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溶けるストライク

作者: 平沢大河
掲載日:2025/10/28

スコアボードの「7」の数字が、あまりの退屈さに耐えかねて居眠りを始めた。カクン、と傾いだその数字を、観客席の誰も気にしていない。彼らは皆、自分の影とポップコーンを交換することに忙しいのだ。


マウンドに立つピッチャー、早乙女さおとめは、ボールを握りしめた。彼の緊張が伝わり、ボールは革の縫い目からゼリー状のロジンを滲み出させている。ボールそのものが、彼のてのひらの中で柔らかい粘土のように変形し始めているのを、彼は感じていた。


キャッチャーはサインの代わりに、ホームベースの上で小さなピアノを弾く仕草をした。ドビュッシーの『月の光』、つまりカーブの要求だ。


バッターボックスに立った男は、バットの代わりに一本の長い定規を構えていた。彼はこれから、飛んでくるストライクの角度を正確に測定するつもりらしい。彼の足元では、ファールラインが「ここから先は未来である」とささやき続けている。


歓声が上がった。それは音ではなく、色とりどりのゼラチンの塊となってグラウンドに降り注ぎ、内野の土をマゼンタ色に染めた。


早乙女は振りかぶる。彼はこれから、液化し始めたストライクを、あの定規に向かって投げ込まねばならない。それが彼の仕事だった。


早乙女の指先から、そのぬるりとした塊が解き放たれる。 それはボールではなかった。それは「投げる」という意思そのものが具現化した、哀れな形だった。


キャッチャーのサイン(『月の光』)に応えて、ボールは重力ではなく旋律に従った。ホームベース上空で一瞬、優雅に静止し、それからピアニッシモの軌道で静かに、しかし鋭く沈み始める。それはストライクゾーンという五線譜を正確になぞっていた。


バッターは定規を振り抜いた。 金属音も、木が割れる音もしない。


ジュルッ。


定規の先端が、液化するボールの表面張力を突き破った。ボールは弾け飛ぶ代わりに、定規にまとわりついた。まるで飢えたナメクジが獲物を見つけたかのように、ボールは定規の目盛りを(15センチ、16センチ、17センチ…)と這い上がり、バッターの手首に向かっていく。


バッターは冷静に定規を振った。ボールは飛び散らず、粘着質な糸を引きながらファールグラウンドに叩きつけられた。それは地面に落ちると、小さな溜息をついて蒸発した。


「ファウル!」


審判が叫んだ。彼の声は活字の「Foul!」となり、空中でバラバラになって消えた。


バッターは忌々しそうに、ボールの粘液がこびりついた定規を眺めている。目盛りのいくつかは、ボールの「角度」があまりに鋭すぎたせいで溶けてしまっていた。


観客席では、自分の影にポップコーンを食べさせていた紳士が、今度はその影に帽子を食べさせようと格闘している。スコアボードの「7」は、今や完全に横向きになり、無限大(∞)の記号になる寸前だった。


早乙女はポケットから固形のロジンバッグを取り出した。しかし、グラウンドの奇妙な熱気のせいで、それもすでにキャラメルソースのように溶け出している。彼はベタつく指で、キャッチャーから新しいボールを受け取った。今度のボールは、最初から少しだけ泣いているように湿っていた。


キャッチャーが再びピアノを弾く仕草をする。 次はショパンの『革命のエチュード』。まっすぐな、怒りのこもったゼリーが必要だった。早乙女は頷き、再びワインドアップの姿勢に入った。ファールラインのささやき声が、少しだけボリュームを上げた。


早乙女は息を吸い込んだ。肺に入ってきたのは空気ではなく、観客席から漂う「紫色の無関心」だった。重たい空気を吐き出しながら、彼はセットポジションに入る。


『革命のエチュード』。 彼の右腕が怒りの熱を帯び始め、握られたボールが沸騰した。それはもはやゼリーではなく、投擲とうてきされる直前のマグマだった。


指が離れる。 ボールは唸り声を上げた。それはショパンの左手が叩きつける、あの激情のオクターブそのものだった。軌道はまっすぐだが、周囲の空間が熱で歪み、蜃気楼のように揺らいでいる。


定規を持ったバッターは、今度は振らなかった。 彼はまるでフェンシングの「パリィ(受け流し)」のように、定規をホームベースの真上に突き出した。ボールの「怒り」の絶対値を測定するつもりだ。


ジジジジジッ!


沸騰するボールが定規に触れた瞬間、プラスチックの目盛りが先端から一瞬で蒸発し、焼き切れた。バッターは眉ひとつ動かさず、定規を握る角度を微調整し、ボールのエネルギーを受け流そうと試みる。


しかし、『革命』の熱量は、単なる測定具の許容量を超えていた。


ボールは定規の中心を溶かし貫き、その勢いを殺さぬままキャッチャーのミットに突き刺さった。


ゴォンッ!


グランドピアノの蓋を乱暴に閉めたような、鈍く破壊的な音が響き渡った。キャッチャーはミットを押さえたまま微動だにしない。ミットの革からは黒い煙が立ち上り、焦げたピアノ線が数本、指の間からこぼれ落ちた。


「ストライク!」


審判が叫んだ活字は、空中で火の粉を散らしながら燃え上がった。ツーストライク。


バッターは、真ん中に大きな穴が空き、無残に溶け落ちた定規を、静かに地面に置いた。そしてバットケース(それは建築士が使う図面ケースだった)から、次なる道具を取り出す。


今度は、冷たいステンレス製の「三角定規」だった。


その瞬間、球場の空気が変わった。 スコアボードで居眠りをしていた「7」が、ついにその形を維持できなくなり、ゆっくりと横に倒れ、完全な無限大(∞)の記号へと姿を変えた。それは満足げに明滅を繰り返し、イニングの終わりがないことを宣言している。


