Rust ゲームの世界に異世界転生したらホテル経営で伝説になりました
ボブの人生は、追いかけるべき理想を見失った、終わりのないマラソンだった。
「ボーイスカウト」
その言葉から多くの人が想像するのは、子供たちとキャンプファイヤーを囲み、自然の中で生きる知恵を教える、日焼けしたボランティアの隊長の姿だろう。ボブも、かつてはそんなボランティアの一人だった。純粋な奉仕の精神に、誇りを感じていた。
しかし、今の彼の職業は、全く違う。
そのボーイスカウトという巨大な組織の運営を専門に担う、「プロフェッショナル・スカウター」。彼の仕事は、子供たちと直接触れ合うことではない。彼の仕事は、数字だ。
―― 寄付を募るために企業や篤志家の元を頭を下げて回る、資金調調達。
―― 絶えず発生する問題の対応や、人手不足の穴埋めに奔走する、ボランティア支援。
―― そして、常に右肩上がりを求められる、会員拡大のノルマ。
理想とは名ばかりの、終わらない営業活動と感情労働。愛していたはずのボーイスカウトは、いつしか彼を精神的に追い詰めるだけの、重く冷たい鎖に変わっていた。
その夜も、ボブは一人、高層オフィスの自席にいた。机の上には、達成不可能に見える四半期の目標達成率のグラフ。パソコンのモニターには、ボランティアからの対応を催促する無数のメール。
「……そなえよつねに、か……」
自嘲的につぶやき、彼はふらりと立ち上がる。向かったのは、屋上へと続く階段だった。
真夜中の冷たい風が、火照った体を撫でる。眼下には、無数の光が、まるで電子回路のように広がり、生き物のように蠢いていた。
彼は、ゆっくりと、屋上の縁に立った。
風が、彼の耳元で囁く。もう飛べよ、と。
ボブは、静かに目を閉じた。
そして、一歩、前に踏み出した。
猛烈な風切り音。眼下に広がる光が、急速に、そして暴力的に迫ってくる。
不思議と、恐怖はなかった。
ただ、これでようやく、全てが終わるのだという、安堵だけがあった。
そして、世界は暗転した。
……熱い。
暗転した世界の後、ボブが最初に感じたのは、網膜を焼くような、容赦のない光だった。
次に、潮の香りと、単調に繰り返される波の音。そして、肌にまとわりつく、ザラザラとした砂の感触。
ボブは、混乱しながら、ゆっくりと目を開けた。
目に飛び込んできたのは、どこまでも続く水平線と、抜けるような青い空。
「……なんだ……ここは……?」
声は、ひどくかすれていた。彼は、ゆっくりと身を起こす。体は、生まれたままの姿だった。服一つ、身に着けていない。しかし、それ以上に不可解なことがあった。
(痛い……。全身が、ズキズキと痛む……。まるで、本当に生きているみたいに……)
彼は、確かめるように、自らの頭に手をやった。そこには、慣れ親しんだ、滑らかな感触。元からスキンヘッドだった自分の頭だ。少なくとも、この身体は自分自身のものらしい。
(俺は、ビルから飛び降りたはずだ。なのに、なぜ生きている? なぜ、こんな浜辺に……?)
気づけば、右手には、自分のスマートフォンが握られていた。
画面にはひびが入り、砂と海水で汚れている。それでも、電源はまだ生きていた。
見慣れたロック画面が、太陽の反射で白く霞み、彼の目に焼き付く。
それは、確かに「現実」から持ち込まれた唯一のものだった。
ここは天国か?地獄か?
その問いの答えは、すぐに見つかった。
少し離れた浜辺で、叫び声。
見ると、自分と同じように裸の男が、もう一人の裸の男を、原始的な石で、何度も何度も殴りつけている。
「yo!drop all loot, bruh!」
「やめろって……pls……やめ……っ!」
鈍い音が響き、殴られた男は、ぐったりと動かなくなる。そして次の瞬間、倒れた男の体が、まるで蜃気楼のように陽炎となって掻き消えた。
ボブの背筋を、本能的な恐怖が駆け上がった。
ここは、天国などではない。
そして、地獄だとしたら、それは彼が想像していたどんな地獄よりも、ずっと生々しく、現実的だった。
彼は、意味も分からず、ただ生き延びなければならないという衝動に駆られ、近くの岩陰へと転がり込むように身を隠した。心臓が、警鐘のように激しく鳴り響いていた。
これから、どうなってしまうのか。
その絶望的な問いに答えてくれる者は、どこにもいなかった。
ただ、波の音だけが、無感動に、彼の耳元で繰り返し響いていた。
どれくらいの時間、そうしていたのだろうか。
岩陰に身を潜め、ボブはただ、息を殺していた。かつてボランティアとして子供たちに教えていたボーイスカウトの知識――それは、楽しい思い出のはずだった。しかし今、彼の体は、本能的に物音を立てず、気配を消す方法を知っていた。
(生きなければ)
数時間前、自ら死を選んだ男の心に、皮肉にも、強烈な生の渇望が芽生えていた。
不意に、規則的な足音が聞こえてきた。武装した人影が、自分に向かってくる。ボブは、再び訪れるであろう「死」を覚悟し、固く目をつむった。
しかし、彼が予期した衝撃は、いつまで経ってもやってこない。
代わりに聞こえてきたのは、声だった。
「おい、落ち着け。このサーバーは初めてかい?」
その声は、驚くほど穏やかな、彼の母国語だった。
ボブが恐る恐る目を開けると、武装した男が、彼を見下ろしていた。
安堵と混乱が入り混じり、ボブの口からは、堰を切ったように、英語の言葉が溢れ出た。
「どこだ……ここはどこなんだ? 何が起きている……?」
その流暢なアメリカ英語を聞いて、senseiは、目の前の男が何者であるかを完全に理解した。
「ここは厳しい場所だぞ、友よ。一人では5分もたないだろう」
