サラリーマンの石蕗さん
エイプリルフールっぽいやつも投稿した方がいいかなと思って。
思いつきで書いただけだし、ヤマもオチもありはしないが、たぶんイミはあるはずだ!
シスル・コーポレーションきっての敏腕営業マン、石蕗一朗は、そこそこのお金持ちである。
具体的に言うと、中の上くらい。
新入社員の低賃金が叫ばれる昨今においては、彼は人生の成功者と言えるだろう。高円寺の一級マンションに居を構え、愛する妻子と共にささやかだが充実した毎日を送っている。日々を精力的に働き、趣味は家族サービス。愛車はレクサスである。
人生ささやかな勝ち組という言葉を擬人化すれば、この男の形を取るはずだ。
石蕗一朗とは、そんな人物である。
「おはようございます!」
神田にあるシスル・コーポレーションの本社ビルに、一朗は朝早くから出勤する。
この時期、早朝のシスルは死屍累々といった趣だ。主な事業がゲーム開発となるこの会社は、追い込みをかけられたクリエイタースタッフの屍で、山が築かれることなどさほど珍しくもない。掃除のおばちゃんににこやかに挨拶をしたのち、一朗は床に転がる栄養ドリンクジャンキーどもを踏まないようにヒョイヒョイと移動し、タイムカードを押す。
「う、うう……。おはよう、ござい、ます。石蕗くん……」
屍の山から、意識のある腕が一本伸びて、ゆらゆらと揺れた。
「おはようございます社長。また徹夜ですか」
「ええ、そう……。本当は開発以外にやらなきゃいけない仕事もたくさんあるんだけど……。でも、私が開発に手を出すのがなんだかんだで一番効率が良いのよね……」
「才女ですからね社長は。うちは社長の天才性で持っているようなものです」
おべんちゃらを言った風でもなく、ごく自然に、一朗はそう言った。机の上に置かれた書類を眺めながら、スケジュール帳を開き、今日の予定を確認していく。
「いやまぁそんなことないですよ……。石蕗くんにも仕事だいぶ押し付けちゃってるし……。それに、ほら、先日石蕗さんが引き抜いてきた……」
目をこすりながら、シスル・コーポレーションの野々あざみ社長は、並べられたデスクの一角を指し示す。そこには、目の下にクマを作り、栄養ドリンクのビンをくわえながらパソコンに向かう、ひとりの男の姿があった。
彼は、あざみ社長と一朗に気づくと、小さく会釈をして、作業に戻る。
あの江戸川という男は、もともと静岡の小さなソフトウェア会社に勤めていたところを、一朗が声をかけ、引き抜いてきた人物だ。シスルのハードなブラック環境にも耐え得るタフネスと、確かな実力を併せ持つ。
「で、江戸川さん、どう? 納期の方なんだけど」
「無理ですね」
一朗が声をかけると、そちらからはにべもない返事が返ってきた。
「もともと無理のあるスケジューリングなんですよ。なんでこんな仕事安請け合いしたんですか」
「だってあざみ社長ができるっていうから」
「うう、すいません……。予定ではちゃんと終わってるはずだったんです……」
顔を真っ青にしたあざみ社長が、面目なさそうにうなだれている。江戸川自身のは別に糾弾の意思もないのだろうが、苛立ちのためなのか、自然、語気が強まった。
「あのね社長、社長は自分基準で物事を考えすぎです。確かに社長が10人いればできたでしょうがね。残念ながら俺たちは普通の……」
言いかけたところで、一朗の手がそっと江戸川を遮る。気づいてハッとした江戸川は、唇を尖らせたまま、小さく、『別に怒っちゃいませんよ』と呟いた。
「今日、先方に会いに行く予定でしたからちょうどいい。納期は伸ばしてもらいますよ。江戸川さん、あと何日くらい必要かな」
「三日、余裕をみればあと五日は欲しいですけどね」
「じゃあ一週間伸ばしてもらおう。ただしそこがデッドラインということで。それ以上は絶対に伸びないよ」
「ずいぶんあっさり言いますね。できるんですか」
江戸川はやけに不機嫌そうな声で呟く。できないことを軽々しく口にするなとでも言いたげだ。が、一朗は眼鏡を指で抑えながら、いつものような穏やかな佇まいのまま、こう言ってのけた。
「そこをなんとかするのが僕の仕事で、僕にそれをさせた以上、全力で実行するのが君の仕事だと思うんだけど、どう?」
