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そして勇者は剣を取る  作者: りり
第一章 勇者は剣を捨てる
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その五

早々にブックマークしてくださった方、ポイントを入れてくださった方へ感謝をこめて。勢いでもうひとつ続けます。

 王都のアーベルジュ公爵邸。

 明るい日ざしにあふれた家族用の居間で、ソファにもたれた公爵は一通の手紙を手に、ふふんと鼻を鳴らした。

 皮肉っぽい冷笑を浮かべてはいるが、どこか満足げでもある。

 そして部屋の隅に控えていた従僕を振り返り、娘のイザベルを呼ぶよう言いつけた。

 イザベルは、まもなく正式に夫ソレイユ・ドゥ・ガレット伯爵の戦死が公表される予定であるのに備え、伯爵夫人として公告を受ける立場にあるため、領地より王都へ子どもたちを伴って上京してきていた。

「お呼びでしょうか、お父さま。」

「イザベルか。まあ、座りなさい。」

 お茶の支度を申しつけ、公爵はいつもどおりの娘の無表情な顔をつくづく眺めた。

 二児の母親ではあるが、まだまだ十分若く美しい。これならばどこへでも好条件で再嫁させることができそうだ。

 ―――しかも‥。多大な持参金に、勇者の血を引く子どもたちを有している。他国からもこぞって申し込みがあることだろうな。さて、わが公爵家にとって最大利益となる相手は‥誰が良いだろうか?

 笑いが止まらぬとはこのことだ、と公爵は腹の内でかみしめる。

 更に現国王の怒りまくる顔を思い浮かべれば、実に愉快だ。

 ―――あの男はほんとうに愚かしい。王座を追われるのも時間の問題であろうな。

 公爵はお茶を口にしている娘に、さきほどの手紙を差しだした。

「ソレイユ殿の嫡男、ルーシエ・ドゥ・ガレットからの提案書だ。‥わたしとそなた宛になっている。」

「ルーシエ殿から? ‥ここにいたって何の提案でしょうか?」

「うむ。提案というより‥嘆願だな。オリヴァとリザン以外のソレイユ殿の子女四人を、そなたの養子として保護して欲しい、との内容だ。」

「わたくしの‥養子?」

 驚いた表情で目を上げ、イザベルは手紙を受け取った。

「さすがに賢いと評判のルーシエ殿だ。ソレイユ殿との婚姻にあたり、正式に神聖教会に婚姻届を届け出ているのはそなた一人であると調べたらしい。実母マリアルド王女を始め、他の奥方たちには、第二だろうが第三だろうが『夫人』を名乗る権利がなく、言えばただの『愛妾』でしかないという事実にな。」

 カップを手に取りながら、公爵はご機嫌な様子で語った。

「‥‥わたくし一人ではありません。『賢者』ルチアさまが戻られれば、あちらが第一夫人です。順序から言っても‥身分からも。」

 『勇者』と『賢者』は国の英雄であり、その称号が指し示すのは王族と比肩する地位だ。

「だが『賢者』は消息不明となって十四年。現状ではマリアルド王女がいくら騒ごうと、ソレイユ殿の第一夫人はそなただ。伯爵家の財産も継承権も、オリヴァとリザンに引き継がれることになる。‥‥ルーシエ殿が成人していればまた違ったであろうが。」

 ソレイユは、子どもたちはすべて自分の―――ソレイユ・ドゥ・ガレットの子女として教会へ正式に届け出ている。妻たちの立場については特に関心はなかったようだが、子どもたちの立場については明確な意志が窺えた。

 そのためもしもルーシエが、嫡子として強く継承権を主張するならば、多少は面倒な事態になったかもしれない。

 しかしルーシエの手紙は、もしも自分を含めた弟妹たちをイザベルが―――ひいては公爵家が保護してくれるのであれば、正嫡はオリヴァに譲るし、伯爵家の財産権も放棄する。更にその先が最も重要なのだが、弟妹たちにイザベルの実子と同程度の待遇を供与してくれたなら、自分は魔術師として公爵家に終身仕官する、と書いてあった。

 イザベルは微かに眉をひそめ、深い溜息を落とした。

「ルーシエ殿も不憫な‥‥。これほどまでに自分の母を信じられないのですか‥。」

「まあ。信じられるわけもないであろうよ‥。父を利己的な理由で貶め、死に追いやった連中だ。ルーシエ・ドゥ・ガレットの中では、そなた一人が無罪であるらしい。」

 実際にその通りであるし、と公爵は声を立てて笑った。

 イザベルは能面のような顔で黙ったままだ。

「『勇者』亡き後、もっとも戦力値の高い駒である『勇者』の血を引く者たちを、すべてわが手に収められるとあれば、十分に利が得られるどころか願ってもない話だ。次男もずば抜けた能力を持つと聞いているし、兄が自分たちのために公爵家へ終身奉公すると聞けば、弟妹たちも自ずと従うであろう。イザベル、承知した、安心せよと返事を書き送ってやるがいい。」

 イザベルは静かにうなずく。そして公爵に気づかれぬようひっそりと、再び溜息をこぼした。


 同じ頃、コツォン近郊のガレット家でも話し合いが行われていた。

 ルチア特製の昼食の後、イズペリは安心したようで、良かったな、とミーシアの頭を三度も撫でてから、ちょっぴり寂しそうに帰っていった。

 それから家族会議が始まった。

 まずは子どもたちから話を聞く。

 ソレイユは両腕を組んで黙って聞いていたけれど、聞けば聞くほど怒りがどうしようもないほど膨らんで、だんだんと抑えきれなくなってきた。

 ミーシアの縁談の話では、ついにブチ切れてしまう。

「は? ドレイファス伯爵だと‥? あの豚ジジイめ! 絶対許さん!」

 立ち上がって怒鳴ったソレイユを宥めつつ、ルチアが誰それ、と訊ねた。

 激高したまま返答しかけて、子どもたちの前だと気づいたソレイユは、ルチアの腕を引いて隅に引っぱっていき、耳元でひそひそと答える。

(豚みたいにぶくぶく太った、名高い変態ジジイだ。加虐愛好者(サディスト)で‥今まで数十人の女を娶ったが、最も長生きした例で八ヶ月だと聞いている‥。)

