涙の逃走資金
「本当です。まあ聞いてください。すぐに指名手配された僕と真乗坊は東京から逃げました。銀行から預金をすべて引き出しまして、古本もレコードも売りました。すぐそこに迫ってきた洪水から逃げるみたいにバタバタしてましたので、換金できずにアパートに残してきた物も多くって、われながら雑だったなと苦々しい思いが残りました。
川崎の寄場の近くに、サルバドールという喫茶店がありました。古い煉瓦造りの1軒家でしたが、そこの2階に身を寄せました。マキという女の子の店でした。彼女は真乗坊のガールフレンドでした。店はお祖母さんから譲り受けたと言ってました。細身で、背丈は僕と同じくらいの髪の長い女の子でした。指名手配される前に2度ほど連れられて来たので、面識はありました。
『逃走資金が足りないな。お前、広島の実家に用立ててもらえないか?』
真乗坊は提案しました。実家に? そんなこと、言えるわけありません。わけがわからないまま、流れのまま、こんな取り返しのつかないところまで来てしまって、なんて言えばいいのでしょう? 激しい悔恨しか頭にありませんでした。
僕は長男ですし、父の仕事を引き継ぐよう期待されて、遠い東京の大学に行かせてもらえたのに、こんな、指名手配だなんて、親姉弟の生活にまで影響するでしょう。詫びても詫びても、許されることはないでしょう。ただただ申し訳ないのに、その上お金をねだるなんて、できるわけがないです。
『それは、できません…。すみません…。勘弁してください…』
僕は真乗坊を怒らせないよう、肩より低く頭を下げて、ちょっと高いトーンで弱々しく言いました。
『なに? できないだと? おいおい、捕まってもいいのかよ? あたるだけあたってみようぜ? ああ?』
真乗坊は何がなんでもうちにお金を出させようとしてました。彼からすれば、うちの実家はブルジョアというものらしいのです。彼が常日頃から主張しているのは、裕福な地主や上流のブルジョアたちは、資金を必要とする俺たち革命戦士を支援するべき、それが当然、というような身勝手な考え方でした。
『いやがってるじゃん。よしなよ』
呆れ顔のマキさんが、真乗坊と僕の間に割り入ってきました。男みたいな話し方だけど、優しい目をした女性でした。
『でしゃばるんじゃねえよ!』
真乗坊は彼女の頬を勢いよく平手で叩きました。パーンと皮膚を打つ乾いた音が響き、長い黒髪が、岩に当たって砕け散る荒波のように放射線状に弾けました。彼女は左の頬に手をやり、黙って、真乗坊を睨むように見上げてました。真乗坊は何事もなかったかのようにすぐに僕に向き直って、
『こういうことにしよう。お前は今、女と岡山に来てて、いつでもカネを取りに行けるふうに演じるんだ。いいか、いかにも切羽詰まったような雰囲気を出せ。ああ?』
と命じるのでした。僕は嫌々ながら、真乗坊と一緒に外の電話ボックスに移動し、実家に電話しました。ダイヤルを回す指が震えて2度失敗しました。つながると、はたして、母が出てきました。
『おまえ? 元気でやってるんかい? ちゃんと食べてるんか? うっ…』
受話器の向こうの母は嗚咽し、すぐに父の声に替わりました。
『バカなことを…。おまえってやつは…。今どこに居るんだ?』
父の声が動揺しているが分かりました。いま岡山です、女と一緒です、と僕は用意されていた嘘を言いました。女? 真乗坊というやつも一緒なんじゃろ? 3人なんだな? と父は早口で詰問しました。僕はそれには答えず、まとまったお金を用意してほしい、お願いします、と、かろうじて言葉を発しました。
『逃走資金? バカなこと考えてないで、すぐに出頭しなさい! もしもし! もしもし!』
