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そして勇者は剣を取る  作者: りり
第一章 勇者は剣を捨てる
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その六

ちょっと誤字を直しました。

 国王の執務室の隣、普段は従者の控え室に使用される小部屋。

 ルーシエは昨夜からずっと、そこで鎖に繋がれていた。

 あれからいったん取り戻した意識は既に再び朦朧としている。

 回復するそばから首枷に魔力を喰われ、しかも押しつけられた命令に逆らうたびに(はらわた)をねじ切られるような激痛が全身を襲った。

 目や耳、口からも血がだらだらと流れ続け、体を起こすこともできず床に這いつくばっている。

 それでもルーシエはすべての命令を拒否した。

 傍らに屈みこんでいるエルガー・アシュワルド侯爵は、もういく度目になるかわからない溜息をこぼした。

「‥見ていられませんねえ。せめて首枷の魔力を受け入れればいくらか楽になるのに‥。国王陛下は孫とはいえ慈悲など与えませんよ? 」

「‥‥僕は‥『勇者』ソレイユの‥息子だ‥。誰に‥も‥従わ‥ない‥。」

「そんなか細い声、誰にも届きませんよ‥。あーあ、嫌な役目だなあ‥。サディルに押しつけたい‥。」

 エルガーはそっと周囲を気にしながら、気休め程度の回復魔法の魔法陣を護符に描き出し、ルーシエの体に(かぶ)せる。

 『隷属の首枷』の鍵はとっくに国王へ献上している。

 そもそも国の保管庫にあったこの禁断の魔道具を、使用せよと命じたのは国王である。

 魔法陣を幾重にも組み合わせた罠をガレット邸に仕掛け、『隷属の首枷』を起動する魔力を提供したのはエルガーであるが、それは職務の都合であり、自身は特に好きこのんで他人を這いつくばらせる趣味はない。

 むしろよけいな人間関係は、主従関係も含めて本来まったく興味がなかった。

 しかしアシュワルド侯爵家は代々筆頭魔術師の家柄であり、うんと昔に家長は国王の手足となる約束を―――もとい永遠の忠誠を誓った由緒ある一族であった。

 十四年前に、当時のアシュワルド侯爵であった伯父が、国を出て行こうとした『賢者』を暗殺しようとして失敗し、エルガーの父母や従兄たちもまきこんで失脚した。何がどうしてそうなったのかは不明だが、彼らはなぜか魔法を使いたがらない人々になってしまったのだ。魔力を失ったわけではないし、使用できないわけでもない。だが頑なに使おうとしないのだ。そしてその理由について一切口にしない。

 そのため、引き籠もって魔術の研究に明け暮れていたエルガーが、順番的に侯爵位を受け継ぐはめになった。

「とにかく‥。嫌な予感がひしひしとする‥。『勇者』が生きていて、溺愛する息子のこんな様子を見たら‥。うう、想像しただけで即死しそうだ。国王といい、マリアルドといい、サディルといい、よくもまあ、ヒュドラを正面から単独で斃す相手を敵にしようなんて思えるものだよ。ああ‥。わたしは憧れの『賢者』に会えずに死ぬのだろうか‥。」

 実は『賢者』の熱烈な信奉者であったりする。魔術バカゆえに。

 かつて遠目に一、二度見かけたことがあるが、あの虹色の、甚大な魔力に包まれた髪の美しさと言ったら! 他にたとえようもなかった。

 どうせ忠誠を捧げるなら『賢者』に仕えたかったな。侯爵ではなく、下僕でいいのに。

 そんなしょうもない妄想を現実逃避で繰り広げているあたり、たいがいな男である。

「ともかく‥。会議が長引いて、陛下がここへお戻りにならなければいいんだが。そうすればこれ以上は酷くならない。」

 そう。血を吐いてまで従うことを拒否する孫を見て怒り狂い、これでもかとばかり命令を出しまくったのは何を隠そう国王自身である。

 あの娘にしてこの親だ、とエルガーは呆れ返った。もしかしてマリアルドは、兄弟姉妹じゅうで一番父親似なのかもしれない。

 ―――いやそれは不敬だ。陛下はさすがにあそこまでバカではない‥。

 特に保身に関してはものすごく頭も口も回る。

 今もガレット家の子女全員の身柄を要求するアーベルジュ公爵相手に、ぬらりくらりと言い逃れをしているところだろう。

 頭が悪ければ王位にも就けなかっただろうし、何十年も治世を続けていられない。

 単に性根が悪いだけだ。それも『勇者』関連以外は、上手に隠している。

 ちなみにマリアルドは今朝になって王宮にやってきて、持ち前の図々しさで兄に泣きつき、王太子宮の客間にまんまとおさまったそうだ。

 しかし。

 なぜ国王は、よりによって『勇者』を、いったんは取りこみに成功したものをわざわざ敵にしたのだろう?

 保身にすべてをつぎこんできたお方が、どこで勝てると錯覚したのか。まったく解せない。

 エルガーは考えても仕方のない他人の胸中を推し量るのはやめにした。

 ここに至ってはまったく無駄な行為でもある。

 既に賽は投げられたのだ。あとは『勇者』が生存しているかどうかで、国王も自分も命運が決する。

 そうなるとヒマである。

 なので監視を命じられているルーシエで、魔術の実験をしてみることにした。

 『隷属の首枷』は、ルーシエの魔力を喰らい続けているようにみえる。

 これは、かの魔道具が発している精神系魔法の支配をルーシエが拒んでいるせいだ。

 ルーシエは自分の魔力で精神に防御壁(バリケード)を築いている。

 一方、侵蝕しようとする首枷は、ターゲットとして認識したその魔力を容赦なくガリガリ削っていく。

 そのためルーシエの魔力はどんどん枯渇していく、という状況だ。

 そしてこの勝負は、物理的に首枷が体に装着されている時点で、ルーシエには防御のみで反撃は許されておらず、一方的に不利なのである

 更にルーシエが弾いた魔力は、削られた分も含め、体内で暴れ、彼の内臓を食い荒らしている。

 しかも鍵の主が命令を下せば、魔道具側の影響力を増大させるため、命じられて拒否するたびに弾かれ暴れる魔力は単純に増大し、ルーシエの体はますます弱っていく。

 いまだルーシエが生きているのは、非常識に膨大な彼の保有魔力量のおかげにすぎないのだが、それだってこのペースではあと一時間保つかどうかだった。

 しかしエルガーは諸々の理由で、彼に自分の監視下で死なれるわけにはいかないのだ。

 そこで実験となる。

 まず第三者の魔力での保護(プロテクト)は有効かどうか、だ。

さきほどから回復魔法はわずかながら有効みたいなので、同じように魔法陣を使用すればいける気がしている。

 エルガーは回復の魔法陣を少々組み替えて、対象者の内臓、特に心臓を魔力障害から保護する形に特化した。それをルーシエに被せ、発動する。

 うまくいった。

 直接魔力を注ぐと拒否されてしまうが、ありふれた回復魔法と認識させたのでルーシエの体は無事に陣を吸いこんでいった。

 しばらく経過観察していると、暴れる魔力から内臓系を護ることには成功しているようだ。保護(プロテクト)をかけている魔力がルーシエのものではないため、削ることもできずにいる。予想どおりだ。

 気を良くしたエルガーは、次に、暴れている魔力を体外へ排出させる方法を考え始めた。

 体内で暴れ、余った魔力は循環して再び魔道具へと吸収されていく。今はエルガーの保護(プロテクト)が効いているため、戻っていく魔力量はさきほどより多い。つまりルーシエの魔力を削り取る力が増えてしまっている。 

 ならば戻る前にどこかで吸いこんでしまえばいい。

 方法は二つ考えられる。

 一つは体内のどこかに落とし穴の(トラツプ)を設置して魔力を吸い取り、体外へ排出する方法。

 これならばエルガーの得意技なので、さっきと同じ遣り方で魔法陣を送りこめばすぐに使用できるだろう。

 しかし暴れている魔力が、必ずしも設置した場所を通るとは限らないため効率は良くない。気休め程度の効果しか見込めない。

 もう一つは、魔道具へ戻る魔力をすべて奪い取る方法だ。

 要は暴れる魔力に魔道具であると誤認識させ、横取りする(トラツプ)を仕掛ければいいのだが―――構築は簡単ではない。

 『隷属の首枷』は完成された呪具である。(トラツプ)を落とし込めるような綻びを見つけるのは難しく、下手な仕掛け方をすればエルガーの魔力をも取りこんでしまうかもしれない。

 そうなれば成功している保護(プロテクト)をも食い破る可能性が出てくるので、こんな時間的余裕のない時に取るべき選択肢ではないだろう。

 エルガーは気休め程度でも現実的な方法を選択し、落とし穴の(トラツプ)をルーシエの心臓付近に展開した。今度は魔法陣を体内へ吸収させるのではなく、体表面に描く。そして落とし穴が魔力を貯め込むたびに、手を当てて手動で吸い取って放出した。

「うーん‥。美しくないけれども応急処置だから仕方がない。被術者への魔力変換までできたら完璧なのだけれどねえ‥。でもこんな、隷属の魔道具限定の呪い妨害法を完成させたからといって、今後誰が使うんだ? 解除法ならともかく、需要はないよね‥ってあるか。拷問に使える。隷属魔法に逆らえる意志の強い者でも、通常は半日で死んじゃうけど、これを完成させて併用したら、苦しめたまま何日でも生かしておけるな‥。陛下には知られないようにしよう、拷問係に任命されたらわたしの精神が先に死ぬ。」

 ぶつぶつ独り言を言い続けているこの現在状況が、第三者的に見れば既に精神を病み始めている徴候だという事実に彼は気づいていない。

 するとルーシエの瞳がうっすらと開いた。

「おや。意識を取り戻したのか‥。さすがは『勇者』の息子だ。」

「‥‥僕に何をした?」

「ふふ。よく聞いてくれました! 君の延命処置だよ。無茶ぶりの国王陛下が、自分で散々痛めつけておいて、戻ってくるまで死なせるなと命令するものだから‥。無い知恵を絞ってたいへんなんだよ。」