senseiは、自分の荷物から、こんがりと焼けた肉と、一本のたいまつを取り出すと、ボブの前にそっと置いた。
「近くに、私の小さな拠点がある。安全な場所だ。もし生き残りたいなら、ついてくるといい。ここのルールを教えてやろう」
ボブは、差し出された温かい肉と、男の穏やかな目を見つめていた。
この地獄のような世界で、初めて成立した、まともなコミュニケーション。
彼は、それにすがる以外の選択肢を持っていなかった。
ボブは、無言で、しかし深く、一度だけ頷いた。
senseiは満足そうに頷き返すと、先に立って歩き始めた。
ボブは、震える足で立ち上がり、生まれて初めて本当の意味で他人の善意を信じて、その武装した背中の後を、おそるおそるついていくのだった。
senseiに導かれ、ボブは小高い丘の上にある、木と石でできた質素な拠点にたどり着いた。
「さあ、着いたよ。ここが私の『教室』だ」
senseiは、ボブを拠点の中にある、空っぽの小さな一部屋に案内した。そして、目の前で、まるで手品のように一つのベッドを組み上げてみせる。
彼の頭上に表示されるプレイヤー名は「sensei」だった。
「何よりもまず、君にはリスポーン地点が必要だ。このベッドを君のために置いてやろう」
senseiは、完成したベッドを部屋の隅に設置する。そして、粗末な布で作られたシャツとズボン、石でできた簡素な斧とピッケルをボブの前に置いた。
「服と、始めるための基本的な道具だ」
最後に、senseiは、部屋のドアに取り付けられたキーパッドを指さした。
sensei: 「この部屋のコードは1-2-3-4だ。今日から君の部屋だ。誰も入ってこれない」
自分だけの、安全な空間。ボブは、その数字を、決して忘れないように心に刻んだ。
senseiは、自分の活動について語り始めた。彼は、この過酷なゲームで、初心者がすぐに辞めてしまうのを好まず、彼らが生き残るための基本を教える、ささやかなプロジェクトを一人で行っていたのだ。
「……もし、他にやりたいことがないのなら、ぜひ、手伝ってほしい。建築を。そして、君のように、浜辺に打ち上げられた新人たちを、教えるのを」
それは、命令ではなかった。現実世界で彼を追い詰めた「ノルマ」でもない。ただ、温かく、対等な「誘い」だった。
ボブは、senseiの目をじっと見つめ返した。そして、この世界に来てから初めて、彼の声に、かつての自分のような、しっかりとした芯が通った。
「はい。俺でよければ、喜んで」
ボブの、二度目の人生の「目的」が、静かに決まった瞬間だった。
senseiの拠点での最初の朝が来た。
その日、senseiはボブに、この世界で生きるための基本、「クラフト」を教えようとした。しかし、ボブが作業台に触れた瞬間、頭の中に現実の作業手順が流れ込んでくる奇妙な感覚に襲われ、彼はそれを後回しにする。
気分転換に、二人は狩りに出かけた。
その最中、ボブは巨大なイノシシに襲われ、その牙が左脚を深くえぐった。
「あああああああっ!」
彼の口から漏れたのは、本物の悲鳴だった。熱い。痛い。骨まできしむような、生々しい衝撃。それは、かつて現実世界で経験した怪我の痛みと、寸分違わず同じだった。
senseiは、即座にイノシシを仕留めると、ボブに手際よく布製の包帯を巻いた。
そして、ボブは二度目の驚愕を経験する。あれほど深く、激しい痛みを与えたはずの傷が、まるで早送り映像のように、見る見るうちに塞がっていくのだ。痛みはまだ幻のように残っているが、裂けていたはずの皮膚は、滑らかに戻っている。
彼は、この世界の法則の、致命的な矛盾に気づいてしまった。痛みは現実、しかし治癒はゲーム。このアンバランスな境界線の上で、自分は生きているのだ、と。
その日、二人は黙々と素材を集め、senseiの「教室」の敷地に、初心者用の小さな拠点をいくつか建てた。ボブは、ボーイスカウトとDIYで培ったスキルを発揮し、senseiを驚かせた。
夜が来た。senseiはログアウトし、一人になったボブは、昼間、自分が触れるのをやめた、あの作業台へと、再び向かった。自分の能力の正体を、突き止めるために。
夜が明け、拠点に朝日が差し込み始めた頃、ボブは作業台の前に座り込み、呆然としていた。
彼が作り出した石の斧や木の槍は、まるで何十年もその道一筋で生きてきた職人が作り上げたかのような、完璧なまでの均衡を保っていた。それは、彼が止まった時の中で、何十時間もかけて作り上げたものだった。
そして、クラフトを終えるたびに、彼の心身を襲う、魂が削られるような疲労感。あれは、間違いなく現実だった。
その時、senseiがログインしてきた。
「おや、ボブ。早いな。もしかして、一睡もしていないのかい?」
senseiは、ボブの姿を見て、楽しそうに言った。
「仕事は大丈夫なのかい? まさか、このゲームのために、仕事をサボるなんてことしないだろうな?」
「仕事」。その単語は、鋭い刃物のように、ボブの胸に突き刺さった。
「……いや、少し、夢中になっていただけさ」
それが、彼にできる唯一の返答だった。
senseiは、愉快に笑った。
「はは、その気持ちは分かるさ。……このゲームは、本当に夢中にさせる力があるからな。だが、現実世界を忘れないようにな? バランスは大事だ」
その善意に満ちた言葉こそが、ボブと彼との間に横たわる、決して越えることのできない、深く、そして暗い溝の存在を、ボブに痛感させるのだった。
ある日の食事中、ボブは、初めてsenseiの現実世界でのことを尋た。senseiは、自分が中国の宇宙開発機関の技術者であることを、少し照れくさそうに明かした。
