表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/18

1974年の失敗

 「あれはそうです、1972年でした。僕は東京の、とある大学に入学して、広島の親元を離れて、中野にアパートを借りて、ウキウキした春の青空みたいな気持ちで生活してました。ずいぶん昔ですよね」

 男は子犬みたいな笑顔でボソボソ言って、静かにはにかんだ。ええまあ、私の母が産まれた年ですね、と園子も軽やかにこたえて微笑んだ。

 「その時点では、いろんな可能性がありました。勉強も易しかったし、友だちと大衆割烹店で楽しくバイトしたり、映画研究会にも入りました。学校にはなかった音楽サークルを、他校まで探しに行ったりしました。毎日が本当に楽しかったんです。知り合う人みんなが、いい人ばかりでした。とても可愛がってくれました。いい感じでした。調子に乗ってました。絶好調でしたね。良い成績で順調に進級していきました。親や姉たちの期待通りの、やんごとなき未来が、僕を待ってたんですよね。本来なら。

 ところが、です。3年生に進級した1974年の春、あいつと知り合ってしまいました…。真乗坊っていう苗字の、ひとつ上の先輩でした」

 「シンジョーボー?」

 「はい、真乗坊三郎という名前なんです。かわった苗字ですよね。ほとんど学校に来てなくてね、山谷とか、大阪の釜ヶ崎とか、『日雇い下層労働者を支援しろ!ピンハネから守れ!』なんてスローガンを掲げて闘争してましてね、学生というより活動家でしたね。たまに学校に来ても『学費値上げ反対!』だの『ワーキングプア救済しろ!』だの、バカみたいに忙しい男でしたね。

 そうあれは、3年生の新学期が始まって、映画研究会も新しい会長が決まって、見通しの明るいワクワクした雰囲気の4月の昼下がりの研究室に、あいつが乱雑にドアを開けて入ってきたのです。そして言うには、今年の文化祭には『蟹工船』を上映しろ、と居丈高でした。なんだこいつはと、当然、映研の会長は反発しました。文化祭で上映する映画は『東京物語』か『旅の重さ』か、どちらかにしようと、まさに話し合っていたところでした。会長がそう告げると、真乗坊は顔を真っ赤にして、そんなノンポリ映画など今の時代に合わないだろ、お前はどう思う、と居合わせた僕ら3人の会員に詰め寄りました。

 他の2人は『会長に従うだけだ』と、強気に言い放ちましたが、僕は、もともと気が弱いので、ドキドキしつつ、ニコニコして黙ってました。

 僕の実家は、広島の田舎町で代々、町議会議員なんかやってましたので、子供の僕でも町では有名人でした。お坊ちゃん、なんて言われてました。狭い田舎町ですからね。親からはいつも、知らない大人に対してもニコニコしてなさい、愛想よくしてなさい、と言われたもんです。だからどの年代の写真みても、いつも笑ってますね。くせというか、幼い頃から身に沁みついたものなんですね。あるいは2人の優しい姉の影響もあったでしょう。そんなだから、興奮したあいつに対しても、つい愛想よく微笑んでしまいました。

 『おまえはどうなんだ?ああ?』

 あいつは僕に激しく詰問しました。

 充血した目は怒りに満ちて、灼熱地獄みたいに煮えたぎってて、たちまち僕の足腰は震えました。こんなに怒り狂った人間と間近で対峙するのは、生まれて初めてのことでした。思えば親戚中でも幼稚園でも小学校でも、周りは優しい人ばかりでした。中学でも高校でも、同級生も先輩も先生も、みんなおっとりしてて温和でした。それは田舎だったからでしょうか。いえ、東京へ来てからも、バイト先や学校でも、ニコニコしていれば平和でした。少なくとも攻撃はされませんでした。

 『どうなんだよ!』

 『は、はい、蟹工船でもいいと思いますが…』

 僕は震える声でやっとこさ答えました。いいと思いますが、しかしながらこれは会長が決めることです、と続けるつもりでした。だけどあいつは僕の言葉が終わるのを待たず、よし気に入った! と不敵な含み笑いを見せ、僕の肩を乱暴に抱いて外へ連れ出しました。ちょっくらこいつを借りるぜ、と奴は研究室に告げましたが、会長も誰も助けてはくれませんでした。

