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あたしの秘密は天敵のアイツにモロバレでした

作者: にわこ



 なっ、何でいるの!?

 あたしは一抱えもある大きなビニールバッグを持ったまま、建物の陰に隠れて再び店内を窺う。そう、あの後姿は間違いない、アイツだ。

 あたしの――天敵!


 * * *


 小学校を卒業し、中学校新一年生になったあたしは、花もはじらう思春期真っ只中だ。

 ファッション、メイク、アイドルといった、ちょっと背伸びした流行に興味津々のお年頃である。なのにあたしときたら……

 師範代である父親に憧れて、空手を始めてからもう十一年経つ。

 といっても、今は父親の在籍する道場で稽古をつけてもらうだけで、空手の大会に出たり部活に入ったりはしていない。

 女子は道着の下にTシャツを着るのが決まりだけど、それでも吹き出る汗は空手着にも染み渡る。昨日もがっつりと稽古に励んで夜に洗濯をし、次の日の夕方には乾いていると踏んだのに、とんだ誤算だった。

『えー! うっそ、乾いてないの!?』

『仕方ないでしょ、こんな梅雨時なのに一日で乾くもんですか!』

 学校から帰宅して早々、渡されたビニールバッグの中身は、ずっしりと重い空手着だ。自分の分だけでなく、父親の分もあり、バッグへぎゅうぎゅうに押し込められている。

 だから梅雨なんてキライ!

 見上げれば、じめじめとした空気にどんよりした空模様が広がっている。それを恨めしく睨みつけながら、仕方なく傘を差してコインランドリーへと向かう。

 もー! こんなの持ってるの同級生に見られたら恥ずかしいじゃない!

 ブツブツと文句を口の中で転がすけれど、母親に面と向かって言えないのは、家の中で一番恐ろしい存在だからだ。沸点はかなり高いけれど、一度火が付いたら誰にも止められないほど怒りの炎が暴れだし、沈静化するまで家族は息をひそめて過ごさねばならない。

 そんな怒りを、ええと……三回? 四回? 経験したあたしは、母親はもちろん、それ以外の家族から怨嗟を受けたくないのだ。

 じめじめした空気が、まるで水の中を歩いているような気持ちにさせる。大嫌いな季節だけど、お気に入りの傘に落ちる雨粒の、パチパチと弾ける音は大好きだ。

 近所に一軒だけあるコインランドリーは、奥様達が忙しい夕方の時間帯のせいか、回転している乾燥機は一つだけだった。この時期にこれほど空いているなんて、らっきー! 