「ええーっ!! 何、それ! 犯罪者じゃない!」

(ルチア、声が大きい。領内に鉱山を五つも持っているから、金だけはあるんだよ。借金のかたに妻や娘を差しださせては、さんざん嬲って責め殺すそうだ。アンシアのヤツ、まさか金のためにあんな外道に娘を売るとは‥呆れ果てて言葉もない‥。)

 アンシアにはソレイユから生活できるだけの費用は出ているし、実家からもそれなりにせしめているはずだが、それ以上に派手に遊んでいる噂は耳に入ってくる。

 ルチアはみるみる涙をあふれさせ、ミーシアのそばへ駆けよってぎゅっと抱きしめた。

「心配しなくていいの! 今日からあたしがミーシアのお母さんだからね! アンシアに文句は言わせないし、汚い年寄り豚なんか一瞬で消し炭にしてやるから!」

 うっうっと泣いているルチアに抱きしめられているうちに、ミーシアも悲しくなってきたらしく、胸にすがりついて一緒に泣き始めた。

「ミーシア‥! 泣かないでえ‥。」

「グレーテ、ちょっと、おまえまで泣くなよ‥。」

 グレーテももらい泣きし始めたのを見て、フリットがおろおろする。

 ソレイユは二人を腕の中に抱き寄せると、よく逃げてきた、と褒めた。

「怪我が治らないとか言ってる場合じゃなかった‥。ごめんな、おまえたち。」

 フリットは褒められて嬉しそうな顔をしていたが、それを聞いて心配そうに顔を上げた。

「そうだ、父上‥。怪我の具合は大丈夫なの?」

 うん、とうなずいてソレイユはフリットをぐいっと抱き上げた。

「ほら。この通り。七割程度は戻ってる。王都へ戻ってサディルをぶん殴る程度なら問題ないよ。‥‥一年近く見ないうちに、大きくなったなあ、フリット。」

「フリット、ずるい! 父さま、父さま、わたしも! わたしも大きくなったでしょ!」

 幼い子どもみたいに抱き上げられて、恥ずかしそうに赤くなっているフリットを押しのけ、グレーテが今度は抱っこをせがんだ。

 そこへイズペリを送っていったセシルが帰ってきた。

「ただいまあ、っと‥。え? どうしたの、何の騒ぎ?」

 その場の光景にぎょっとした顔で立ち竦んでいる。

「おかえり、セシル。ご苦労さま。‥‥そうだ、紹介しなくちゃね。」

 振り向いたソレイユが、にっこりと頬笑み、それからフリットとグレーテに向き直った。

「ルチアは知ってるね? 昔父さんと一緒に暗黒龍を斃した『賢者』で‥奥さんだ。」

 やっぱり、と叫んだグレーテの瞳がきらきらと輝く。いつのまにか鞄から大事な絵本を取り出して傍らに置いていた。

「で、セシルはルチアと父さんの息子で、おまえたちの兄さんになる。」

「えっと‥。よろしくね?」

 わあっ、といっせいにきらきらした視線を向けられて、セシルは戸惑いつつも嬉しそうに挨拶を返した。

「どうりで‥父上にそっくりだったわけだね。ルーシエより上に兄上がいたなんて‥。ふふ、ざま見ろルーシエ! もう威張らせないぞ!」

 フリットがなぜか得意げな顔で、腕を腰に当てて胸を張った。

「ルーシエ‥。そうだ、フリット。ルーシエはどうしているんだ? 一緒じゃなかったのか?」

 ルチアの腕の中から出てきたミーシアも含め、三人は気まずそうに顔を見合わせた。

 グレーテが父の腕に両手で抱きつきながら、悲しげに言った。

「ルーシエ兄さまは‥変わってしまったの。昔は、バカだの何のって言っても、いつも手伝ってくれたり面倒を見てくれたりしたのに‥。今はわたしたちとはあんまり口を利いてくれないし‥たまに会えば意地悪ばっかり言うの。」

「ルーシエが‥? ふうん。」

 ソレイユは眉をひそめ、考えこむ。

「今度だって‥。父さまはもう帰ってこないほうがいいんだ、なんて言うんだもん! だからフリットが怒ってぶん殴って‥‥。」

「フリットが?」

「だって‥! あいつ、すぐミーシアを泣かすんだ、父上!」

 フリットは一生懸命、ルーシエがここ一年くらいの間に弟妹たちに言ったことや、最後にケンカした時の状況などを細かく話した。

「‥‥あげくにさ。『勇者』の息子は自分一人でいい、欠陥品たちは引っこんでろ、とか言って‥。」

 フリットは悔しげに唇を噛んでうつむいた。

 セシルがその頭をぽんぽんと撫でる。

 一方でソレイユは、腕組みしたまま、険しい表情でじっと考えこんでいた。

「ソレイユ‥。ねえ、それって‥。その子、かなり危険なんじゃない?」

 いつのまにか俯いていた三人が、ルチアの冷ややかな声にいっせいに顔を上げる。

「賢者さま! ルーシエ兄さまは‥ほんとは優しい人なんです、危険なんかじゃありません‥‥。」

 ミーシアが縋るような瞳で、ルチアを見上げた。

 ルチアは険しげに寄せていた眉根を緩め、ミーシアに微笑んだ。

「あ。ごめん、ごめん‥。そうじゃないの、ミーシア。逆よ。思ってたよりずっと、あなたたちは危なかったみたいね。だから一人家に残っているその子の身が心配って意味。」

「え‥?」

 三人はまたも顔を見合わせた。

 今の話の流れから、どうしてそうなるのかが理解できない。

 ルチアは困った顔でソレイユを見る。

 ソレイユは大きな溜息をついた。どうやらひどく―――怒っているらしい。

「‥フリット。それはね。意地悪じゃないんだ。ルーシエはたぶん、おまえたちを一生懸命護ろうとしていたんだよ。」

「‥‥!」

「おまえたちには知らせたくない話だったんだが‥。この国では『勇者』は兵器なんだ。なのに父さんは国の命令に逆らって、大義のない戦争で無闇に人を殺すのは嫌だと断った。だから国にとって『使えない兵器』になったんだ。」

