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逃走・潜伏・初恋

 「サルバドールに潜伏して3ヶ月くらい経った頃でしょうか、真夏の蒸し暑い夜でした。2週間契約で就労してた靴工場の仕事から帰ってきまして、カウンター席で汗まみれになってビーフカレーを食べてますと、洗い物をしながらマキさんが『あいつならもう戻ってこないわよ』と笑顔で言いました。え? 僕の食事の手は止まりました。今朝は、別の現場へ行くのでチラッと見かけた程度で、会話はありませんでした。

 『戻ってこないって、どこへ行ったんですか?』

 『さあ分かんないけど、どこかの新聞販売店かパチンコ屋か旅館か何かで、住み込みで働くとか、そんなところじゃないかな。あいつはコブラのほかにも知人が多いから、まあまあ、なんとかなるわよ』

 洗い物を終えたマキさんはそう言って、カウンター席の僕の隣の椅子に腰掛けました。なんのダメージもないから、って言いたげな微笑みを浮かべました。

 『要するに追い出したのよ。なにかとひどい人間じゃない? もううんざりでさ。あなたにならわかるでしょ? ううん、あなたはいいのよ。ぜんぜん、ここにいて良いから』

 『追い出すって、どうやったんですか?』

 『なんてことないわ。今朝も機嫌悪くて殴ろうとするからさ、あんた立場ってわかってないわよね? あたしは足洗った人間だからサツも公安も怖くないけど、あんたは違うよね? ってそう言っただけ。それだけよ。ううん、もっちろん冗談よ。本気にして、どこかへ消えちゃった? バッグも歯ブラシもないし、きっとそういうことね。まあそんな冗談本気にしたってことは、それだけ、あたしにひどいことしてるって自覚がある証しじゃない? まあ、もう別にいいんだけどね。せいせいした』

 マキさんは明るく歌うように言いました。笑顔でしたが、どこか疲れたふうでした。僕は首にかけたタオルで顔の汗を拭きながら、黙ってカレーを食べ続けました。彼ならなんの心配もいらないですよ、と言いかけましたが、なにかさしでがましいようでやめときました。

 サルバドールの2階には6畳間と4畳半間があって、僕は日陰の4畳半のほうで寝泊まりさせてもらってました。明るい6畳のほうは家主であるマキさんの居住する部屋で、真乗坊はそこに転がり込んでましたが、本当にどこかへ消えたようでした。

 その夜、夜中でしたが、熟睡していると何者かが寝床にすべり込んできて目が覚めました。マキさんでした。まあ、ちょっと色っぽいことになりました。すみません、下品な、不要なくだりですね」

 「いえいえ。まあ、そういうのも大事ですから。続けてください」

 そう言うと園子は、いつしか自分が男の話に引き込まれ、続きを聞きたがってることに驚いた。とりあえず愛想よく微笑むと、男も安心しきったような笑顔を浮かべていた。難しい医療雑誌を読んだりナース服を選んで空想で試着してるより、有意義な時間かもしれなかった。

 「翌朝はなんとも恥ずかしい気持ちで、カウンター内のマキさんと差し向かいでバタートーストを食べました。昨日までは、時間差はあったものの真乗坊が横にいたのに、今はひとりというか、マキさんと2人きりでした。他の客もいたので目立つことはできませんが、たまにマキさんと目が合うと、それだけでなにか罪悪感に似たようなマイナスな感情が湧いてきました。すぐに目を逸らしました。また他の客たちに溶け込むように音楽を耳にしたり、新聞に目をやったり。そわそわしてました。

 目の前にいる長い黒髪の、強気な感じの切れ長の目をしたこの細身の美人を、さっきまで自分が抱いていたことが、どうにも嘘っぽいのでした。夏の雲みたいにふわふわと、空高く舞い上がるような心持ちでした。正常ではありませんでしたね。夢のような、まだ信じられないような不思議な感覚でした。トーストを食べ終え、コーヒーで流し込んで、他の客たちと同じように代金を払い、ごちそうさまですと店を出ました。支払うとき、マキさんは500円札を受け取りながら僕の目を食い入るように見つめて微笑みました。行ってらっしゃい、と、マキさんの艶やかな瞳は言ってるようでした。僕も笑顔でお釣りを受け取り、彼女の潤んだ目を深く覗き込んでうなずきました。しっとりとした、絡みつくような視線でした。 

 そうして店を出たあと、勤務3日目の靴工場へ出勤しました。サルバドールから歩いて20分くらいの下町でした。マキさんのことを思い出しながらの労働でした。お昼は、安い仕出し弁当をみんなで食堂で食べましたねえ。そういう慣わしの職場でした。製造部に5人、出荷部に2人、事務員が1人だけおりました。僕は出荷のほうで、作業場から表のトラックまで段ボール箱を運んだり、廃棄物を裏の集積場へ捨てに行ったりするのが仕事でした。出荷部のもう1人は、僕と同じ歳の、浅丘と言う和歌山出身の陽気な男でした。どうやら家出人らしく、ワケアリでも受け入れてくれる寮付きの職場を転々と渡り歩いているという話でした。この靴工場の寮は5人で雑魚寝のタコ部屋らしく、あまり居心地は良くないとのことでした。藤沢や品川や大森や、待遇の良い住み込みの工場や飯場なんかをいくつか教えてくれました。