 ルーシエはじっと胸に置かれたエルガーの手を見ていたが、血の気の引いた青ざめた手をその上に重ねた。

「‥手をどけて。上書きする。」

「は? 何を‥‥。」

「余剰魔力を吸い取る陣でしょ? ‥僕の魔力に変換するよう修正させてもらう。」

 エルガーは驚きながら、すぐ手をどけた。

 むろん監視役としての職業的義務感よりも、魔術師としての好奇心が勝ったからだ。

 目の前で、瀕死の少年魔術師は震えがちな指にわずかな魔力をこめ、エルガーの描いた魔法陣をなぞった。するとぼうっと光りながら、魔法陣が浮き上がる。そのまま少年は息を喘がせつつ、ささっと修正を加え、胸の上に戻した。そして再び目を閉じる。

 エルガーはすぐさま修正された魔法陣をつくづくと見た。

「ほう‥。興味深い。魔力の波長を変更して、擬似的に自分の魔力とするのか‥。」

 通常の魔力変換とは、いったん体内に異質な魔力を取りこんで心臓から血液へと流し、一巡り体内循環させて自分の魔力にする方法が一般的である。

 しかし現在のルーシエのおかれた状況では、『隷属の首枷』から発する魔力を取りこむのは不可能だ。従属関係にあるため、『取り込み』ではなく『受け入れ』となり、支配されてしまう。

 そこをルーシエは、波長変更で無理矢理に自分の魔力として使用可能にした。

 非常識、違反技もいいとこだ。当然制約はありそうだけれど、応急処置として考えれば素晴らしい。

「‥‥父上が来てくれるまで‥保てばいいから。」

 相変わらずのか細い声だ。しかしそこに迷いはなさそうである。

「ふうん‥。君は『勇者』が生きていると‥『信じている』のではなく、『知っている』んだね? いよいよまずいな。わたしの生存確率がぐんぐん下がっていく。」

「はは‥。そうだね。父上はきっと‥すごく怒っているだろう‥。僕もまだ‥父上の本気を目にしたことはないんだ‥。だから何が起きるかなんて‥教えてやれないな‥。」

 皮肉っぽく微笑ったルーシエは、ゴホンゴホン、と咳きこんで血の塊を吐いた。

 エルガーは思わず、窒息しないよう頭の下へ手を入れて傾けてやる。

 国王の執務室の高価な絨毯が、さきほどから血のしみだらけだが、国王の自業自得なので気にしない。

「教えてもらわなくていいよ。どうせ逃げられないんだし、もっと怖くなるだけだから不要だ。」

「へえ‥意外。あなたは‥逃げると思ったよ‥。」

「宮仕えは厳しいんだよ。わたしは陛下を守らなければいけない立場だから、たぶん死ぬんだろうね。‥おお、効果抜群だな。顔色がよくなってきた! 魔力枯渇も出血多量も少しは抑えられているようだ。」

 エルガーは膝をついたまま、ルーシエの上体を抱き起こし、ソファからはがしてきたクッションを背中にあてがった。

 ルーシエは戸惑い気味にエルガーの顔を見上げる。

「どうして‥僕を助けたの?」

「さきほども言ったとおり、陛下が生かしておけって命じたからだよ。まあ、命が残っているというだけで、はたして人質として有用かは甚だ疑問だけどね‥。でも少しはましだろう。最悪、王宮の中央部がふっとぶくらいですむんじゃないかな?」

「‥どうだろうね。僕は‥早く父上に‥会いたい。」

 それだけつぶやくと、ルーシエは目を閉じた。

 どうやら眠っているのか、すうすうと寝息が聞こえる。

 魔力は変わらず少しずつ削られていっているけれど、痛みは治まったらしい。

 エルガーはほっとして、またあらためて少年の胸の魔法陣に見入った。

 ―――魔力の波長か。確かに個人の識別には使うけれど、魔道具作りでもしないと、こんな知識は覚えていないのが普通だ。作ったことがあるのだろうか? とすれば誰に教わったのだろう? ‥って愚問だな。父親か。

「どう考えても勝てるわけないんだけど‥。ま、しょうがないか。」

 正午を知らせる教会の鐘がかすかに聞こえる。

 日暮れの鐘がなる頃、自分は生きていられるだろうか。

 エルガーは諦めの籠もった吐息をついた。


 フリットの行方がわからない、とロレッタに泣きつかれ、サディル・ヘーベルトは早朝からガレット邸に部下を調査に向かわせた。

 ちょうど正午の鐘がなっていた頃は、王宮の自分の執務室で、部下のまとめたガレット邸の調査報告書を読んでいたところだった。

 そこへ昼食の知らせとともに、ロレッタの来訪が伝えられた。

 ロレッタは非常に怒っていた。

「サディルさま! ルーシエを国王陛下が連行なさったと聞きました。まさか、フリットもですか! 」

 部屋へ入るなり、挨拶もそこそこにとんがった声でわめく。

「落ち着きなさい、ロレッタ。そうではないらしいよ。ルーシエ・ドゥ・ガレットが弟妹を隠したらしいとの話だ。そのため彼は陛下直々に事情説明を求められている。」

 むろんサディルはエルガーから直接昨夜の事情を聞いている。

 しかしロレッタに話してやるつもりはなかった。

 ロレッタはサディルにとって、単純で愛すべき可愛い女ではあるが、少々―――いやかなり頭と口が軽い。なので詳しく知らせない方が彼女のためだし、今もフリットがいなければサディルとの再婚がだめになるのではという不安から、怒っているだけなので、安心させてやれば問題ないのだ。

「フリットはすぐに見つかるだろう。所詮子どもの考えることだ。」

 ロレッタはほっとした顔をしながらも、ややうつむいた。

「でも‥。噂ではアーベルジュ公爵が、全員引き取る権利を主張なさっているとか‥。」

「万が一、法律的にそうなったとしても、君は実の母親だ。手紙を書いたり面会を求めたりする権利までは奪われないよ。心配は要らない。」

 どうせあんまり言う事をきかないならば、どこかで始末しなくてはならなかったのだ。

 ただ今すぐにではない。

 ラヴィエ家の持つ軍閥の支持を得て、騎士団長位と国軍の掌握を実現するためには、今は故ジョナサン・ラヴィエが自分の後継として常々語っていた、フリット・ドゥ・ガレットの後見人という立場が必要だった。

 ロレッタには兄が一人いるが、母親似の優男(やさおとこ)で、騎士ではなく文官をしている。妻と娘はいるが、息子はいない。

 ラヴィエはサディルにとって師であり親同然の人だった。入団時から何かと目をかけてくれて、いずれロレッタを嫁にしないかという話が出るくらいには、可愛がってもらっていたはずなのに。

 『勇者』が現れて、突然何もかも奪っていった。

 十六だったロレッタは、事実上の婚約者であったサディルに目もくれず、『勇者』にぽうっとなって、父親の名前を使って押しかけ嫁になった。あの時の屈辱感は忘れられない。

 ロレッタ本人は都合良く忘れて、父に強要されたと今では自分でも思いこんでいる始末だが、サディルは覚えている。ロレッタの名誉のために、またサディルの名誉のために、ラヴィエが自分のごり押しだという話をばらまいたのだ。

 あれ以来、女など信用する気にはなれなくなった。

 ロレッタは飴さえしゃぶらせておけば機嫌のいい、都合のよい女だ。ラヴィエの名を利用するためにせいぜい機嫌良くいてもらおう。

「時期を見てわたしたちの正式な結婚を知らせれば、アーベルジュ公爵もフリットを返してくれざるを得なくなる。焦る必要はないさ。」

「結婚‥! そうね! サディル、ありがとう。」

 それでもロレッタには、サディルに恩を感じてもらうようしっかり仕向けた。

 ラヴィエが死んだ後、『勇者』は貴族社会では化け物扱いで、ロレッタはその妻として嘲笑の的になっていると思わせてからは、簡単に転がりこんできたし、化け物の子である息子を差しだすことなど何とも思わないようだった。子や孫をあれほど溺愛し守ってきた父親でさえ、平気で罵倒した。

 サディルに言わせれば、貴族の女らしい女だ。

 状況に応じて立ち位置を変える。庇護者が誰かによって、自分の気持ちも記憶すらも塗り替える。

 平民出のソレイユには理解できなかったのだろう。あるいはしたくなかったのか。

 『勇者』は妻たちを誰一人引き留めようとはしなかった。

 はたから見ても、心底どうでも良さそうだった。出ていけと怒るわけでもなく、勝手に出ていった彼女らの生活にかかる費用も出し惜しむことなく払っている。

 その態度が余計に憎悪を煽った。

 サディルにとっては価値のあるもの、喉から手が出るほど欲しかったもの。

 名誉、称号、国宝級の剣、華麗な戦績。そしてラヴィエの信頼の証しであるロレッタ。

 ソレイユ・ドゥ・ガレットにとって、それはどれも価値がないように見えた。

 人々の生活を守るため、などと綺麗事を抜かし、軽々とやりとげてしまう男。彼がもしももっと欲望にまみれた男であれば、これほど憎いとは思わなかっただろう。

 この手でとどめを刺し損なったのは残念だが、あの傷でまだ生きているはずもない。おそらくは魔獣に喰われたか、川から海へと流されたか。

 ―――ふふ。いいざまだ。

 サディルは心からの笑みを目の前のロレッタへ向けた。

「礼は要らないよ、愛しいロレッタ。」

 ロレッタはまるで、少女のように頬を染めた。


 昼の鐘が鳴って、一時間ほど経った頃。

 王宮を辞去して馬車に乗りこんだアーベルジュ公爵は、ガレット家の子どもたちの身柄を保護できなかったことに腹を立てていた。

 昨夜ガレット邸に強盗が入り、子どもたち三人を連れ去った。マリアルドの要請で急ぎ赴いたアシュワルド侯爵が、何とか彼女と長男ルーシエだけを救助したけれど、二人は重傷で絶対安静のため面会は不可。