 あ、とフリットは父の真剣な顔を見つめてうなずいた。

「だから父上は‥騎士団に殺されかけたんだね‥。」

 ミーシアとグレーテはびっくりして、次兄の顔をまじまじと見つめた。そんなことはひと言も聞いていない。

 ソレイユは苦笑いを浮かべ、知っていたのか、とフリットを見返した。

「そうだ。ヒュドラを斃して弱っているところを、王命でサディルに襲われて、とっさにここに‥故郷に転移したんだ。そうしたら運良くルチアがいて、助けてもらった。」

 ミーシアとグレーテは再び泣きそうな顔になる。

「使えない『勇者』を処分したら、その後はどうすると思う? 次の『勇者』を、今度は自分たちの言いなりになる兵器として手に入れようと考える。」

「!」

 今度はフリットも理解できたらしい。

「だから‥アシュワルド侯爵がマリアルドさまのところへ入り浸って、サディルが俺のバカ母のところに来たんだ。そういうことか、くそっ!」

「ル‥ルーシエ兄さまは魔法に優れているから魔術師長が、フリットは剣士だから副騎士団長が、それぞれ子どものうちに取りこもうとしていたわけなのね。」

 ミーシアも震え声でつぶやく。

「じゃあ『勇者』の息子は一人でいい、って‥ほんとうの意味は、自分一人で背負うから、君たちは目をつけられないよう、なるべく目立たなくしていろってことなんじゃない?」

 そうつぶやいたセシルの顔をフリットはしばらく無言でじっと見つめていたが、急に顔を歪めると頭一つ分背の高い新しい兄の胸に、うわーん、と泣きながら抱きついた。

「‥しかもここのところずっと、あなたたちと距離を置いているんでしょ? けっこう切羽詰まっているのでしょうね。」

 ルチアが吐息混じりに言う。

「‥‥どういう意味ですか?」

「あなたたちに使い道はないと、身近にいるバカな大人に印象づけるため? ほら‥マリアルド王女とか?」

 グレーテが思い切り顔をしかめた。

「あの‥‥厚化粧! ルーシエ兄さまをすぐ呼びつけてた! ハゲ祖父(ジジイ)に取り入るために、王宮へ連れていって‥。おまえなんか無能で恥ずかしいからついてくんな、ってすぐ言うのは意地悪ばっかじゃなかったなんて‥。どうしよう? いつも蹴っ飛ばしちゃってたのに‥!」

「いや、グレーテ‥。その前に女の子が兄を蹴っ飛ばすのはどうかと思う。」

 ソレイユがたしなめる横で、ルチアが「厚化粧? ハゲジジイ? 誰?」とつぶやいている。

「はっ! もしかしてハゲって国王のこと?」

 ルチアに問われてグレーテは、なぜか胸を張って大きくうなずく。

「チッ! もうハゲてたなんて‥。ハゲの呪いは無駄ね。別の仕返し考えなきゃ‥。」

 悔しげに舌打ちしたルチアを、グレーテは目を輝かして見上げる。

「呪い? ああ、憧れの賢者さま、わたしにも教えてください!」

「まあ、ふふ。憧れだなんて‥。可愛いわね。むろんいいわよ、あたしのことを母さんと呼ぶなら、何だって教えてあげる。」

「グレーテ、呪いはだめ! ルチア、子どもに何を教えるつもりなんだよ!」

 わあい、と喜ぶグレーテと照れた顔でにやついているルチアを、ソレイユは呆れて叱りつけ、それから真顔に戻った。

「それより。ルーシエだ。俺は明日にでも屋敷に戻って、ルーシエもいったんここへ連れてきたいと思うんだけど‥。あの、ルチア、えっと‥構わないかな? 少しの間だけ、そのう‥。」

 ルチアはじろりとソレイユを見た。

「何遠慮しちゃってんの? あたりまえでしょ? 転移でさくっと行って帰ってくれば、ここなら当分見つからないわ。どうやって奴らに仕返しするか、考える時間を十分稼げるでしょうし。明日と言わず今夜にでも」

 仕返し、とまたもやグレーテが大きな瞳をきらきらさせている。

 その横でセシルが、母の言葉をさえぎるようにでも、と言葉をはさんだ。

「でも、この子たちがたどりついたんだから、ここもそう長くは隠しておけないんじゃないの?」

「そう言えば。‥ミーシア、いったいどうやってここを突きとめたのかな? 手がかりになるようなものがあったのか?」

 ミーシアは首を振った。

「いいえ、父さま。フリットの勘なんです。」

「フリットの勘って‥。」

 首をひねる父に、ミーシアはコツォンへたどりつくまでの経移を説明した。

「確かに‥偶然としか言いようがないな‥。でもルシュデール領では、コツォンが俺たちの出身地だって知られているのか。」

「それに俺が三つ首の竜を狩ったせいで、ちょっと目立っちゃってるね‥。ごめん、父さん。」

 セシルが少しすまなそうに言うと、三人の弟妹はぶんぶんと首を横に振った。

「いや。こっちこそすまないな。セシルは俺にそっくりだし、ルチアの息子だし、王都の騎士団がルシュデール領にやってきたら、面倒臭いことになるだろう。迷惑をかけてすまない。」

 ソレイユも逆に頭を下げた。

 そんなこと、とセシルが言うより早く、ルチアがきっぱり否定した。

「ソレイユのせいじゃないわよ。悪いのはハゲジジイたちよ! 」

 既に国王はルチアの中でハゲジジイに決定したようだ。

「しかも『勇者』の息子を言いなりの『兵器』にする、ですって? 冗談じゃないわ、何様のつもりかしら? たかが一国の王の分際でえっらそうに‥。なめんじゃないわよ! 誰を敵に回したのか思い知らせてやるべきだわ! 死んだほうがましだと思うような、強烈な呪いをかけてやる!」