 仕出し弁当を食べてお茶を飲んでおりますと、社長が笑顔で話しかけてきました。社長はまだ30歳くらいで、自ら事務や出荷の手伝いをしてくれました。

 『君かわいい顔してるね。よく見たら、あの若い指名手配犯に似てるね。そう、爆弾魔のね。眼鏡かけたらそっくりだと思うな。あれ、君じゃないの?』

 そう言って社長は楽しそうに笑いました。冗談で言ってるふうでした。僕はギクッと、心だけが椅子から飛び上がったのがわかりました。それから視界が大きくはぜてぐらりと揺れました。社長や浅丘や事務員のおばさんの顔がだんだん擦り切れるみたいに暗く翳ってきました。急激に冷や汗をかきました。けれども、ここは穏やかな気持ちで、

 『まさか! ははは! そんなことあるわけないじゃないですか! でもちょっと嬉しいですね』

 笑ってその場を凌ぎました。社長以外は関心が薄いいようで、それでその話題は消えました。ホッとしました。正直、生きた心地がしませんでした。

 夕方になって、日当をもらって、サルバドールへ帰りました。ドアを開けるとカランコロンとベルが鳴り、店内はカウンターに1人、テーブルに2人、お客がありました。なので僕もカウンター席に座り、客のふりをしました。店に誰もいなければ、カウンターの横のドアから2階に通じる居間に消えるつもりでした。カウンターは6つの席があって、テーブルは4人掛けが1つと、2人掛けが2つでした。

 『なにか食べるもの出来ますか?』

 『ごめんなさい、あいにく切らしちゃって』

 『え? …じゃコーヒーください』

 客がすべてはけると、まだ時間は早かったですけどマキさんは店を閉めました。

 『ねえねえ、これ穿けるんじゃない? あたしのパンタロンなんだけど、あなた脚が細いから』

 僕とマキさんは、だいたい背丈が同じくらいだったので、彼女の赤いパンタロンも難なく穿けました。ピッタリでした。

 『いいじゃん、いいじゃん。このシャツは?』

 ピンク地に黄色と水色の花柄シャツを持ってきました。肩がちょっとキツかったですけど、まあ着れました。マキさんは思いがけずはしゃぎ、写真まで撮ってくれました。貴重なフラッシュを焚いて、階段に腰かけるよう指示したり、店の扉の前でモデルみたいなポーズを指導しながら、何枚か撮ってくれました。

 『ねえ、今夜は外で食事しましょう。その格好のまま行くわよ』

 マキさんは近くの繁華街の小さいイタリアンレストランへ案内してくれました。常連みたいで、マスターと心安そうに談笑してました。カッコいい彼だね、などと言われて恥ずかしかったですね。目立ってはいけないんですけど、堂々としてたら案外、まず疑われることはなかったですね。ニコニコしてたら、悪い人間には見えないのかもしれませんね。前菜で出てきたカルパッチョやテリーヌやフリッターなんて、初めて食べるような料理でした。グラタンも初めてでした。とても美味しかったです! ってマスターに伝えたら、またいつでもおいでよ、ってチョコケーキをサービスしてくれました。

 食事したあとは、駅前の雑居ビルの地下のバーに連れて行ってくれました。カウンター席に座ってる人以外は踊ってました。10畳くらいのホールにぎっしり、大勢が薄暗い中で踊ってました。リズミカルな音楽が店内から溢れ出てました。ベースが同じフレーズをずっと繰り返してて、ボーカルが語るようにシャウトしてるカッコいい曲が、大音量で鳴っておりました。ベースとドラムが身体の芯を根底から揺さぶって、心臓に、鼓動とは別の大きなビートを刻みつけて、自然と体が動きました。作法がわからないまま、体が動くまま踊ってました。大音量の音楽が、特に心臓に響くベース音が心地よかったです。良い感じよ! と緑色のミニスカートのマキさんは笑顔でウィンクして、僕の横で踊り始めました。

 『カッコいい曲ですね!』

 僕も笑顔で、ゴキゲンで話しかけました。大声で、彼女の耳元に顔を寄せて言いました。髪の芳香がさらに僕の意識を掠れさせました。

 『ジェームス・ブラウンよ! セックス・マシーン!』

 マキさんも僕の耳に顔を寄せて叫びました。僕も感極まって叫びました。

 僕たちは踊り続けました。向き合ったまま腰を振って、時々は抱き合って回転したり、永遠に続く愛の儀式のようでした。トランスというのでしょう、脳がしびれたみたいに陶酔してました。本当に濃密で、素晴らしく甘く芳り高い夜でした。時間が止まってました。生きてるな、と思いました。こんなに、魂の芯から、生の喜びを感じたのは、生まれて初めてのことでした。たぶん僕は、マキさんに恋をしていたんだと思います」

 男は言うと、照れくさいのか、目を閉じてちょっと黙り込んだ。

 「向こうも好きだったんでしょうね、滝本さんのこと」

 園子は言ってから、余計なひと言だったかもしれないと察したが、特に男は気にしてないふうだった。

 「いやあ、それはどうでしょうかね」

 男は照れ笑いを浮かべて、満足そうに後頭部を枕に2度ほどバウンドさせた。

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