その一
勇者ソレイユと賢者ルチアは、辺境の小さな村で生まれた。
険しい山の中腹にあり、地下水の湧き出る小さな川と深い森に囲まれて、人が住むのに適しているとは到底言えないような山奥にあった。
麓へ下りるにも獣道しかなく、行商人さえも訪れることはない。ほぼ自給自足で、たまに大人が交易に村の外へ出かけるくらいだ。
村人は五十人足らずで、全員生まれついて高い魔力を有していた。
村の子どもはみな、物心つく前の二歳くらいから昼間は集会場に集められ、魔法を始めとした基本的な教育をひととおり施される。五歳ともなると、自分用の短剣や弓矢を作ってもらい、大人に伴われて狩りに参加する。食料や薬の材料となる植物の採集も始まる。
ソレイユとルチアは同い年ということもあり、いつも二人一緒だった。
そして十歳頃には既に、この国の平均的な狩人たちよりずっと確かな狩りの腕を持っていたし、王宮魔術師のレベルを遥かに超えた上位の魔法を理解し、使うことができた。
村ではそれがあたりまえで、彼らが特別だったわけでも天才児だったわけでもない。むろん、村の大人たちにはまだまだ全然届かなかった。
今から思えば変わった村だったと思う。遠い昔に、世間から隠棲することを選んだ魔術師の一族だったのかもしれない。
村に在った魔術書や、そこに記された膨大な魔法理論は、偉そうにふんぞり返っている王宮魔術師たちの誰一人として理解できないだろうし、もしもあの頃に国軍が仮に総員で攻め寄せてきたとしても、容易く返り討ちにできたはずだ。
しかしそんな強者揃いの村であっても、『厄災』の直撃には勝てなかった。
この国における『厄災』―――すなわち、魔獣の大海嘯だ。
だいたい十年に一度の割合で、魔の森で異常発生した魔獣の大群が森からあふれ出て、通り道となる地を蹂躙しつくし、何もかも瘴気にのみこんでいく。為す術もないその現象を、人々は『厄災』と呼んでいた。
生き残ったのはソレイユとルチア、たった二人だけだった。
十三になったばかりの二人は、見る影もなく荒れ果てた村を後にして、旅をし、やがてある都市にたどりついた。そして生きるために魔獣ハンターとなった。
仇討ちとばかりに二人で魔獣を狩って狩って狩りまくって、あっという間にSランクハンターに登りつめ、ついには瘴気を撒き散らす魔の森の主、暗黒龍をたった二人で斃したのだ。
あの時は心底嬉しかった。
瘴気の元が消失したのだから、もう『厄災』は起きない。村のみんなの仇をやっと討った気がした。
それにあの戦いは凄惨を極めた。
手足が千切れたり、吹っ飛ばされたりするたびにルチアに回復してもらって、ぎりぎりの瀬戸際で踏ん張ってまる一昼夜。精も根も尽き果てそうなぼろぼろの体を気力だけで動かし、やっとの事で致命傷を負わせることができた。
とどめを刺して塵と消えゆく敵を見送った後、今度は魔力が枯渇して意識を失ったルチアを抱え、大樹のうろでひと晩を明かしたのも今では懐かしい話だ。
悲願を果たした二人は、街の教会で二人だけの結婚式を挙げた。
そこまではよかった。
しかし。
そこからが想定外だったのだ。
英雄となり、国王に表彰され、二人は『勇者』と『賢者』の称号を賜った。
人の世の仕組みなどまったく知らない世間知らずな田舎者の二人は、あっという間に翻弄されて、気がつけば貴族に取り立てられ、新婚なのに決まりだからと四人もの妻を押しつけられた。
最初は第四王女マリアルド。国王からの褒美だと言われて、断ってはいけないと周囲に窘められた。
その時ルチアは「王女様なのに『褒美』って何? モノ扱いじゃん、偉い人の感覚ってヘン!」とか眉をひそめて言っていた。それと「あたしには褒美にならないのに、差別じゃない?」とも愚痴っていた。