 少し待つ覚悟だったあたしは、浮足気味に店の自動ドアをくぐろうとした所で……アイツを見つけてしまったのだった。


 建物の脇から、備え付けのベンチに座るアイツを窺う。

 天敵であるアイツとの関わりは、中学校に進学し、同じクラスになった時からだ。

 たまたま隣の席で、たまたまあたしの方が身長が五センチ高かった――それだけの記憶しかない。

 そもそも、小学校時代は全く関わりがなかった。

 あたしが住んでいるこの学区には、二つの小学校から一つの中学校に統合される。だから、およそ半数の生徒が初めましてになるのだ。

 あたしは西小、アイツは北小。

 行動範囲の違いから、北小の生徒と会うことなんて一度もなかった。

 習い事やスポ小など入っていれば、練習試合なんかで会ったかもしれない。実際、入学式で『久しぶり!』など声をかけあう姿も見られたからだ。

 けれど、あたしは父親の道場だけで日夜空手に明け暮れていたから、スポ小どころか塾すら入っていない。

 まさに中学時代からのスタートだ。

 新中学一年生、新しい制服、新しい顔ぶれ。

 期待に胸を膨らませ、ドキドキと不安を抱きながら、教室のドアを開く。すでにそこには西小のなじみある顔と、初めて見る顔が、自分と同じような表情で席についていた。

 緊張しながら自分の席に座ると、じっと窺うような視線を隣の席から感じた。

 身構えながら横に顔を向けると、そこには男子が座っていて、あたしを睨みつけている。見たことのない顔だから、北小の人間なんだろうけれど、初対面で睨まれる覚えがない。

 あまりにも遠慮のないその視線にイラっとしたあたしは、ゆっくりと椅子から立ち上がり、腕を組んでそいつを見下ろした。

 さらに険が強くなった目つきに構わず、あたしは男子に尋ねる。

「何? あたしになんか用でもあるの?」

 すると、男子はほんの一瞬目の奥に悲し気な色を見せたかと思うと、ふっと横を向いて吐き捨てた。

「……何でもねーよ、ゴリ子」

「はぁぁっ!?」

 あまりな名前に、沸点の低いあたしは、〝売られた喧嘩は買う!〟とばかりに机をバーンと叩いてアイツに相対した。ざわざわとしていた教室は、一瞬にして針が落ちる音が聞こえそうなほど静まり返る。しかし、男子は絶対にあたしを見ようともせず、だったら力づくで……! と手を伸ばそうとしたところで、がらりと教室のドアが開いた。

「お、みんな静かにしてるなー……んー? どうしたー?」

 おそらくあたしたちの担任になる教師が、ざっと周囲を見回した。静かな教室には、あたしだけが立ち上がっている。そのあたしにクラスメイトの視線が集中しているのを見て、出席簿を教卓に広げ、あたしの名前を探し出した。 

「おーいそこの……ええと、青島? 後で職員室来るように。さあホームルーム始めるぞー」

 中学校入学初日に、早速職員室呼び出しを受けてしまった……!

 くそぅ、コイツのせいで!

 まさに初日、早速目をつけられてしまったのはかなり痛い。

 中学校生活は心機一転! 大人しい女子で通すつもりでいたのに! 

 空手をやってる事を隠し、〝普通の、アイドルやファッションが好きな女の子〟像を、どれだけ気を張って演じようとしていたと思うんだ!

 小学校時代は男子たちと野山を駆け回り、自宅道場では空手に明け暮れ、更に髪もショートカットだったから、あたしはよく男の子に間違われた。性格は負けず嫌いで、大人相手には強気で対応し、同じ子供相手なら有無を言わさず拳で分からせたものだ。

 だからこそ!

 中学校では半数が違う生徒となるこのチャンスは、逃せない!

 一念発起し、小学校六年生から髪を伸ばし始め、しとやかに〝なるべく〟努めた。

 男子と遊ばないようになり、女子と静かに休み時間を過ごす。あたしの突然の変化に、同級生はもちろん先生も驚いたようだ。なんならあたし自身も驚いたけどね。それでもうるさい連中には〝後でじっくり校舎裏に呼び出し〟をして、平和的に黙らせた。もともとあたしに逆らう奴なんていなかったから、簡単なことだ。

 こうして、あたしが思い描く理想の女子らしい女子が出来上がった。

 中学デビューを無事果たすための努力により、北小からの合流生徒たちに、あたしの暴れサル時代の秘密を守ることができた。

 っていうか、あたしは空手だけに青春を捧げたくはない。

 フリルのスカートを着て、髪なんか巻いちゃって、つけマして。カフェでファッション雑誌を友達と見ながらスイーツ食べて自撮りするの! そういうのにものっすごい憧れているんだ!

 だけどなにこの道場! おっさんしかいないじゃない。

 父親の道場は、老若男女が多数在籍しているけれど、帯の色によってクラスが分かれている。早い時間は幼児や小学生らの初心者に振り分けられ、あたしはおっさんたちと一緒の夜七時スタートだ。

 できれば女子とキャッキャと練習したかったのに、一人もいなくて地味に泣ける。

 女子らしくしたいんだからね、あたし!

 空手はやめたわけではない。学校から帰れば、自宅道場で大人相手に毎日ガツガツ練習している。でも、どうしてもやりたいことがあり、師範である父親と拳の語り合いをした結果、あたしはつかの間の自由を手に入れた。

 つまり、中学時代は大会など表舞台には立たないかわりに、父親の母校である空手の有名高校へ受験して合格する――という条件だ。

 自主練はみっちりやるからという約束を勝ち取り、ある程度放課後に時間が出来たあたしは、それこそ羽が生えたように遊んだ。ちゃんと可愛らしい女子の友達も出来た。

 もうほんっと今までで一番最高な春休みを過ごし、これなら問題なく楽しい中学時代を迎えられる! と喜んでいた。

 なのに。

 どうしてこいつがイチイチつっかかってくるんでしょうか。

「ゴリ子朝からうるせえ!」

(朝稽古あるからつい元気余っちゃうのよ!)

「ゴリ子じゃなくてゴリ男って呼んでやる!」

(鍛えた筋肉バカにすんな! 筋肉に謝れ!)