「いや、『王の分際』って、『思い知らせてやる』って‥。ルチアの方が何様な発言だからね!」

「母さん、落ち着いて! それじゃ『賢者』じゃなくて『魔女』の所業だよ!」

 ソレイユとセシルが二人がかりで、怒りまくるルチアを必死で宥める。

 その横で、最初はぽかんとしていた三人の子どもたちは、だんだんと元気が湧いてくるような気がしてきた。

 王都を出る時の絶望的な気持ち。

 ただ父に会えさえすれば何とかなると、必死に胸に言い聞かせてきたこと。

 でも会えなかったら、ほんとうに死んでしまっていたら、と不安でたまらなくて。

 そうだ。

 何とか逃げのびようとしか考えられなかったけれど。

 違うだろう、とフリットはぐっと拳を握りしめた。

「そうだよ‥。悪いのはあいつらなんだ。父上はずっと、国のために戦ってきた。」

 ミーシアもグレーテもうなずいた。

「イズペリさんも言っていたわ‥。伝説級の魔獣が出ても、この国には『勇者』がいるから被害が出ないですむって‥!」

「そうよ! でもハゲジジイは威張って贅沢してるだけで、何にもしてないもん! 老害って、王太子殿下がぼやいてた。」

「うわっ、君たちも落ち着いて! いや怒るのは解るけどさ、まずは王都に残ってる君たちの兄さんを助けなくちゃ、ね?」

 ルチアの意見に全面的賛成で盛り上がっている三人を、セシルが一生懸命落ち着かせようとする。

 少年とは思えぬ冷静な言動に、すぐ暴走気味になる規格外の母を持った十三年の苦労が窺えたが、本人は全然気づいていない。ソレイユだけが胸の中でしみじみと、すまない、と謝っていた。

 結局、ともかくも深夜にルーシエを迎えに行く、と決まった。

 むろん行くのはソレイユで、屋敷まで転移魔法を使うつもりだ。

 だが何があるか解らないし、本調子とはいえないため、ルチアが同伴することになった。

 何かあれば、ルチアからセシルへ加護の指輪で通信を入れる手筈だけれど、まあ七割の『勇者』に十割以上のやる気の『賢者』がついていて、たかだか人間相手に何かが起きるとも思えない。体制は万全だ。

 ところがまだ宵のうち、深夜にはほど遠い時刻。

 彼らにとっては想定外―――かもしれない出来事が起きた。


 夕方ルーシエが帰宅した時、ガレット伯爵邸では子どもたち三人の姿が見えないと大騒ぎになっていた。

 客間の前の廊下で、見慣れないけばけばしい女がヒステリックにわめいていた。

 ドアを開け放したまま、廊下で、ひとりの侍女に殴る蹴るの暴行を働いているが、誰も積極的に止めようとしない。

「何の騒ぎだ? 見苦しい。」

「あ‥若さま。」

 従僕のひとりがルーシエを振り返ったところで、興奮した女はこちらを振り向いた。

 振り上げた手をきまずそうに後ろへ隠し、ドレスの裾を引っぱって、会釈してくる。

 ルーシエはどこかで見た女だと思いながら、挨拶も返さずじろじろと見ていたが、やっとそれが変わり果てたアンシアであると気づいた。

「もしや‥アンシア・リュドミラ嬢? 誰の許可を得てここに?」

 ルーシエは冷ややかに問い質した。

 わざと夫人ともミーシアの母とも言わず、声にありったけの軽蔑をこめてやる。

 言いたいことなら山ほどあるが、目の前の娼婦みたいな女には言うだけ無駄だとすぐに解った。

 屋敷にいる時は清楚で内気な女を演じていたくせに、父がいないと思って素のままでやってきたのか。それともそんな余裕もないほど追いつめられてやって来たのだろうか。

 ルーシエの口調にさっと青ざめながら、アンシアは開き直ったように口を開く。

「わ‥わたくしは自分の娘を連れに来ただけですわ。あなたに許可をいただく必要が‥」

「あるんですよ、アンシア嬢。貴女は父の承諾なく勝手に屋敷を出ていったのだし、もともと正式な夫人ではないのだから。自分の娘? 貴女がこの屋敷を去った時点で、貴女は単なるリュドミラ前領主の庶子だ。一方でミーシアはれっきとした伯爵令嬢。貴女とは身分が違うんです。手紙を書いて面会の許可を求め、更に屋敷の管理を任されている執事の許可を得てからでなければ、ここへは入れません。」

「ふ‥夫人ではないですって! どういうこと、オルス!」

 隣にいる執事に食ってかかっている。

 ほんとにバカは困る、とルーシエは疲れた顔で、オルス、と執事に冷たい視線を向けた。

「なぜおまえはこんな女を屋敷うちに入れた? 誰の許可だ? ミーシアが会いたがるとも思えないが?」

「‥‥申しわけありません、若さま、しかし‥アンシア夫人は‥。」

「夫人ではない。この女は一時期屋敷にいた元側妾だ。知らぬとは職務怠慢だな、オルス? それともミーシアが会いたいとでも言ったのか? 言うはずもないが。」

 周囲の使用人たちがざわめき立つ。

「そ‥そのミーシアさまのお姿がどこにも見あたらないのです。」

 ルーシエは内心で嘲笑する。今頃なにを言っているんだろう、こいつらは、と腹立たしい気分が拭えない。

 眉間に皺を寄せ、険しい表情を作った。

「‥とにかくこの女を追い出せ。話はそれから聞く。」

「お、お待ちください。ミーシアはわたしが引き取ります! そういう話になっているのよ!」

「は? 誰と?」

「あんたの母親よ! ミーシアには婚約者が決まっているの、だからそちらへ預けることになっているんだから、さっさと出しなさいよ! でないと‥‥。」

「オルス。この勘違い女をさっさと追い出せ。話にならない。」

「しかし奥さまが‥。」

「マリアルド王女には伯爵夫人の資格はない。奥さまと呼ぶな。あの人は王女の身分を捨てたくなくて、教会に婚姻の届出をせずに輿入れしてきたのだから。今までは父上の温情で大きな顔をしてこの屋敷にいすわっていられたのに‥。やれやれ、無知とは怖ろしいな、オルス?」

 執事は青ざめきっている。

 主人をバカにしてきたつけがどのように身に返ってくるものか、想像したくないようだ。

 ルーシエはじろりと周囲の使用人を見まわした。

「父上がもしもほんとうに戻られないとしたら、この屋敷は恐らく閉鎖となるだろう。わたしたち兄弟妹(きようだい)は、正統な伯爵夫人のもとへ引き取られることになる。ミーシアの行方がわからない? 父上の不在をいいことに、おまえたちの誰かが幼い妹を売りとばしたのではないのだろうな? 」

「め、めっそうもごさいません!」

「言い訳はのちほど、父上かあるいは‥アーベルジュ公爵にすることとなるだろう。せいぜい父上が生還されることを祈るのだな。公爵どのは『勇者』の血を引く者を大切にしたいと申されている。ひとりでも欠けたとあれば当然、責任者には厳しい処罰が待っていることだろう。」

 アンシアが呆けた顔で座りこんでいる。

 他の使用人たちはただ呆然と突っ立ったままだ。

 面倒臭いので、ルーシエは風魔法を行使して、彼女を門の外まで放り出した。つんざくような悲鳴がだんだんと遠くなってゆく。

 ―――ドレイファスの変態豚にミーシアをやるだと? 自分が行けよ、クソ女!

