第四話
「おはよう、良い朝であるな!」
「ああ──起きたのか。おはよう、よく眠れたか?」
「うむ、夢も見なかったぞ。ここの寝台はとても柔らかで上質だな」
「いや、んー、そうか? まあそこそこだと思うが」
確かあの部屋の寝台は、元々家に付属して置かれていたままのフレームだ。流石に寝具は買い替えたが。
朝食の為に昨日の残りのスープを温めてパンを切る。まるっと同じメニューもなんだから、パンにはジャムでも付けてやろう。果物が好きなら喜ぶはずだ。
近付く軽い足音に振り返ってみると、ゆるい俺のシャツをだぼっと羽織り、寝乱れて少し癖のついた髪をかき上げるサンビタリアの姿。昨夜は幼なげに見えたのに、朝の光を浴びて立つその様子はどこか気怠げで妖艶だ。
「朝食の支度をしていたのか? 早くから精が出るな。ご苦労なことよ」
「全部昨日の残りだよ。今日は色々必要なもん買い出しに行こうぜ」
俺の視線から見下ろすと、いくつかボタンが外されたシャツの胸元がちょうど見える。今日はいい日だ。着替えは買っても、寝間着は買わないでおこうと心に決める。我慢して辛くなるのは他でもない俺だけれども、だがしかしこの幸福感、捨てるには惜しい。
皿を食卓に運び、向かい合わせで腰掛ける。家を買って随分立つが、ここに自分以外の人が座るのは彼女が初めてだ。椅子があって良かったと思う。
食事を前にサンビタリアは手を組み合わせると、その空色の瞳を閉じた。
「森の恵みに感謝を」
「それ昨日もやってたけど、エルフ流の祈りか?」
「ああ、そうだ。──が、確かに、そうだな。我はもう森を出たのだった。ここで感謝すべきは森ではなく……アイザックの恵みに感謝しよう」
悪戯っぽく笑ったサンビタリアは手を組み合わせたまま、こちらをじっと見てそう言った。
「俺の恵みって──はは! 確かにそうだな。うん、よかろう。味わって食べたまえよ」
具の煮溶けたスープに固いパン。豪華でもなんでもないいつもの飯が、この上なく美味しく感じる。
たまの依頼で一緒になった冒険者と飯を食うことはある。街の飯屋で隣になった奴と少し話したりすることもある。けれど自宅に人をいれたのは初めてで、誰かと食卓を共にするのは生家にいた頃ぶりのことだ。それも貴族の家じゃどでかいテーブルにそれぞれ離れて座り、食ってる間に話をすることなんてほぼないのだ。いや、俺以外の家族はなにかしら話していたかもしれないが。
この肉がうまい、一晩経ってより美味くなっているのではないか、ジャムが美味いこんな甘い果物があるのか、とあれこれ感激しては感想を述べて笑うサンビタリアを見て、自然と俺の口にも微笑みが浮かぶ。
「こんなんで喜んでもらえるなら良かったよ」
「ああ大変に喜んでいるぞ! アイザックは天才だ。心よりの感謝を捧げよう!」
今夜は塊の肉を買ってきてローストビーフにするか、それとも柔らかく煮込んだシチューでも喜ぶかもしれない。
飯を食いながら次の飯のことを考えたのは、人生で初めてのことだった。
◇
「さて、まずは朝のうちに洗濯だけ済ませちまおうぜ。今日ならきっとすぐ乾く」
「アイザックは浄化魔法が使えるのか? すまんが我は苦手なのだ」
この世界において魔法というものは確かに存在している。がしかし、人間単体でその力は使えない。動力を含んだ魔石と魔法陣を駆使して作られた魔道具によってのみ、理外の理を行使できるのだ。例えばサンビタリアを蜘蛛の巣から助け出す際に使った火の魔道具然り、キッチンで調理に使う魔道コンロや水の魔道具然り。
いくつかの種族において、魔道具を使わずとも魔法が使用できることは知識として知っていた。その中でも特に有名なのがエルフである。エルフは基本的に里に籠っているから、詳しい情報や知識は知られていないが。どうやら、全てのエルフが全ての魔法を使いこなすわけではないらしい。