その日、二人は、空きができた初心者用の拠点に入居させる「生徒」を探しに、再び浜辺へと向かった。
そこで、執拗な「初心者狩り」にあっていた一人のプレイヤーを助け出す。
「助けてくれてマジthx! ヤベぇ死ぬかと思ったわbro!」
拠点に戻り、その初心者は、自分に与えられた個室とベッドを見て、何度も頭を下げた。
「yo……マジ神……! こんなVIP待遇、初だわ! GG!」
その、心の底からの感謝の言葉。ボブの心に、温かい何かが、ゆっくりと満ちていくのを感じた。
彼は、この小さなシェルターだけでは足りない、と思った。
ボブは、隣に立つsenseiの顔を見上げた。彼の目には、いつの間にか、確かな「意志」の光が宿っていた。
「sensei。もっと……もっと、大きなものを作らないか? こういう、困っている人たちが、いつでも安心して立ち寄れるような場所だ」
「ほう? 例えば?」
「シェルターじゃない。『ホテル』だ。……このサーバーで唯一、誰もが武器を置き、心から休息できる……そんな場所を、俺たちの手で」
senseiは、ボブの目に宿る光が、本物であることを見て取ると、満足そうに、深く頷いた。
ボブとsensei、たった二人の、途方もないホテル建設プロジェクトが始まった。
ある日、ルーフキャンパーのスナイパーに狙われ、ボブは即座に防御壁を出現させて身を隠した。
それを見た近くの野次馬プレイヤーが、
「wtf!? admin powers?? cheater?? ……いや、何だあれ……」
と首をかしげる。
そのまま息を殺して隠れていると、偶然パトロールヘリが通りかかり、ルーフキャンパーを蜂の巣にして始末した。
「haha! karmaだなnoob!」
墜落現場に集まったプレイヤーたちがそう叫ぶ中、ボブとsenseiは、その残骸から大量の資材を回収し、建設を一気に加速させた。
senseiが「建築家」として設計し、ボブが「創生主」として、その特異な能力で驚異的な速度でホテルを形にしていく。
やがてホテルは完成し、その噂を聞きつけたプレイヤーたちが次々と訪れた。
ラウンジでは誰かがピアノを弾き、
「yo bro! この曲マジ泣ける!」
と笑う声や、踊り出す者まで現れた。
タナカというプレイヤーが、仲間と一緒にこう言った。
「ここ住みてぇわ! room空いてる?」
別の者も、
「bruh……このサーバーでこんなsafe spotあるとか神だろ」
と感嘆した。
やがて、彼らは最初の住民となり、ホテルは「サンクチュアリ」と呼ばれ、サーバーで最も人気の場所となった。常に満室の繁栄を迎えた。
ホテルが完成し、住民たちが正式に入居する日。
senseiは、一人ひとりの希望を聞き入れ、部屋のコードロックの設定を手伝っていく。
「マジか! あざっす! この部屋マイ拠点にするわ!」
「何でもやるって! 資源集め任せろ!」
それは、この過酷な世界で初めて手に入れる「自分の城」であり、「帰るべき場所」の証明だった。
ボブは黙ってその光景を見つめた。自分が、ただ誰かを助けたい一心で始めた夢が、多くの人々の「希望の灯り」となっていた。
ホテルの平穏は、ある日突然破られた。
中堅クラスの装備に身を固めた、素行の悪いプレイヤーグループがラウンジに押し入り、天井に向かってサブマシンガンを乱射した。
「yo! 俺らがここ占拠すんぞ! drop all loot!」
しかし、住民たちは即座に反応した。
一人が投げたフラッシュバンが炸裂し、
「flash入った! rush rush!」
という声と共に、タナカたちがメイスで武装解除。連携の取れた奇襲で、彼らを完全に無力化し、ホテルから追い出した。
その事件の後、入り口に手書きの看板が立った。
「No PvP inside, bruh. 文句あんなら外でやれ」
それは、ボブやsenseiが作ったルールではなく、住民たちが自分たちの意思で作り上げた最初の掟だった。
ホテル周辺には住民の個人拠点や「教会」まで建ち、まるで一つの街のようになっていった。
サンクチュアリが満室になり、3階の増築も終わってしばらく経った頃。 ボブは相変わらず素材集めに出歩き、スクラップや金属片、木材をコツコツと集めていた。
人を殺すことには抵抗があるため、戦場は避け、廃墟や放棄された拠点を漁るスカベンジャーのような日々だ。
その夜、ホテルの外壁をすり抜けて侵入する影があった。
足音もせず異常な速度で移動するその姿は、このサーバーでも悪名高いチーターだった。
チーターは無音でボブの部屋に侵入し、ベッドで寝ている彼を見下ろした。 「lol…… naked monkey…… not worth it」
原人装備のボブを一瞥すると、殺す価値がないと判断したのか、物資部屋へ直行。
翌朝、資材庫が空になっていることに気づいたボブはsenseiを呼んだ。 「sensei……全部消えてる」
二人で調べると、壁の中に不自然に埋められた資材の塊を発見。
senseiは顔をしかめた。
「noclipだな……チーターの手口だ」
チーターを排除するため、senseiはホテルの一部をトラップベースに改造することを提案した。
ボブは現実世界から持ち込んだ唯一のスマートフォンを取り出し、監視カメラと連動させ、侵入を検知したらすぐ罠を作動できるよう設定した。
その夜、再びチーターが現れた。 「free loot again lol」
と笑いながら物資庫に足を踏み入れた瞬間、ボブのスマホが振動。画面に映る姿を確認し、彼は即座に承認ボタンを押した。
バンッ!ゴォォォ!