 圧倒的な魔法の力を目の前で見せられた使用人たちは、声も出せずおどおどと怯えた様子でルーシエを窺っていた。どうやら生きた心地がしないらしい。

 こんな状況でミーシアだけでなく、フリットとグレーテもいないとは、口が裂けても言い出せまい。

 いい気味だ、とルーシエは振り返りもせず無視して背を向けた。


 下らない騒ぎのおかげで時間を取られてしまった。

 階下ではどうやら我先にと夜逃げするつもりなのか、バタバタと走り回る音や何か叫び合う声がうるさい。どうぜ彼らは全員クビだ。すっきりしてちょうどいい。

 ルーシエは自室に一応防音結界を二重にかけた。

 マリアルドは一昨日から王宮へ泊まりこんでいるはずだ。

 あの腹黒国王と、ソレイユの葬儀の段取りと予算について何やら打ち合わせ中らしい。恐らくあと十日余りのソレイユの戦死発表の予定日まで、ここへは戻らないつもりだろう。せいせいする、とルーシエは苦々しい思いで考えた。

 ―――いつか必ず、父上の仇をこの手でとってやる! ちっくしょう!

 どうして自分はあんな母親から産まれたのだろう。

 しかも顔立ちも髪の色も、どこから見ても母親譲り。もしかしたら父の子ではないかもしれないという恐怖は、常に胸の内に巣くっている。父に生き写しの末妹をどれほど羨んだことか。

 心の支えは生まれ持つ甚大な魔力だ。

 これがあるから父の息子であると信じられる。

 だから一生懸命、精進してきた。幼少期に父から受けた基本的魔術の手ほどきと、父の書き込みのある魔術書をもとに、『勇者』の子の名に恥じないようにと必死だった。

 あいにくとルーシエには剣の素質はなく、単純な力勝負でも二つ下のフリットに余裕で負ける。けれどだからこぞ余計に、魔術だけは誰にも負けない努力をしてきたのだ。

 ルーシエは小ぶりの水晶玉を三つ出した。

 この水晶玉には、全部同じ魔法陣を仕込んである。魔力を増幅させ、維持するための補助魔法だ。

 三つの水晶玉をテーブルの上に三角形を描くように配置し、三角形の中心位置に、懐中時計を置いた。

 まずは水晶玉の陣を発動させる。すると三角柱の魔力空間が出来上がった。

 次に、慎重に魔力の波長を調整して、懐中時計へと大量に注ぎこむ。

 三角空間がきらきらと輝き、調整した波長を安定維持させるよう働き始めた。

 眩しいほどの白い光が立ちのぼり、いつもと同じ小鳥の姿になる。ただしいつもの儚い影ではなく、もっと力強い、魔力に満ちたまばゆい姿だ。

 ルーシエは息を調えながら、命じた。

「行け。グレーテのいる場所と僕の声を繋いで。」

 白い小鳥はすうっと消え、時計の蓋についた水晶にゆらゆらとグレーテの姿が映り始める。父にそっくりの愛らしい顔は、久しぶりに見る満面の笑顔だった。やけに楽しそうだ。

 水をさすような後ろめたい気持ちになるけれども、気を取り直して話しかけてみる。

「グレーテ。僕だ。話がしたい‥。グレーテ、聞こえるか?」

 びっくりした顔でくるくると首を動かし、あたりを見回す妹の姿に、うさぎみたいだと少し笑った。

「ペンダントだよ。そこへ繋いでるんだ。」

 服の間からペンダントを取りだし、見つめる妹の目の前に、ルーシエの放った白い鳥が姿を現した。

 ―――ルーシエ兄さま?

 恐る恐るといったグレーテの声が、三角空間の中で反響し、くぐもって聞こえた。

「そうだ。グレーテ、みんな無事か?」

 ―――わたしたちは無事。兄さまは無事なの?

 グレーテの真剣な声にちょっと驚いた。

 なぜ屋敷に残っている自分に無事かなどと尋ねるのだろう? まあそれは今はいい、時間がない。この魔法はそれほど保たない。

「ゆっくり話している時間がない。フリットはいるか?」

 うなずいたグレーテの隣にフリットが見えた。白い鳥に顔を向けている。どうやらあちら側では鳥がルーシエの声を代弁しているようだ。

「フリット。そろそろもういいだろう? みんな連れて戻ってこい。」

 ―――は? 俺たちは戻らないよ。二度と王都には戻らない。貴族はやめたんだ。

 想定通りの返答だ。

「おまえたちが出ていった理由は解ってる。大丈夫、こっちは手を打った。そこがとりあえず安全な場所なら、ミーシアは置いてきてもいいが‥。」

 ―――ミーシアだけ置いてこいって! 何だよ、それ!

「ケンカしているひまはないんだ、フリット。聞き分けろよ。ミーシアがいちばん危ないから、時間稼ぎする数日の間預けておけるなら、その方がいい。それとおまえだけでも顔を出して時間稼ぎを手伝ってくれないと、おまえたちの捜索隊が大々的に繰りだされちゃうんだよ!」

 あ、とフリットは口ごもる。理解したようだ。

 たった七日でずいぶんと物わかりが良くなったらしい。バカ可愛い子には旅をさせよとは、先人はよく言ったものだ。

「解ったらそこがどこなのか教えろ。転移で迎えに行くから。」

 ―――え、転移? あれって行ったことのある場所じゃないとダメなんじゃ?

