らすと、魔女―――もとい賢者ルチアは悠然とその場を立ち去った。