◇7
美女に案内されて足を踏み入れた研究室は、女性らしい、どこか優しい雰囲気のする明るい部屋だった。さりげなくそこかしこに、可愛らしい小物なんかが置かれているせいだろう。この部屋を見ると、ハロルドさんやアーディンの研究室は、散らかり放題ということはなくともどこか殺風景ではあったなと思う。
「さ、座って頂戴。今お茶をいれるわね」
「失礼します」
指し示された椅子に腰掛け、手際よくお茶が入れられる様子を眺める。
「名乗りもしないでごめんなさい。あたくしはイリア・コーウェル」
「どうもご丁寧に。片桐美弥と申します。ミヤが名前です」
「ミヤちゃん。可愛い名前だわ」
美女改めイリアさんは、私にお茶を差し出しながら微笑んだ。悪意は感じられないが、いまひとつこの人の真意も掴めない。
「急に引っ張られてきちゃってびっくりしたかしら?」
「ええ、まあ……」
「ふふふ。だって気になるじゃない、あの冷血男が脇目もふらずに追いかける女の子。こんな面白そうなネタ、見逃す手はないと思って。昨日はがっちりガードされてて近づけなかったけど、さっきは一人だったから思わず連れてきちゃった」
「はあ?」
冷血男って誰のことだ。話の流れ的に考えると奴のことだとは思うけど、でも冷血って。
「あら、分からない? ……ああそうよね、あなたの前では人間変わっちゃってるものねえ」
「もしや」
「うふ。察しが着いた? うちの冷血所長」
やっぱりか。昔、他人には優しく接しなさいとあれだけ教え込んだというのに、人見知りがなおらないのも困ったものだ。というかそんなんで研究所をまとめる事ができるのか。大人になったのなら、上辺だけでも人当たりのいいふりをしろと。
私が脳内でアーディンの頭をベシベシと叩いていると、イリアさんは両手を小さく左右に振った。大人っぽい美貌をもつ女性なのに、なんだか可愛らしい仕草をする人だ。
「あ、一応仕事上の人付き合いは流石にきちんとしてるわよ。でないと所内で暴動起きちゃうわ。所長が冷たいのは、主に女の子に対して」
「あー」
そういえばジョセフさんもそんな事を言ってたな。
イリアさんは私に顔を近づけると、内緒話でもするかのように声を潜めた。
「あたくしがここに就職した年に、あの人が所長就任したんだけど。何しろあの外見でしょう。新人の子はみんな、そりゃあ浮き足立っちゃってねえ」
「ははあ、みんなコロっと騙されたと。聞くところによると、近づく女の子をちぎっては投げちぎっては投げしていたとか?」
「その例えに合わせるなら、手も使わずに投げてた感じだわね。声をかけようと近寄って見たら、空気がすでに接近を拒絶してるんだもの。度胸のない娘はそこで脱落」
「社交性のかけらもない!」
「自分に自信のあるタイプの娘なんかは、それでも喰らいついていったみたいだけど」
こっちの世界にもいるんだな、肉食女子。恋愛に前向き、当たって砕けろ。自分にその矛先が向けられない限りは嫌いじゃないぞ。
「所長は相手にしてなかったんだけれど、自宅にストーキングする娘が出ちゃってね~」
「そりゃ色々とまずいんじゃ」
「そうなのよね。それで所長、ついに切れちゃって。移送法陣でその女の子国外に飛ばしちゃったの」
えええ、いいのかそれ。アーディン結構無茶苦茶するなあ。
その話を聞いて私が唖然としていると、イリアさんは楽しそうに声をあげて笑った。飛ばされた女の子はその後、秘書のジョセフさんが回収したらしい。胃に穴が開くって言ってたのはこの辺のことか。そりゃあお疲れ様だ。
「そのあと所内の人間全員集めて、今後、俺をそういう対象として見る奴は、誰であろうと文字通り"飛ばす"から覚悟しておけ、って宣言してたわ」
「……そんな所長嫌すぎますね」
「まあ、当人にちょっかいをかけなければ何もないから。それで、徐々に所長の内面的なとっつき難さなんかも所内に知れ渡って、アタック騒ぎも収束した感じ」
「イリアさんはアーディンのあの見た目に騙されなかったんですね」
「あたくし?」
さっきから冷静な視点だった、というか妙に面白がってる節があったし。自分が熱を上げて追っかけた経験があったのなら、今の話に多少なりとも感情的なものが入ったと思うけど、それもなかったし。
私がそう聞くと、イリアさんはちょっと驚いたようにぱちぱち、と瞬きを二つした後、にっこりと大輪の花のような微笑を浮かべた。ん、誰かをほうふつとさせるなこの笑顔。
「あたくしはねー、元々知っていたから」