これが最後に聞いた、父の言葉でした。耳に焼きついたこの時の声を思い出すたび、胸が震え、涙が溢れてきます。今でも、いつまでも…。僕は泣きながら電話を切りました。本当につらかった。真乗坊はひどく立腹し、僕の頬をビンタして電話ボックスから出て行きました。打たれた頬の痛みより、ずっとずっと胸が痛みました。本当につらいことでした。はい、思い出すと今もつらいですね。父さん本当に申し訳ない! 心の中で叫びました。もう今となっては、父も母も亡くなっていると思いますので、このバカな電話が、最後のやりとりになってしまいました。本当に親不孝で、バカ息子で、悔やんでも悔やみきれないです。本当に…。
その夜、僕は涙腺のガスケットがイカれたみたいに泣き続けました。たぶん両親は、それ以上のレベルで、とてつもなく困惑していたことでしょう。もう一言、僕はなにか言うべきでした。突然電話がきれて、父は狂おしく戸惑ったことでしょう。
『あたしが何か言ってきてあげるよ』
2階の暗い部屋の片隅で縮こまってた僕に、そっと歩み寄ってきたマキさんが笑顔で提案してくれました。おそらくご両親とも、わけが分からなくて、ただ不安なだけだろうから、と言ってくれました。ありがとうございます。僕は深く頭を下げました。
『身体は元気なので、なにも心配はいらないと、そう伝えてもらえますか?』
もう夜の10時ごろでしたが、僕とマキさんは外の電話ボックスへ行って、2人で個室に入りました。シャンプーの芳香が鼻をくすぐり、ちょっとふわっと気が遠くなった感じでした。僕は暗記している番号のダイヤルを回し、受話器をマキさんに渡しました。耳を澄まして聴いていると、父のひずんだ声が遠くから聴こえました。マキさんは丁寧な口調で、しかし手短に、なにも心配することはないですよ、お元気ですよと、しっかり伝えてくれました。父の落ち着いた感じの声が、ちょっと代わってもらえますかと言ってるのが聞こえましたが、僕は受話器置きのレバーを下ろして電話を切りました。
広島の実家からの支援がないというこの結果に、真乗坊は落胆しました。資金があれば、別グループの同志が多い大阪の、西成の釜ヶ崎というアイリン地区へ移動するつもりでした。とりあえず指名手配犯が集うエリアらしいです。そこに潜伏して活動を続けるという計画でした。単に移動して潜伏するだけなら、それほどお金もかかりませんが、潜伏先の同志への上納金だの活動家たちへのカンパなど、まとまった額が必要ということでした。真乗坊は溜息ばかり吐いてイライラしてました。
逃走資金がないとなれば、しばらくは今の場所にとどまって働くしかないです。もちろん偽名でです。たまたま僕たちの潜伏先であるサルバドールは、寄場に近かったので、偽名で日雇い労働するにはうってつけだったのです。タコ部屋やドヤに泊まる必要がなかったですから、身バレのリスクは低かったんです。
指名手配写真の僕は、長髪で黒ぶちの眼鏡をかけていますが、労働中は眼鏡を外して、髪は後ろに束ねてました。真乗坊も手配書の写真とは逆に、丸いダテ眼鏡をかけたりしてました。朝食と夕飯はマキさんのサルバドールで摂りました。ナポリタンスパゲッティとかドライカレー、エビピラフやサンドイッチとか、いわゆる喫茶店メニューですけど、普通に美味しかったですね。特にビーフカレーは時間をかけて作ってて、絶品でした。コーヒーもサイフォンで淹れてて、人気ありましたね。
昼は仕事場の近くの、現場によって変わりますが定食屋とかラーメン屋ですね。お金を使うことはそれくらいでしたか。あとの、日当のほとんどは、逃走資金の積み立てとかで真乗坊に持って行かれたので、手元には瓶ビール代くらいしか残りませんでしたね」
男はどこか懐かしそうに顔を緩め、遠い目でそう言った。
「え? なんですか、そのシンジョーボーってやつ? ひどすぎません?」
園子はつい、馴れ馴れしい口調で応えてしまったが、男はそこは気にするふうではなかった。
「そうですね、マキさんも『ひどいやつ』って言ってましたっけね」
「彼女さんにまで言われてるんですか、世話ないというか、ヤバいですよね」
園子が苦笑すると、男も苦笑いでちょっとうなずいた。