「大体名前から紛らわしい!」

(アキラって名前、親に文句いってよ!)

 青島アキラ――ってあたしのことだけど、自分だってどうかと思う。小学校のサル時代は、アキラの名がピッタリすぎて自分でもいっそ笑えたけどね。

 小学生のころ、細身で髪をベリーショートにしていたから、空手の大会に出るため更衣室入るたびにギョッとされるのはいつもの事。出場しても男子と間違われ、いちいち訂正するのも面倒くさくなってきた。

 まあいいやと開き直った五年生の頃まで、あたしは男子に交じり、形や組手の個人戦に出場していた。

 小学生だから別に対格差があるわけじゃないけど、あたしは常に優勝してた。おっさん相手に空手をしていたから、子供相手なんてぬるく感じたんだよね。

 怪我をさせないように手加減していたし、女子とバレないように対戦相手から距離を取っていた。師範に言われて嫌々出場していた試合だから、勝っても別に嬉しくないし、トロフィーとか賞状とかもらっても邪魔になる。そういうの、あたしは要らなかったんだ。

 でもいいの。これからはちゃんとオンナノコらしくなるんだから!

 ……って、そう決めたのに、どうしてコイツはわざわざ絡んでくるんだ!

 学校生活では封印したこの拳を、思い切り解放したい欲求があたしを焦がす。

 最初からいわれのないガン付けから始まって、あたしが気にしている腕や足の、およそ女子らしくない筋肉質な体形をからかってきたりと、隣の席も相まって非常にしつこい。

 ――池ヶ谷優。まさに天敵だ。


 もー! まだ帰らない!

 ずっとコインランドリーの建物の影からアイツが出ていくのを待っていた。けれど、早く早くというあたしの願いは届かず、アイツは帰るそぶりすら見せない。しかし空手の練習の時間は刻々と迫ってくる。非常に不愉快だけど、意を決して『親に家の洗濯物頼まれてきました風』を装って店内に入った。

 速攻気付いたらしいアイツの視線はすぐに分かったけれど、ツンとすまして乾燥機へ袋ごと突っ込む。中身を見られないようその中でガサゴソ取り出し、最後に袋だけ抜き取ってコインを入れてスタートボタンを押した。

 ――空手着だけだし、二十分てとこかな。

 部屋干ししたので六~七割は乾いている。そして乾燥しすぎると襟がバリバリになってしかも全体が縮んでしまう。高熱で長い時間乾燥させると生地も傷むし、ある程度乾けばいいやと時間を見積もった。

 さて……と、あたしはここの備え付けの掛け時計を見上げた。アイツのいるこの空間に居たくないので、時間が来るまで一旦帰ろうか。そう思ったとき、ずらりと壁一面に並ぶ洗濯ドラムがピーと電子音を立てた。

 すると、その場所にまっすぐアイツが行って扉を開け、中身を取り出す。よかった、アイツのが終わったのなら、あたしが帰る手間も省けると、ホッと胸を撫で下ろした。

 とはいえ、二十分間何もすることがないので、備え付けの自動販売機でジュースでも買おうかな。

 飲み物のラインナップを見ようと首を巡らせたら、アイツの取り出した洗濯物が目に入った。

「え……空手着?」

 つい口に出して言った瞬間、刺すような視線であたしをギロッと睨んできた。

「え、何よ。池ヶ谷、空手やってるの?」

 その剣幕に後ずさりながらも、アイツに空手着という組み合わせがピンと来なくて、つい興味本位で聞いてみた。

 するとアイツは、「はあっ!?」と、驚いたのか怒ったのか分からない、なんとも間抜けな顔をして声を上げた。何その反応、意味不明。

「やってるの……ってか、お前まさか覚えてねえの?」

「覚えてるとかなんとか、それすら意味がわからないんだけど」

 何をもって覚えているとか聞くのか。

 ん? 空手? ちょっと待って、何? なんか空手関係あるの? 

 きょとんとしたあたしに、なにか思い当たる節があったのだろう。池ヶ谷は持った空手着を抱えながら、ハアアっと溜息を吐いてベンチにドサッと座った。

「なんだ俺バカみてーじゃねーかよ」

「バカってのだけは当たってると思うわ」

「そこだけ拾うんじゃねー! 俺だけ覚えていたってのが悔しいだけだアホ!」

 ……俺だけ覚えてた?