「構わねえよ。洗濯用の魔道具があるんだ」
「そうなのだな! どれ、見せてみよ。ヒトの創意工夫はたいそう素晴らしいものであると聞いているぞ!」
人間への期待値が高すぎやしないだろうか。自分が作ったわけでもない道具にがっかりされる心配を抱きつつ、魔道具を庭へ運び出す。
「これに水を張るんだ。んで汚れ物をぶち込む。ここを押すと回るから、石鹸を入れて泡立てる。しばらく待つと汚れが落ちるから、あとは水を換えてすすいで……捨てる。この状態でもう一度回すと、粗方水が切れるってわけだ」
自分の服を見本に洗って見せると、キラキラとした瞳でそれを見つめるサンビタリア。依頼任務の間のものだから、血の付いた服はともかく下着までじっくり見るのはやめて欲しい。逆なら大歓迎なのだが。
「なるほど理解したぞ! 良く出来たものだ。どれ、次は我がやろう」
僅かながら持っていたらしい着替えの服と、出会ったときに着ていた服。チュニック、靴下、その小さい布は……一応軽く目線を逸らしておこう。俺は紳士だからな。
「よし、このくらいか。水を入れるのだったな! それは出来るぞ。《水よ!》」
サンビタリアが手をかざし俺の知らない言葉を唱えると、そこにはざばりと綺麗な水が現れた。魔道具を使わないエルフの魔法だ。直接目にしたのはもちろん初めてで、詠唱の響きの美しさも相まってなんだか神々しいものにも思えた。
「すげぇな……。これがエルフの魔法なのか」
「エルフの魔法というよりは、精霊の魔法だな。我らは精霊に助力を乞うているだけなのだから」
「精霊、絵本でしか見たことも聞いたこともねぇ」
「はは、こやつらはそう簡単に姿は見せぬ故。しかし自然や彼らの好むものがある限り、案外身近におるものよ」
サンビタリアはその細く小さな手をくるくると振り、淡く笑う。もしかするとそこにも、俺には見えない精霊がいるのかもしれない。風が庭の草花を優しく揺らし、光がキラキラと輝いている。
「──綺麗だな」
「そうだろう、そうだろう。エルフは太古の昔より精霊とは良き友人として生きてきたのだ。森のない街の中では多少息のしにくさはあるが……しかし、全くいないわけでもない。アイザックの家に庭があって良かったな! おかげで我も気分が良いぞ」
俺が綺麗だと言ったのは、サンビタリアそのもののことだったのだが。しかし確かに彼女に寄り添う精霊もまた、彼女の美しさを構成するひとつの要素なのかもしれなかった。
「よし、できたぞ! なんだ、浄化の一族がおらんでも洗濯は出来るのだな!」
楽し気に水を換え汚れ物を洗ったサンビタリアと共に、庭の物干し場で服を干す。一応下着は室内に干すよう伝えておいた。俺は紳士だが、紳士でない者が侵入しないとも限らないからだ。
俺のでかいシャツと並んだ小さなシャツがふわふわと風に揺れ、袖と袖が絡み合う。何でもないその光景が妙にくすぐったく思えた。
「里ではその浄化の一族とやらが洗濯をしてたのか?」
「うむ。数日おきに巡回してくるのでな。掃除や洗濯の類は彼らにまとめて頼むのよ」
「へぇ……商人の一族といい、エルフの里は分業制なんだな」
「一族によって得意な精霊魔法の種類が違うから、役割を分けたほうが便利なのだよ。苦手な魔法を使うと余分に疲れるし、効率が悪い。尤も婚姻によって血はどんどん混じっておったから、近年では得手不得手の偏りも平らかになってきてはおったが」
話しながらも服をロープにかけ、パンパンと皴を伸ばす。初めのころよりずっと滑らかな手付きだ。手先が器用なのか、覚えが早い。
「サンビタリアはどんな魔法が得意なんだ?」