 王宮の息のかかった者からそんな報告を受けてすぐに、公爵はイザベルを連れてルーシエの保護を申し出たが、動かせないとの一点張りで会うこともできなかった。

「くそっ! ルーシエどのの申し出を察知されて、先に手を打たれてしまったようだ。無事ならばいいが‥。」

 馬車の中で公爵は低い声で呻いた。

 イザベルはいつもの無表情のまま、少し首を傾けて、父をちらりと見た。

「無事とは‥何をさしていらっしゃいますか? まさか命まで取られる可能性を懸念していらっしゃるのでしょうか。」

「何が起きてもおかしくない。国王はソレイユどのが死んだと、言い切った。叛逆罪も疑われる、などと何の根拠もないでたらめを平気で口にした。‥イザベル。そなたはオリヴァとリザンを連れて領地へ戻れ。護衛には小隊を二つつけよう。」

「それほどですか‥。」

 イザベルは目を見開く。そして溜息をついた。

「それにしても‥。あれほどに国のため魔獣を斃し続けた方に、叛逆罪の汚名とは‥。」

「ねじ曲がっている、としか言えぬな。王にはさっさと退位してもらわねばならん。」

 そんな会話をしている時だった。

 不意に馬車が急停止した。馬が鋭くいななき、馭者が必死に宥めている声がする。

「どうしたのだ?」

「わ、わかりません‥。馬が急に怯えて‥。お、王宮が光りました!」

 公爵の問いに、外から小窓を開けて護衛の騎士が緊張した顔で答える。

「王宮が‥光った?」

 イザベルははっと顔を上げ、馬車の天蓋を開けて外へ身を乗りだした。そして後方の王宮を見る。王宮は少しずつ虹色の霧のようなもので包まれていく途中だった。

「あれは‥あの光は‥!」

「イザベル、どうしたのだ? 」

「お父さま‥。王宮が、結界に覆われていくようです‥。」

 なに、と叫んで公爵は馬車の戸を開け、外へ出た。イザベルも続く。

「あの霧のようなものが‥結界なのか?」

「結界と申しましょうか‥恐らく、魔力障壁。魔力でできた壁です。」

「魔力でできた、だと? あの大きさをあんな速さで、魔力を展開できるものなのか? どれだけ魔力があれば、あんなことが可能なのだ‥!」

 公爵の動揺をよそに、イザベルは心もち青ざめながらも、常の無表情で答えた。

「リザンでも公爵邸の半分くらいでしたら、あのような障壁を出せますが。あまり意味がないと申しておりました。」

「‥?」

「魔力だけで障壁を作るよりも、土や風、そういうもので障壁を築くほうが魔力消費が少ないのです。ですから防御としてはそちらのほうが有効であると。」

「そ、それは‥つまり‥。消費量を考えなくとも良いほどの甚大な魔力量を持つ者が、あそこにいると‥そういうことか?」

「あのまばゆい虹色。今となっては懐かしいですね‥。まぎれもなく『賢者』ルチアの色です。生きておられたのですね、なんとまあしぶとい。」

 イザベルの頬に、めったに上らない微笑が浮かんだ。

 そして公爵を振り向く。

「お父さま。魔力だけで障壁を築くというのは‥その分自在に制御が効いて、強力なのですよ。つまり、あの内側にソレイユどのがいるのでしょう。『勇者』の全力を止めきれる者がいるとすれば、『賢者』だけなのですから。‥あれは恐らく外へ影響を与えないための防壁。わたくしたちは、王宮を退出した後でまったく幸運でしたね。」

 公爵は言葉を失い、呆然と虹色の壁を見つめていた。


 ルーシエからの連絡を待てとの伝言を聞いて、ソレイユは一応昼までは待った。

 自分としてはずいぶん辛抱したと思う。

 しかし胸騒ぎはどんどん大きくなる一方だ。

 昼食くらいは食べていけとルチアに声をかけられて、その時に初めて子どもたちの、今にも泣き出しそうな不安げな顔に気づいた。

 ルチアの鋭い視線は、父親でしょう、と無言で誡めている。たぶん。

 うん、と温和しくうなずき、明るい顔を心がけて平気な振りをした。

 そしてセシルに三人を任せて、出かけようと外に出て―――ぎょっとした。外にはグリフォンが三頭、空を飛んでいた。

「くそ‥! なぜこの忙しい時にグリフォンが現れるんだ!」

「ああーっ、だめ! 攻撃しないで、あの子たちはあたしの友だちなの!」

「と‥友だち?」

 ルチアは胸を張ってうなずいた。子どもたちを護るために呼んだのだと言う。

「えっと、あのさ、ルチア? 目立たないのが何よりなんだけど? 彼らがいたらかえって注目を浴びて、危険が増しちゃうんだけど?」

「‥だめかしら?」

「だめだよ。」

「カッコいいのにな‥‥。仕方ない、帰ってもらうわ。」

 ルチアが三頭に向かって念話を送ったようで、グリフォンは遠くの空へと帰っていった。

 その姿を見送り、ふうっと大きく息を吐き出して、ソレイユは気合いを入れ直した。

 何となく肩の力が抜けたみたいだ。

 ルチアは狙ってやったわけじゃないのだろうが、彼女と二人ならたぶんこれ以上悪くはならない、という気持ちが胸に湧き上がってくる。

「まずは屋敷の門前へ転移しよう。中で何が起きているか探らないと‥。」

「上空がいいわよ。屋敷を俯瞰して、変な罠があれば一気に解除しちゃうわ。ふふふ。昔のあたしと同じだと思わないでね。魔力も術も増えたけど、知識だってすごいわよ。」

 すごいな、と素直に称賛すれば、嬉しそうに赤くなった。

 三十過ぎとはいえ―――つい可愛い、と思ってしまう。

「よし。頼む。俺は解除してもらったらすぐに屋敷内へ突入するから。」

「了解。」

 打ち合わせ通り、王都のガレット邸上空へ出ると、ルチアは杖を正面に構え、短く詠唱する。

 柔らかな金色の光がガレット邸全体を包みこんで、きらきらと瞬いた。

 ルチアの瞳が虹色に光る。

 ほんの数秒後、何かがパリンパリンと割れる音がし始めた。

「やはり罠があったのか‥。」

 つぶやいたソレイユの顔を見返したルチアは、ものすごく険悪な顔をしていた。

「すっごく悪質。飛びこんでいたら、隷属の鉄枷に噛みつかれていたわね。王都のど真ん中で、禁断の闇魔法を堂々と‥。あのハゲジジイ、狂ってるんじゃない?」

 ルチアはたった今自分が解除した魔術の仕組みを、詳しく解説してくれた。

 ソレイユは怒りを抑えつつ、何とか冷静になろうと思考をめぐらせた。

「つまり‥。隷属の首枷というのは、闇の魔法具なんだね?」

「うん。七百三十年前のアレルヤ戦役のあとで禁止になった古代の魔道具。『古代魔術三、禁断の魔法具』の巻末にある、『図解百選』に入ってる。ま、古くて危ないだけで、大して強力ではないんだけどね‥。」

「ふうん‥。」

 話しているうちに地面に着いたので、ソレイユとルチアは屋敷の中へ入る。

 屋敷内はがらんとして、誰もいないようだった。夜盗にでも遭ったかと思うほど、室内はどこもかしこも荒らされている。

 玄関と階段には、何者かが争った跡が見える。

 派手な魔力のぶつかり合いがあったのがわかる。片方はルーシエで、もう片方は―――どうやら隷属の首枷だ。

「あんの‥たかが魔道具の分際で、俺の息子を喰らおうとしやがって‥! ぜったい塵化してやる!」

「お、落ち着いてよ、ソレイユ。魔道具を利用した人間がいるはずよ、そいつが‥。」

「むろん消し炭だ。何なら最上位の光魔法で魂まで焼いてやる。二度と生まれてくんな!」

「‥だめだわ、これ。うーん、キレやすいのって、ガレット一族の遺伝かしら‥? でもセシルは全然キレたことないしね‥。」

 ぶつぶつつぶやいているルチアをよそに、踊場の手摺付近で、転移の魔術が使われた跡を発見した。

 どうやら行き先は―――王宮だ。

 ルーシエは隷属の首枷を填められて、王宮へ連行されたらしい。

「ルチア。王宮だ。」

「‥‥了解。」

 ルチアはいろいろと疲れた顔でうなずいた。

 転移で王宮の上空へ出たソレイユとルチアは、問答無用で王宮の結界をブチ壊した。

 いや正確には、ルチアの止めるひまもなくソレイユがぶん殴って壊したのだ。

「へえ、結界って、殴って消滅させられるのね‥。え? 拳に魔力を這わせた? はあ、なるほどね。ドラゴンの鱗を叩き割るのと同じ方法かあ。勉強になるわあ‥‥じゃなくって、ソレイユ! 少しは落ち着いて!」