次に負けじと、最初にハンター登録した街の領主が、「我が娘もぜひ、『勇者』さまにもらっていただかねば!」とか言い出した。そして領主の三女だというアンシアが届けられた。
王女だって持て余して、拝領したばっかりの屋敷の一番いい部屋に飾っているだけなのに、どうすればいいんだ、とルチアにこぼしたら、彼女はうーんとうなって、「返しちゃえば?」と答えた。
そこで送り返そうとしたら、アンシアが「返されたらわたしは一生牢に幽閉されます」と、この世の終わりみたいな顔でさめざめと泣きながら、置いてくれと懇願した。
聞けばアンシアは娘と言っても庶腹で、こうして政略結婚に使うためだけに屋敷の隅で飼い殺されてきたのだという。ルチアは何かを納得して「やっぱりモノなのね、最低!」と大きくうなずいていた。
そうこうしているうちにアンシアから日を置かず、今度は将軍で騎士団長のおっさんから、「勇者どのの剣はすばらしい! 気に入った! 娘をぜひ嫁に!」とひとり娘のロレッタが送付されてきた。「父には魔法剣の才能を受け継いだ息子を生むまで、何が何でも貼りつけと命じられた」とのことで、当然帰る気などない。
しっかり鍵を掛けて防御結界も張った寝室で、ルチアは「『勇者』って‥種馬? 種馬なの?」と気の毒そうな目を向けてきた。あの時は無性に恥ずかしかった。
最後に輿入れしてきたのは、王家と肩を並べるという大公爵家の姫イザベルだ。
王家だけを『勇者』と縁戚にさせるのは、国内勢力の均衡がとれなくなるためよろしくない、なんたらかんたら。自称助言者たちが、青くなって丁重に扱えとか言った。ここにも断るという選択肢はないらしかった。
ルチアは「王女と二人とも返せば問題ないんじゃないの? て言うか、王女貰う時にコレ貰うとアレも来ますよって、何で言わなかったのかしら? ほんとに『助言』? 瞞されてない? ‥で、あたしには『褒美』はないの?」と呆れていたが、自分もすでに『コレ』とか『アレ』とかモノ扱いしているのは気づいていないようだった。
ちなみにルチアは、最初に第六王子をやると言われてかわいそうな王子をあやうく消し炭にしそうになった事件を、きれいさっぱり脳内抹消していた。
それからいろいろあって、幸い嫁はそれ以上増えなかったが、ルチアがキレて出ていってしまった。
帰るに帰れないなんてかわいそうだから、置いてあげればいいわよ、なんて最初に同情したのはルチアなのに。
手も触れずにお客さま扱いしていた『妻』たちに、優しくするよう言い出したのもルチアなのに。
「なのに‥生理的にイヤ、とか、浮気者とかってさ‥‥」
愛していたのはルチアだけで、ソレイユはただ彼女と一緒にいたかっただけなのに。
あれからもう十四年。
現在のソレイユの状況と言えば―――伝説級の魔物ヒュドラを何とか斃したものの、瀕死の傷を負って動けずにいた。
カレニア王国の東端、ログランド伯爵領。
広大な森が続く緩やかな山岳地帯のうちの、町を見下ろす位置にある山の上。それが現在ソレイユが横たわっている場所だ。
後から来るはずの騎士団の部隊は、結局間に合わなかった。
それほど高い山でもないし、麓からは一日かからずに行軍できるはずなのだが、転移で先に来たソレイユが戦い始めてからまる一昼夜過ぎた今もまだ、まったく来る気配がない。
飛びそうになる意識を必死で繋ぎとめながら、一方で忍び寄る死を覚悟した。
そのせいだろうか。さっきから、脳裏に浮かぶのはルチアとの思い出ばかりだ。
―――ああ。たまらなくルチアに会いたい‥。
今更故郷やルチアの事ばかり考えてしまうのは、やはりここで死ぬ運命だからなのか。
ソレイユは自嘲めいた気分で、情けない、と自分を叱りつけた。
