Ⅰ B区
路地の夕暮れに、生ぬるい不快な風が吹き込む。背中を丸めてかがみ込む少女は、そいつに撫でられた背を小さく震わせた。
「……お前さ、もしかしてヒルカワさん家の?」
小さな体は一瞬フリーズしたが、おもむろに顔を上げる。俺は息をのんだ。ぼろくなったゴム手袋のように、その顔は酷くただれていた。うちの斜め向かい──ヒルカワ家では今日、不幸な大火事があった。それもただ事故や放火で発生した火が燃え移っていくのではなく、ほんの数秒、一瞬にして家中が発火するような不自然現象だ。家主であるヒルカワさん夫妻と、3歳の長男は死亡。そして、8歳の長女の姿はどこにも見当たらず。否。たった今、俺が見つけた。
「お、お兄ちゃ……っ、痛い……痛いよぉ……」
やっとの思いで絞り出した。そんな印象のか細く掠れた悲痛な高い声に、すがられたような気がした。黙ったまま、腰を屈ませ視線を合わせる。サイレンや野次馬の喧騒に包まれていた街も、陽が沈んで暗がりが差し込む毎に段々と音の数を減らしていく。もうすぐ、月明かりが来る。
そして俺は彼女のその火傷の痛みに歪む頬へと、手を伸ばした。
「はー! まさかうちの区にも魔女が居たとはなあ」
「どこにでも居るだろ、魔女は」
隣を歩く男、トワが凝視するページのトップには、昨夜の事件の報道が家の写真込みででかでかと掲載されている。前にも後ろにも俺たちと同じミナリマの制服を着た他の学生はいるが、聞き耳を立ててもみんな全く同じ話題でもちきりだった。
【B区の住宅街で大火事 魔女による犯行か】
「まー、そうなんだろうけどさ。うちの区で最後に魔女が出たのって、もう80年も前なんだろ? とっくに全滅したもんだと思ってたぜ」
豆乳の紙パックを凹むほど吸い上げて、ブレザーのポケットにしまうと、いつも通り自慢の金髪を片手で梳きながらトワは再び視線を寄越した。
「な、ヒルカワ家……警察の見解じゃ、行方不明になった娘の誘拐目的っぽいみたいだけどさ。結局、無差別なのかも何の恨みなのかもわからないんだろ。もしかしたら犯人の魔女、お前のご近所さんかも。気をつけろよ」
「……ああ、当たり前にわかってるよ。そんな縁起でもないことわざわざ言うな」
「びびってんなよ、友達として心配してやってんだろー」
そう言うわりに呑気に笑いながら軽くぶつかってくるトワに、関心半分、呆れ半分で俺は項垂れた。──トワだけじゃない。得体の知れない火で焼け溶けた少女の姿を見た俺すらも多分、あまり実感が湧いていないのだ。目に見えない。でも、世間には見えている、武器を持たずに人を呪い殺す、魔女と呼ばれる誰かの脅威に。
「でさー、カツ、数Aのプリント見せて」
「……お前、入学してから1回も自分でやったことないだろ」
「ごめんごめん! ポッキーやるから。細いやつ!」
悪びれもしない満面の笑顔にムカつく気力も失せながら、校門すら通り越していつの間にか辿り着いていた教室の席に着く。HRでは案の定、昨日の事件に関しての先生の口頭での注意に加え、魔女警戒対応についてのプリントが配布された。
魔女。
黒魔術に手を染め、悪魔と契約し、体毛や体液、爪などの細胞を媒介にして他人を呪う、人間であり人間ではない何者か。ニホンの歴史を辿れば1543年頃から存在する。起源はヨーロッパとされており、無論、今も世界中で警戒対象であるが、魔女の関与していそうな事件数と人口を照らし合わせれば、ニホンにおける魔女の数は他国と比べて圧倒的に多い。そんな危険な国であるものの、俺たちの住むB区を含め、いくつかの地区は平和な方でもあった。