「おまえにしちゃよく知っていたな‥。だから正確にはそっちから来るんだよ。今から魔法陣を送る。そこの床でいいから展開しろ。こちらにも同じものを展開して、空間の結合を僕の魔力で補う。位置情報は確実に補助するために必要なんだ。だいたいの方角と距離があれば何とかうまく‥‥」

 ―――ルーシエ! 俺は戻らないよ。戻る理由がないんだ。

「は? 時間がないんだって言ってるだろ、説明を聞けよ。帰ってきたら話は聞いてやるから。思いつきで家出したくせに、子どもだけでずっと生きていけるわけないだろう? ぐずぐず言うな‥‥」

 ―――そっちこそ話を聞け、バカ兄!

 フリットの怒鳴り声が三角空間に反響して、魔力酔いを起こしそうになった。

 あのバカ! 戻ってきたらシメてやる!

 怒鳴っちゃだめ、というミーシアらしい声が微かに聞こえた。

 ―――ルーシエ。あのさ。おまえに黙って出ていったのはごめん、謝る。でも父上を探しに行くと言えば反対されると思ったから、仕方なかったんだ。

「‥‥あたりまえだろ。何の手がかりもないのに、子どもだけでうろうろ王都の外へ出ていったって、見つかるはずもない。騎士団とかに連れ戻されて監禁されたらどうするんだよ? 僕がごまかすのにどれほど苦労したか‥。ともかく、もういいだろう? 父上が本気で隠れたら、そんなに簡単に見つかるはずないん‥‥」

 ―――見つかったんだよ。いま一緒にいるんだ。

「‥へ?」

 驚きの余り、つい魔力が揺らいでしまい、あやうく繋がりが切れてしまいそうになった。

「今‥‥なんて?」

 ―――だから父上は生きていて、会えたんだよ。まだ本調子じゃないって言ってたけど、俺たちの話を聞いて、心配だからおまえを迎えに行くって。

「ほんとにほんとに絶対にほんとの父上なのか? おまえバカだから、幻術使う魔獣に瞞されてるんじゃないだろうな?」

 ―――あ? いくら何だって父上を見間違うかよ!

「だって‥僕が聞いた話は‥出血多量の瀕死の状態で、枯渇寸前の魔力で魔獣から転移した姿が最後の目撃情報だったって‥‥。十中八九転移を失敗して、亜空間で塵になった可能性が高いって‥。僕だって生きているって信じたかったんだよ、だけど‥。」

 ルーシエは混乱して泣きそうになった。

 そこへミーシアとグレーテの声が重なって響いた。

 ―――父さまは生きてるのよ、兄さま!

 ―――わたしたち、父さまと一緒に暮らすの。もう王都へは二度と戻らない。兄さまはどうするの?

 そんなこと、聞かれるまでもない。

「は? どうするもこうするもない、父上がいるなら僕もそっちへ行くよ。決まってるだろ。」

 良かったあ、と弟妹たちの声が届いた。

 本気で喜んでいるらしい声に、嫌われている自覚はあったから意外に思う気持ちと、素直にすごく嬉しい気持ちが混じり合ってちょっと複雑だ。

 ―――父上が今夜真夜中に、転移で屋敷までおまえを迎えに行くって。

 それは非常に嬉しいが、そうと決まれば一瞬でも惜しい。

 第一あの狡猾なアシュワルド侯爵が、父が生きている場合に備えて、この屋敷に罠を張っている可能性も無視できない。

 よくよく考えてみれば、父が生きているならば真っ先に、自分たち兄弟姉妹を迎えに屋敷へ転移で現れる、と侯爵だけでなく誰でもまずそう思うだろう。マリアルドに夢中になっている振りをして連日訪れていたのは、罠を仕掛けるために違いない。

 思いついたらその考えが、頭にこびりついて離れなくなった。

 それと同時に父が今まで迎えに来なかったのは―――体がまだ回復しきっていないせいだったのではないか? さっきフリットは、まだ本調子ではない、と言った。

 罠を探して解除しよう。

 それか、転移陣をあちらで展開してもらって、こちらから飛んでいこう。

「父上には屋敷に罠が仕掛けてあるかもしれないから、僕の連絡を待っててほしいと伝えて。場合によってはこちらから飛ぶので、補助して欲しいとも。」

 まずい。三角柱の光が薄くなってきた。

 ―――待ってて、今父上を呼んでくる‥‥

 フリットの声がだんだん遠くなる。

「おい、待てって、もう限界だから‥あ。」

 向こうでグレーテが、白い鳥の姿を留めようと両手を伸ばした映像を最後に、繋がりはぷちんと消えた。

 急に暗く静かになった部屋で、溜息と疲労感だけが残った。


 ルーシエはさっそく、探知魔法を屋敷の敷地内すべてに対し発動した。

 魔力はけっこう消耗していたけれど、まだ六割程度はある。魔法的罠ならば一部を壊して発動しないようにすればいいだけだし、物理的罠なら一番得意な火の魔法で軽く脅すか壊すかすればいい。楽勝だ。

 しかしびっくりだ―――何がいちばんびっくりしたかと言えば、フリットの直感だ。

 たった七日で、誰も見つけられなかった父の居場所へたどりつくなんて、奇跡に近いだろう。

 ちらりと見えた部屋の中は、山小屋みたいだった。むろん王都の中ではない。いちばん近い山岳地帯だとしても、迷わずまっすぐ行かなければ距離的にもこの日数はありえない。

 こつこつと段取りを踏んで策をめぐらせていた自分が、すごくバカに思えて、ちょっと涙がにじんできた。

 いやこの涙は父が生きていた喜びと安心感だ。

 決して二年余りの苦労を、たった七日で単純バカにひっくり返された悔しさじゃない。じゃないはずだ。

 でも家族との平和な暮らしが実現したら、少しは剣のほうも身を入れて練習しよう。

 何となく、『体で覚える』ラヴィエ式が、直感力を磨くのに貢献している気がする。何となくだが。

 ふと体に違和感を感じた。

 どこかで、流した魔力が反発している。結界に似た感じだが、もっとずっと嫌な感じだ。

 場所は―――正面玄関のあたりか。

 急いで行ってみると、今まで気づかなかったが扉の内側に魔法陣が仕掛けられていた。ちっぽけな落とし穴のようなものだ。いったい何のためにあるのだろう?

