第11話 風に揺れる正義
放課後の光はまだ残っているのに、わたしの心の中は早くも夜の予定表でいっぱいになる。授業中に感じた小さな気配が、午後になって気になって仕方なくなるタイプだ。ルチルはだいたいそういうのを“推しの勘”って呼んでくるけど、勘はだいたい当たる。今回も当たりらしい。
帰り道、わたしはわざと遠回りをする。商店街の小さな八百屋の角を曲がって、子どもたちが蹴ったサッカーボールが草むらに転がる道。足音のリズムで、向こうから伝わる魔力の薄さを確かめる。しずくちゃんのそれは以前よりも細く、でも確かに“ある”ことがわかる。誰かに見つからないように、息を殺して歩く姿を想像するだけで、胸がぎゅっとする。
空き地の端で、水の痕をなぞってみる。足もとには乾きかけの泥、波紋が残った水たまり。指先で触れると、まだ少しだけ冷たさが指に絡む。そこに手を置くと、しずくちゃんがここで練習していたときの、震える息遣いがうっすらと浮かんでくる。完璧ではないけれど、一歩ずつ戻ろうとしている痕跡。
「無理しないでね」って言った言葉が、思い出される。あのとき、彼女は俯いて、軽く首を横に振った。誰にも頼れないっていう顔をしていた。私はあの顔が嫌いだ。泣いている顔は嫌いじゃないけど、頼れないっていう顔を見るのは嫌いだ。だから、私は自分の方法で近づく。押し付けでもなんでもいい。推しには推しのやり方がある。
「やっぱり、見守るだけじゃだめかもね」ルチルが肩で呟く。
「見守るのは得意だけど、今日はちょっと違う」私はにやりと笑って、スクールバッグの中の小さなスピーカーを取り出した。ポップでかわいい音楽。しずくちゃんの気分が少しでもほぐれたらいいな、っていう安直な作戦のために。音楽は、時々壁を溶かすから。
夕暮れの空気に足を進めると、しずくちゃんは木陰で小さく震えていた。魔力がふっと暴れかけて、地面の水たまりがざわりと揺れる。彼女は顔を上げて、私を見た。一瞬だけ目が合う。あの一瞬に伝わるものは、説明のつかない知らせだ。わたしはそっと手を差し出す。「無理しなくていいんだよ」とは言わない。だって、無理しないって決めるのは彼女なのだから。代わりに、わたしは言う。
「じゃあ、わたしに頼りなよ。私、あなたのために忙しくできるから」
しずくちゃんは少し笑った。笑いが折れかけの刃みたいに細かったけど、確かに笑った。わたしはそれだけで満足してしまうほど単純だ。
◇ ◇ ◇
夜のモニタールームは、冷えた空気と蛍光灯の匂いが混ざって、まるで無機質な聖堂みたいだった。壁一面に並んだスクリーンには、街角や屋上、路地裏の映像が淡々と流れている。監視は秩序の証。誰かにとっては安心、でも誰かには牢獄。
ミレイがそこにいた。彼女はいつもより早めに着いて、コーヒーの蓋をそっと閉めながらモニターを見つめている。画面のひとつに、さっきの空き地の映像が拡大されている。しずくの影、そして雫のように揺れる私のシルエット。部下が内部報告書を差し出し、上層部からの“強化回収指令”のコピーを置く。赤い印が躍る紙面は、命令の冷たさをそのまま伝えてくる。
「ミレイ様、今が最適な回収時です。非契約思想の拡散を防ぐため、迅速に」部下の声は機械的だ。彼らの言葉に感情はない。あるのは秩序だけ。
ミレイは一瞬視線を外して眉を寄せた。画面内の私は、しずくの横で小さく踊っていた。幼稚な振り付けに見えるだろうが、その動きは相手の心をほぐす魔術の一つだと私は知っている。
「……まだ時期ではない」ミレイは低く告げる。部下の顔が固まる。「しかし、上層部の意向もあります。見逃せば、彼女たちは影響範囲を広げるでしょう」