その矢先に発生した、突然の奇妙な大火事。それにより途端にB区の大人たちはピリつきだし、区長は国と共に警戒態勢を強める方針を発表した。俺たち学生に対しても、戸締りや掃除の徹底、夕方以降の外出の自粛、疑わしい行動をしないことなど、無数の指示が出ていることがプリントには記されていた。
「ん〜……やっぱりやるんだよなぁ、魔女裁判」
ふと零された悩ましげな女子の呟きに、俺は手を留める。気づけば、担任のクルミ先生をも含めて、ざわついてた教室内も静まり返っていた。
「魔女裁判って……」
半ば茶化すような、好奇心に溢れていたクラス中の声色は、不安と焦燥に駆られ出す。このニホンにおいて、魔女を裁くための法律は極めてソフトだからだ。
「魔女対策課に提示された証拠のもと、裁判にかけられた人の有罪率は100%。そしてそのほぼ全員が、火炙りによりその場で処刑される……ってバード、よく見るけど〜」
声の主はぼんやり頬杖をつきながら、机に置いたスマホの画面を見つめていた。
「……ハカナイさ、今その話したってどうしようもないだろ。あんまみんなを不安がらせるようなこと言うなよ」
「えー、私だって怖くて不安なのになー。モモセくん、そんなこと言うくらいなら今日送ってよ。そうしたらもう怖くないから」
俺の目に気づいたのか、ハカナイはようやく顔を上げる。かと思えば、待ってましたと言わんばかりにくりっとした目を眇めて微笑んだ。
「なんでそうなるんだよ……」
「ではここまで。モモセの言う通り気にしてもしょうがないとこだ。ちゃんと切り替えとけー」
なんとなく目の行き場がなくなり、視線を外すと、クルミ先生は教卓で名簿やファイルを整える音を少々わざとらしく響かせる。瞬間、また慌ただしく場の雰囲気が一転した。
「うわ、ハカナイさんとカツキ今日放課後デートだってよ!」
「うえー、俺が注意すればよかった……」
「え! ちょっとハカナイさん明日モモセの感想聞かせて!」
「おいカツお前! 抜け駆けー!!」
そんなトワの声が響き渡るのと同時に、とりあえずいつも通りのミナリマの日常が帰ってきたような錯覚を得る。胸ぐらを捕まれつつハカナイの方を見ようとしたが、席一帯を女子に囲まれ完全に姿が隠れていた。透き通るような陶器肌に物憂げな瞳、ふんわりとした白いショートボブに、華奢で可憐な容貌。性格こそマイペースが服を着て歩いているようなものでかなりクラスからは浮いているが、ハカナイはそれでもその整った容姿と独特の雰囲気から一目置かれてはいた。
「にしても、いきなり注意してきたただのクラスメイト相手にあそこまで言えるか? 末恐ろしいと思った……」
「だよなー! ハカナイさん、めっちゃかわいいわけよ。俺もゴミ捨て手伝ったら『ありがとう。エイエンくん優しいんだね』って。そんでイチコロ」
「それ、台詞じゃなくて顔で堕ちたろ」
「ノーコメントで! でも、やっぱかわいいっての、お前も否定しねーじゃん」
「絶対に掌で転がされている……」
深刻な顔で頭を抱える俺の背を、相変わらず力加減を知らないトワが数回、乾いた音を立てながら叩いた。俺もクラスのおおよそも、ハカナイの発言は自分への非難を躱すためのものであろうと印象していた。
──はずだったが、そんな朝の出来事を終え、放課後になってカバンとトワから渡されたポッキーの箱を机に置いた頃には、既に支度を終えたハカナイが席からこちらを凝視していた。さすがに勘違いかと思ったが、なぜか俺ではなくトワが真っ先に声をかけたことで、俺たち3人は今、共にB区の街並みを歩き帰路を行く。
「ハカナイさんはさー、旅行とか行ったことある?」
「んっとねぇ、家族でD区に温泉旅行とか」
「うっわー、いいな! 俺はA区のクリスマスパーク行ったことあるぜ」
「おー、本場の温泉、いいな」