 ルチアはソレイユの怒りを何とか宥めようと、一人でボケてツッコんでいる。

 しかしソレイユはとっくに怒りが上限値をブチ超えており、大噴火中だ。

 こうなっては誰にも、ソレイユ自身にだって止められない。溶岩はどろどろと噴出し、流れ出している。

 ソレイユはひたすらルーシエの気配を探り続けた。

 なかなか見つけられない。

 苛々が募る中、やっとか細い叫びを捉えた。

「っ! ルーシエ!」

「あ、待ってよ、ソレイユ!」

 二階だ、とひと言叫んで、ソレイユは一足先に息子の元へと転移した。


 うとうとと眠っていたルーシエは、いきなり乱暴に引き起こされて目が覚めた。

 肩を掴まれ、無理に立たせられる。

 目の前には、二人の騎士の制服を着た男たちがいた。エルガーの姿はない。

 どうやらエルガーは国王に呼ばれ、代わりにこの二人がルーシエの監視役を命じられたようだ。

「ふん。叛逆者の子が暢気に寝てるんじゃねえよ!」

 肩を掴んでいる大柄な男は、そう言うなりルーシエの頬を殴り飛ばした。

「おいおい‥。侯爵閣下は丁重に、と仰っていただろう? 俺は知らないからな。」

 もう一人の細面(ほそおもて)の男は、大仰に呆れた声を出しながらも、止める気はまったくなさそうだった。むしろ面白がっているふうだ。

 ―――ふん‥。ヘーベルトの部下か。下衆な奴らだ‥。

 ルーシエは頬がじんじん痛むのをこらえ、血をぺっと吐き捨てると、男たちへさえざえとした侮蔑の視線を向けた。こんな奴ら、口をきくのもバカらしい。

 男はバカにされたのはわかったらしく、にやにや笑いからムッとした表情に変わる。

「‥気に入らない目つきだな。ガキらしく泣いてみろよ、あ?」

 もう一度、今度は目を狙って殴ってきた。

 鎖に繋がれて魔力を喰われている状態でどうすることもできず、ルーシエは右の頭と目に激しい衝撃を感じる。

 視界が揺れ、目眩がした。

「ぐあっ‥ん‥。うう‥。」

 激痛に思わず叫びかけたが、必死に声を飲みこむ。

 しかし立っていられず、膝から崩れ落ちそうになった。

 男はにんまりと笑って、肩を引き掴んだまま、続けて腹を膝で蹴り上げた。

「ぐはっ!」

 血が喉の奥からあふれ出て、口からどばあっとこぼれる。たまらずにルーシエは意識を失いそうになった。

「まだまだ、もう一発、今度は左目‥‥」

 男が再び腕を振り上げたのはわかった。

 しかし覚悟した衝撃は来なかった。

 次の瞬間、目の前の男は頭を殴り飛ばされて、壁まで吹っ飛んでいった。

 同時に首の重くて冷たい鉄の感触がすうっと消え、柔らかい腕がルーシエを抱きよせた。

「もう大丈夫‥。今、傷を治してあげるわね‥。可哀想に、痛かったでしょう。」

 全身を温かい光が包みこんで、まるで夢から醒めたかのように体じゅうの痛みがひいていく。

 目蓋を開くと、目の前にはルーシエを庇って仁王立ちの父の背中が見えた。

「ち‥父上‥?」

 ちょうど父はもう一人の男も殴りとばし、床に転がった『隷属の首枷』を踏んづけて粉々に砕いたところだった。

 どうやら足に魔力を纏わせて強化しているらしく、鉄の枷は砕かれるそばから塵となって空気中に漂い、消えてゆく。

 振り向いた父は、ルーシエ、と振りしぼるような声で彼の名を呼んだ。

「父上‥父上、うわーん!」

 ルーシエはたまらずに胸に飛びこむと、号泣した。


 ソレイユがルーシエのいる場所へ転移したちょうどその時、息子は今にも殴られようとしていた。

 思わず身体が反応して、とりあえず腕を振り上げていた男を思い切り殴りとばした。

 殴ってから相手が魔獣ではなく人間だったと気づいたけれど、数メートル先の壁にめりこんだ男の頭部は粉砕され、既に原形を留めていない。

 だが怒り狂っているソレイユは、(いささ)かも心が痛まなかった。

 ルーシエの右眼は潰れていた。ルチアがいなければ失っていただろう。いや、床に広がる夥しい血の痕を見れば、生命も危うかった。何より―――昨夜から今までどれほど苦しく痛い思いをしたのだろう。

 むしろ一瞬で即死だったことを感謝しろ、と内心で毒づく。

 視線の端で、ルーシエをルチアが抱きとめてくれたのを確認し、ほっとする。

 呆然と青ざめた顔で突っ立っているもう一人に向きなおった。

 顔をつくづくと見れば、ログランド山中でサディルに襲われた時、彼の背後で薄ら笑いを浮かべていたうちの一人だ。ますますムカついてくる。

「‥よくもうちの息子を痛めつけてくれたよな。未成年の子どもを鎖で繋いで二人がかりとは、騎士が聞いて呆れる! 今の奴はあんまり頭にきたからつい加減なしで殴ったが、おまえは加減してやるよ。ルーシエが苦しんだ以上に苦しみながら死ぬがいい。」

 そう言って一歩近づくと、男は見てわかるほど震えだし、背を向けて立ち去ろうとした。

「逃がすか。」

 ひと言つぶやき、ソレイユはそちらの男の右肩を後ろから拳を固めて殴りつけた。

 同時に男の右腕が、剣を握ったまま千切れて壁まですっ飛んでゆき、男は鮮血を撒き散らしながらバランスを崩して大きく転倒する。

「うわああーっ! 腕が‥! た、助けて‥! 」

 一瞬遅れて、恐怖に満ちた悲鳴が上がった。

 腰が抜けたのか、膝をついてぶるぶる震えながら、扉の方へと這いずっていく。

 ソレイユはそちらへ足を踏み出しかけて、足下に転がった禍々しい首枷に気づいた。

 かあーっと頭に血が上り、足に強化魔法をかけ、思い切り踏みつぶした。

「‥‥塵化。」

 鉄枷は一瞬で砂になり、崩れて消えていった。

 肩ごしにルーシエの紫の瞳が見えた。恐る恐る振り向く。

 良かった、ちゃんと二つある。焦点を定めてこちらをじっと見ている。

 安堵の余り涙が出そうになるのをこらえ、ぐっと奥歯を噛みしめつつ息子の名を呼んだ。

 駆けよってきた体をそうっと受けとめると、ソレイユは泣きじゃくっている頭をぎゅっとかき抱く。

「ルーシエ‥。ごめんな、遅くなって。さぞ苦しかっただろう。」

 首を激しく横に振りながら、ルーシエはしゃくりあげる。

 聞き取りにくい言葉を一生懸命拾ってみると、どうやら―――『僕はソレイユ・ドゥ・ガレットの息子だから』と聞こえる。

「だから‥大丈夫‥‥。」

 ソレイユは無性に愛おしくて、誇らしい気持になった。

「そうとも。おまえは俺の大事な可愛い、自慢の息子だ。‥さあ、フリットたちのところへ帰ろう。」

 うん、とルーシエは嬉しそうに微笑んだ。


「で? 帰る前に国王をぶん殴るわけ?」

 部屋を出て、足早に廊下を歩き出すと、隣のルチアがわくわくした様子で訊ねてきた。

 向かっているのは国王のいる会議場だ。

ルーシエは、体の損傷は治したもののまだ衰弱状態なので、腕に抱きかかえている。

「そうだな‥。」

 たまにすれ違う侍女や侍従などは、びっくりしずぎているのか立ち止まったまま身じろぎもせず、声もかけてこない。

「ガレット卿‥? 亡くなられたのでは‥。」

 呆然とした顔で間抜けな言葉を呟いた男は、下級文官だっただろうか。見覚えはあるが名までは知らない。

 じろりと睨んで「生きてるぞ」と返したら、青ざめてぶるぶる震えだした。

 誰もどこへ行くつもりかとは訊ねてこない。

 ソレイユはルチアを振り向いて、さきほどの問いに答えた。

「状況次第だ。あんなんでも国の代表だし、二度と子どもたちに手出しをしないと約束するなら、死なない程度ですませてやる。」

「ね、ね! てことは‥あっちがやるならやるのね?」

「‥‥あのジジイに約束なんて無意味では? どうせ守らないよ。」

 ルチアの弾んだ声とルーシエの侮蔑に満ちた声が重なる。

 どうやら二人とも好戦的だ。『やる』が『殺る』に聞こえる。

 ソレイユも既に腹は決まっていた。ただ『無意味な』殺戮は不本意なだけだ。

 そこへダダダッと多数の足音がして、騎士たちが目の前に現れた。一小隊分ほどが広い廊下を埋めつくして、三人の前後を取り囲むように展開する。

 隊長らしき者が一歩前へ出て、口を開いた。

「ガレット卿、貴公には王家に対する叛逆罪の容疑が‥‥うぐっ!」

 その男は口をぱくぱくさせるだけで、それ以上声を出せなかった。

 戸惑う騎士たちに、ルチアがにこっと微笑みかける。

「邪魔。」

 一瞬で騎士たちは廊下から消えた。

 ルーシエは眼を丸くし、尊敬のこもった視線をルチアへ向ける。

「い‥今のは何ですか、賢者さま!」

「単なる集団強制転移よ。全員庭の池にでも落ちてるんじゃない? ‥‥十四年前と同じ場所に池があればだけど。」

 ルチアは得意満面で答えた。

「す、凄いっ! 他者の強制転移‥それもあの数をいっぺんになんて‥! あの、どうか僕を弟子にしていただけませんか?」

「ルーシエ‥。ルチアの弟子になるのはいいが、人としての常識は失くすなよ?」

「ぐっ‥! ソレイユにだけは言われたくないけどね。」

 暢気な会話をしているうちに、会議場の前まで来た。

 重厚な扉の前には数人の護衛の騎士がいて、立ち止まれ、と叫んでいる。

「悪いがどいてくれ。さもなきゃ一緒に吹き飛ばすが?」

 凍りつくような声音に、騎士たちは脇に避けた。睨まれただけで震えるなどと、護衛になるのか、と内心では呆れ返る。

 そして扉を―――風の魔法で粉々に砕いた。


 会議場にいたのは国王と王太子、第二王子。それから宰相と侍従長、財務卿、騎士団長、副騎士団長、王宮魔術師長。そしてその他数人だ。

 全員が爆音に驚いて、吹き飛ばされた扉の方へ顔を向けていた。

 すぐに国王を庇う位置に立ち、防御結界を築いたのは王宮魔術師長エルガー・アシュワルドだ。

 エルガーはむろん、ソレイユが王宮の結界をぶっ飛ばした時に異変に気づいていた。しかし注意を促したところでいろいろ無駄なので、放置していたのだ。

 なぜ無駄かと言えば一つは、たった今闖入者にあたり、すぐさま王族の保護に動いたのが彼一人であるという事実がすべてと言えるだろう。

 この部屋には騎士団長、副騎士団長だけではなく、それぞれの護衛騎士もいるし、エルガーの部下も数人いる。

 エルガーの探知では『勇者』は廊下を普通に歩いてきた。しかも途中かなり多数の騎士が動いた気配もある。

 なのにこの場に、誰からも報告が上がってきていない。

 サディルはいろいろ小難しい理屈をこねていたけれど、『勇者』どうこうの前に騎士団そのものが全然駄目なんじゃないのか、とぜひにも問い詰めたい。だが自分の部下であり国の精鋭であるはずの魔術師たちも、心底驚いているような間抜け顔をこの場でさらしているわけで、言える筋合いでもなかった。何もかもいろいろとダメダメなのである。

 二つめの理由は事前に解ったところで『勇者』に対して、有効な対抗手段など持っていないからである。

 できることはまあ首を洗って―――洗った気分になって待つくらいだろう。

 こんな実状で、警告を発したところで、無駄に騒いで終わりなのは見えている、というごく単純な理由である。

 しかしそんな諦めの境地にいたエルガーだが、『勇者』の背後から入ってきた虹色の髪を目にして、不意に気分が昂揚するのを感じた。

 ―――あれは‥賢者ルチア! おお、神よ、ありがとうございます!