床下から火炎放射とショットガンの雨が吹き上がり、チーターは慌てて逃げようとするも失敗。
直後、チャット欄に 「[Server]: Player XXX has been banned (EAC)」
の文字が流れ、ホテル内は歓声に包まれた。
「yo! trap成功!」
「gg cheater!」
こうしてサンクチュアリは「チーターすら返り討ちにするホテル」として新たな伝説を得た。
それからしばらくして、宿泊希望者がさらに増え、再び部屋が足りなくなった。 「もう部屋ねぇの? full house?」
「sorry bro、今はゼロ……」
senseiと相談し、ホテルの裏手に新棟を増築することが決まった。 素材集めはタナカ率いる自警団も総出で協力。
「yo tanaka! 金属片もうTCに入れといた!」
「nice! じゃあ壁上げろ!」
ボブは作業台Lv3の能力を使い、現実同様の手作業でパーツを作り続けた。
額から汗を滴らせながらも、完成した新棟には追加の個室と共同倉庫が並び、さらに多くのプレイヤーが安全に泊まれるようになった。
だが、その繁栄は長くは続かなかった。 ある夜、大型クランがホテル近くの個人拠点を一方的に襲撃し、壁にスプレーでこう書き残した。
「next is u」
その直後から、senseiがログインしなくなった。 「リアル忙しいだけじゃね?」
と他のプレイヤーは笑っていたが、ボブは信じなかった。
(……奴らにやられた)
その思い込みが、やがて彼を孤独な復讐へと向かわせることになる。
その日から、ボブは変わった。
仲間たちとの雑談には一切加わらず、レストランのカウンターに立つこともやめた。彼は、カウンターの奥にある自室、あるいは、ホテルの最深部に彼だけが知る秘密の工房に、一日中閉じこもるようになった。
仲間たちは、senseiの不在と、クランからの警告によって、彼が塞ぎ込んでいるのだと思った。
「ボブ、元気出せよ」
「senseiなら、そのうちひょっこり帰ってくるって」
彼らの善意の声は、もはやボブの耳には届いていなかった。
ボブの頭の中は、たった一つの目的で満たされていた。
復讐。
しかし、彼はその方法を知らない。エオカ一丁で、巨大なクランを壊滅させることなど、不可能だ。
彼は、情報を必要としていた。
彼は、自らが作り上げたホテルの構造を、最大限に利用した。
ラウンジや、自警団の詰め所の壁には、彼が「換気口」と称して巧妙に隠した、小さな盗み聞き用の穴がいくつも仕掛けられていた。それは、元々は、ホテルの安全を守るために、不穏な会話を察知するためのものだった。しかし今、それは、復讐のための情報収集ツールと化していた。
彼は、壁の向こう側で交わされる、自警団のメンバーたちの会話に、一日中、耳を澄ませていた。
タナカ: 「……で、例のクランだが。……俺たちじゃまず無理だ」
自警団員: 「ああ。まともにやり合えば、こっちが壊滅するだけだな。どうやって戦うか……」
ボブは、彼らの戦闘のノウハウを、一言も聞き漏らさぬよう、記憶に刻み込んでいく。拠点の構造、武器の有効性、レイドのセオリー。彼らが語る全てが、ボブの復讐計画の血肉となっていった。
そんなある日、彼は、決定的な噂を耳にする。
「そういや、昨日、北の砂漠で見たぜ。別のクランが、どっかの拠点を更地にしてた」
「ああ、聞いた聞いた。……俺たちには、縁のない話だ」
「MLRS」
その単語を聞いた瞬間、ボブの心臓が、大きく鼓動した。
これだ。
これこそが、たった一人で、あの巨大な要塞を、地上から消し去ることができる、唯一無二の手段。
彼は、壁から静かに耳を離した。
計画の輪郭は、定まった。
あとは、部品を集めるだけだ。
彼は、誰にも気づかれぬよう、夜の闇に紛れて、ホテルの裏口から、一人で姿を消した。
目指すは、MLRSの部品が眠ると言われる、この世界で最も危険な場所。
彼の孤独な戦争は、今、静かに、そして着実に、その準備段階へと移行したのだった
ボブの計画は定まった。目指すは、海上油田**「オイルリグ」**。
仲間たちの会話によれば、そこには彼が求める「照準モジュール」が眠る、最高ランクのクレートがあるという。
しかし、問題は、どうやってそこへ行くか、だった。
ホテルがある丘の上から、彼は、遠くの水平線を眺めた。海は、穏やかに見えたが、その静けさが、逆に不気味だった。
彼は、自分が持つ全ての知識を総動員して、選択肢を検討し始めた。
ふと、空を見上げると、一つの気球が、風に流されて、ゆっくりと空を横切っていくのが見えた。
(あれなら、海を渡れるかもしれない……)
一瞬、そう考えた。ハンググライダーを愛した彼にとって、空は魅力的な道だった。
しかし、彼はすぐにその考えを打ち消した。
(いや、ダメだ)
ボーイスカウトとしての知識が、警鐘を鳴らす。
気球は、風任せだ。正確な操縦はできず、目的地にたどり着ける保証はない。そして何より、あの巨大な球体は、空の上で**「ここに獲物がいます」と宣伝しているようなもの**だ。地上から、あるいは戦闘ヘリから、格好の的になるだけだろう。
ステルスを信条とする彼にとって、最悪の選択肢だった。
やはり、道は海しかない。
彼は、かつてsenseiに教えてもらった場所を思い出した。マップの南端にある「漁村(Fishing Village)」。そこは、プレイヤー同士の戦闘が禁止された、数少ない安全地帯の一つだ。そして、そこでは、スクラップと引き換えに、ボートや、ある乗り物が手に入るという。
その夜、ボブは、誰にも告げず、再びホテルを抜け出した。
数時間かけて、海岸線を慎重に進み、彼はついに漁村にたどり着く。そこは、彼のホテルとは違う、もっと雑多で、生々しい活気に満ちていた。
彼は、そこで、目的の乗り物を見つけた。
桟橋に係留された、一人乗りの小さな潜水艦(Submarine)。
これこそが、彼が求めていたものだった。
完璧なステルス: 海中を進めば、誰にも気づかれることはない。
直進性: 気球とは違い、確実に目的地へと進むことができる。
孤独な旅: 誰の助けもいらない、一人だけの乗り物。
彼は、これまでのスカベンジングで密かに溜め込んでいた、なけなしのスクラップを使い、潜水艦を手に入れた。そして、低品質燃料をタンクに満たす。
ボブは、小さな潜水艦のハッチに滑り込み、操縦桿を握った。
眼下のソナーが、不気味な海底地形を映し出す。