トワは人懐っこい。先ほどから忙しなくハカナイに俺にと話を振るが、信号が赤になると同時に出された話題もまた取り留めなかった。ここ数十年、ニホンでは魔女によるテロリズムの発生防止に、区間移動の規制が行われている。その多くは悪魔召喚儀式と言われているものの、魔女の発生源が明確になっていない以上、区間ごとに人間の戸籍や身分を管理することで【魔女裁判】の正確性を確立しているらしい。そのため手続きや資金の観点で、国内外問わず旅行はかなり希少の体験となり、よく話のネタになる。
「モモセくんは旅行したことないの?」
「ない。うち、ばあちゃんが親代わりでさ。昔から足悪いから旅行みたいなのは強請る気にもなんないな」
「そのうちバイト代貯まったら連れて行きたいーとか言ってたよな」
「えっ、そうなの? モモセくん、おばあちゃん想いだ」
「別に……」
言うなよとトワを睨みつける。よもやおばあちゃんコンプレックス的なものだと思われたかもしれないし、ハカナイの言葉の本意は知れないが少し気恥しかった。トワはまるで気づいていない様子で、対するハカナイもあちらこちらへと興味が移るように視線を動かしながら、着ていたカーディガンの袖を指の第二関節ほどまで引っ張る。前髪を頻繁に整える女子よろしく、そしてトイレに行くたびにリップが塗り直されている女子よろしく、彼女の萌え袖も努力の上に成り立っているようだった。
「あ、せっかくだからダリーッス行こうよ、ダリーッス。2人と帰るの初めてだし、もっと話したいな」
そう言われれば、どちらが示し合わせたでもなく、トワと目が合う。フリーの男子高校生が、可愛い女子に誘われて断るような件などこの世になかった。
昨日の事件があってか、店内はちらほらミナリマ高生やノートPCを持った大学生が座っているのみで、意外と空いている。各々で注文したドリンクを手に腰を下ろすと、ハカナイは俺の正面に来ていた。
「いやあ、美味いんだよな! レモンパスタ」
甘酸っぱい香りに、爽やかなミントの風味を乗せた湯気が漂う。なぜかたった1人だけがっつり夕飯を運んできた隣の馬鹿をスルーして、何やらSNS用の写真を撮り始めたハカナイに協力するべくテーブルや椅子の荷物を整えた。
「ハカナイって、もっととっつきにくいっていうか……変なやつだと思ってたよ」
「うわ、失礼! カツ、そういうのノンデリって言うんだぜ?」
俺の言葉に眉を顰めるトワだが、ハカナイは少しきょとんとした後、腹を抱えて笑い出した。
「もー、本当にそう! でも、モモセくんもエイエンくんも……カツキくんとトワくんって呼んじゃおうかな。気さくで話しやすくて、2人とも友達が多い理由わかるなぁ」
目の前でクラスの他の女子と変わらない仕草をするハカナイと、極自然と俺たちは打ち解けていく。飲んでいたコーヒーが半分ほどなくなる頃には、文化祭が楽しかった話だとか、ハカナイおすすめのサブスクの話だとか、来年の修学旅行の話だとか、俺たちのバイトの話だとか、なんとなくそういう何気ないことばかり駄弁っていた。
「なー、また3人で遊ぼうぜ。ハカナイさん、野郎に挟まれるなら女子連れてきていいし……」
「うん」
目に見えてもじもじと照れくさそうにしているトワに、ハカナイは気づかないふりをしながら笑った。
「そろそろ帰るか。あんまり遅くなると物騒だしな」
そう言って立ち上がろうとした。先ほどからやたら耳に入っていた客の足音が、俺たちの席を取り囲んで止まる。その瞬間、手の内に酷く汗が滲む。全身が凍りつくような心地がした。トワとハカナイの顔を見るほどの余裕が、なかった。
「ニホン警察庁魔女対策課、ミナセだ。ミナリマ高校1年、カツキ・モモセ、ルイ・ハカナイ。呼出状だ。お前たちを魔女の容疑で裁判に招集する。尚、我が区法の規定により、一切の拒否権は認められない」