「嫌なやつだなぁあんた!!」
「はっはっは、今さら気付いても遅い。では社長、外回りに行ってきます」
終始にこやかな笑みを崩さず、一朗はオフィスを飛び出していく。
半分は白人の血が入っているらしい、見目に麗しい青年だが、眼鏡の向こう側に貼り付けた柔和な笑みは人の警戒心に巧みに入り込んで、内側から錠前を解いてしまう。その実、彼が抜き差しならない男であるのは、見ての通りであった。
「くっそ……!」
江戸川は拳を握り、しかしその振り上げた拳を振り下ろす先が見当たらずに、情熱だけを目の前のキーボードにぶつけ始めた。あざみ社長は安物のコーヒーメーカーで2人分のコーヒーを淹れながら小さく苦笑する。
「江戸川さんは、石蕗くんが嫌いみたい」
「別に嫌いってわけじゃありませんよ。ありませんけどね。でもあの人、」
そこで江戸川は、キーボードを叩く手を止めた。
「あの人、めっっっっっっっっっっっっっっちゃ惚気るでしょう!?」
「ああ……」
あざみは遠い目をしながら頷く。
そう。いつも柔和な笑みを絶やさず、ウィットに富んだジョークを口にし、誰に対しても気立てが良く、相手に応じた適度な距離感を保ち、剛柔巧みに使い分けて清濁を併せ飲む。おおよそ人間関係の構築において貶すべきところのない一朗の唯一にして致命的な欠点がそこだった。
めっっっっっっっっっっっっっっちゃ惚気るのである。
3歳歳上の妻とは、別に大恋愛を経ての婚姻というわけではない。一朗による、再三の情熱的な猛攻に、ついに相手側が折れた形である。今に至るまで夫婦仲は円満で、まぁそれは死ぬまでそうなのだろうな、ということは容易につくほどのオシドリ夫婦らしかった。
で、何かにつけて、『うちの奥さんが』と言って家庭の自慢をしてくるのがここ数年の石蕗一朗である。慣れた人間でもきついのだから、慣れていない江戸川にはそうとう応えるだろう。
だが、
あざみ社長は言った。
「この季節はもっと酷くなりますから、覚悟しておいた方がいいですよ」
「季節によるんですか!? スギ花粉みたいな人だな!」
「まあスギと言いますか、その、」
あざみ社長は、窓の外を見る。風に吹かれて、薄桃色の花をつけた枝が揺れていた。
「いまは、桜の季節ですからね……」
神田川沿いに咲き誇る桜並木があまりにも壮観だったものだから、ついレクサスを道脇に停めてしまう。一朗は車を降りて、その桜並木を一枚、写真におさめた。
そしてそのまま、勢いで電話をかけてしまう。電話の相手はもちろん妻だ。
「もしもし、僕だけど……。ああいや、いまは運転はしてないよ。うん、神田川の桜が綺麗でねぇ……。あとで写真送るよ」
のんびりした口調で語る一朗の佇まいは、まるで春の陽気そのもののような呑気さがある。
「今年のお花見はどうしようねぇ。次の土日までには散ってしまいそうなんだけど。うん。まぁ、そうだねぇ……えっ、今夜!?」
電話口の向こうからの提案に、一朗は思わず背筋を正してしまう。
「急じゃない? 大丈夫? うん、いや、まぁ、嬉しいけど……。うん、いやお弁当なんて無理しなくても……本当に?」
一朗は口元が緩み、溢れる笑みを抑えきれなくなる。端正な顔立ちがチーズのように溶けていくものだから、通りがかりの老婦人がぎょっとした様子で彼の方を見たりしていた。
「いやぁ、そっかぁ。うん、いいね。そうしよう。僕もすぐに仕事を終わらせて迎えに行くから。……うん! じゃあ、またあとで!」
電話を切り、一朗は小さくガッツポーズを決める。そのまま携帯を懐にしまうと、上機嫌でレクサスの運転席へと滑り込んだ。口笛を吹きながら、停めた自動車をまたゆっくりと動かし始める。
「いやぁ、本当に……。うちの奥さんは最高だなぁ!」
言うまでもなく、妻から今夜花見をしないかという提案をされただけである。が、それは、石蕗一朗を上機嫌にさせるには十分すぎるものだ。特別なことは毎日あっていい。それが、妻や娘と一緒に過ごすものならなおさらのことである。
一朗はレクサスを走らせて、お得意先への道を急いだ。
妻と同じ名前の花を横目に、その心は大層な上機嫌であった。
この世界では、カリスマ女子大生ファッションデザイナーがデビューしているらしい……。