 死は確実だが、その前にもう一度かのお方に会えるとは、何という僥倖だろうか。

 エルガーはぜったいに『勇者』の攻撃では死なないことを心に誓った。

 それはもう全力で回避だ。人生の最期はぜひ『賢者』ルチアの手で、と切実に願う。

 どこまでも変質―――もとい偏執的な男である。


 一瞬緊張に固まったその場で、まず気を取り直したのは、国王だった。

「ガ、ガレット伯爵! それ以上近づくでない! そなたには叛逆罪の疑いがあると報告を受けておる!」

 すると騎士団長が大きくうなずき、副騎士団長のサディルが一歩前へ足を踏み出した。

 ソレイユはルーシエをそっとルチアの隣に下ろすと、懐から『勇者』の証しのメダルを取り出し、突っ立っている国王の目の前におもむろに放り投げた。

「なっ‥!」

「この国にはつくづく愛想がつきた。暗殺の次は冤罪か? しかも子どもたちに手を出しやがって‥‥。『勇者』の称号も爵位も返上する。もうあんたの臣民じゃない。」

 冷ややかに言い放てば、国王は激怒したらしく、顔を真っ赤にして怒鳴り始めた。

「なんと‥! 衛兵、あやつを捕らえろ! 自分から叛逆者であると認めたぞ!」

 サディルの合図で、その場にいた五人ほどの騎士が剣を構え、ソレイユたちを取り囲む。

「『勇者』は人を殺せぬ腑抜けだ、思い切って‥‥は?」

 耳障りな声で騎士を煽ろうとした騎士団長は、ソレイユが斬りかかってきた騎士を二人、素手で瞬殺したのを見て、眼を丸くした。肥え太った体の上にちょこんとのった丸い顔がみるみる青ざめていく。

「腑抜けね。ふん、抵抗できない農民を虐殺するのがこの国の騎士の『勇気』なんだっけ? ならば俺は腑抜けでいい。俺はね‥。これ以上ないほど怒っているんだよ、騎士団長どの!」

 ソレイユは騎士団長をじろりと睨みつけた。

 殺気に当てられて、騎士団長は遠目にもわかるほどがたがたと震えだす。

「ヒュドラと戦ってぼろぼろのところを、味方のはずの騎士団に裏切られて殺されかけた。」

「え‥‥どういうことだ?」

「なんと‥!」

 王子二人が眉間に皺を寄せ、宰相も息をのむ。

 国王だけは忌々しげに舌打ちした。

 ソレイユは構わず、今度はサディルへ怒りの視線を向ける。

「それでやっと傷を治して戻ってくれば‥! 屋敷は荒らされ、息子は隷属の首枷なんておぞましい黒魔術で縛られて‥王宮で騎士の奴らにいたぶられ殺されかけている!」

 広い会議場内にはソレイユの怒りが、息苦しいほどに満ちあふれた。

 宰相は今にも気絶しそうな顔で胃のあたりを押さえているし、第二王子は兄である王太子の背中に隠れて俯いている。気圧された侍女や侍官の中には腰が抜けて座りこんでしまったり、すすり泣く者が出てきた。

「考えてみれば、騎士団を見のがす理由はまったくないな! サディル・ヘーベルト、王都の騎士団全員をこの場に招集したらどうだ? 今までの借りを返して、一気に殲滅してやるから。」

 近くにいた三人目の騎士を蹴り一発で壁に埋めると、ソレイユは吐き捨てた。

 それから国王とエルガーの方へ視線を向ける。

「そういや何もしなくてもどうせ叛逆罪に問われているんだっけ? それなら仕方がないな。俺と子どもたちに今後手を出さないと約束してくれたら、穏便にすませるつもりだったんだけど‥。魔術師団もあわせて国軍の総力でかかってこいよ。全部まとめて王宮ごとぶっ潰してやる。」

「お、王宮ごと‥?」

 宰相の体がふらりと傾いた。慌てて隣の侍官が支える。

「ふ、ふざけるな! 言わせておけばいい気になって! お望み通り騎士団の総力で返り討ちにしてやる! ‥‥おい、伝令を屯所に向かわせろ!」

 サディル・ヘーベルトが怒りに顔を真っ赤にして、言い放った。

「その必要はないわよ。屯所だけじゃなく、王都全体にこの場の声を届けているから。そっちの太ったおじさんかあんたが集まれって言えば来るんじゃない?」

 ルチアの冷ややかな声が響いた。

 反応したのは王太子だ。

「王都全体に‥‥声を届ける? それはどういう意味か?」

「そのまんまの意味だけど? ついでに王宮全体に結界を張ったから、誰も出られないわよ? 入る方は自由だけどね。ああ、嘘だと思うなら試してみれば?」

 ルチアは王太子を一瞥し、呆れ顔で肩を竦めた。

 エルガー・アシュワルドが王太子に礼をして、畏れながら、とルチアの代わりに説明をした。

「この場に微弱な風魔法が発動されています。恐らくは集音して、王都の外で拡大再生する術かと推測します。」

「つまり‥どういうことだ?」

「はあ、つまり。ここで『勇者』を含め皆がしゃべった言葉とかが、街じゅうで鳴り響いているかと‥。丸聞こえってやつですね。‥あ、確かめてこいって言われても無理ですよ、外には出られないそうですからね。そのうち街の屯所から騎士たちが集まってくるでしょうから、その者たちに聞けばよろしいかと。」

 国王がすさまじく険悪な顔になった。

「エルガー! そなた、気づいていたならなぜ、妨害しないのだ! そんな不埒な魔法をおめおめ発動させおって! 外に出られないだと? 何を暢気に言っておるのだ、何とかするのがそなたの職務であろうが!」

 エルガーは神妙な態度で国王の叱責を聞いていたが、しみじみとした顔でゆっくり首を振った。

「陛下。むろんそれがわたしの職務です。ですが‥たいへん遺憾ながら、今回に限り不可能なのですよ。」

「不可能?」

 国王と王太子の声が重なった。

「『賢者』ルチアさまの術は、次元が違いすぎて、わたしには解除も防御も不可能です。どうぞご容赦ください。」

 深々と頭を下げたエルガーは、国王に向きなおった。

「ところで陛下。『勇者』あらためソレイユどのに心から謝罪して、穏便に引き取っていただくという選択肢は‥‥なしでしょうか?」

「そんなものは‥‥」

 ない、と言いかけた国王の口を王太子が塞いだ。

「陛下。いや父上、少々お疲れのようですからお部屋に引き取られてはいかがでしょう? あとはわたしに任せて。」

 怯えていた第二王子も、うんうんと大きくうなずく。

「何を言うか! わしはっ‥‥ううむ‥。」

 エルガーは鬼気迫るような王太子の視線から無言の要請を察し、国王にすかさず眠りの魔法をかける。

「よしっ。ではわたしが国王代行で、この場を取り仕切るぞ。よいな、宰相。」

「もちろんです、殿下。とにかく何とかしてください‥!」

 エルガーはともかく国王を椅子にもたれさせて、振り向こうとし―――隣にある虹色の髪に気づいた。

 見れば『賢者』ルチアとルーシエが、無防備に眠っている国王の顔を覗きこみ、おでこをペチペチ叩いたりしている。

「へえ、ほんとにハゲちゃってるわ‥。グレーテの言う通りね。つまんないの、ハゲの呪いをかけてやる予定だったのに‥。変更しなくちゃ。何がいいかな‥。ルーシエくん、どんなのがいい?」

「えー、呪いですか?」

「そう。君がいちばんこのジジイに酷い目にあわされたわけだし、希望を聞くわよ? ちなみにあたしのもう一つの案は、喋るたびに口からナメクジが出てくるってやつ。」

「なんてエグい‥。」

「うう‥吐き気がしてきた。」

 王子二人は呪いと聞いてギョッとしたようだ。

 まるでピクニックの計画を立てているような明るい顔で、なんというおぞましい呪いを話し合っているのか、目の前の美しい女性はほんとうに『賢者』なのだろうか、『魔女』の間違いではないのか―――そんな想いを廻らせながら、王太子はもしも考えが読まれたらどうしよう、と身を震わせる。

 一方でエルガーは、手を伸ばせば触れられるほど近くにいる憧れの『賢者』に、胸がいっぱいだった。

 広範囲大魔法の発動も虹色の髪も目の当たりにして、これでもう思い残すことはないだろう―――たぶん。

 できればもう少し直接的な魔法を見たかった気がするけれど、それは贅沢というものだ、などと考えてぽーっと横顔に見とれていた。

「よし! 決めた。単純にカエルに変えちゃおう! そうれ!」

 ルチアが両手を目の前で素早く動かすと、きらきらと光る魔法陣が空中に紡がれていく。

 魔法陣はルチアのかけ声で、止める間もなく爆睡中の国王の額に貼りつき、すうっと吸いこまれてしまった。

「ああっ!」

 王子二人が悲痛な声を上げる。

「ア、アシュワルド! そなた、なぜ止めないのだ!」

 王太子に叱責されて、『賢者』の鮮やかな手つきをうっとり見ていたエルガーは、ハッと正気に返った。

 しかし既に遅く、国王の体は陣を吸いこみ、ゆらゆらと発光していた。そして次の瞬間、光が弾けとび、国王の顔は緑色のつるりとしたカエルに変わった。

「なんということだ。怖ろしい‥。」

 王太子はううむ、と呻って俯いている。

 第二王子はぽかんと口を開いたままだ。

 宰相はとうとう気絶した。

「わりと可愛い顔になっちゃったわね‥。ヒキガエルみたいに汚い顔になれば良かったのに、ちょっと残念。改良の余地がありそうね。‥他の人で試そうかしら?」

 王子たちは再びギョッとした様子で、慌てて顔を隠す。

 エルガーはじっと、相変わらず爆睡中のカエルを見つめていたが、不意に真剣な面持ちでルチアを振り返った。

「『賢者』ルチアさま。すみません、この術は認識阻害の上位魔法ですよね? 視覚だけではなく、五感全部を惑わすという、幻の魔術‥。合っておりますか?」

 ルチアはちらりとエルガーを見上げ、ふふん、と口の端で微笑った。

「どうかしらね? 少しだけ教えてあげちゃうけど、これって夜も戻らないわよ? さて、どう考えるかな?」

「そもそも魔法陣は一つなのに、視覚以外も瞑ませるとは‥。別系統の魔術なのでは?」

 ルーシエの指摘に、エルガーは腕組みをして深くうなずく。

「なるほど。たいへん興味深い‥。残念だ。わたしに研究時間が残されていれば良かったが。」

 王太子がエルガーの肘をつまんで引っぱった。

「アシュワルド‥! 何を暢気な会話をしている! 父上を元に戻す研究は、ここを乗り切ればいくらでもさせてやる、それより何とか状況を打開する方法を探れ!」

「打開ですか、うーん‥。もう無理では? 諦めましょう、殿下。」

「即答するな!」

「はあ、そう言われましても‥。ルチアさまの結界を抜けて脱出するなど、わたしの知識と魔力では不可能ですし。ソレイユどのが本気を出したら、王宮は軽々と吹っ飛ぶでしょうし。一応殿下方には、わたしの精一杯の防御結界を施しますが、耐えきれる可能性はほぼゼロに近いですね。」

