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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

短編小説

いけない遊び

作者: きらと

 鉄骨が軋む音が、夏休み前の廊下にこだましていた。

 県立第三小学校、築二十五年の四階建て。

 手洗い場の蛇口は茶色く錆び、窓ガラスには割れを補修したテープが何枚も貼られている。

 真一は理科室の備品戸棚に背を向け、手にしたプリント用紙を湿った床に並べていた。

 ――爆弾の作り方。それも、海外の裏掲示板から英語まじりで吐き出された危ない投稿だ。

 硝安肥料、雷管、珪藻土、導爆線――この単語を覚えただけで、教科書に書かれていない化学が手に入った気がした。

 画面越しの言葉は国語よりもずっとわかりやすかった。

 壁際には理科準備室に勝手に忍ばせた段ボール箱がある。

 その中に町のホームセンターで買い集めた肥料と、廃材置き場で拾った金属片と、父親が建設現場からくすねてきた導爆線が無造作に突っ込んである。

 膝をついて紙を畳んだ。指先に汗が滲む。

 小さな笑いが漏れた。

「先生、びっくりするかな」

 それが全部だった。

 大人たちの理屈も、同級生たちの口汚い悪戯もどうでもいい。

 あの女の首筋に口づけされた夜だけが、頭の奥で冷たく膨らんでいる。

 教室の窓の外を、部活帰りの生徒が笑いながら走り抜けた。

 その足音を聞きながら、真一は段ボールの蓋を閉じた。

 重さをかければ爆ぜる。

 明日の朝、掃除当番が雑巾バケツを持ち上げたとき。

 校舎の老骨がきしみ、空気が火花に変わる。

 ――人が何人死ぬのか。

 まだ十二歳の彼には、想像できなかった。





 アルミ製の灰皿に溜まった吸い殻を、江崎は指先で弄んでいた。

 クーラーの唸りが遠く、取調室の壁を伝って耳の奥に残る。

 向かいの少年は椅子に浅く腰をかけたまま、机の木目を睨みつけている。

 手首には真新しい手錠。

 制服の袖には、あの爆風で焦げた跡がまだ黒く残っていた。

「全部、お前が調べたんだな」

 江崎の声に真一の瞼が少しだけ動いた。

 机の上には押収物が並ぶ。

 色あせた『腹腹時計』、『栄養分析表』、プリントアウトされた『How to Make Bomb』のページ。

 コンビニのレシートには、硝安肥料とガムテープと単三乾電池の文字が踊っている。

「なあ、坊主。なんでやったんだ」

 江崎は灰皿をトントンと叩いた。

 真一は小さく笑って、唇の端を引きつらせた。

「作りたかっただけです」

 声が無機質だった。

 江崎は隣に控えさせた若い刑事に目配せをする。

 その瞬間、ドアが開いて藤川里子が駆け込んだ。

「嘘つき!」

 机に突っ伏した真一の頬を平手が叩いた。

 乾いた音が室内に跳ね返った。

 江崎は咄嗟に里子の手首をつかみ、乱暴に椅子へ押し戻す。

「先生が喜んでくれるって言ったんだ……俺が全部消してやるって……」

 真一の声は震えていたが、泣いてはいなかった。

 里子の髪が乱れ涙がこめかみに光る。

「全部嘘だ! こいつが勝手に──!」

 江崎はその女の泣き声を無視して、机の証拠を指先で弾いた。

「坊主。お前の中にはまだ爆弾が残ってる。なぁ、誰に仕掛ける?」

 真一は首を振った。

 小さな声が取調室の壁に吸い込まれていく。

「……先生、結婚するって言ったからさ……」

 唇が小さく動き、声は床に落ちた埃みたいに消えた。

 江崎は黙って真一を睨む。

 真一は瞼を閉じ虚空を見ていた。

 ――俺は左翼の反政府の過激派じゃなかった。