**ゴポポポ……**という音と共に、彼の小さな船は、夜の闇が支配する冷たい海の中へと、静かに沈んでいった。
ガラス窓の向こうには、どこまでも続く、暗く、深い青の世界。
そして、その遥か先、水平線の向こうにぼんやりと見える、オイルリグの巨大なシルエット。
ボブの、孤独で、危険な旅が、今、本当に始まったのだ。
潜水艦は、オイルリグの巨大な支柱の影に、静かにその身を潜めた。 ボブは、潜望鏡から、鉄と錆にまみれた要塞を見上げる。響き渡る銃声、断続的な爆発音、そして、人間のものではない、機械的な警告ボイス。それは、彼がこれまで経験したどんな危険とも、次元が違う場所だった。
(無理だ……)
彼の心は、完全に恐怖に支配されていた。
復讐の炎も、今は、この圧倒的な暴力の現実の前で、か細く揺られているだけだった。
しかし、ここまで来て、引き返すわけにはいかない。
彼は、意を決して潜水艦のハッチを開け、冷たい海水に身を滑らせると、リグの支柱にはしごを登り始めた。
彼が目指したのは、頂上ではない。
彼は、リグの最も下層にある、パイプラインが複雑に絡み合った、迷路のような区画に、まるでネズミのように潜り込んだ。そこは、資材置き場か、あるいはただの機械室なのか、油と潮の匂いが混じり合った、暗く、息の詰まるような場所だった。
ボブは、一つの巨大なコンテナの裏に身を隠し、ただ、震えていた。
彼のステルス能力は、NPCである重科学者たちにもある程度は通用するらしく、幸い、誰にも気づかれてはいなかった。しかし、彼は、ここから一歩も動くことができなかった。
頭上で繰り広げられる、他のプレイヤーたちと、科学者たちとの壮絶な銃撃戦の音を聞くだけで、彼の心臓は張り裂けそうだった。
(帰りたい……ホテルに……)
彼の心は、完全に折れていた。
どれくらいの時間、そうしていたのだろうか。
頭上の銃声が、徐々に少なくなっていく。どうやら、誰かがリグの制圧に成功したらしい。やがて、頂上の方から、タイマーの作動音が鳴り響き、そして、最後の激しい戦闘の音がした。施錠されたクレートが開けられたのだ。
(終わった……。もう、ここには何もない……)
ボブは、絶望していた。
自分が命がけでここまで来た意味は、何もなかったのだ。
その時だった。 彼のすぐ近くで、重々しい足音が聞こえた。彼が隠れているコンテナの、すぐ向こう側だ。
ボブは、息を殺す。
足音の主は、ボブがいることには全く気づかず、壁に背をもたせかけて、荒い息をついているようだった。ボイスチャットで、仲間と話す声が聞こえる。
「……ああ、やったぜ! 『照準モジュール』、ゲットだ! こっちはもうおしまいだ。先にヘリで脱出する!」
その言葉に、ボブは息を呑んだ。 (照準モジュール……!)
彼が、命を賭して求めていたものが、今、コンテナの向こう側にある。
プレイヤーが、勝利の余韻に浸りながら、回復の注射器を腕に刺そうとした、その瞬間だった。
パンッ!
乾いた、しかし、致命的な一発の銃声。
それは、リグの頂上からではなかった。遥か遠く、海上に停泊していたであろう、別のボートからだった。
漁夫の利を狙っていた、第三者のスナイパー。
「ぐっ……」
短い呻き声と共に、プレイヤーの体が、コンテナの角から、ボブの目の前に、崩れ落ちてきた。
ガチ装備のヘルメットには、綺麗に、一つの穴が空いている。彼は、即死だった。
静寂。
そして、死んだプレイヤーの背中に背負われていた、パンパンに膨らんだバックパックが、彼の目の前に転がっている。
ボブは、震えていた。恐怖で。そして、ありえないほどの幸運に対する、畏怖で。 彼は、数秒間、動けなかった。
しかし、彼の脳裏に、先生の穏やかな顔が浮かぶ。
その瞬間、彼の体は、意思よりも早く、動いていた。
彼は、コンテナの裏から飛び出すと、死体のバックパックから、震える手で、照準モジュールと、いくつかの弾薬、そして、自分が知らないアサルトライフルを、ひったくるように掴み取った。
そして、遠くのスナイパーが、この場所を確認しに来る前に、彼は再び、暗いパイプラインの迷路の中へと、その姿を消した。
彼は、何もしていない。 ただ、一番安全な場所で、誰よりも臆病に、震えていただけ。
しかし、彼は、この世界で最も価値のあるアイテムの一つを、その手にしていた。
彼の孤独な戦争は、またしても、彼自身の意図とは全く違う形で、その駒を進めたのだった
オイルリグから命からがら持ち帰った「照準モジュール」。
しかし、それはまだ、復讐計画の半分でしかなかった。ボブには、もう一つの重要な部品、最大12発の「ロケット弾」が必要だった。
独力でクラフトするには、あまりにも膨大な資源と時間、そして何より、仲間たちに怪しまれるリスクがあった。
ホテルに戻ったボブは、カウンターの奥で、どうすべきか考えあぐねていた。
その時、彼の盗み聞き用の穴から、ラウンジで交わされる、ある会話が聞こえてきた。
「おい、聞いたか? バンディットキャンプのルーレット、昨日、とんでもない大当たりが出たらしいぜ」
「ああ、知ってる。……俺も昨日、全財産溶かしちまったよ……
「スクラップ」
この世界の通貨であり、万能の資源。
ボブの頭の中に、一つの考えが閃いた。
もし、大量のスクラップがあれば、他のプレイヤーからロケット弾の材料を買い集めることができるかもしれない。あるいは、完成品を売ってくれる行商人がいるかもしれない。
それは、これまでの彼のやり方とは全く違う、ハイリスク・ハイリターンな賭けだった。
しかし、彼にはもう、時間がなかった。
その夜、ボブは、けして大きくはない、しかし、彼がこれまで貯めてきた全財産のスクラップを懐に、一人で「バンディットキャンプ」へと向かった。
そこは、漁村と同じく戦闘が禁止された中立地帯だが、もっと荒々しく、欲望に満ちた空気が渦巻いていた。
そして、その中心にあるのが、むき出しの電球に照らされた、薄汚いルーレット盤だった。
プレイヤーたちの、祈りと罵声が飛び交う、欲望の坩堝。
ボブは、震える手で、なけなしのスクラップを、ルーレットの数字に賭けた。
結果は、無情だった。
彼は、何度も、何度も賭けた。しかし、彼のスクラップは、面白いように、ルーレット盤に吸い込まれていく。
数時間後、彼のインベントリから、最後の1スクラップが消えた。
(……終わった……)
彼は、その場に立ち尽くし、呆然としていた。
復讐の道は、ここで潰えたのだ、と。