 王太子はゴクリ、と唾を飲みこみ、泣きそうな表情になった。

「なんでこんなことになったのだ‥‥。」

「さきほどソレイユどのが仰ったとおりかと。」

「そうだ、アシュワルド。あれは真実なのか? ヒュドラはガレット卿と騎士団が協力して斃したのではないのか?」

「いえ。違います。ヒュドラだけではありません、ここ数年、『勇者』が出動した魔獣災害はすべて、ソレイユどのがお一人で片づけています。騎士団も魔術師団も、応援さえしていません。王命で手を出すなと申しつけられておりましたので。」

 隣でエルガーの部下二人が、青ざめた顔でうんうんとうなずいている。『王命』というあたりを強調したいようだ。主にルチアとルーシエに向けて。

「では‥。アーベルジュ公爵の非難は正当なものであったのか‥。」

「はい、全面的に。それだけじゃなく、マリアルド元王女やロレッタ・ラヴィエ嬢が幾度となく、ソレイユどのの毒殺を試みて失敗しています。わたしの知る限り、マリアルドが二十二回、ロレッタ嬢が八回。ロレッタ嬢は一度間違えて、自分の父親を毒殺しちゃったようでしたが、懲りなかったみたいです。」

「はあ‥!?」

 エルガーの暴露には、王子二人の他にルチアやルーシエも驚いた。

「ロレッタが、ラヴィエ将軍を殺したの? それは聞いていないわ!」

「そうでしょうね。知っているのは陛下とわたしだけですから。マリアルドが陛下に命じられてソレイユどのの毒殺を試みていたので、屋敷内の様子を探っていたら、マリアルド以外にも毒を使用している方がいまして‥。ソレイユどのは自分に盛られていた毒はご存じのようでしたが、まさかラヴィエ将軍も被害者だとは気づかなかったと思います。」

「‥‥ヘーベルトの指示なのですか?」

「違いますよ、ルーシエくん。サディルはああ見えて、ラヴィエ将軍の信奉者ですからね。事実を知れば、ロレッタ嬢を決して許さないでしょう。」

 弟のことを思うと、ルーシエの気分は最悪だった。フリットは祖父をとても尊敬し、慕っていたのだ。このことは絶対に内緒にしておかなければいけない―――と、そこでルーシエははたと思い当たった。

「ル、ルチアさま‥。今の侯爵の話って、王都じゅうに聞こえちゃっていますか‥。」

「あ。」

 ルチアとエルガーと王太子の声が重なる。

 王太子だけは悲鳴のような叫びだった。

 第二王子はもう、心がどこか遠くへ行ってしまったようである。あらぬ方向を見て、フフ、フフ、と薄ら笑いをこぼしている。

「ああ‥。まあ、しょうがないよね。事実なんだし。」

 ルチアが後ろめたそうに溜息をついた。

 心の中でフリットを連れてこなくて良かったと安堵している。

「アシュワルド! なぜ今話したのだ! もっと早く、なぜわたしたちに‥。」

 王太子が半泣き状態で、エルガーに詰め寄った。

「殿下。どちらにしてもほら、騎士団が集結しちゃいましたよ。どうぞご観念を。」

 彼が指さした方を振り向けば、扉近くに百人を超える騎士たちが集まって、隊列を組んでいた。

 重厚な鎧に身を固め、剣を捧げ持ち整列する姿はさすがに壮観である。

 対峙しているのはたった一人。

 窓からこぼれる日の光に黄金色の髪が光り輝く、『勇者』と呼ばれた男ソレイユ・ガレットその人だ。

 ごく普通の平服で武器は何一つ持っていない。

「奴は既に『勇者』でも貴族でもない! 単なる侵入者である! 恐るるに足らず、皆で押し包んで‥‥」

 騎士団長が偉そうに演説をしている最中に、会議場の天井が吹っ飛んだ。

 続いて既に壊れていた扉の横の壁も、ガラガラと音を立てて崩れ落ちてゆく。

「これで見通しが良くなったな。さてと。やるか?」

 腰を抜かして座りこんでいる騎士団長は無視して、ソレイユはサディルをぐっと睨みつけた。

 サディルはふん、と嘲笑を浮かべた。

「死に損ないが‥! 『光龍の剣』を失った身で王都まで乗りこんでくるとはな! せっかく命拾いしたのなら大人しく隠れていれば良かったものを、自分を裏切り続けた女が生んだ息子のために命を懸けるとは‥。愚かだな、ソレイユ。」

 ソレイユは肩を軽く回しながら、鼻で笑いとばした。

「下らない‥! 自分の息子に危険が迫れば、助けたいと思うのは人として当然だ。それより罪のない十三の子どもを禁魔術で縛ったうえ、大の大人が二人がかりで殴る蹴るの暴行を震う。それがこの国の騎士たる役目とはまったく恐れ入るよ、サディル。第一、命を懸けた覚えなどないね。腐った騎士団なんか、剣なしの素手で十分だ。そっちこそ命を懸ける覚悟はいいんだろうな?」

 騎士団が整列しなおし、ソレイユが身構える。

 いきなりオーッと言うかけ声とともに、騎士たちがいっせいにソレイユへ向かって走り出した。

 ソレイユはふっと身を沈めたと思うと、まるで旋風のようにくるくると騎士たちの間を駆けぬけ、騎士たちはぶんぶん凄い勢いで飛ばされていく。

 旋風が止まって再びソレイユの姿がはっきりした時、騎士たちは半数以上が、転がって呻いていた。その間わずか数十秒である。

 背後に控えていた十数人の魔術師は、狼狽しながらも杖を構え、炎術魔法をいっせいに放った。

 ソレイユは一瞥しただけで、手を一振りする。

 まるで透明な壁でも現れたかのように、魔術師たちの放った炎は大きく跳ね返った。

「うわっ! 避けろ‥!」

 魔術師たちは跳ね返された炎を慌てて避け、逃げ惑う。炎はそのまままっすぐ背後の壁にぶち当たり、派手な音を立ててまた壁が崩壊した。

 その時だった。

「待て! 国王代行、王太子の名において命ずる、両者とも剣を納めよ!」

 つかつかと王太子が歩み寄り、大きな声で双方を制止した。

「あら‥。震えてたくせにあそこに割って入ったわ。へえ、なかなか根性あるじゃないの。偉いわね。」

「王太子殿下、ルチアさまより年上ですよ? 子ども扱いですか。‥‥殿下もねえ、『剣を納めよ』って‥。父上は丸腰ですけど。」

 ルーシエの突っこみに、ルチアは可笑しそうに笑った。

「確かにね。でも止めてどうするつもりなのかしらね?」

 王太子はソレイユを振り向くと、躊躇なく頭を深々と下げた。

「ガレット卿。国として謝罪する。どうか怒りを収めてくれないだろうか?」

 ソレイユは皮肉のこもった冷ややかな視線を王太子へ振り向けた。

「俺はもう貴族じゃないから『卿』は要らない。あと国の謝罪なんて何の意味もないと学んだよ‥。はっきり言って、この国は何一つ信用できない。ヒュドラの封印を解いてまで俺の存在を消したいとか、どうかしているだろう? 村が三つ潰滅しているんだぞ! 」

「え‥? ヒュ‥ヒュドラの封印?」

「そうだ。王宮魔術師たちが封印を解いた。」

「まさか‥? そんな‥。」

 驚いて顔を上げた王太子にソレイユは説明してやった。

「封印は魔術師が数人がかりで人為的に解いたんだ。封印の沼には死体が一つ転がっていて、着ていたローブから、数日前にログランドへ来た遺跡調査隊の魔術師だと判明した。ログランド伯爵にも、ここにいるヘーベルトにも報告しているんだが‥。王太子たるあんたが知らないはずはないだろ? とぼけるなよ! 」

 王太子はすうっと血の気が引いて真っ青になり、次には怒りがこみあげてきたのか真っ赤になった。

「あの老害‥カエルめ! そこまで耄碌してたのか!」

 険悪な表情でぶつぶつとつぶやいたが、大きく首を振ってソレイユを見返した。

「いいやわたしは知らないぞ! ほんとうにそんな真似をしたならば、その者こそ叛逆者だ。」

 ソレイユは肩を竦めた。

「あんたが知らなかろうが、叛逆だとか、そんな話はもうどうでもいい。俺はここにいる騎士団を王宮ごとぶっ潰すと決めた。国なんか知るか。」

 背を向けたソレイユに、王太子は待ってくれ、と取りすがった。

「触るな。」

「いや、頼む、話を聞いてくれ。騎士団にも魔術師団にも処罰は与える。むろん国王もだ。責任を取らせて退位させよう。今後そなたやそなたの家族には誰にも手出しさせないと誓うから、どうかこの場は穏便に引いてほしい。お願いだ。」

