第三話
「サンビタリア! 飯の用意ができたぞ!」
階上に向けて声をかける。が、先ほどまでパタパタと兎が跳ねるような音がしていた天井も今はしんと静まっている。何かあったかと火を止めて手を拭い、階段を登った。
角の部屋の扉をノックしてそっと開けると隅の方にちんまりと麻の袋が置かれているが、肝心なサンビタリアの姿はない。シンプルで必要最低限な家具は備えてあるが、リネンの類は一階から運ばねばならなかったなと考える。洗い替えがいくつか備えてあったはずだ。
「……どこ行ったんだよ」
まさか自分は長い夢を見ていたのではあるまいなと苦笑を漏らしつつ廊下へと出て、僅かに震える指で自室の扉を開いた。
足音を立てぬよう近付いた、俺の寝台の上。そこには、膝を抱えて胎児のような形で横になるサンビタリアの姿があった。
「なんで……」
無意識に伸ばした己の指が、その柔らかそうな白い頬に触れる直前。咄嗟にその指をぎゅっと握り込み、手を引いた。
そりゃ疲れてもいただろう。帰りは抱き抱えて来たとはいえ、その前からひとりで森を歩いて来たのだろうし。蜘蛛の罠にかかり、麻痺を喰らって食事もできず、下手したら生死がかかった状態にいたのだ。安全な場所に落ち着いて気が抜けたというところか。
彼女に与えた部屋にはまだ寝具にリネンがなく、探検がてら発見した俺の部屋の寝台で力尽きただけのこと。
分かっている。分かってはいるのだ。
はぁ……、と長めに息を吐き、少しの間だけ目を閉じる。
「サンビタリア、飯だ。ご希望の肉だぞ、肉!」
「……にく」
「そうだ、夢にまで見た肉だ。そろそろ柔らかく煮えてる頃だろう、寝坊すると溶けて消えちまうかもしれないぞ」
「肉……」
瞼が開き、空のように青く透き通った瞳が現れる。しばし空中をふわふわと彷徨った視線がこちらを捉え、数秒見つめ合う形になった後、ふわりと花咲くように微笑んだ。
「いただこう、アイザック」
俺もつられて、笑ってしまった。
◇
「ああ……! なんと美味なことか……! 程よい塩味、煮込まれて舌で潰れる野菜の優しい旨み、そして何よりこの蕩ける肉……! あやつらこんな美味いものを一族で隠しておったのか……。それは肥えるであろうな、一度知ったらもう知らなかった頃の自分には戻れぬ禁断の果実……」
「ああ、こっそり肉食ってたっていう一族か。そいつらは料理もしてたのかね」
「どうであろうな。あやつら己の集落にはなかなか人を入れなんだから」
「色々隠したい物が他にもあったのかもな……」
エルフの里でも様々な権謀術数が張り巡らされていたようである。金でも権力でもなく争点が肉というあたり、なんとも締まらない気がするが。俺からすれば、「だったら結界の外に出て肉狩ってくれば良いだろ」という感じだ。しかし生まれた時から知らなければ、欲することもないのかもしれない。平和だが、どうにも停滞している気がする。サンビタリア以前にも里の暮らしが息苦しくて逃げ出したエルフはきっと他にもいるだろう。彼らが森を出られたかどうかは分からないが、型破りなエルフたちがこの世界のどこかで楽しく暮らしていたらいいなと思う。
薄く切ったパンをスープに浸し、美味い美味いと嬉しそうに咀嚼するサンビタリア。男の簡単な仕事だ、野営料理に近い。レストランのような洒落た食器などなく、一人暮らし故に人数分揃いのセットなどでもない。仕事にも使えるよう、割れずに丈夫な鉄製か、木を削った軽い皿が数サイズ不揃いであるだけだ。あの細い指でも持ちやすいカップくらいは新たに買い足すべきだろうかと考えながら、いつもより幾分優しい味のスープをゆっくりと飲み干した。
「ああ、大変に美味であった。お主の働きに感謝するぞ、我はこの食事だけでも里を出て来て良かったと心から思う」