その時だった。
キャンプ場の一角が、にわかに騒がしくなった。
ガチ装備に身を包んだ、一人のプレイヤーが、高台の上で叫んでいた。
「おい、お前ら! 聞け! 俺は、このサーバーを今日で引退する! だから、最後に、俺の全財産を、お前らにくれてやる!」
その言葉に、キャンプ場にいた全員が、色めき立つ。
引退者が、最後に自分の財産をばらまく「ばら撒き」イベント。ごく稀に行われる、サーバーのお祭りだった。
次の瞬間、高台から、滝のように、ありとあらゆるアイテムが投げ落とされた。
高級な武器、大量の資材、そして、スクラップの束。
プレイヤーたちは、我先にと、そのお宝の雨に殺到する。
しかし、ボブは、動けなかった。
もはや、何もかもどうでもいい、という虚無感が、彼を支配していた。
そんな彼の足元に、カラン、と、何か重いものが、数個、転がってきた。
それは、誰も見向きもしなかった、鈍い光を放つ、円筒形の物体だった。
ボブは、ゆっくりと、それに目を落とす。
そして、息を呑んだ。
それは、彼が、全てを失ってでも手に入れたいと願っていた、最後のピース。
12発の、完璧な状態の「MLRSロケット弾」だった。
引退者が、気まぐれに投げ捨てた、使い道のない不用品。
それが、奇跡のように、ただ一人、その価値を理解する男の足元へと、寸分の狂いもなく届けられたのだ。
ボブは、震える手で、そのロケット弾を拾い上げた。
それは、あまりにも重く、そして、あまりにも、運命的だった。
彼の復讐計画は、今、神の気まぐれとしか思えない形で、その全ての準備を完了したのだった。
ボブの復讐計画は、完璧な「罠」の設置をもって、その最終段階に入っていた。
敵拠点の近くに仕掛けた、哀れなホームレスの小屋。
「物資をください。何でもします。撃たないで(NAKED)」
それは、完璧なカモフラージュだ。
その心臓部には、彼のスマートフォンへと信号を送るスマートアラームが静かに時を待っている。
しかし、まだ欠けている情報があった。
――いつ、その罠が作動するのか。
その日から、ボブは再びカウンター奥の孤独な監視者に戻った。
自ら作り上げた盗み聞き用の穴から、ラウンジで交わされるあらゆる会話に全神経を集中させる。
獲物が網にかかる瞬間を待つ蜘蛛のように。
そして、運命の日はあまりにもあっけなく訪れた。
その日の午後、ホテルに見慣れない一団がやってきた。
サーバーでも屈指の戦力を誇る「第三の大型クラン」のメンバーたちだ。
彼らはサンクチュアリの中立性を信頼し、次の大規模行動の前に束の間の休息を求めて立ち寄ったらしい。
ラウンジの隅のテーブルで、彼らはボイスチャットの音声を垂れ流しながら、リラックスした様子で話し込んでいた。
その無防備な会話が、壁の向こうで息を殺すボブの耳にクリアに届く。
「……で、例のレイドの件だが、……総攻撃を仕掛ける」
「了解。……問題ねえ」
「ああ。……ははは」
その、何気ない、しかし決定的な会話。
ボブは壁に耳を当てたまま身じろぎもせず、その全ての単語を記憶に刻み込んだ。
――明日の日没。
ついに、Xデーは定められた。
ボブは静かにその場を離れ、誰にも気づかれぬよう自室へと戻った。
その表情からはあらゆる感情が消え去っていた。
あとは復讐の機械として、最後の準備を始めるだけだった。
ボブは、自らが書き上げた敵拠点の防衛マップを、何度も見返していた。
SAMサイトの位置は、把握できた。しかし、それはあくまで遠くから見た、不完全な情報だ。
そして何より、あの「もう一つのクラン」が、いつ襲撃を開始するのか、その「Xデー」を掴むためには、さらに敵拠点に近づき、その動向を継続的に監視する必要があった。
しかし、発射場周辺に広がる放射能汚染地帯が、彼の行く手を阻む。
彼は、ホテルの倉庫の奥から、一枚の黄色い防護服を取り出した。これさえ着れば、放射能は防げる!
翌日の夜明け前。
ホテル・サンクチュアリが、まだ静かな眠りについている中、一つの人影が、音もなく裏口から滑り出した。
ボブだった。
彼の身を包むのは、ガチ装備の鎧ではない。放射能から身を守るための、薄っぺらい黄色の防護服。その下には、先生の形見であるエオカと、なけなしの食料、そして、復讐の鍵であるスマートフォンとMLRSの部品だけが、大切に仕舞われている。
目指すは、MLRSが設置された「発射場」。
それは、彼の孤独な戦争を終わらせるための、聖地であり、そして、死地だった。
彼は、決して道路を使わない。ボーイスカウトとしての知識が、彼に安全な獣道を教えていた。
闇に紛れ、森を抜け、岩陰を伝う。遠くで響く銃声、上空を通過するヘリのローター音。その全てが、彼の研ぎ澄まされた神経を刺激するが、彼は、まるでこの世界の闇に溶け込んだかのように、その気配を完全に消していた。
夜が明け、太陽が昇り始めると、彼の前に、新たな脅威が立ちはだかる
広大な、見渡す限りの砂漠。
遮蔽物はなく、太陽が容赦なく体力を奪う。そして何より、ここは、資源を求めるプレイヤーたちが、最も頻繁に行き交う、無法地帯だった。
彼は、砂丘の影を縫うように進む。
遠くで、別のプレイヤーグループが、銃撃戦を繰り広げているのが見えた。彼は、決してそちらを見ない。関わらない。ただ、自分の目的のためだけに、無感動に、その横を通り過ぎていく。
やがて、地平線の先に、巨大なロケット発射台の、錆びついたシルエットが見えてきた。
しかし、そこからが、本当の地獄だった。
施設の周囲は、青い防護服に身を包んだNPC「科学者」たちが、銃を手に、規則正しく巡回している。
ボブは、地面に身を伏せ、何時間も、その動きを観察し続けた。
巡回ルートの、ほんの僅かな隙間。警備が手薄になる、ほんの数十秒のタイミング。
彼は、その一瞬に、全てを賭けた。
息を止め、砂の上を、蛇のように這って進む。
科学者たちの無機質な声が、すぐ近くで聞こえる。心臓が、張り裂けそうだった。
数メートルが、数キロにも感じられる。
そして、ついに、彼は、施設の最も外側にある、崩れかけたフェンスの下を、音もなくくぐり抜けることに成功した。
ボブは、発射場の、巨大な冷却塔の影に身を潜め、荒い息を整えた。
手には、古びたスマートフォンを、強く、強く握りしめていた。
あとは、日没を待つだけ。
そして、この世界で最も静かな場所にいるはずの自分の元へ、遠く離れた戦場からの「通知」が届くのを、待つだけだった
ブブッ!