 『おまえ、カネはあるか?』

 と真乗坊は今度は優しい声で、似合わない笑顔を浮かべて訊くのでした。小柄な僕は、20センチも背の高いあいつを見上げながら、2万円くらいならと正直に答えてました。よし! とあいつは親しみを込めて僕の肩を何度も叩き、目黒駅前の洋食屋に案内してくれました。将棋の駒みたいに横顎が張っていて、吊り上がった目は充血していて、素の表情でも僕には恐ろしい顔つきに見えました。あいつはビフカツやエビフライやらチキンチャップやら何やら豪華なAランチ大盛りをガッついて生ビールをあおり、ついさっき昼を済ましていた僕はコーヒーをゆっくり啜りました。

 『直近では年末だな。山谷の、越年闘争に参加してた』

 あいつは口いっぱいに頬張ってザクザクと高速で丹念に咀嚼してから、ゴクリとビールで流し込み、それから話し出し、また飯を頬張る、そんなふうでした」

 「なんか強引な、嫌な感じの人ですよね。何なんですか? そのなんたら闘争とかいうのは?」

 園子は正直に眉を顰めた。男は軽くうなずき、穏やかな口調で続けた。

 「年末年始は企業が長期休暇に入りますでしょ、つまり日雇いの下層労働者は収入が途絶えるわけです。その期間の生活を補償しろと、学生や労働者が訴える社会運動です。越年闘争。そんなのに頭を突っ込んで、ほとんど学校に来てないという、活動的な男でしたね。山谷の少し前は、川崎の寄場にいたようでした。ピンはねをしてそうな手配師の実態調査に関わってたそうです。いやけっこう危険ですよ。その前は大阪の西成の、釜ヶ崎という労働者の町で、闘争のかたわら、実際にドヤに住んで日雇い労働を経験したと言ってました。これもヤバいです。危険です。そういう活動は大学に入った1971年当初から始めてたようで、逮捕されたこともあったらしいです。

 不当な雇用条件なんかで恵まれない日雇い労働者のため、ここまで熱くなれることに、僕は正直、だんだんとあいつに共感していったのです。年齢がひとつ違いなだけで、ずいぶん大人に見えましたし、革新的で、それがカッコ良く見えてしまったんです…」

 そこまで言うと男はガックリと頭を枕に沈め、ゆっくり目を閉じた。

 「今の学生と違って、なんかマジメというか、おとなですよね」

 園子は明るい雰囲気を作ろうと笑顔で相槌を打った。男もギョロ目を開いて笑みを浮かべた。

 「そういう時代でした。いまみたいに情報や娯楽が多かったわけではなかったんで、学生運動がカッコ良く見えたんです。時代が、世の中全体が血気盛んだったんですよ。まだ敗戦から30年も経ってなくて、みんな熱かったんです。やり場のない、抑圧された怒りというのが、当時の日本人の根底にあったんじゃないでしょうか。簡単に言うと、暴れる理由がほしかったんでしょうね。有名なのは、暴動みたいな東大安田講堂事件ですか。生中継されてたんですよ。あれが僕の中3のときで、テレビで見たときはシビれましたねえ。暴れる理由があるのかないのか、火炎瓶投げたり、角材で機動隊に殴りかかったりするヘルメットとマスクの東大生。放水はもちろん、盾や警棒で本気で殴って制圧する重装備の国家権力。これは観ててアドレナリン全開でしたね。他に興奮するテレビ番組といえば、プロレスかプロ野球くらいですけど、それ以上のエンタメでした。今の時代なら、投稿動画サイトでそれ以上のものを好きな時に観れますから、大した事件じゃないかもしれないですけど、当時の中学生の僕らにはかなり衝撃的でした。変な言い方ですけど、学生運動に打ち込む姿がヒーローに見えたんです。そんな時代でした。いまとは全く違う空気でした。真乗坊三郎との出会いがあったこの日も、そんな空気の中のひとコマでした…。

 そうですね、もしも一度だけ人生をやり直せるとしたら、この日に戻りたいですね。そうです、映研であいつを無視して、研究室に居残ること。これだけで良かったですね。真乗坊だけとは出会いたくなかった」

 男は目を伏せ、なんとも冴えない翳りを表情に滲ませていた。園子はここは声をかけたほうがいいなとナース的な判断を下した。

 「なんですか、そのイヤなやつと、なにか滝本さんの人生を左右するような、重要な関係性があったのですか?」

 できるだけ穏やかに、ゆったりとした口調で訊いてみた。男はあきらめたような笑顔に戻り、また穏やかに語りだした。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