 むしろノンセクトだった。

 誰の革命も興味がなかった。

 ただ先生の身体に蕩けて、溺れただけだった。

 欲しかったのは爆弾じゃない。

 触れた髪の匂いと、首筋の温度だけだ。

 警察官も教師も誰もそれをわかっちゃいなかった。





 真一は缶チューハイを飲み干し、空缶を畳んだ畳の上に転がした。

 喉の奥に錆びたような熱が残る。

 画面の向こうでは、匿名がバカ騒ぎしている。

「テロのやり方教えて」「簡単な爆弾どこで作れる」

 伏せ字にしたところで、欲しがってるのは火薬の匂いだけだ。

 ――身についた知識は消えない。

 硝安と珪藻土と電池。配線と雷管と導爆線。

 目を閉じればいつでも組める。

 簡単な肥料爆弾の作り方くらい、五分もあれば教えてやれる。

 だがやらない。

 社会的規範から外れた猿を、これ以上生ませる気はない。

 俺ひとりで十分だ。

 この泥の温度でもう腹はいっぱいだ。

 何度あの女の身体を愛したか。

 数え切れない夜を思い出すたびに、血が熱を帯びる。

 今でも忘れられない。

 爆弾より、火薬より、ずっと毒だった。

 俺は警察にも公安にも、危険人物としてマークされてるだろう。

 自業自得だとわかってる。

 あいつらの猜疑も理解できる。だが、杞憂だ。

 贖罪の気持ちなんざ、欠片もない。

 それでも――もう爆弾を作るつもりはなかった。

 真一はPCを閉じた。

 畳の奥に染みついた女の匂いだけが、まだ部屋の闇に残っていた。




 夜半のコインランドリーは乾燥機の低い唸りだけが響いていた。

 誰もいない深夜の店内で、吉岡敬一は白いシャツを回転窓越しに眺めていた。

 小さく振動するスマホのバイブ音が、コイン投入口の硬貨の音に紛れた。

 画面には匿名掲示板のスレッドログが並ぶ。

「少年爆弾魔、今はどこにいる?」

「裏ルートで復讐手伝うやつ募集」

 吉岡の指先が、滑るようにスクロールを止めた。

 十年前、あの爆発で姉を失った。

 骨と肉片と遺影だけが、家族の形見になった。

 警察もマスコミも、加害少年を『更生』と呼び同情した。

 ――笑わせるな。

 吉岡はタイに渡り、南の島で武器屋の下働きをした。

 地雷の解体と即席爆弾の組み立て。

 口を開けた相手は誰も生きて帰れない。

 あの少年と同じものを、自分の手でもう一度作りたかった。

 乾燥機の扉が「カン」と鳴って止まった。

 吉岡は無言でスマホを閉じ、濡れたシャツを抱えたまま裏路地に出た。

 彼の鞄には、小型の遠隔式IEDの組立パーツが入っている。

 材料は、かつてあの少年が使った手口と同じだ。

 すべて元に戻すだけだ。

 あのガキが作った地雷と同じものを、今度はあのガキの足元で咲かせる。

 背広のポケットから古い鍵を取り出す。

 真一が暮らす安アパートの、隣室の鍵だ。

 管理会社から買い取るのは造作もなかった。

 吉岡の脳裏に、骨壺を抱いて泣き崩れた母の背中が浮かんだ。

「――終わりにしてやる」

 声は夜気に溶けて、誰も聞かなかった。





 誰もいない夜の安アパートの廊下を、錆びた手すりを鳴らす風が抜けた。

 真一は布団の隙間に隠していた古いツールボックスを開け、呼吸を殺した。

 ――爆弾を作れる奴は解体もできる。

 それは十年前に、骨の奥まで染み込んだ技だった。

 ドアの蝶番裏に吉岡が仕掛けた磁気起爆式のIEDは、手順さえわかれば玩具みたいなもんだ。

 配線を断つ。回路を抜く。最後の瞬間だけ、逆に使う。

「……こんな復讐、安いな」

 廊下に忍び寄る足音。鍵がわずかに回る。

 真一は床下の木屑の匂いを嗅ぎながら、小指でスイッチを押した。