 ともかくこれが探知魔法をはねのけているのは間違いない。

 ルーシエはちょっと考えて、ちっちゃなゴーレムを召喚した。グレーテの部屋にあった指人形だが、まあいい。その腹に自分の魔力を詰めて、落とし穴にぽんと落としてみた。

 魔法陣が発動し黒い穴になり、ゴーレムの魔力をじわじわと吸いこんでいく。

 しばらくしてゴーレムがパタンと仰向けに倒れた。

 黒い陣がぎゅうっと収束して鉄の枷が現れ、ガシャンと音を立ててゴーレムの手足を拘束する。同時に屋敷全体が禍々しい真っ赤な光に包まれた。

「なんだ‥これ?」

「やれやれ‥。子どもの悪戯でしたか。困りますね、まったく。」

 飄々とした声が突然背後から聞こえてきた。

 振り向くと、エルガー・アシュワルド侯爵が立っていた。

 見れば彼は、呪文を散りばめた真っ黒なローブを身につけ、宝玉を填めた杖を手にしている。王宮魔術師長の、バリバリ戦闘用装束だ。

 ルーシエは一気に鼓動が早まる胸を何とか落ち着かせ、とりあえず礼を取るしぐさで、さりげなく間合いを取った。

「侯爵どの。夜分に何のご用でしょうか? ずいぶんと物々しい格好ですね。‥母は留守ですよ?」

「なに、鼠取りが作動したので見に来たのです。何しろ魔獣化した凶悪な鼠なので、念には念を入れておかないとね‥。ところで。」

 普段の気味の悪いほどの愛想の良さを消して、侯爵は冷たい視線をルーシエに向けた。

「君は何をしていたのです? そんな玩具を使って。」

「何を、はこちらの台詞です。自分の家に怪しげな術が仕込まれていたら、確認するのは当然でしょう? あなたこそ誰の許可を得て、何のためにこんなものを?」

「ふふ。無能のふりはやめなさい。まあ、勇気に免じて答えてあげましょうか。君の想像通りだと。」

 ―――それってちっとも答えてないだろ!

「さて。そろそろ発動しますかね‥。」

「‥ん?」

 見るとゴーレムの腹の上に、真っ赤な光の球体が浮かんでいる。どうやらさきほど屋敷全体で発動した禍々しい魔力が凝縮したものらしい。

 ―――あの赤い光‥。何かを吸収して‥って、僕の魔力か!

 まずい。あれを喰った後、どうなるのだろう?

 事象を整理してみよう。

 あの落とし穴っぽい魔法は、ゴーレムの魔力の塊に反応した。

 つまりあの場所でピンポイントに魔力を放つか、もしかしたら少し離れた場所でも巨大な魔力だったら、魔力の主をあそこへ強制的に引き寄せて拘束するのだろう。探知魔法の微少な魔力は弾いたが、直接落としたゴーレムの魔力には反応して―――ああ、だから鼠取りか。

 そして落とし穴で鉄枷が具現したと同時に、今度は屋敷じゅうが光った。

 二重の仕掛け。ということは、落とし穴は単に時間稼ぎに過ぎず、こちらが本命の罠だ。時間稼ぎの証拠に、その間に侯爵が現れたわけで。

 考えている間に、赤い光はゴーレムの魔力を食い尽くしたようだった。

 ぐんと伸びあがって、ターゲットとした魔力の主であるルーシエの喉もとへ、まっすぐ向かってきた。

 ルーシエはとっさに防御壁を築く。

 土壁、炎の壁、風の壁。

 しかし赤い光はすべてを食らいつくし、迫ってくる。まるで意志があるかのようだ。

「まさか‥。悪魔召喚? いや‥そんな大仰なもんじゃないな、影使い、上位の闇魔法だ。」

 侯爵は見切られて少しムッとしたようだ。

 ルーシエは息を調え、とりあえず水の壁を築き、その間に必死に考えた。

 影魔法は本体があるはずだ。何しろ影なのだから。何らかの明確な目的を持った闇魔法の魔具、または魔獣。

 しかし近くにはない。恐らくは侯爵が隠し持っているのだろう。

 ルーシエは苦し紛れに、懐にあった懐中時計の水晶へ魔力をこめ、使い魔を作った。そして打ち上げる。赤い光はそちらを追いかけ始めたと思うと、あっという間に鳥を飲みこんだ。侯爵がくすっと笑う。

 何度か繰り返すうちに、ルーシエの魔力が尽きてきた。

 ―――くっそ、やばい! 侯爵を攻撃したいけど隙がないし‥。どうしたらいいんだ?

 これ以上魔力を放出したら命も危ない。いちかばちか赤い光を背に連れて、侯爵に特攻するか、と考えた時、赤い光が空中で停止した。

 きらきらと瞬いて更に小さく収束していく。もう満腹になったのだろうか?

 よくわからないが今だ、と思い、自室へ転移した。

 そして杖と剣を手に、今度は屋敷の外へ転移しようとしたところで、何かに凄い力で吹っ飛ばされた。空間を渡る扉を開こうとして拒否された感覚だ。

「いてて‥。屋外には転移できないのか‥。」

 気がつくと階段の踊り場付近で壁に打ちつけられており、目の前には侯爵と、その腕に寄り添った母マリアルドがいた。

「エルガー。呼んでくれたのはいいけれど、ソレイユじゃないわ‥。どうなってるの?」

 いつ聞いても胸糞の悪い、甘ったれた声だ。

「君の息子が悪戯してね‥。せっかく作った罠を壊しちゃったんだよ。おかげでね、『勇者』を繋ぐための首輪が、君の息子の魔力で染められちゃったんだ。どうする?」

 侯爵の手にあったのは赤い光に満ちた、禍々しい鉄の首枷だ。

 それが何だか気づいて、ルーシエは血の気が引いていくのを感じた。

 マリアルドはルーシエの真っ白な顔に気づくと、楽しそうに笑った。

「まあ。あの生意気な子が、あんなに怯えちゃって‥。ちょうどいいわ、しばらく填めてやればいいんじゃない? 母親の言う事を聞かない悪い子にお仕置きよ。外してくれって泣いて縋りつく姿が見たいわ。」