彼女の手が、書類に触れて震える。信頼に足る判断を下すということがどれほど重いか、ミレイは知っている。彼女は長年、規則を盾にして生きてきた。規則に従うことは、誰かを守る手段だと教わったのだ。だが今日、彼女の目には以前とは違うものが映る。小さな光に反応して顔を上げるしずくの表情。無鉄砲に笑う私の無邪気さ。規則の外側にも、救いになる可能性があるのではないか——その考えが、ミレイの胸の奥で静かに芽吹き始めていた。
「記録は続けよ。しかし、回収は保留する」彼女の声は冷静だが、組織に対して微かな抵抗を示した決定だった。部下は唇を噛んで頷く。報告を送らないわけではない。だが、ミレイは今、自分の中の秩序と願いの天秤に微妙な歪みを見つけている。選択の重さを知る者だけが抱く痛みが、彼女の表情に刻まれている。
私はそのことを知らないまま、夜の湿った空気を胸いっぱいに吸い込んだ。だれかの目の焦点が自分に向いているのを感じると、なぜか誇らしさが胸を満たした。揺れる監視の視線は、いつか私たちの舞台を照らすライトになるかもしれない。
◇ ◇ ◇
夜の公園のベンチで、私としずくは同じスカーフに手を触れていた。彼女の指先は冷たく、でもその温度は真実を教えてくれる。しずくは小さく息を吐いて、「自由は怖い」と言った。彼女の言葉は、街灯の下で影を震わせる雫のように、静かに落ちていった。
「怖くていいんだよ」私は肩越しに笑う。その笑いは軽薄かもしれないけれど、私は真剣だ。恐怖を抱える人に軽々しく励ます気はない。ただ、隣に立つことはできる。自分がいることを示せるなら、怖さは少しだけ薄れる。
しずくは俯いたまま、ぽつりと呟く。「でも、もし私がまた暴発したら——誰かに迷惑をかけたら……」目の中の光はまだ揺れている。彼女は自分を“欠陥”だと信じ込まされてきたのだ。公認であった過去が、むしろ彼女を水槽の中に閉じ込めていた。
「迷惑って、誰が決めるの?」私は問い返す。自分でも驚くくらい真剣な声が出る。心のどこかで、彼女のために怒っている自分がいた。誰だって自分のやり方でしか生きられない。彼女が泣き止むのに、誰の許可が必要なんだろう。
しずくは小さく笑った。「りんは、いつも自己中だよね」
「自己中で何が悪いの?」私は胸を張る。ルチルが横で鼻を鳴らして、小さく拍手する。自己中で可愛いことは、私の誇りだ。私はその誇りで彼女を抱きしめる。
その瞬間、しずくは崩れるように震え、顔をゆがめて泣き始めた。涙は長い間、せき止められていた水が一気に流れ出すみたいに溢れた。肩を抱きしめながら、私は静かに歌うように小さなメロディを口ずさむ。メロディの先にあるのは、私だけの演出。恥ずかしいくらいのあざとさで、涙を受け止める。
「もう、一緒にいてもいい?」しずくの声はかすれていた。それは約束の取り交わしのようでもあり、救いを乞うようでもあった。私は迷わず、にっこり笑って答える。
「もちろんだよ。君のために、私のきらめきを使うから」
空にはまだ星が残っている。遠くの監視塔の灯りは小さく、でも確かに消えてはいない。ミレイはその灯りの向こうで、報告書のページをめくる手を止めていた。彼女は今、何を選ぶかを考えている。私たちはまだ小さな輪の中にいるが、その中の一人が「ここにいていい」と言ってくれたことは、世界にとっては小さな革命だ。
ルチルがふわりと跳ねて、「さあ、新しいユニット名を考えようよ!」と無邪気に提案する。私としずくが顔を見合わせると、彼女は少し笑って、「まだ早い」と首をかしげた。けれど、その顔は少しだけ柔らかかった。
夜が深まる。私たちはそれぞれの足跡を街に残して歩き出す。隣には、頼れる誰かがいる。世界を救わない私のやり方でも、誰かの世界は確かに変わる。そう思うと、胸の中の灯りがほんの少しだけ強くなった気がした。