「我は緑の魔法が得意だ。まあ薬草を育てるだとか、食べられる果物を探すだとか、色々だな」
「へぇ……結構便利そうだ。水を出すのも上手かったけど」
「それは当然、植物を育てるには水が必要不可欠だからであろう。まあ……母も水の系譜であったからな。遺伝もあるかもしれぬが」
そう言った彼女は、一瞬どこか切なそうな表情を見せた。里を抜けてきたくらいだから、何か諍いがあったか、あるいはもうこの世にいないのかもしれない。
「まっ、お互いそれなりに生きてりゃ色々あるよな。なんたってサンビタリアは俺よりずっと年上だっていうし? レディの秘密は暴かないでおくよ、話したい気分になったら聞かせてくれや」
俺がふざけてそう言えば、サンビタリアは僅かに目を丸くした後ふわりと笑った。
「あい分かった。近いうち、必ず」
「──俺の話も、聞いてくれるか?」
「無論。年上なりに助言もしてやれるやもしれぬぞ? いくらでも、聞こう」
しっかりと目を合わせて頷きあった俺たちは、再び洗濯の作業へと戻った。無言の時間も気詰まりになることはなく、優しい風が服を揺らしていく。
「人間たちは皆このようにして洗濯をしているのだなぁ。里で浄化を頼むのも楽ではあったが、手間をかけるこの時間もまた愛おしいものだ」
「うーん、半分はそうだけどな。実はこの魔道具はわりと高いんだよ。というか、魔道具自体が全部高級品だ。こんなもん、ぐるぐる回すだけだろって思うけどな。キッチンの魔道コンロも、水の魔道具も、買うのは高いし魔石も買い替えなきゃなんねぇ。自慢じゃないが俺はA級冒険者で金に困ってねぇから使えるが、一般の家じゃせっせと井戸から水汲んで手でゴシゴシと汚れを落として、絞ったなんだとやってんじゃねぇかな。調理もそうだ。魔道具がなきゃ薪か炭かで火熾してやってんだろうよ。野営の時は俺もそうだが、加減が難しいし後始末も大変だ。不便なもんだよな」
魔道具はほとんどが隣国からの輸入品だ。技術を独占されているから自ずと値段も高くなる。俺は依頼で隣国に行った際の伝手で色々と手に入れることが出来たが、そうでなければここまで揃えるのにもっと時間と金がかかったかもしれない。
細々とした家事の苦労は家を出てから知った。いないもの、いらないものとされていたとはいえ、結局日常の生活にかかる部分は家の使用人たちに世話されていたのだから。貴族と平民の暮らしの差は大きい。それを知ってもやはり、やり直せるとしたらまた今の暮らしを選ぶと心から言えるけれど。全部人力でとなると、流石の俺も家を買わなかった可能性はある。宿で頼んだ方がよほど楽だからだ。今こうして二人で暮らせるのも、様々な出来事の積み重ねからくる結果だと思うと救われる気持ちだ。
「アイザックは凄いのだな。暮らしを良くするために努力をしておる」
「そんな偉いもんじゃねぇよ。男の一人暮らしでめんどくせぇから、楽しようとしただけだ」
「洗濯は嫌いか?」
「必要だからやるが、好きか嫌いかって言われたら好きじゃねぇな。俺に浄化の魔法が使えたら絶対に使い倒すぜ。依頼の時なんて、ひと月風呂に入れないこともあるしな。ありゃ討伐よりしんどい」
顔を歪めてそう言うと、サンビタリアはあははと笑った。
「ではこれから洗濯は我の仕事としよう! 任せるがよい、滞在の礼だ。他の仕事も追々覚えよう」
拳を握って張り切る様子は心から楽しそうである。洗濯が気に入るとは奇特なことだ。もしくは彼女なりになにか返せるものが見付かって嬉しいのかもしれない。俺としては別に見返りを期待して家に呼んだわけでもないのだから、何もしてくれなくても構わないが。ただこれからもずっと一緒に暮らしていく前提で紡がれるその未来の約束が、嬉しかった。