 え、なに。つまり――池ヶ谷ってば、あたしと面識でもあったの? 北小出身の池ヶ谷が?

 どんなに首を捻っても、あたしと北小との繋がりは一切思い出せなかった。学区が違うし、行動範囲も被らないので、中学校に上がるまで北小と西小はめったに関わることがないというのに。

 さっぱり思い至らないあたしに、池ヶ谷は「マジかよ……」と、憑き物が落ちたような顔をしてがっくりと肩を下ろした。

 明らかに戦意喪失したらしい池ヶ谷を見て、あたしは逆に動揺をしてしまった。なんで勝手にしょんぼりしているわけ? いまさら梯子降ろされても困るわよ!

 自分一人で得心がいったらしい池ヶ谷は、やがて心の整理がついたのか、ポツポツと話し始めた。

「ゴリ子……いやお前さ、試合出てたろ?」

「え? 試合?」

「小学生のころ……男子組手の個人戦で」

「げっ! 何で知ってんのさ!」

 思わず一歩後ろに飛びすさって身構えた。もしかして、こいつはあたしの昔を調べあげ、なにか脅迫でもしてくるんじゃないの?

 っていうか、小学生時代などまさにサル全盛期! 見られたくない知られたくない、封印したい過去ー!

 ぐるぐると妄想が止まらず、呼吸が荒くなるあたしに、「まあ聞け」と宥められた。

「それ、俺も出てたからな。お前優勝、俺準優勝」

 まさかの言葉に、あたしは天を仰いだ。あたしが優勝……ということは、つまり池ヶ谷と決勝で戦い、その上勝ったということなのだ。

 それなのにあたしが一切覚えていないということは、相手に興味が湧かないほど、あまり強くなかった……のかもしれない。

 耳を塞ぎたくなったけれど、一方的な誤解が解けたらしい池ヶ谷の話を、もう少し聞きたくなった。

「でもよく覚えてたね、あたしのこと」

 性格の方はともかく、見た目はだいぶ女子らしくなったはずだ。脅したわけではなく、ちゃんと女友達から可愛くなるコツとか聞いたし、イマドキ女子必見な雑誌も読み込んだから自信がある。

 けれど、池ヶ谷は「見間違えるわけないだろ」とやけに自信たっぷりに言った。

「顔は変わってないし、なにより気配が違う」

 腕を組んで何を偉そうに。あたしはフンと鼻で笑った。

「あたしが男だって思い込んでたくせに」

 すると池ヶ谷は一旦は雪解けを見せた態度が一変し、みるみる眉を吊り上げた。

「俺を負かした相手が西小だってチラッと聞いていたから、中学校で会えるのを楽しみにしていたのに……まさかの女だよ! なんだアキラって! 紛らわしいんだよっ!」

「そこで名前批判がくるか!」

「しかもなぜか女子っぽくなってて、しかも隣の席で、しかも俺の顔全く覚えていなくて! ……ふざけんなってずっと思ってた」

 わああ、だからコイツあたしに対してムカついてたの!? しょーがないでしょ、覚えてないんだから。

 全く覚えていないから、一方的に嫌われる意味が分からなかった。原因が分かれば、池ヶ谷の気持ちも理解でき――るわけないよ、うん。

「大会はひとまず小学生までって決めていたし。中学は普通の生活するつもりだったのに! 初対面のあんたから一方的に睨まれていて、すごく気分が悪かったんだからね! だいたい、あたしは野郎の顔なんてこれっぽっちも興味が無いの!」

 そうキッパリ言い切るあたしに、がっくりと項垂れた池ヶ谷は、「まあゴリ子だけに脳みそも筋肉だから仕方が無いか」とか失礼な事を言いやがった。

 その態度にあたしはカッチーンときたね。沸点低いっていう自覚はあるけれど、それを止める手段は知らない。あたしはずいずいっと池ヶ谷との距離を詰めた。あと半歩も近寄れば、顔同士がくっついてしまいそうなほど接近したけれど、頭の中の炎が荒れ狂っていてそれどころではない。

「筋肉なわけないでしょ? そんなくだらないこと考えているから負けたんじゃないの!?」

「言ったな? あの時はたまたま負けただけだ。次やったら絶対俺が勝つ!」

「ハッ。アンタあたしに勝負挑もうなんて百万年早いのよ!」

「百万年じゃとっくに死んでるわバカ! 平均寿命値も知らない奴に勝ち逃げは許さねえ!」

 そう傲慢に言い放ち、あたしの目の前に立ち上がる。

 その池ヶ谷の姿を、あたしは改めて正面から見た。中学生は成長期で、ぐんぐんと大きくなる時だ。池ヶ谷も例外ではなく、あたしの視線より少し下……ん? 同じ、かな?