観客席が、にわかに騒がしくなった。 ポップコーンの交換に飽きた「影」たちが、一斉に立ち上がったのだ。彼らは実体を持つ本体たちを座席に残したまま、滑るように通路に出て、液状のウェーブを始めた。残された本体たちは、まるで魂を抜き取られたマネキンのように、虚ろな目でグラウンドを見つめている。


早乙女は額の汗を拭った。それは熱による汗ではなく、冷たい「理解」による汗だった。


(あの男、測る気だ)


彼は直角二等辺三角形の凶器を構えるバッターを見た。 (カーブの「角度」でも、ストレートの「熱量」でもない。あの男は、この世界そのものの歪み、この野球場を成り立たせている根本的な幾何学ジオメトリーを測定し、破壊するつもりだ)


早乙女の背後、二塁ベースが突然、四角形であることをやめ、曖昧な円形に溶け始めた。ファールラインのささやき声が、具体的な座標(X=15, Y=32...)を呟き始めている。


キャッチャーが、焼け焦げたミットを構え直した。彼はもうピアノを弾く仕草はしない。 彼はただ、両手を静かに広げた。


それはサインではなかった。それは「祈り」であり、「諦観」であり、そして「要求」だった。


『無』を投げろ、と。 このバッターの三角定規では測定不可能な、いかなる角度も熱量も持たない、純粋な「虚無ヴォイド」を。


早乙女は頷いた。彼はポケットを探り、キャラメルソースになったロジンではなく、ずっと奥底に隠し持っていた「固形の沈黙」の欠片を取り出した。


早乙女は、その冷たい「固形の沈黙」をてのひらに擦り付けた。 ベタついていた指先の感覚が瞬時に消え、熱も、湿り気も、重さすらも失っていく。彼の右手は、あたかも宇宙空間に晒されたかのように、絶対零度の「無」をまとい始めた。


ボールが彼の手の中で、その存在感を失っていく。 それはもはや「物」ではなかった。それは「欠如」だった。野球ボールの形をした、小さなブラックホール。


バッターボックスの男は、ステンレス製の三角定規を鋭く構え直し、ホームベースの正確な中心点(X=0, Y=0)にその先端を合わせた。彼は、早乙女が投げ込もうとしている「虚無」の座標をピンポイントで特定し、その一点を突くことで、この不条理な空間全体を崩壊させようと狙っている。


イニング(∞)は終わらない。 影たちの液状ウェーブが、フェンスを乗り越えてグラウンドに侵入し始めた。彼らは芝生の上で混ざり合い、黒く、深く、底のない「海」を形成していく。一塁手と三塁手は、足元から這い上がってくる影の海に腰まで浸かりながらも、ただ虚空を見つめていた。


早乙女は振りかぶった。 腕がしなる。しかし、音はしない。風切り音すら、「沈黙」の欠片に吸い込まれて消えた。


彼の手から「欠如」が放たれた。


それは飛ばなかった。 それは「移動」しなかった。


投球とは、ピッチャーマウンドからホームベースまでの空間を「移動」する現象である。だが、早乙女が投げた「虚無」は、その空間そのものを「削除」した。


マウンドとホームベースの間の18.44メートルが、一瞬にして消滅した。 時間も、空間も、そこにあったはずの芝生も土も、ファールラインのささやき声さえも、すべてが「無」に飲み込まれた。


バッターは反応できなかった。 彼が測定しようとしていた「座標」そのものが、この世界から消え去ったのだから。 三角定D規はくうを切り、その切っ先は、存在しない空間を彷徨った。


*     。*


音はなかった。 キャッチャーミットにボールが収まる音すら存在しなかった。キャッチャーはただ、虚無が通り過ぎた痕跡——ミットの中にぽっかりと空いた、向こう側の景色が見える「穴」——を静かに見つめていた。


「ストライク!」


審判が叫ぼうとした。しかし、声が出ない。 彼の口から飛び出したのは活字ではなく、ただの空白だった。 彼は代わりに、震える指で「三振」のジェスチャーを試みた。だが、彼の腕は持ち上がらなかった。


「虚無」の投球は、ルールそのものを侵食し始めていた。 ストライク、ボール、アウト。それらの概念が、意味を失っていく。


バッターは、先端が虚無に触れて消滅し、中途半端な「台形」になってしまった定規を投げ捨てた。彼はもう、次の道具(おそらくは分度器かコンパスだっただろう)を取り出そうとはしなかった。 測定すべき世界が、もはや存在しないからだ。


影の海が、グラウンドのすべてを覆い尽くした。 スコアボードの「∞」の記号が、ゆっくりと明滅を弱め、やがてただの黒い電光掲示板に戻った。観客席のマネキンたち(本体)は、すでに影に飲み込まれ、座席だけが残されている。


早乙女はマウンドに立ち尽くしていた。 彼の手には、まだ「固形の沈黙」の冷たさが残っている。 キャッチャーが、ミットに空いた穴を覗き込みながら、ゆっくりと立ち上がった。


試合は終わったのか? 勝ったのか? 負けたのか? そんな問いに、もはや意味はなかった。


早乙女は、影の海に沈んでいく二塁ベース(それはすでに完全な円形だった)を見つめた。 そして、ゆっくりとグラブを地面に置いた。 彼の足元から、影が這い上がってくる。それは冷たくも温かくもなく、ただ、すべての幾何学を終わらせる、完全な闇だった。


彼は目を閉じた。


遠くで、三角形のバナナたちが、月明かりに向かって二次方程式をささやく声が、微かに聞こえた気がした。 それは、この崩壊した世界で唯一残された、意味のない、しかし確かな「存在」の証だった。

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