「元々?」
「あたくしの……」
「イリア、お前ミヤさんを拉致したんだって?」
と。イリアさんが話を続けようとしたのを遮るように、人が室内に入ってきた。この声は。
「あら兄さん」
「早く返してくれないかな、所長が拗ねるから」
「やあだ、困った所長ねえ。余裕のない男は嫌われるわよ。それに拉致なんて人聞き悪いこと言わないで、ちょっとお話していただけなのに」
「何でもいいよ。ミヤさん、悪いんだけど所長のところに顔出してやってくれるかな。今のままじゃ仕事にならなくて。ちょっと活入れてくれれば、それでいいから」
「ジョセフさん!!」
「ん?」
兄さんってあんた。どこかで見た笑顔だなあとか思ったら案の定だよ。
私が二人の顔を交互に見ていると、イリアさんが悪戯っぽい笑みをその華麗な美貌に浮かべ、ぱちりとウインクした。
「知っているだろうけれど、改めて紹介するわ。これ、あたくしの兄のジョセフ・コーウェル。昨晩は愚兄が色々とお世話になったみたいで、御免なさいね。せっかく二人きりのはずだったのに押しかけるなんて、無粋極まりないわよねえ」
「いやいやいやいや、それはむしろ有難かったので」
「あらそうなの?」
「ミヤさんは超がつくほどシャイだから、いきなり二人きりはハードルが高すぎるんだよ」
「ええまあ……じゃない、違う! そんな事よりジョセフさん、本当に妹さんがいたんですね。てっきり冗談かと思ってました」
「あ、疑ってた? 僕は嘘は言わないのに、心外だなあ」
あんたは本当のことをあえて言わないで、場を混乱させて楽しむんでしょうが。そもそも同じ職場に勤めてるって聞いてないし。
改めてこうやって見比べて見ると、この兄妹は結構似ている。髪の色こそ茶髪と金髪だが、どちらも青い良く似た目をしていた。だがそれより何より、纏う空気がそっくりだった。爽やかな笑顔と華やかな笑顔が、それぞれこちらに向けられる。
「普段の自分の行動が行動だから信用されないのよ。ねえ?」
「何を言うかな、僕は誠実な男だよ。ひどいなあ。ねえ?」
「あはははは……」
ものすごく居辛いわ! この兄妹に挟まれて、にこやかに会話とかできるか! 情報を引き出して現状把握とかする前に、こっちがハゲそうだ。
私はアーディンに呼ばれているのをいい事に、この場を退散することにした。長居すればするほど神経が磨り減るのは明らかなんだから、さっさとずらかるに限る。
「またいつでも遊びに来てね。女同士の秘密の話とか大歓迎だから」
「え、ええ……その折にはお手柔らかにお願いします……」
名残惜しそうに手を振るイリアさんにお茶のお礼を述べ、私はジョセフさんに着いてアーディンの部屋へと向かった。
あ、いいバイト先ないか聞くの忘れた。……また後で考えよう。
◇◆◇
「ミヤ!」
扉を開けるとほぼ同時に、デスクに向かっていたアーディンがパっと顔を上げた。
私が部屋の中に入ると、後はよろしくと背後からジョセフさんの声がして、扉が閉められた。やれやれ、この困った男のご機嫌を浮上させろって話だっけか。
「二日酔いは治ったわけ?」
「あ、ああ。それはもう良くなった。それより、どこに行ってたんだ……黙っていなくなるから、てっきりここから出ていったのかと」
「ええ?」
言われて見ればそうか、律儀にここにいる必要はないんだな。街に出てバイト探せばよかった。とはいえ、これを口に出すと多分面倒な事になるので、心の中で呟くだけに留めおく。
「ちょっとイリアさんの部屋にお邪魔してただけだよ。出ていっても、行く当てがないじゃない。何の心配してるの」
「……また、置いていかれるのは嫌なんだ」
アーディンの緑の双眸の奥に、置き去りにされた子供の抱く不安感が揺らめいているのが見えた。
「アーディン」
「頼むから、側に、いてくれ」
消えそうな声でそう言うと、そっと私に擦り寄ってくる。
私は無意識に、子供の頃そうしたようにアーディンを抱き寄せ、頭を撫でた。
数分後、私が我に返ったのは、背に回されたアーディンの手のひらが不穏な動きを見せたからだ。
「……ちょっと。何してんのこら!!」
「あ、バレた」
「人がちょっと優しくしてやったらあんたは!! どこ触ってんだ、はなれろおおお!!」
「ミヤ悪かった!! でもほら、こう腕の中にあると、触っちゃうのは本能なんだ……って痛ッ、痛いって! 本の角はやめろ角は!! 」
「そんな本能、ゴミ箱に捨ててしまえええ!!!!」
全くこの男だけは、本当どうしようもない。