 ソレイユは再び王太子を見据えた。

「だから王族の口約束なんて意味がないと言ってるだろう! それによく見ろよ? 穏便じゃないのはどっちなんだ? 」

 ソレイユの指が示した方を振り向けば、立つことのできている騎士や魔術師はそれぞれ臨戦態勢で剣や杖を構えている。

 王太子の額に青筋が浮かんだ。

「愚か者が! 剣を下ろせと命じたはずだぞ、わたしの命令がきけないのか! ヘーベルト、アシュワルド! さっさと退かせよ!」

「殿下。畏れながら、わたしは国王陛下の命令に従う者です。陛下のご意向を無視したあなたの命令は聞けません。」

 サディル・ヘーベルトは慇懃無礼な態度でそう言い捨てると、いつのまにか手にしていた『光龍の剣』を抜いて、ソレイユへ向けた。

 騎士たちもそれに(なら)い、いっせいに剣を掲げる。

 魔術師たちは再びいっせいに炎を放ってきた。

「なっ‥何と!」

 ソレイユは躊躇なく避けたが、隣にいる王太子はむろん避けられるはずもない。

 思わず両腕を掲げ、目を閉じた王太子だったが、炎は彼に届く前にかき消えた。

 王太子が恐る恐る目を開けると、目の前にはエルガー・アシュワルドの背中があった。

「申しわけありません、殿下。あの者たちは勝手に騎士団と連携していまして‥。どうやらわたしに従う気はないようですね。」

「アシュワルド侯爵。あなたは陛下を裏切るつもりなのか?」

 冷ややかに問いかけてくるサディルの方へ、エルガーは大仰に驚いた表情を向けた。

「裏切る? 馬鹿な、アシュワルド侯爵家の長として、わたしは常に国王陛下に忠誠を誓う者ですよ。王太子殿下に攻撃するなど、あなた方こそ何を考えているのです?」

「殿下は勝手に、陛下を退位させるなどとそこの平民に約束しようとなさった。それは叛逆だ!」

 サディル始め騎士団の向けてくる殺気などどこ吹く風といった様子で、エルガーはやれやれと肩を竦めた。

「はあ‥。わかっていませんね。ごらんなさい、陛下はご病気になり意識のない状態だ。一刻も早くこの場を穏便におさめて治療に当たらなければ、お命に関わるかもしれないのですよ?」

 自分が眠らせたくせにしゃあしゃあと言い抜けるエルガーはさすがである。

「しかも‥‥あのご様子カエルでは今後公務への復帰は不可能でしょう。緊急事態ですから、王太子殿下は王国法第三条により自動的に国王代行となるわけで。その殿下へ攻撃魔法を放った魔術師には‥。」

 エルガーはにっこり微笑んで、騎士団とともにいる魔術師たちへ魔法を放った。

 避ける間もなく、彼らの杖が手枷に変形し、彼らは揃って苦悶の呻き声をあげて腰が抜けたように崩れ落ちる。

「王宮魔術師の杖に仕込まれた叛逆防止魔法を、魔術師長の権限で発動させます。」

「おお! そんな術があったのか‥。」

 王太子はほっとした表情で、エルガーを見遣り、それから騎士団をキッと見据えた。

「今のアシュワルドの言葉を聞いてなお、そなたらは剣を下ろさぬのか?」

 騎士たちに動揺が走るが、サディルが下ろさないのを見て、全員そのまま構えた。サディルが冷ややかに答える。

「我らは陛下の命を遂行するのみ。今ここでかの『化け物』を仕留めねば、国にとって禍根を残すだけです。そのために我らは一命を賭してでもヤツを斃す。」

 そしてサディルは『光龍の剣』に魔力をこめた。

 うっすらと剣の刀身が炎を帯びて輝き始める。

 サディルは得意げな笑みを浮かべ、ソレイユに向きなおった。

「ふふふ。どうだ? おまえの切り札は我が手にある! 」

 一方でソレイユは、さっぱり理解できないという顔をしていた。

「切り札? そんな剣が? ‥‥まあいいや。ご託はいいからかかってこいよ。おまえら相手に剣なんか要るか。」

 明らかに気分を害したサディルは、怒りに顔を真っ赤にした。

 いくぞ、と叫んで彼が剣を振るうと、轟音とともに巨大な炎の渦が巻きおこり、凄まじい速さで向かってきた。

 王太子は青ざめ、エルガーも冷や汗を流すが、とっさのことで防御結界を張るしかできない。

 ソレイユを含めた三人を瞬く間に炎の渦が飲みこんだ―――かのように見え、騎士団が勝ちどきっぽい雄叫びをあげた時、豪炎は一瞬でかき消えた。

 ソレイユはますます冷たく鋭い視線をサディルに向ける。

「バカもここまでとは‥。呆れ返る。」

 一瞬で間を詰め、サディルの頬を殴りつけた。

 むろんまだ気がすまないから軽くだ。爆散させてしまっては終わってしまうが、サディル・ヘーベルトには言ってやりたいことが山ほどある。

 だが手加減した拳でも、サディルは吹っ飛んで壁に激突した。

 エルガーはその隙に王太子の手を引っぱって、第二王子と復活した宰相のいる場所まで下がった。

「殿下‥。バカは死ななきゃ治らないようです。とりあえず殿下はなさるべきことをなさいましたので、いったん下がって次の機会を待ちましょう。あの様子ではたぶん、それほどかかりませんよ。一、二分てとこでしょ。」

「うう‥。アシュワルド‥。そなたの忠誠忘れぬ。」

「いえ。とっさに防御はしましたが、タイミング的に避けられなかったので、わたしの結界ではかろうじて命が残る程度でしたよ。無傷なのはソレイユどののおかげです。わたしたちの分も風圧を防いで下さったみたいですから。」

 ルチアが少し驚いたようにエルガーを見た。

「あら。よくわかったわね? ‥ねえ、ルーシエくん。君のお父さんは『勇者』が身についちゃってるみたいね。わざわざ彼らの前に出て炎を無力化しなくても、カウンターでぶっ飛ばしてやればあいつを黒こげにできたのにね?」

 王太子たちはちんぷんかんぷんだが、ルーシエは理解したようだ。

 誇らしげな顔でうなずいた。

「そうしたらお二人は今頃、炎の余波で黒こげだったでしょうね‥。父上は王太子殿下だからではなく、近くにいた弱者を無意識に守ったんだと思いますよ。何しろ僕の自慢の父上は、称号なんか関係なく真の『勇者』ですから!」

 そして哀れむような視線を王子たちへ向ける。

「だいたいあなた方が老害を放っておくから、愚か者どもがつけあがるのですよ。国王代行へ致死的攻撃を一度どころか二度も放つ国軍って‥どうなっているんです?」

 悔しげにじろりと甥を見遣りながら、王太子は唇を噛みしめていた。

「返す言葉もないな‥。アシュワルド、騎士団は‥全員あれほど腐っているのか?」

「さあ? ただここ数年はサディルが仕切っていますからね、あんなものでは? 彼らは『勇者』が強いのは国宝『光龍の剣』のおかげで、実力ではないというサディルの主張を鵜呑みにしてましたからねえ‥。ほら、今は足が竦んじゃってるようです。ちなみに我が麾下の魔術師団もそう思っていますよ。そうだろう?」

 エルガーは醒めきった口調で、すぐ横で腰を抜かしている部下二名に確認した。

 彼らは青ざめて、今にも泣き出しそうな情けない表情をしている。

「良かったね、君たち。王太子殿下が陛下を止めてくださったおかげで、あの場に特攻しなくてすんでいるんだから。ここにいるルーシエくんとルチアさまにおすがりすれば、もしかしたら助かるかもしれないしね。」

「アシュワルド‥他人事すぎるぞ!」

「だって殿下。わたしはルーシエどのに隷属の首枷を填めた張本人ですからね。サディルの次はわたしだと覚悟していますよ。先に言っておきますね、殿下方、宰相閣下、ご幸運をお祈りいたします。お先に失礼します。」

「そんな‥! そなたがいなくては、どうすればよいのだ?」

 外野がそんな会話をしている間に、ソレイユはサディルを顔が変わるほどぼこぼこに殴って気絶させていた。

「ふん。こんな程度でラヴィエどのの後継者気取りか? 真面目に鍛錬もせず、陰謀ばかり廻らせているからまともに戦闘もできないようだ。まして‥何が国宝だ、ばかばかしい! こんなの、ただの丈夫な剣にすぎないってのに!」

 ソレイユは転がっている『光龍の剣』を思い切り踏みつけた。パキンと音がして、剣が折れる。

 ああっ、と騎士たちが絶望した表情で叫んだ。

「おまえらは何を勘違いしている? これは魔法を乗せても壊れない程度に丈夫だっただけだ。たとえば」

 そう言うとそこらに転がっていた普通の剣を拾い、ぐっと魔力をこめた。剣は眩しいほどに光り輝く。

「普通の剣でも魔力をこめれば、こんなふうに魔法剣になるんだ。しかし強度が不足しているから一回しか使えない。」

 ハッと気合いを発してソレイユが剣を振るうと、轟音が鳴り響き光の波が彼の前方に一直線に向かっていく。まばゆさに一瞬目が眩んだその後には、幅ニメートル長さ百メートルくらいの更地が出来上がっていた。

「ほらな? 剣はもう使えない。」

 ルチアを除いた全員が、声をする方を恐る恐る見ると、ソレイユの手にはぼろぼろとなって朽ちかけた剣が握られていた。

「さてと。次はおまえらか?」

 ソレイユがじろりと見据えると、騎士たちはほとんど剣を投げ捨てて座りこんでいる。腰が抜けたらしい。

「あっちは終わったみたいね‥。ソレイユってば何のかんのって甘いんだから‥。」

 ルチアはふうっと息をついた。

「あとは‥わたしの方かな? うーんと‥。あ、マリアルドだけじゃなくロレッタもここにいるわ。王宮で何やってるのかしら? ま、いいや。そうれっ!」

 ルチアはくるくると小さな魔法陣を二つ描いて、空中に浮かべ、勢いよく手を振った。すると魔法陣は流れ星のようにきらきら輝きながら、光の尾をひいて凄い勢いでどこかへ飛んでいく。