あれから慰めてくれた四人の妻たちとの間に、六人の可愛い子どもをもうけて、慣れない貴族の暮らしの中でも最初の数年は幸せだと感じることもあった。
しかし十四年経った今はもう、ソレイユの居場所は家にも外にもなくなっていた。
思えばこの十四年間は、ひたすら戦いに明け暮れた日々だった。
瘴気が消えてもまだまだたくさんいた魔獣の群れを、騎士団とともに討伐して回った頃は良かった。被害に遭っていた住民や領主に感謝されて、やりがいもあった。
周囲の空気が変わったのは、六年前の隣国との国境紛争だ。
敵国民だと言われても、ソレイユには単なる罪もない一般の住民にしか見えなかった。しかも侵略しているのはこちらだ。政治的判断に口をはさむつもりはなかったけれども、軍人でもない一般民を範囲魔法で殲滅しろとの命令は断固拒否した。
次男フリットの外祖父に当たるジョナサン・ラヴィエがまだ存命だったならば、ああまで非難は集中しなかっただろう。いやそもそもラヴィエならば、一般住民を殲滅などという作戦は立てなかったはずだ。
更に敵軍に対峙した時にも、命は取らなかった。
自分の圧倒的な力を人に向けるのは、単なる殺戮だ。化け物にはなりたくない、と相手の意識を刈り取って戦力無効化に終始した。
戦が終わった後、彼の評価は『勇者』ではなく『人を殺せない臆病者』に転落していた。
彼が一瞬で敵を殲滅してくれたならば、ただ一人の犠牲者も出なかったはずだ、というのが上層部の意見であり、国王始め主だった閣僚の見識らしい。わずかな犠牲者の遺族が感情的にその意見に追随した。
彼にしてみれば、戦争を始めたヤツが言うな、と思う。
隣国から仕掛けてきた戦ではない。こちらが侵略したのだ。戦争など始めなければ犠牲者もない。
だが『勇者』を要している国として、諸外国に対し、逆らえばどうなるかを見せつける必要があったものを台無しにしたのだと『助言者』たちは言う。
その言葉に彼は、「防衛戦であれば見せつけてやろう」と返答し、相手にしなかった。
今でもそれは後悔していない。
むしろ、所詮この国にとって自分は『兵器』なのだ、と痛感した瞬間だった。
『使う』のは国王を始めとした権力者たちであり、ソレイユ自身の意志など考慮外なのだ。
それからは特に酷使されることになった。
今回のヒュドラのように、森の奥の沼で眠っていたはずの魔獣まで、わざわざ起こして―――そう。封印の沼を見る限り、国家魔術師を名のる者が調査とか言って封印を壊したっぽい―――そして彼に討伐を命じるのだ。暗に使えない『兵器』は死ね、と言われているのだと察した。
ここ三年はほとんど王都に帰る間もなく、やっと戻っても二日と家にはいられなかった。
それでも彼が戦い続けるのは、可愛い子どもたちのためだ。
妻たちとは既に何年も口を利いていない。アンシアなど病気療養と称して、二度と帰れないはずの実家に帰ってもう五年経った。冷たいはずの父から領内に貰った瀟洒な私邸にこもり、彼の妻としての財産で遊び暮らしているとの噂だ。
ロレッタはラヴィエが亡くなった後、もともとの婚約者だった男とよりを戻したらしい。ほとんど家にはいないそうだ。
イザベルは最初から彼には冷たかった。大公爵家の姫である自分が、なぜ貧民上がりの男に嫁がねばならなかったのか、どうしても納得がいかなかったらしい。
彼への風向きが変わったのを機に、三年前にはさっさと公爵家に戻っている。アンシアやロレッタと違うのは、彼女はソレイユとの間に生まれた双子に愛情を持っており、母として保護し、連れ帰った点だろう。
いちばん厄介なのはマリアルドだ。
ルチアが去って数年、マリアルドは砂糖菓子のように甘ったるくソレイユをちやほやした。褒め殺しのような甘い言葉の羅列を、当初は疑いもせず信じた。愚かにも応えられない自分に引け目を感じてさえいたくらいだ。