「大袈裟だな。街の料理屋で飯を食ったら仰天して腰を抜かすんじゃないか」
「なに、このスープよりも更に美味な肉が存在するとは思えないが……? いやしかし、人間達の弛まぬ努力と研鑽の証。せっかくだ、これからしかと見届けたいものだな」
「ああ、満足するまでずっとここにいたらいい。ヒトの技術も捨てたもんじゃないと思うぜ」
出来る限り長く、そばにいれば良い。
こんな間に合わせの料理で、貴族のパーティ料理を絶賛するかのような流麗な褒め言葉を量産する世間知らずのエルフなのだ。彼女が飽きるまでの時間はまだまだ余裕があるだろう。その間に沢山の料理屋へ連れて行き、美味いものを食わせ、見たことのないものを見せてやろう。
そうしてその笑顔を絶やさずにいてくれたら良い。
しっかりと飯を食い──それでもやはり俺からしたら小鳥の餌かと思う程度の量だった──簡単に身を清め、着替えがもうないというサンビタリアに俺のシャツを貸してやる。洗濯はきちんとしており清潔だが、結構着古したものなのでいい感じにくたびれて眠る時にも肌あたりが良いお気に入りの逸品だ。
俺が着ればちょうどいいサイズのそれは、彼女が羽織ると膝の少し上くらいまで丈があり、肩は落ちて袖は手がすっかり隠れてしまうほどである。
「……良いな」
こればっかりは男の夢というやつだろう。異論は認めない。俺のシャツにすっぽりと身体を包まれた幼気な少女。それが例え俺よりずっと年上のエルフであっても、この際見た目が合っていればいいのだ。
「おお、お主背は高くとも細身だと思っておったが。こうしてみるとやはり随分と大きかったのだな! 肩なんてほら、見てみろ。こんなに違うぞ!」
「ふは、そうだな。まるで子供だ。可愛いぞ、似合ってる」
「エルフはあまり縦にも横にも成長しないのだ。我も出来ればもう少しばかり身長が欲しかったのだがな……この歳になればこれ以上は伸びまい」
少し残念そうに眉を下げつつ、それでも物珍しいのか大きなシャツをはためかせてくるりくるりと回っている。エルフの六十歳が人間でいうところの何歳くらいにあたるのかはイマイチ分からないが、少なくとも成長期を終えていることは判明した。であれば、うん、一つ問題は解決したといえるだろう。良い情報だった。
長靴下は履いているものの……裾のはためくその下は一体どうなってるんだ。つい視線が固定されてしまいそうになるが、強靭な精神でもって自制する。どうやらこのエルフ、全く危機感がないらしい。これから色々教えてやらねばなるまい……色々とだ。
貸し与えた部屋の寝具にリネンの類を準備して、ランタンの光を落とす。
「今日は疲れたろ。もう寝て、これからのことは明日から考えようぜ」
「ああ、そうしよう。寝台で眠るのはいつぶりか、この厚遇に感謝する……」
俺の前でさっさと布団に潜ったサンビタリアは、瞼を閉じると一瞬の後にすぅすぅと寝息をたてだした。なんと眠りにつくのが早いのか。やはり俺を全く男と意識していないのか、少しばかり腹が立ってきた。
僅かに開いた唇の柔らかそうなこと。枕に散った銀の髪の美しく滑らかなこと。
ここぞとばかりに目に焼きつくほど舐めるように眺め倒してからため息を殺し、静かに部屋を後にした。音の出ぬよう慎重に扉を閉めて、自室へと帰る。ぼすん、と腰掛けた寝台が跳ね、ふぅぅと深い息が漏れた。
俺はこの先やっていけるのだろうか。まあ、努力はしよう。いつか向こうからやって来たなら、その時は解禁だ。今に見ていやがれ、美味しく柔らかく下ごしらえして骨の髄まで食ってやる。……いや落ち着け、俺。まだだ、まだその時じゃない。
俺はとっておきの酒の瓶を開けることにした。寝具に自分とは違う香りが残っている気がして……今夜はまだまだ、眠れそうにない。