「やれやれ‥。酷い母親だね。わたしには都合がいいが‥。そこは息子を許してやってくれって頼むところかと思ったよ。」

 侯爵はちょっと鼻白んでみえた。

 まあ頼まれたからと言って、どうせ見のがすつもりはなさそうだけれど。

 ルーシエも母親の腐った性根はよく知っていたつもりではあったが、こうもはっきり見せつけられたのはさすがに堪えた。

 父が生きていると知らずにいたままだったら、絶望して屋敷ごと自爆を計ったかもしれない。ちょっと魔力が足りないけれども。

 しかし父は―――『勇者』ソレイユは生きているのだ。

 それは喜び。希望。

 たった今この場において、ルーシエが何が何でも生を選択する最大の理由である。

「ふふ。怖くて口もきけないのね‥。母上助けて、って泣いてごらんなさいな。」

 ルーシエはふん、と鼻先で笑った。

「怖くて血の気が引いたんじゃありませんよ。口もきけないほど怒っていたんです。父上に『隷属の首枷』を填めようと計画していたなんて‥。身の程知らずもいいところだ。」

 ルーシエはゆっくりと立ち上がり、目の前の自分を産んだ女へたっぷりと蔑みの視線を浴びせた。

「しかしクズ相手には、怒るのも無駄みたいだ。‥母上と呼べ? ふざけんな、この汚らわしい雌豚が! 僕の親はソレイユ・ドゥ・ガレットただ一人だ。たとえ天地が裂ける瞬間が来ようと、おまえなんかを二度と母と呼ぶか! 悪魔に喰われろ!」

 ぺっ、と唾を吐きかければ、愚かな王女は激昂し、つかつかと近寄ると手にした扇子でルーシエの顔を引っぱたいた。

「エルガー! さっさとこのバカ息子の首に首輪を填めてちょうだい! 二度とこんな口きけなくしてよ!」

「仰せのままに。」

 侯爵は手にした首枷に向け、短く呪文を唱える。

 すると次の瞬間、ごつくて禍々しい首枷がルーシエの白くて細い首にガシャン、と填った。侯爵の掌には、首枷の代わりに真っ黒な鉄の鍵が現れる。

 ルーシエの全身を、自分のものではない異質な魔力が駆けめぐっていく。

 体じゅうの血が沸騰するような感覚。精神を縛って従えようとしてくる強い圧力。

 反射的に全面拒否を主張して、激痛が走った。

 思わず膝をついたけれど、声を出さぬよう必死に耐える。口の中に血がにじんだ。

「拒否すると辛いですよ? うーん、子どもを隷属させるのはあんまり愉快じゃないですねえ‥。」

「暢気なことを! ソレイユがもう死んでいるなら、この子が次の『勇者』なのよ? 使役できなくてあなたの職務が果たせるの? それにソレイユがもしも生きていたとしたら、この子を使えばすんなり言うことを聞かせられるわ。あの男はね、ルーシエをそれはもう、ばかばかしいほど可愛がっているの、平民上がりって家族ごっこが大好きなのよ。」

 ご機嫌な様子のマリアルドを横目で見て、侯爵は逆にひどく不安そうになった。

「やれやれ‥。怖いもの知らずというのはお気楽でいい。」

 聞こえないようにひっそりとそうつぶやいて、侯爵はルーシエに立つように命じる。

 しかし命令を拒否したルーシエは、胸の奥を襲ったあまりの激痛に気を失ってしまった。

 溜息をついた侯爵は、仕方なさそうにルーシエを両腕で抱き上げた。

「では、君の息子はわたしが預かります。君に任せたのでは、大事な人質を殺してしまいそうだからね。」

「そんな‥エルガー、わたしは母親なのよ? まだ、跪かせて足の甲に口づけをさせていないわ‥。」

 甘えた口調で言ってくるマリアルドに、侯爵はつくづく呆れた、と言わんばかりの視線を振り向けた。

「マリアルド。息子にそんな真似を強要するのは、変態のすることだよ。わたしもさっきのルーシエの言葉に賛同せざるを得なくなるなあ‥。『汚らわしい雌豚』」

「なっ‥! ちょっと、誰にものを言っているつもり?」

「愚かすぎる可哀想な元王女にですよ。」

 不意にアシュワルド侯爵の雰囲気が、凍りつきそうなほど冷たくなった。

 侯爵は憐れみと蔑みをこめた目で、マリアルドを見据えた。

「貴女はお父上にずっと瞞されていたんだよ。陛下は甚大な力を持つ『勇者』に鈴を付けておきたかったから、教会へ届出をしなければ王女の身分のままでいられる、とわざとあなたに嘘を教えた。そうして王宮へ出入りさせて手元で飼い殺したわけだけれど、実際には『勇者』に褒美として下げ渡された時点で慣例どおり王籍は削除。一方で伯爵家へ降嫁の届出をしなかった貴女の身分は、結果的に『元王女』の平民。‥他人事だと笑えますね、愚かすぎて。」

「嘘よ! 嘘だわ‥そんなはず‥‥。お父さまがそんな‥。」

 怒りで真っ赤になって、マリアルドは扇子で侯爵を殴りつけようとした。

 それをひょいと避けて、更に冷笑を浮かべる。

「ほんとうにバカだねえ、アリアルド。貴女は伯爵が妻として扱ってくれていたからそんなふうに着飾っていられたし、伯爵が死んでも『勇者』の血を引く者の生母だったから利用価値があったのに‥。この子にわたしを主とした隷属契約が成立したからには、もう不要なんだよ。わたしもうんざりしながらご機嫌を取る必要がなくなって、ほっとしているんだ。ではさようなら。‥あ、伯爵家は唯一の正夫人、イザベル・ドゥ・ガレットの息子オリヴァが嗣ぐことになるだろう。君は一文無しで出ていかなきゃならないね。哀れなマリアルド。」

 呆然とした様子で、マリアルドは床にぺたんとすわりこむ。

 侯爵は気を失っている少年をよいしょっと肩に担ぎ直すと、彼女を一顧だにすることなくすうっと姿を消した。

 あとにはマリアルド『元王女』の喚き散らす声だけが、空っぽの屋敷にうつろに響き渡っていた。



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