特にルチアを失って失意の彼を救ったのは、一年後にマリアルドが生んだ長男のルーシエだった。どこか投げ遣りに流されるままだったソレイユが、自分の意志で生きようとあらためて決意できたのは、幼い我が子のおかげだった。
だがマリアルドはどこまでも王族だった。
世の中の誰も彼も、自分に利用されるために在るとでも考えているのだろう。『勇者』の看板が墜ちて、ただの伯爵夫人―――あれから出世してソレイユは今は領地なしだけれど伯爵だった―――では満足できないのだ。
彼女はもう一人娘を産んでいるが、二人とも魔力が甚大で才能にあふれている。
『勇者』が死んだ後、彼女が『勇者の血を引く者』を自分のための道具にするつもりなのは明らかだった。
横たわった体を、いつのまにか振りだした雨がしとしとと濡らした。
弱った体から、容赦なく体温を奪っていく。
だいぶ息が上がってきている。わずかながら残っている魔力を温存し、何とか意識を保っているものの、時間の問題だろう。
―――くそっ! まだ死ぬわけにはいかないのに‥。せめてあの子たちが、自分で自分を守れるようになるまでは‥‥。
ソレイユは愛しい子どもたちの名前を呼ぶ。
―――ルーシエ、フリット、ミーシア‥。オリヴァ、リザン。グレーテ。
その時、複数の気配が近づいてくるのを感じた。微かに聞こえる足音は軍靴のもので、一小隊分ほどの人数だ。
もしや救援部隊だろうかと薄い希望が湧いてくる。
しかし救援にしては、一小隊とは少ない。
うっすらと目を開けると、見えたのは副騎士団長のサディル・ヘーベルトの姿だった。彼は雨の中、剣を振りかぶっていた。
とっさに動かないはずの体を何とか捩った。
辛うじて致命的箇所は避けたものの、肩を貫かれ、新たな激痛が走る。
「ぐうっ!」
無理に動かしたせいで、喉の奥から血の塊がこみあげてくるのを、一生懸命吐き出す。
あらためて全身の傷が激しく痛み、あちこちから血が噴きだした。
「‥まだ生きてるのか。しぶといもんだ。さすが化け物。」
サディルはふん、と鼻を鳴らした。
「おおい、成り上がりの伯爵どの。聞こえるか? 国王陛下の命令だ。潔く死んでくれ。ほら、命令書。」
彼は憎々しげに顔を歪め、片手で剣を押さえ、片手でひらひらと国王の署名の入った命令書を広げ、かざした。
「ロレッタと国宝『光龍の剣』は俺が貰ってやるから安心するがいい。生意気な息子も、せいぜい国の役に立ててやろう。」
ぐい、と引き抜いた剣を再びサディルは振りかぶる。
「だからさっさと死ね!」
今度こそ動けないソレイユの胸の、心臓の位置へと正確に剣が落ちてきた瞬間、ソレイユはありったけの魔力をかき集め、転移魔法を使った。
どさっと音を立てて、乾いた草地に体が落ちた。
どこに飛んだのか解らないけれど、ともかくあの場は逃れたようだ―――何とかそう思うのが精一杯で、ソレイユは失血と魔力枯渇で意識を手放した。
サディルの剣はソレイユの血で濡れた地面に深く突き刺さった。
「くっそ! 忌々しい! ‥おい、ぼけっとしてないで近くを探せ! 瀕死の体でそんなに遠くへ飛べるわけがないんだ、きっと近くに転がっているはずだ!」
サディルは焦って怒鳴り飛ばした。
しかしいくら探してもソレイユは見つからなかった。
雨が止むのを待って、翌日からは麓に待機していた一個師団を遣い、あらためて山狩りをして捜索したものの、やはり見つけられない。
三日後、サディルは諦め、残された勇者の証し『光龍の剣』と、ソレイユのマント、背嚢などの所持品を遺品として持ち帰ることにした。
「あの傷だ。転移を使うので精一杯のはず。助かるはずもない。」