「――あれ? あんたちょっと背ぇ伸びた?」

「当たり前だ、男の成長期なめんな」

 それにそれなりの努力の結果でもあるからな、とドヤ顔で池ヶ谷はニヤリと笑う。中学生になったばかりの四月では五センチも差があったはずなのに、この二ヶ月で急成長したらしい。

 なんて生意気な。あたしは学校生活で封印していたこの拳を、解放するべきかどうしようかと迷う。

 ……いやいや、あたしは中学校生活を女友達とエンジョイするつもりなの。せっかく空手と距離を置いていたのに、こいつの為にオンナノコの努力を台無しにするわけにはいかないわ。

 この苛立ちは、夜にある空手の稽古で発散しよう。一緒に組み手をするおっさんには八つ当たりで申し訳ないけどね。

 そうひっそりと心に決めたあたしと目線を合わせ、池ヶ谷は……キッパリと宣言をした。

「俺、お前んとこの道場に移籍するわ」

「はぁ!?」

「それで、お前と勝負する」

「ちょ、なにそれ!」

「仕方ないじゃないか、試合じゃ男女別だろ? なら道場同じにするしかないだろう」

「しかないだろう……ってなんじゃそりゃー!」

 ぎゃあっと慄いたあたしは、池ヶ谷の胸倉掴んで必死に「来るなばかー!」と叫んだ。

 すると、なぜか火が出るような、まさにそんな勢いで池ヶ谷の顔が真っ赤に染まった。

「バ、バカッ! やめろ放せっ! いいか、俺はお前に勝つ! 待ってろバカ!」

「バカバカいうな、バカーーー!」

 あたしの叫びもむなしく、アイツは手を振りほどいてダッシュで外に消えていった。

 遠ざかる背中を見ていたら、あんなにも暑く感じたこの店内温度が急激に下がった気がする。それどころか、やたら機械音がうるさく響き、とても居心地が悪い。

 池ヶ谷の向かった方角から、あたしはなかなか視線を戻せなかった。

 初対面から印象最悪だったけれど、誤解が解けたことにより少しだけポイントは上がった。しかしあんなにも嫌われたからには、ゼロどころかマイナススタートだから、すぐに仲良くなるなんて無理だ。

 でも、道場で同じ門下生になるのは嫌だけど、拳で分からせるにはいい機会だよね?

 ……なんて思い至った所で、ちょうどピーと終了のアラームが聞こえた。

 乾燥機から取り出した道着は、むわっと暑苦しい。熱を早く取るため軽くバサバサと仰いで、持ってきた袋に畳んでしまった。

 店外へ出た途端、梅雨独特の湿気が体全体を包み込む。いつもだったらその空気はうんざりするのに、なぜか少し心の中は晴れていた。

 でもなんだろう。ふわふわするような、そんなくすぐったい気持ちが胸の片隅に生まれた気がする。

 もしアイツが道場にきたら、徹底的に扱いてやる。

 もしアイツが道場にきたら、手加減なしの組手をしてやる。

 もし……と、いつの間にかアイツとの稽古に思いを巡らせていることに気付き、思いっきり頭を横に振った。いやいや、万が一にもないよ!

 そこでふと壁にかかる鏡に映る自分が目に入った。そこには顔を赤くし口元が緩んでいる自分の姿があり、ぎゃあっと内心悲鳴を上げた。

 すべてはアイツのせいだ!

 あたしは、この内に渦巻く悶々とした何かの正体を突き止めることを放棄し、それを発散させるべく自宅へと駆け出す。

「おっしゃー! いくぞー!」

 中学生の普通の日常を送れる今を大事に。そして、卒業したら今なんて比べ物にならないほど、稽古を積まなければならない日々が待っている。

 せっかく手に入れた昼間の自由の身を心置きなく満喫できるよう、夜の稽古に集中しなきゃ。

 気合を入れ、まっすぐに自宅へ走るあたしの足は、とても軽く感じた。





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