発射場で待機していたボブのスマートフォンが、静かに、しかし、力強く震える。
ヒビの入った画面に、ただ一言、無機質なプッシュ通知。
[ALERT: Smart Alarm 'HOMELESS' is now OFFLINE]
[警告: スマートアラーム 'ホームレス' がオフラインになりました]
それが、「始まりの合図」だった。
ボブは、震える手で、正面のメインスクリーンのタッチパネルを押した。
起動音と共に現れた、サーバー全体の衛星写真。
彼の指先は、まるで意思を持たないかのように彷徨い、そして、遂に、赤いターゲットマーカーの上を捉えた。
何度も確認する。間違いない。先生が教えてくれた、敵のコアとなる建物の座標。
彼は、慎重に、照準カーソルを合わせる。
白い点線の円の中心が、赤いマーカーと重なった、その瞬間。
彼の指に、力がこもった。
照準設定を終え、スクリーンを閉じる。
正面には、物々しい赤い「FIRE」ボタン。
カバーを跳ね上げ、剥き出しになったボタンに、指を添える。
彼の脳裏には、走馬灯のように、様々な記憶が蘇った。
浜辺で目覚めた日の絶望。
senseiとの出会いと、温かい日々。
仲間たちの笑顔。
そして、決して忘れることのできない、senseiの最期の光景。
深呼吸を一つ。
震える指が、遂に、赤いボタンを押し込んだ
ゴオオオオオッ!
MLRS車両が、狂ったように振動する。
背後から、凄まじい爆音と共に、12発のロケット弾が、次々と発射されていく。
オレンジ色の炎と白い煙が、発射場を激しく照らし出す。
ボブは、その光景を、ただ、呆然と見つめていた。
まるで、自分の体から抜け出した魂が、その光景を眺めているかのようだった。
ロケット弾は、轟音を残して夜空へと舞い上がり、白い軌跡を描きながら、遠くの闇へと消えていく。
彼は、その小さな光の点が、完全に闇に飲み込まれるまで、瞬きもせずに見送った。
耳鳴りのような静寂だけが、その場を支配していた。
MLRS車両は、熱を帯びた金属の塊となり、もう二度と動くことはない。
彼の復讐の炎が、今、夜空の彼方で、一瞬の閃光を放ち、そして消え去ったのだ。
MLRSが放った12の流星が闇に消えた後、ボブは、ただ虚無感に苛まれていた。
復讐は、終わった。
しかし、彼の心には、冷たい風が吹き抜けるだけだった。
彼は、発射場から、長い、長い帰路についた。
夜が明け、彼が、かつて敵クランの拠点があった丘に近づくにつれて、その異様な光景が、徐々に明らかになっていった。
そこにあったのは、単なる一つの「破壊された拠点」ではなかった。 一つの「戦場」だった。
彼のMLRS攻撃を皮切りに、二つの巨大クランが激突し、その戦いの匂いを嗅ぎつけた無数のハイエナたちが雪崩れ込んだ、地獄のような大戦争の跡地。夥しい数の死体は、ゲームの法則に従い、全て消え去っていた。しかし、おびただしい血痕と、無数の薬莢、そして破壊された建築物の残骸が、戦闘の壮絶さを物語っていた。
ボブは、その静まり返った戦場の中心を、まるで亡霊のように彷徨っていた。 (これで……終わったのか……?) しかし、彼の心は、何も感じなかった。
彼は、近くの茂みに身を潜め、自分が作り出したこの広大な墓場を、ただ、呆然と見つめていた。
数時間が過ぎた頃。
瓦礫の山の中から、一つの人影が、ゆっくりと立ち上がった。
傷だらけの、しかし、いまだ威厳を失わない、完璧なガチ装備。
クランのリーダーだった。
彼は、拠点から少し離れた場所に隠していた、予備の寝袋と装備で復活し、ただ一人、この絶望的な光景の前に立っていたのだ。
仲間は、もう誰もログインしてこない。敗戦を悟り、彼を見捨てたのだ。 「クソが……! 資材も全部抜きやがって……! ふざけやがって! あの偽善者どもが……!」
リーダーは、汚いスラングで憤怒の声を上げながら、それでも、たった一人で、拠点の心臓部だった場所の修復を始めた。諦めきれないのだ。
茂みの中で、ボブは、その姿を静かに見ていた。 最後の、生き残り。 先生の仇。
ボブは、音もなく、その背後へと忍び寄る。 そして、先生の形見であるエオカピストルを抜き、そのヘルメットの後頭部に、銃口を強く押し付けた。
その瞬間、リーダーの百戦錬磨の戦闘勘が、背後の死の気配を察知した。 彼は、コンマ1秒の速さで振り返り、AKアサルトライフルを乱射する。 それと、ボブがエオカの撃鉄を叩いたのは、全くの同時だった。
**ドンッ!**という原始的な轟音と、**ダダダダッ!**という文明的な連射音が、廃墟に響き渡る。
二つの影が、もつれ合うように、同時に崩れ落ちた。
「ボブ!」
岩陰から飛び出したタナカは、信じられないものを見た。
薄っぺらい黄色の防護服を着ただけのボブが、サーバー最強クラスの男と、相討ちになったのだ。
タナカは、慌てて二人の元へ駆け寄った。
リーダーは、即死していた。
ボブは、腹部に数発の銃弾を受け、防護服を真っ赤に染め、虫の息で、すぐに意識を失った。
「ボブ……!」