念のため引き続き近隣の村や町にも騎士を送り、それらしい怪我人があらわれていないか継続調査させることにして、帰路に就いた。
報告した先は、国王とその側近アシュワルド侯爵だけだ。
忌々しげに眉をひそめた国王を、エルガー・アシュワルド侯爵は宥めた。
「国宝『光龍の剣』が戻れば問題ありませんよ。ヒュドラは斃され、『勇者』は姿がなく、捜索したけれど見つからない。遺品がすべて回収されたことで、『勇者』はヒュドラと相打ちになり、死亡したと見られる。これでいいでしょう、嘘はないですし。」
国王はアシュワルド侯爵の軽い口調に、懸念を示した。
「だが‥なにゆえ、たった一人で戦わせたのかと言われるぞ? 誰も見届けられない場所で一騎打ちになった理由はどうするのだ?」
「ヒュドラが最初に現れた所は別のところだったことにすればいいでしょう。いきなり転移されて、『勇者』どのが一人で追いかけてしまい、誰もついていけなかった。どうです、サディル? 無理がありますか?」
肩を竦めたアシュワルドに、いえ、とサディルは首を振った。
「今までも似たような説明をしてきましたから‥。『勇者』の単独行動好きは世間に十分周知されています。あとは盛大に国葬でもしてやれば十分でしょう。」
アシュワルド侯爵はふふ、と微笑んだ。
「サディルはほんとに、『勇者』どのが嫌いなのですね‥。ラヴィエどのが可愛がっていたからですか?」
サディルはじろりと侯爵を見る。
「侯爵様には関わりのないことです。ただひとこと言えるのは、前騎士団長がどうあれ、騎士団では『勇者』に好意を持っている者の方が少ないのは事実ですから。」
「なるほど。文官の端くれであるわたしが、口を出してはいけない領域ですね。失礼しました。」
国王は疲れたような吐息をついた。
「ではサディル・ヘーベルト。午後からの閣僚会議でヒュドラ討伐の『事実』を報告せよ。国葬までするかどうかは、閣議に任せる。わたしから積極的に命じるつもりはない。」
苦々しげに命じた国王に、は、と頭を下げたサディルは、これでようやく王国は正常に戻る、と胸をなで下ろす。
退室し、廊下を歩くサディルに、アシュワルド侯爵が声を掛けてきた。
「ふふ‥。どうやら国王陛下も『勇者』が大嫌いのようだ。サディル、君は『勇者』がいなくなって正直どんな気分かい?」
「不要なものがなくなってすっきりした、という感覚ですね。六年前の戦いでは、『勇者』に依存する気分が、騎士団始め国軍の中に蔓延していた。あれからずっと綱紀粛正に努めてきましたが、これでいっそう緩みがなくなるでしょう。」
「ふうん。なるほどね‥。」
サディルは振り返った。
「あなたの所属する魔術師団でもそうでしょう? あんな、理論を無視した規格外の魔法に惑わされることはなくなる。怖ろしいのは国民に、アレが『あるべき形』と思われるこどですからね。」
「‥‥どういう意味だろう?」
「精進すればアレに到達できる、というのが当然の認識として普及することです。到達できない者はイコール怠けている者、腑抜けている者と見られる。騎士や兵士だってそうです、いくら努力しようとアレには足下にも追いつけない。それは彼らからやる気を奪い、ほんとうに腑抜けにさせるのです。‥だからアレは人外の化け物であると知らしめなければならない。国の秩序を護るためには、どうしても必要なのです。」
確かにね、と侯爵はうなずいた。
「でも‥それならさ。もう一人、いるんじゃない?」
サディルは立ち止まった。
「もう一人、とは? 彼の息子ですか?」
「いや、あんなヒヨッコじゃない。忘れているのかな‥‥暗黒龍を斃したのは『勇者』一人じゃない。『賢者』がいるじゃないか?」
「‥‥しかし彼女はこの十四年間、まったく噂を聞きませんよ?」
侯爵はにこっと微笑んだ。