「何をしたのですか‥ルチアさま?」

 ルーシエの質問にルチアは、ふふふと黒い笑みを返した。

「何て言うの‥? ま、十四年間ソレイユを面倒見てくれたお礼に、ちょっとした贈り物よ‥‥ふふ、ふふ。アンシアがいないのが残念だけど。そうだわ、アンシアで思い出したけど、身の程をわきまえずミーシアを欲しがった豚がいたんだっけ? アンシアともども可愛い娘を悲しませた罪は償ってもらわないとね‥。」

「娘?」

「そうよ。あたしはソレイユ・ガレットの、唯一正式な妻だから、ソレイユの子どもはみんなあたしの子どもってわけ。あなたもよ?」

「‥‥唯一ですか?」

「貴族と平民では教会の名簿が別々なの。平民の時からソレイユの奥さんなのは、あたしだけ。そういうことよ。ソレイユは万が一を思って、あなたたちを両方に実子登録してたみたい。そういうとこ、慎重なのよねえ。」

 ルーシエがほっとした顔をした時、わりと近い場所から金切り声が響いた。

 ばたばたと走る音がして、騎士団の連中が倒れている背後から、クリーム色のドレスを着た何かがよろよろと転がり出てきた。

 それは―――猿の顔をした人間のようだった。

 手足は人間なのだが、顔はどう見ても猿だ。大声で泣き喚きながらやってきて、腫れあがった顔で倒れているサディルを見ると立ち竦んだ。屈みこんで、名を呼び、激しく揺さぶっている。嘆いているのかと思えば、どうやら罵倒し始めたようだ。

「おい。あんまり揺さぶるとそいつは死ぬぞ?」

 嫌悪感に顔を歪めながら、ソレイユが見かねて声をかけた。

 猿はソレイユを振り向き、驚いた様子で、後ずさり始めた。殺さないでとか言っているらしい。

「ぶっ‥ぶはっ‥!」

 いきなりルチアが吹きだした。

 そして転移魔法でふわりと猿の隣に立つ。

「久しぶりね、ロレッタ・ラヴィエ! まあ、いいお顔になったこと! 鏡をプレゼントしてあげるわ、ほうら!」

 ルチアはものすごーく楽しそうな顔で、手の中に化粧鏡を取り出すと、猿の手に握らせた。猿は鏡を放り投げようとしたが、握りしめた指が動かないようだ。

「大丈夫よ。あなただけじゃないから。‥‥ほうれっと!」

 不意にロレッタの隣に、ピンクのドレスを着た豚が現れた。戸惑った様子で、呆然と周囲を見まわしている。

「何‥ここは、どこ?」

 ルチアは豚にも、手から離れない鏡をプレゼントした。

 そこで初めて豚は自分の顔が変わっていることに気づいたらしく、凄まじく汚い悲鳴をあげた。

 そして目の前のルチアに、たった今気づいたように怯えた顔で後ずさりする。

「貴女は‥賢者ルチア‥!」

「久しぶり、マリアルド。あんた、よっくもまあ、あたしを騙してくれたわねえ? ま、あんたに全然似てない可愛い子どもを二人も産んだってことで、この程度の仕返しですませてあげるわ。でも次はないわよ? 」

「この程度ですって‥! こんな顔になるなら、死んだほうがましよ!」

「へえ‥。じゃあ、じわじわと弱って苦しみつつ死ぬ呪いも上増ししてあげようかな?」

「ひえっ‥いや、やめて!」

「それともあんたが息子に填めた首輪と同じものを填めて欲しい? 鍵は誰に預けようかしらねえ‥?」

 振り向いたルチアに、王子二人もエルガーも即座に首を振る。 

「誰も引き取り手はいないみたい。残念ね。」

 マリアルド―――だと思われる豚女は、何ともいえない表情のソレイユを見つけ、涙をぽろぽろこぼしながら、助けて、と哀願した。

 ソレイユは視線をそらし、目を伏せると、ルチアに帰ろう、と声をかけた。

 そしてルーシエの隣へさっさと転移する。

 ルチアもすぐに飛んできた。

「もう気はすんだ。関わるのも面倒だし、さっさと帰ろう。」

 王子二人は安堵の吐息を大きくつく。

 宰相は滂沱の涙を流していた。

「新しい国王陛下。さきほどあなたが口にした、今後二度と俺と俺の家族に手出しをしないとの約束を守ってくれることを期待している。」

「や、約束する。」

 ソレイユは軽くうなずくと、ルーシエを再び抱き上げ、ルチアを振り返る。

 視線の意味に気づいたルチアは肩を竦めてにこっと微笑んだ。

 次の瞬間、一迅の風を残し、三人の姿は消えた。


 アーベルジュ公爵邸では、公爵と別れたイザベルが領地へと帰還する準備にとりかかっていた。

 すると中庭の真ん中で魔力が渦を巻き、屋敷の結界がパリンと音を立てて割れた。

 使用人たちが慌てる中、二人の子どもが中庭へ走り出てきた。

 グレーテよりは少し背の高い二人のうち、金色混じりの褐色の髪の男の子が満面の笑顔で、「父上!」と叫んだ。彼よりもっと黒に近いまっすぐな髪をした女の子の方は、いくらか控えめながらもやはり嬉しげな笑みを浮かべている。

 二人の目の前に現れたのはソレイユとルーシエだった。

「オリヴァ! リザン! おまえたちは無事か?」

 勢いよく飛びこんできた二人をしっかり抱きとめ、ソレイユはほっとしたように顔を綻ばせた。

「はい、僕たちは無事です。ルーシエ兄は‥大丈夫? 母上の話では監禁されていたとか?」

「何ともないよ。心配ありがとう。‥イザベルさまもご助力ありがとうございます。」

 後ろから優雅な足取りで現れたイザベルに、ルーシエは頭を下げた。

 ソレイユはそちらを振り向く。

 イザベルは冷ややかな視線をソレイユに向けると、貴族の礼を取った。

「ご無事のご帰還、おめでたく‥‥」

「いや。イザベル。わたしはもう貴族ではないので、貴女からの礼は不要だ。爵位も称号もたった今、返還してきた。荒らされてぼろぼろだが、残っている屋敷と財産はすべて貴女に譲る。どうとでもしてくれ。」

「爵位を返還‥。では貴方は今後どうなさるおつもりですか。」

「貴族の籍も抹消するから、ただの平民だ。しばらくは国内にいると思うが、この国にはつくづく愛想がつきた。たぶん子どもたちを連れて国を出ていくことになると思う。」

「‥‥そうですか。」

 イザベルは淡々とした声で答え、静かにうなずく。

 オリヴァとリザンは不安げな顔で父と母を代わる代わる見た。

「父上。僕とリザンは‥?」

 ソレイユは二人の頭を撫でた。

「おまえたちが決めなさい。父や他の兄弟姉妹と来るならば連れて行くし、母と公爵家に残るならばそれでもいい。むろん今すぐ決めなくてもいいんだ。離れていても家族であることは変わらない。何かあればその加護の指輪で連絡を寄こせば、父はいつでもおまえたちを助けにくるよ。」

 オリヴァは何か言おうと口を開いて、それから母親の静かな顔を見た。

「僕たちは‥母上と相談して、もう少し考える。国を出る前には、一度みんなと会えるかな?」

「そうだな。会えるようにする。」

 ソレイユは大きくうなずくと、リザンの顔を見た。

 リザンは静かな声で、オリヴァと同じだと言った。

「‥‥ソレイユどの。ルチアさまはご一緒ではないのですか?」

 イザベルの声にソレイユは彼女の方を見る。

 彼女は珍しく、皮肉も嘲笑も浮かべずソレイユをまっすぐ見ていた。

「今は一緒にいないが、今後はルチアと一緒に暮らすつもりだ。‥そうだ、オリヴァ、リザン。それからルーシエにもまだ言っていないが、おまえたちにはもう一人兄がいるんだ。ルチアの息子で、セシルと言う。」

「え‥!」

 三人はびっくりした顔で、お互いに顔を見合わせた。

「二人には今度会わせるよ。ルーシエは、今日これから会うことになるな。」

 それからソレイユは、オリヴァとリザンをもう一度両腕に抱き上げ、頬ずりをした。

「すまない。父とおまえたちの母とは今後住む世界が違ってしまうから、会うこともなくなるだろう。どちらかを選ばせるつもりはないが、並んで同じ場所には立てないんだ。許して欲しい。」

 二人はじっと父親を見つめていたが、顔を見合わせ、にっこりと微笑んだ。

「父さまのせいじゃない。仕方ないと思う。」

 リザンがかすかに微笑んだ。

「わたし、すぐに転移を覚えるから。そうすればいつでも会いたい時に会える。父さまからもらった魔力があるし、オリヴァと二人だし、わたしたちはきっと大丈夫。」

「うん。僕たちは大丈夫。それより僕は、父上がもう魔獣退治を強制されなくなる方が嬉しいよ。信じてたけど‥‥ほんとうに死んじゃったのかもしれないって、今朝まですごく悲しかったんだ‥。」

 オリヴァは少し目を潤ませながら、あらためて抱きついてきた。

 ソレイユはごめん、と言いながら、二人の頭をかき抱いた。

「よろしければ昼食を準備させますが‥‥もう行くのですか?」

 ああ、とうなずくソレイユに、イザベルは微かな溜息をこぼした。

「わかりました。わたしは公爵家へ正式に戻りますが、できればこの子たちを成人までは手元に置いておきたいと思っています。貴方には‥感謝と謝罪を。それから今後のお幸せを影ながらお祈りいたします。」

「‥‥社交辞令として一応受け取る。わたしと縁が切れることで、貴女に相応しい幸せが訪れることを願うよ。曲がりなりにも今まで妻として、責任を全うしてくれたことを感謝する。」

 ソレイユのたっぷり皮肉のこもった声に、イザベルは微かに苦笑しただけだった。

「では遅ればせながら、公爵どのにも感謝を伝えてほしい。‥オリヴァ、リザン。元気で過ごせ。‥‥また会いに来るから。」

 最後の言葉は風魔法を使って、二人の耳にだけ届けた。

 そして「‥兄上? 兄さま‥いや名前で呼んだ方がいいのか‥?」とひとりごとを繰り返しているルーシエを抱きかかえると、ソレイユはまっすぐに転移した。セシルとフリットたちの待つ、ルチアの家―――懐かしい故郷の村跡へと。


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