タナカは、ボブの脈がまだあることを確認すると、安堵のため息をつき、そして、すぐに顔つきを変えた。
悲しんでいる暇はない。ボブが命がけで成し遂げた、この奇跡を、最高の形で伝説にしなければならない。
タナカは、まず、意識のないボブに応急処置を施し、注射器を打って、命を繋ぎとめた。 次に、彼は、リーダーの死体から、ためらうことなく、全てのガチ装備を剥ぎ取った。
そして、裸にされたリーダーの死体の周りに、タナカは自分が持っていたカセットプレイヤーを、まるで儀式のように配置していく。テープには、ボブのレストランからいつも流れていた「イエピー!」の声を、その場で録音した。
全てを終えた時、タナカは、意識のない、防護服姿のボブを、その肩に担ぎ上げた。
「……帰るぞ、ボブ。俺たちの家に」
彼は、近くに隠しておいたボロボロの車にボブを乗せ、エンジンをかける。
背後では、無数の「イエピー!」という声が、まるで、友の偉業を讃える、奇妙な凱旋歌のように、いつまでも、いつまでも、鳴り響いていた。
数分後。 近くの寝袋でリスポーンしたリーダーは、よろめきながら、かつて自分の帝国だった場所へと戻ってきた。 そして、彼は、究極の絶望を味わう。
目の前に広がるのは、完全に破壊され、略奪され尽くした、拠点の残骸。 仲間は、もう誰もいない。 自分の装備も、保管庫にあった資材も、全てがない。
そして、その中心には、裸にされた自分の死体と、自分を嘲笑うかのような、甲高い「イエピー!」という声だけが、虚しく響き渡っている。
何もかも、なくなった。
リーダーは、その場に膝から崩れ落ちた。
彼の心は、完全に、そして修復不可能なほどに、折れた。
彼は、メニューを開くと、震える指で「接続を切断」のボタンを押した。
彼の姿が、ぷつりと消える。
いわゆる「萎え落ち」だった。
ホテルに戻ったボブは、ベッドの上で、深い焦燥感に苛まれていた。
タナカの武勇伝によって、自分が「伝説」になったことを、彼は、他人事のように聞いていた。復讐は終わった。しかし、心は空っぽのままだ。
そんな、喧騒の午後。
ホテルのラウンジに、一人のプレイヤーが、ふわりとログインしてきた。
数日間、誰もが見なかった、懐かしい顔。
senseiだった。
「やあ、みんな、ただいま。……サーバーは何か変わったかい?」
その、あまりにも日常的な挨拶に、ラウンジにいた仲間たちは、自然に反応した。
「bro! 大変だったみてえだな」
「sensei、おかえりー! ……まあ、ボブがなんとかしてくれたけどな!」
その会話が、ボブの部屋まで、微かに聞こえてきた。
sensei……?
その名を聞いた瞬間、ボブの心臓が、大きく跳ねた。
扉が開き、タナカが興奮した様子で駆け込んでくる。
「ボブ! 朗報だぜ、senseiが……!」
タナカの言葉が終わる前に、ボブは、傷の痛みも忘れ、ベッドから転がり落ちるように立ち上がっていた。
彼を支配していた、虚無感も、焦燥感も、全てが吹き飛んでいた。 ただ、一つの、信じられないほどの希望だけが、彼の心を突き動かしていた。
彼は、おぼつかない足取りで、部屋を飛び出し、ラウンジへと続くキャットウォークに出た。 そして、見下ろした先に、確かに、その男はいた。 仲間たちと、穏やかに談笑している、見間違えるはずもない、親友の姿が。
ボブの口から、声にならない声が漏れた。
「……sensei……」
その声に気づき、senseiが、ふと顔を上げる。 そして、二人の視線が、確かに交わった。
senseiは、ボブの傷だらけの姿を見て、驚きに目を見開いた。 しかし、ボブは、もう何も気にしていなかった。
彼は、キャットウォークの手すりを乗り越え、ラウンジへと飛び降りた。 そして、着地の衝撃も構わず、ただ、まっすぐに、senseiの元へと駆け寄る。
「sensei……! よかった……!」
ボブは、senseiの腕を、強く、強く掴んだ。ヘルメットの奥から、嗚咽が漏れる。
「生きてた……! 本当に、生きてたんだな……!」
senseiは、何が起きたのか分からず、ただ困惑しながらも、ボロボロになって喜ぶ親友の姿を見て、その肩を、優しく、しかし力強く、抱きしめた。
「ああ、ボブ。ただいま。一体、何があったんだ?」
ボブは、何も答えられなかった。 復讐は、間違いだったのかもしれない。 彼がやったことは、許されないことだったのかもしれない。 しかし、そんなことは、もう、どうでもよかった。
失ったはずの温もりが、今、確かにここにある。 空っぽだったはずの心に、温かい何かが、再び満ちていくのを感じる。
彼の孤独な戦争は、終わった。 そして、彼の本当の「家」に、ようやく、日常の光が戻ってきたのだ。
親友の帰還を、ただ純粋に喜ぶ、一人の男。 その裏で、サーバーの歴史を塗り替えるほどの、血塗られた勘違いがあったことなど、senseiは、まだ知る由もない。 そして、この温かい再会すらも、この世界の、ほんの束の間のエピソードに過ぎないことを、ボブは、まだ知らない。
Welcome to Rust.
(ようこそ、ラストへ)
……Fin.