「だからね。国葬をぜひしたいんだよ。『勇者』の最初の妻だろう? 彼のお葬式には現れるんじゃないだろうか?」
サディルは興味のなさそうな顔をした。
「放っておいた方がいい気もしますがね‥。『賢者』が『魔女』に化けたらやっかいなのでは?」
「なるほど‥。それも一理あるね。考えておこう。」
アシュワルド侯爵は相変わらずの軽い口調で言い、肩をちょっと竦めた。
サディルはまた背を向けて歩き出しながら、昔一度だけ挨拶を交わした『賢者』について思い起こしてみる。
―――美人というより‥印象的な顔をしていたな。あれもやはり化け物だろう。
頭の隅に置いておく必要はあるな、とサディルは気を引き締めた。
結局、『勇者』の死はひと月だけ待って発表されることになった。
消息不明の場合はひと月待つのが慣例だと、閣議でアーベルジュ公爵から強い申し入れがあったためだ。
アーベルジュ公爵はイザベルの父で、『勇者』を『我が婿どの』と呼び、身内意識を全面的に押し出しての発言である。
更に国王のまた従兄でもあり、その意向は無視できない。
国王は苦々しい表情であったが、公爵家によけいな情報が洩れぬよう、と閣議の後でサディルに厳重注意した。
「公爵めが、時間稼ぎをして何をするつもりなのか、油断はできない。良いな?」
サディルはうなずく。
どうせひと月待ったところで、報告以上の話など出てくるはずもないのだ。
目撃者は騎士団の中でもサディルの子飼いの部下のみで、『勇者』は高確率で死亡している。近隣の村や町はサディルとエルガーの手の者がひそかに見張っていて、公爵家の密偵に出し抜かれる隙など与えてはいない。それに―――死体ならば見つかっても何も問題はないのだ。
騎士団長の椅子は目の前だ、とサディルは内心ほくそ笑む。
『勇者』の家族への連絡は、エルガーがするそうだった。
どうやらエルガーは、あの頭も性格も悪い王女を引き受けるつもりらしい。彼の狙いが何なのかは不明だが、そちらは任せておけば大丈夫だろう。
サディル・ヘーベルトは王宮内の自分の執務室へ戻ると、さっそく国王から拝領した『光龍の剣』を抜いてみた。
白銀の刃は美しくきらめき、目に眩しい。その輝きはサディルの強烈な自負心を十分満足させてくれるものだった。
この国に『勇者』は不要だ。その事実を証明するのは他の誰でもない―――このサディル・ヘーベルトだ。
サディルは知らず知らず笑っている自分に気づくこともなく、ただその輝きを見つめ続けていた。
王都にあるガレット伯爵邸に連絡が入ったのは、閣僚会議で報告のなされたその晩のことだった。
国王の使者を客間で迎えたのは、マリアルド王女と嫡男ルーシエだけだ。
他の三人の夫人たちは屋敷にいなかったし、ルーシエ以外の子どもたちは臨席を許されなかった。
十一歳になる次男フリットと長女ミーシア、それに八歳の三女グレーテは、言いつけられた通り子ども部屋で大人しくして―――いなかった。
三人はソファで肩を寄せ合って、適当な理由を付けて侍女を追い出し鍵を掛け、目の前のペンダントをじっと見つめていた。正確にはペンダントに填めこまれた水晶を、だ。
屋敷じゅうに風魔法を張りめぐらせ、声を集め、水晶を媒体にして再生させるという仕組みで、考案したのはミーシア、魔法を使っているのはグレーテだ。今までこれで、使用人を始めとした大人たちの事情を探るのはうまくいっていたのだが。
「だめね‥。客間に防音結界が張ってあるのだわ。」
ミーシアが溜息をついた。
焦げ茶色の豊かな髪、琥珀色の聡明そうな落ち着いた瞳。
母のアンシアにそっくりの整った顔立ちだが、派手な美人だった母とは真逆で、徹底的に地味で控えめな印象の少女だ。一度会った程度では、たいてい誰からも名を覚えてもらえないし、すぐに存在を忘れられるという悲しい特技を持っていた。
