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第10話 心の檻に、灯をともして

 ホームルームが終わって、教室の空気がふっと軽くなる。黒板の角だけ白く光っていて、机の木目は急に真面目な顔に戻った。ブレザーの袖を指で整えて、スクールバッグの持ち手を軽く弾く。音が小さく跳ねて消えるたび、胸の中の“正しさ”が一個ずつ机の引き出しにしまわれていく感じがした。


 窓を開けると、風が入り込んできた。夏の名残と、秋のはじまり。頬を撫でる温度差は、たぶん今日の私の気分の差に近い。


「りん、三ミリ。眉尻が下がってるのは“制服過多”のサインだよ」


 机の端で伸びをしていたルチルが、片目だけ器用に開けて言う。鈴みたいな声が、放課後の空気に軽く跳ねた。


「三ミリは盛ってる。でもまあ、当たり。ブレザーは好きだけど“着心地の良い正しさ”って、まだ売ってないんだよね」


「じゃあ、ほつれを作れば? 風の入り口になるから」


「賛成。今日の私に必要なのは空調じゃなくて、すきま風」


 笑いながら立ち上がる。廊下に出ると、窓ガラスに映る自分の姿が一瞬だけ別人になる。あざと可愛い魔法少女、じゃないほうの私。けれど、その“じゃないほう”にも、きらめきの種は確かに残っている。


 階段を降りる途中、ポケットの内側で小さな光を集めた。人から見ればただの手遊び。私には“気配の砂時計”だ。風の向き、視線の温度、嘘の匂い。星砂がひと粒だけ沈む。校門の外、右手の路地。誰かがここを“通った”印。


「しずくちゃん?」


「うん。数時間前。濃度は低いけど、揺れてた」とルチル。


 私は頷いて、靴音を少しだけ早くした。探しに行く、じゃない。会いに行く。私のきらめきのために。



 路地を抜けると、小さな空き地がある。金網の向こう、湿った草の匂い。水たまりの輪紋がいくつか残っていて、しずくが震わせた波紋がまだ収まっていないのが見えた。慎重に、でも真剣に“自分の水”を探っている軌跡。膝をついて指でなぞると、泥のぬくもりの奥に、微かな温度が残っている。


「無理しないでって、言ったのに……」と口では言いながら、頬が緩む。練習の跡は、願いの水晶化だ。すくい取るたびに、心がぽっと潤う。


「りん、監視の目も増えてる。見つかる前に帰る?」


「帰る。けど、空き地に“おまじない”だけ置いていくね」


 私は立ち上がり、指先で小さな円を描いた。ふわりと水の粒が空気に舞い、やがて透明な滴のリボンになってふっと草に絡む。ほどけないまま、露の匂いと混ざって地面に溶けていく。見えないプレゼント。“あなたの水は、あなたのものだよ”っていう、自己中な励まし。


 放課後の空が少しだけ深くなる。私はスクールバッグの紐を握り直して、足取りを軽くした。今日の私に必要なのは、すきまとリボン。そこから願いは染み込んで、勝手に光る。


◇ ◇ ◇


 夜の街は、蛍光灯とネオンが混ざり合って、昼よりも現実味がない。けれど私の行き先は、その光の境界よりも手前だ。“檻”は建物のことじゃない。心の中の、誰にも鍵の見えない区画。そこに光を届けるなら、破壊力はいらない。演出過多こそ正義。


「りん、場所、合ってる?」肩の上のルチルが耳をぴんと立てる。


「合ってる。今日は“物理の檻”じゃない。しずくちゃんの“心の白塔”の前」


 川沿いの古い歩道橋。とっておきの秘密基地に似た、誰も見上げない空の端。街のざわめきが遠くなる場所に立ち、私はリボンをきゅっと結び直した。


「準備は?」


「演出過多、最大出力で。――私のために」


 変身の呪文はいらない。ただ“私は可愛い”って決めれば、きらめきは姿を持つ。フリルはいつもより控えめに、光量は穏やかに。派手に叫ばない夜もある。静かなショーのほうが、届くときがあるから。


