あばかれた仮面
「遅くまで踊って、ヘトヘトになって、ふたり手を繋いで歩いて帰りました。意味もなくシリトリなんかしながら、笑いながら、ゆっくりジグザグに歩きました。かなり酔っぱらってました。自販機の好きな缶コーヒーが売り切れてたとかそんなちょっとしたことが、とても可笑しかったですね。ずっと笑ってました。
そしてまた同じ部屋で寝ました。僕は夢中でした。なにもかも、夢の中でした。
ずっとここに居たら?
マキさんは枕元で夏ミカンの皮を剥きながら言ってくれました。僕は涙が溢れるほど嬉しく思い、深く、祈るように礼を言いました。
『これ、祖父の形見なんですけど、家賃がわりに取ってください』
僕はいつも持ち歩いてるマジソンスクエアガーデンのボストンバッグのサイドポケットから、祖父の古い懐中時計を取り出して、マキさんに差し出しました。わあ、と嬉しそうにマキさんは銀の鎖を人差し指に絡めてブラブラと、丸い時計を振り子のように揺らしました。
『でもこれは受け取れないわ。あなたが持っておきなさいよ。うん、そうするべき。家賃? そんなのいらないわよ。気にしないで』
マキさんは受け取りませんでした。涙ぐんだような笑顔で、
『ここはあなたの家よ』
そう付け足したのでした。僕はハッピーでした。これ以上はない、最高にハッピーでした。さっきからずっと、額の内側あたりに、暖かくて柔らかい光が充満してました。
しかしながら、僕は逃亡犯でした。
大事件に関わって指名手配されている僕が、こんなに幸せではいけないのでした。
ずっとここに居たいけれど、真乗坊の動向が不気味で、やはりそこは最も不安なので、長居は禁物という気もしてました。もしも真乗坊が逮捕されてサルバドールのことをばらしたとしたら? いえ、逮捕されなくても、復讐心とかで情報提供される恐れもありましたし、そうなれば僕だけでなく、マキさんまで捕まってしまいます。これは良くないことです。
けれども、僕がサルバドールに居なければ、タレコミがあったとしても証拠不十分でマキさんは釈放されるでしょう。僕の痕跡がなければ、なにも問題はないのでした。それはよく解ってました。早くそうするべきでした。
しかしその反面、マキさんの側にずっと居てたいという気持ちが強かったのです。
僕はまだ若すぎました…。
何も知りませんでした。女性の温もり、甘い芳香、肌の心地良さ、相手を欲する心、嫌われまいとする心。羊水の中を浮遊するような安心感。何もかもが初めてでした。
こんなに楽しくって、健全で幸せな時間があったんです。僕は枕に顔を埋めて泣きました。過激な闘争の前に、知っておきたかったんです。真乗坊よりも先に、マキさんと出会いたかったんです。普通の若者のように恋をして、友だちと青春を謳歌する道も、あったんです。
深く深く、僕は悔やみました。ただただ悔やみました。でも遅かったんです…。
翌朝は例の靴工場へ出勤しました。昨夜の出来事を思い出すと、またしあわせな気分が甦ってきました。なんだか楽しそうだね、と揶揄われながらの労働でした。
お昼休みになって、安い仕出し弁当を食べて、出涸らしの玄米茶を飲んでおりますと、例の若社長が、
『うん、やっぱり似てるよ。あの若い爆弾魔の指名手配犯に。笑った時の口元とか鼻とか、そう思わないみんな?』
笑いながらハイトーンな声を上げました。
またか!
僕は身構えましたが、落ち着いて、笑顔で、
『またまたそんな! ハハハ、やめてくださいよ』
と、おどけながら言いました。みんなは、とくに無関心そうでした。
『黒縁メガネ持ってこようと思って忘れてた。かけたらそっくりじゃないかなと思ってね。束ねた髪もおろしてもらったら、完璧じゃないかなと思ってさあ。明日、忘れずに持ってくるから、期待に応えてよ!』
と若社長は軽いノリの笑顔で僕の肩をトントンとたたきました。
いいですよぉ、なんでもやりますよ! と僕も同じくらい軽いノリで答えました。みんなで軽く笑って、それでその話題は終わりました。じゃあ明日たのむよ!
夕方5時に仕事が終わって、日当をもらって、それで僕は帰路につきました。早くマキさんに会いたい一心で歩きました。しかし考えました。これはやばいぞと思いました。まずいノリに巻き込まれてるぞと思いました。
逃げろ!
何者かに囁かれたような気がしました。
すでに尾行されてる場合もあるので、サルバドールへは戻れませんでした。
逃げるといっても、どこへ?
同じ出荷部の、家出人の浅丘から、藤沢にワケアリ者でも受け入れてくれる個室寮付き工務店があると聞いていたので、とりあえずそこを目指しました。
尾行がついてるとして、まずは上りの列車に乗り込み、発車寸前に降りて、走って、下りの列車に乗り込むような手間をかけましたが、同じような動きをする者はありませんでした。とりあえずはホッとしました。念のため、下車した藤沢駅から、かなりの距離を走りました。
特に追ってくる者はありませんでした。
息を整え、汗がひいてから、安心して件の工務店を訪ねました」
男の言葉はそこで掠れるようにフェードアウトした。そしてゆっくり目を閉じた。園子は立ち上がって計器類を見たが、血液中酸素濃度も心拍数もすべて正常値だった。男の顔に目を戻した。男はゆっくりと目を開き、人懐っこい笑顔をつくった。園子はホッとしてうなずき、話の続きを待った。