「‥ルーシエ兄さまかな?」
そうつぶやいたのはグレーテ。
こちらは金髪に濃い青の瞳。ソレイユに瓜二つの美少女だ。そのせいか、実母の君臨するこの屋敷内で、実子なのに非常に立場が低い。
異母妹の言葉にミーシアは首を振る。
「違うと思うわ。きっと使者さまでしょう。何といっても国王陛下の正使ですもの。」
フリットがうなずきながらも、がっくりと肩を落とした。
金色の混じった褐色の髪にペリドットのような明るい緑色の瞳、すぐ何でも顔に出る素直な性格も見た目も、先年亡くなった大好きな祖父によく似ている。それが自慢だ。
三人は三人とも母親が違うが、母に見捨てられているという共通項に加え、助け合わないといろいろたいへんだったという実利的条件もあり、何といっても『この世でいちばん父さまが好き』という点で血の絆を噛みしめている仲良し兄姉妹だった。
そして彼らの現在の最大の関心事は、もう半年以上も顔を見ていない父の行方だった。
「父上がヒュドラを斃しに旅立って三週間か‥。なんで父上が帰ってこないで、使者なんか来るんだ?」
グレーテは大きな青い目を潤ませる。
「ヒュドラを斃しに行く前だって‥ちっともお家に帰ってこなかったわ。以前ならたとえ一日しかなくても戻ってきて、お顔を見せてくれたのに‥。」
「うん‥。確か西の森のサンダーウルフの群れ退治から、直接ヒュドラ退治に移動したんだっけ‥。」
「その前もよ、ずっと王都へ戻られていないわ‥。」
フリットの沈んだ顔を覗きこんで、ミーシアは不安そうに震える声で訊ねる。
「ねえ、フリット。父さまは‥もうわたしたちのこと、嫌いなんじゃないかしら?」
「え!」
グレーテは恐怖の混じった悲鳴を上げ、フリットは即座に強く否定する。
「そんなわけないよ! あるわけないだろ! ‥‥グレーテ、大丈夫、絶対ないから。ミーシア、何てこと言うんだよ!」
「だって‥。この家は父さまの家なのに‥ここに父さまの居場所はある? わたしの母さまだけじゃなくて、最近はフリットのお母さまも帰ってこないし‥フリットだって、時々呼ばれて帰ってこないでしょ? イザベルさまはオリヴァとリザンを連れて出ていってしまわれたし‥。マリアルドさまだって、あの侯爵さまがしょっちゅう訪ねていらして、まるで主人みたいな顔をしているじゃない? 召使いたちまで当然、って態度だし‥。父さまが帰りたくなくなるのはよく解るわ‥。」
ミーシアは青ざめた顔で、ひと月違いの異母兄を見据えた。
「こんな状況で‥あんな母さまたちから生まれたわたしたちのことを、父さまはまだ愛してくれるかしら?」
グレーテは唇をぎゅっと噛みしめて、今にも落ちそうな涙をすさまじい顔で留めている。
妹の表情に気づいたミーシアは、あ、と後悔したらしく、グレーテを抱きよせて髪を優しく撫でた。
「グレーテは‥‥父さまにそっくりだもの。きっと大丈夫よ。フリットだって、ラヴィエさまに似ているから‥。でもわたしは‥‥。」
フリットは勢いよく立ち上がった。
「誰に似てるとかは関係ない! 父上がそんな、あいつらみたいな下らないことを言うもんか! そうだろう、ミーシア? 父上を疑ったりしたら、きっとすごく悲しむぞ。」
曖昧にうなずきながら、ミーシアはまだ俯いたままだ。
グレーテの頬には、努力も空しくひとすじだけ涙がこぼれている。
すっかり悄気ている異母妹たちを何とか励まそうと、フリットが必死に言葉を考えていると、不意にドアがノックされた。
慌ててミーシアはグレーテの涙をハンカチで拭き、フリットは机に走り寄って、三人分の課題帳を広げる。そしていかにも、課題をみんなで話し合っていたかのように妹たちが席についたのを確認してから、フリットは閂を外し、扉を開けた。