「――〈きらめきミュート〉」


 指先から落ちるピンクの粒は、音を立てない。ハートの輪郭が空に淡く描かれて、川面で反射して、橋桁の陰に静かに咲く。街の騒音だけが、少しだけ柔らかくなる。


「採点、破壊力ゼロ、音響演出百」とルチル。


「いいの。今日の観客は、たぶんひとりだから」


 私は歩道橋の欄干に片手を置き、反対の手で小さな星をつまむ。ひと粒ずつ、水面に預ける。“あなたの涙は、光るとき可愛い”という、勝手で甘いメッセージつきで。


 スマホが震えた。画面には“水の感触、ありがとう”の一行。差出人は記録にない。けれど、文末の小さな点の打ち方を、私は知っている。しずくちゃんの文字は、水滴のように細いのに、最後の一点だけが芯を持つ。


「届いてる」と私。


「届いたね」とルチル。


 私は空にハートを一個だけ増やして、ショーを終えた。控えめに始めて、控えめに終える。余韻を観客の手に残すのが好きだ。心の檻は、乱暴に叩いても開かない。取っ手の場所を、光でそっと教えるしかない。



 帰り道、橋の下を流れる水音が、今日は音符に聞こえた。夜の匂いは冷たくて、でも、胸の真ん中だけは温かい。自己中なショーが誰かの灯りになるなら、私は何度だって出番に立てる。世界を救わない私にも、舞台はちゃんとある。


 角を曲がると、向こうから制服の影が歩いてくる。彼女は遠くを見て、そのくせ足取りは迷っていない。九条ミレイ。ここで会う予定はなかった。けれど、風の都合はだいたいそういうものだ。


「監視の予定ですか?」と私が先に笑う。


「……いいえ。散歩です」とミレイは答えた。嘘の匂いはしない。けれど、言葉は不完全。たぶんそれでいい。完全な言葉は、心の余白を奪うから。


「今日のショー、採点してくれてもいいよ?」


「採点不能、です。規格外で」


「やった。最高評価」


 私が手を振ると、ミレイの睫毛が一瞬だけ影を震わせた。風が通ったのだ。制服の隙間に。言葉のすきまにも。


◇ ◇ ◇


 部屋に戻ると、窓の外にはいつもより星が多いように見えた。天井の蛍光ステッカーと競争するみたいに、遠い星が勝手に瞬く。ベランダの手すりにもたれて深呼吸すると、今日のショーの残響が胸の奥でゆっくりと冷めていく。


「りん。協会の“排除リスト”に、しずくちゃんの名前が仮登録されたっぽい」とルチルが言った。


「仮、なら大丈夫。まだ消せる。――光で上書きできる」


「りんの自己中理論、好きだよ」


「私も好き。だって、私が一番可愛いからね」


 冗談みたいに言いながら、本気で思っている。自己肯定は、魔法の起動キーだ。自分を認める力でなにかを照らしたら、ついでに誰かが笑うことがある。副作用で世界が少しだけ優しくなる。なら、許してほしい。世界を救うより簡単で、ずっと続けられる方法なんだ。


 スマホがまた震く。今度は“今度、練習いっしょに見てくれる?”という短い文字列。送信者名はやっぱり空欄。でも、最後の一点は、芯を持っていた。


「もちろん」と私は声に出さずに返事する。返信はしない。返信のない約束って、案外強い。心が先に了解してくれるから。


 窓の外を、風が通り抜ける。カーテンが一枚だけ膨らんで、すぐ元に戻った。夜はきれいだ。檻の鍵の場所はまだ分からない。でも、取っ手はもう光っている。あとは、手を伸ばすだけ。


「ねぇ、ルチル。私、やっぱり“救わない”を大事にする。でも“救わない”って、助けないって意味じゃないからね」


「知ってる。りんは世界の責任を取らないだけで、目の前の笑顔には責任を取る」


「うん。私のきらめきのために」


 言葉にして、笑う。私のわがままは、私の灯り。ひとり分の灯りで足りる夜は、思っているより多い。明日はどんなショーにしよう。演目のタイトルをいくつか考えてから、私はベッドに潜り込んだ。まぶたの裏で、ピンクのハートが小さく弾ける。遠くのどこかで、同じ色が誰かの胸でもう一回弾けますように。

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