 破裂音。

 光と煙。

 吉岡の体は半歩、空中を滑って、廊下に崩れた。

 犬が遠くで吠えた。

 警察と公安のマークが部屋の外に張りついていたのも知っている。

 ガサ入れの時、むしろ吉岡の持ち物からは海外製の雷管、誘導装置、複数の暗号化データがゴロゴロと転がり出た。

 俺の部屋からは何も出なかった。

 取り調べ室の空気は十年前と同じだったが、今回は違った。

「これで、俺の潔白は証明されたろ」

 真一は江崎課長の隣で笑った。

 江崎は苦虫を噛み潰した顔で、無言で煙草に火をつけた。

 美学のない復讐は虚しいだけだ。

 俺はまだ生きている。

 警察も公安も、俺を十年監視していた。

 自業自得だと分かっていた。

 だがこれで俺の潔白は証明された。

 吉岡の鞄からは、テロ組織の暗号化ファイルが山ほど出た。

 ――終わった。

 取り調べ室を出た夜、江崎が無言で缶コーヒーを投げてよこした。

 真一はそれを受け取り、人気のない駅前の公衆電話を覗いた。

 小銭を入れる前に、受話器の向こうから小さな声が聞こえた。

「……おかえり」

 十年前、女教師だったあの人の声だ。

 真一は目を閉じた。

 先生は、俺ひとりが全部罪を被ったことを知っていた。

 守り通したと知っていた。

 だからどこにも行かずに、待っていてくれた。

 美学のない復讐は、虚しいだけだ。

 でも、この女だけは――

 俺の爆弾よりずっと、甘くて、危うかった。

 真一は受話器を置いた。

 駅前の空気が、やけに静かだった。




 私のせいだ、と誰にも言えなかった。

 理科準備室の鍵を渡したのは私だった。

 あの子が、私を救おうとした。

 教師と生徒――そんなもの、滑稽だった。

 愛してしまえば、それはただの男と女だ。

 あの頃、職員室では私の婚約話が噂になっていた。

 教育委員会に縁故がある男。

 断れなかった。

 父が頭を下げ、母は涙を浮かべて祝った。

 私の身体が誰のものかなんて、誰も気にしなかった。 

 彼だけが知っていた。

 私の頬に残る婚約者の爪痕も。 

「先生がいなくなったら、俺が困る」

 そう言った夜があった。

 暗い理科準備室で、私は自分から彼の手を取った。

 制服のシャツに指をかけ、唇を重ねたのは私だった。

 あの子は子供じゃなかった。

 爆弾よりも危うかったのは、私の方だった。 

 だから、彼がプリントを並べているのを知っていて止めなかった。

「先生を助けてあげる」

 その言葉を信じたかった。 

 結婚は破談になった。スキャンダルにはならなかった。

 彼が全部抱えてくれたからだ。 

 あの取調室で私は嘘をついた。

「全部嘘だ、こいつが勝手に」と叫んだ時、彼は笑っていた。

 あれは強がりじゃない。

 あれは――私を救う笑顔だった。 

 あれから十年。

 教師なんてもう名乗れない。

 でもずっと彼を待っていた。

 誰にも言えない、私の罪と罰を胸に。

 電話越しに震える声が聞こえた時、心臓が戻ってきた気がした。

「……おかえり」 

 今度こそ誰にも奪わせない。

 私の唯一の生徒で、男で、罪そのものの人を。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 真相がわかり、何とも言えない気持ちになった所で、もう一転。お見事です。タイトルも秀逸ですね。
[一言]  そして、今度は釈放された先生が「貴方」を殺した遺族を殺す、と解ります  その後、第3次世界大戦勃発……………
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