不機嫌な、冷たい表情でそこに立っていたのは、長兄のルーシエだった。
黒髪に紫色の瞳。王家の色を纏った彼は、母親そっくりの怜悧な美貌を持ち、ここ二年余り、弟妹たちには冷ややかな態度しか取らなくなっていた。
「遅い。何やってるんだよ?」
「‥‥そっちこそ何しに来たんだ? 兄上さま?」
ちょっと小馬鹿にしたような異母弟の言葉を、冷笑で受け流し、ルーシエは奥の方で息をひそめてこちらを窺う妹たちへ視線を向けた。
何も言わずに部屋の中へ入り、妹たちへまっすぐ向かう兄を、フリットは急いでドアを閉め、追いかける。
「おい、またミーシアを泣かしたら許さないからな!」
「訳解らないね。いったいいつ僕がミーシアを泣かした?」
「いつだって苛めてるじゃないか! 嫌味ばっかり言いやがって!」
「嫌味じゃないよ、事実だね。それで泣くなら、ミーシアが弱すぎなんだよ。」
言い争いのうちに、妹たちの近くへたどりついたルーシエは、ふうっと息をついて、真剣な表情を異母弟妹たちに向けた。
「父上は‥消息不明だそうだ。ヒュドラと戦って斃して、その後行方が解らない、とさっき使者が伝えた。」
三人の顔がいっせいに強張る。
「騎士団の連中、あんなに大勢いるくせに‥また父上を一人で戦わせたんだ。ほんと、騎士団も魔術師団もさ、威張っているだけで腰抜けばっかりだよね。‥父上は、もう戻られないものと考えるべきだな。」
フリットが叫んだ。
「戻られないなんて‥そんなはずないよ! 父上はヒュドラなんかに敗けるもんか!」
じろりと冷たい瞳がフリットを向いた。
「だから単純バカはイヤなんだよ。おまえにヒュドラの何が解るんだ? 百年くらい前に現れた時は領国が一つ滅んだんだぞ? 封印するだけで精一杯だったんだ。‥‥剣ばっかり振っていないで、歴史をちゃんと勉強しろ。」
それからルーシエはまっすぐに妹たちを向いた。
「そんな化け物と僕たちの父上はさ、たった一人で援護もなしで戦わされたんだからさ‥。すぐに戻れないほど重傷を負って動けないか、ご自分の意志で姿を消したのか。どっちか解らないけど、たぶん、もううんざりしているよ、『勇者』を続けることにね。」
ミーシアは緊張した表情で静かに異母兄を見つめた。
「‥‥兄さまはまるで‥父さまが戻ってこなければいい、と思っているように聞こえます。」
「そうだよ? 以前父上にも申し上げたよ、もう『勇者』は不要になったのではありませんか、とね。」
フリットは激高して、兄に掴みかかると、思い切り頬をぶん殴った。
二歳の差があるけれど、身長が平均よりやや下のルーシエに対し、平均よりかなり上のフリットはほとんど同じくらいだ。しかも鍛え方が違うので、ルーシエは吹っ飛んで、壁に背中を打ちつけた。
「腹黒兄! そんな事を言ったから‥だから父上は帰ってこなくなったんだ! おまえのせいだ!」
ミーシアは慌ててルーシエに駆けより、唯一得意と言える治癒魔法をかける。
「いてて‥。バカはほんとに単純で困る。‥ミーシア。自分でできるから必要ない。」
手を邪慳に振り払われたミーシアは、うつむきながら下がった。
グレーテの青い瞳が怒りにきらめいた。
「兄さま! 違うでしょ、『必要ない』じゃない、『ありがとう』よ!」
「チビはうるさい。」
「ち、チビじゃない! バーカバーカ、バカ兄!」
フリットは怒りのままに、兄に出ていけ、と叫んだ。
やれやれ、と立ち上がったルーシエは、異母弟妹たちを呆れ顔で眺め渡し、背を向けながらつぶやいた。
「『勇者』の息子は僕一人で十分だ。欠陥品たちは大人しくしてろ。‥いいか、もう父上はいないんだ。」
そして能力の差を見せつけるように、転移魔法を使い、部屋を出ていった。