第七話
今日は朝からどうにも上手くいかない日だった。
討伐の依頼を受ける予定であったが、僅かに寝坊。しかも身体を起こしてみると微妙に頭も痛かった。まあ気にするほどでもないし時間がたてば治るかと、朝食作りにとりかかる。スープを作ろうと思えば使うはずの肉がネズミに齧られており、魔道コンロの調子が悪くて吹きこぼし。サンビタリアは多少寝癖がついて気にしていたものの、ぽやぽやしていて可愛らしかった。
一瞬出かけるのを辞めたほうがいいかと考えもした。が、そろそろ肉のストックがなく、サンビタリアは討伐に行くのを楽しみにしているのだ。もちろん市場の肉屋で買うこともできる。しかしその肉屋に卸すのは俺たち冒険者だ。つまり自分で狩ってこないと食えない肉があるということを、彼女は既に知ってしまっている。
今日はフォレストディアを討伐に行く予定だ。もはや依頼が出ているかどうかより、何の肉でどんな味がするか、どのような料理になるかといったことを気にしているのだから笑えない。まあ多分依頼は出ているだろうし、万一先に取られていたとしても素材は売れるのだから問題ないだろう。そう言い切って付き合う俺も大概だ。
「さて、ぼちぼち行くかぁ」
「アイザック、今日は少し調子が悪いのではないか?」
「そうか? ……まあ大したことねぇよ。ディア肉は高たんぱくで鉄分も多いから、なんなら食ったら元気になるかもな」
「おお、であれば我が最高のディアを仕留めようぞ。一番良い部位はアイザックに譲ってやろう」
「はは、そりゃありがてえ。まずはギルドだな、少し遅くなっちまったけどよ」
連れ立って家を出るとギルドへ足を向けた。
通い慣れたその建物、いつも通り粗野な冒険者たちで騒めく朝の喧騒の中。
いつも通りでない奴が紛れ込んでいた。
「やっと……やっと見つけたぞ、サンビタリア……!」
何事かと興味津々の顔で見つめる野次馬たちが、道を作るように二つに割れていく。俺たちと向かい合うように立つその男は、白銀の長い髪を三つ編みにして片側へ垂らし、生成り色のシンプルなチュニックを着ている。白い肌、細身の身体、そして新緑を映したような明るい緑の瞳。その耳はサンビタリアと同じように長く尖っていた。
「カルミア……」
「お前は何故里を出たっ! おかげで計画は台無しだ、ほらさっさと戻るぞ! こっちへ来い!」
エルフらしく整った容貌であるのにその表情は醜く歪み、唾を飛ばして怒鳴っている。瞳の色こそ違えど髪の色や全体的な印象は似通っているというのに、この男は全く美しく見えないのが不思議だ。治まっていたはずの頭痛がぶり返した気がする。
サンビタリアをちらりと見ればその青い瞳は凪いだ湖面のように静かで、驚くほどに何も映してはいない。なんだか彼女がそのまま水に溶けて消えてしまいそうな気がして、つい腰に腕を回し引き寄せた。その行動がこの見知らぬ男を激昂させるだろうことは予想できたのだけれど。
「──っ! お、お前、俺という者がいながら下賤な人間などと慣れ合いを……っ!」
「──カルミア、久しいの。相変わらず元気が良くてなによりだ。しかしな、ここはエルフの里ではない。郷に入っては郷に従えと言うであろう? 落ち着かれよ。少々見苦しい」
対してサンビタリアはどこまでも冷静であった。それを見ていると、俺までなんだか落ち着いてくる。こんなに細い身体であるというのに、彼女はいつだって大樹のような安心感があるのだ。
「サンビタリア。こいつは誰か聞いてもいいか」
「ああ、ミズナラの子カルミアという。隣の里の長の息子だ。衆目の前で暴力を振るい、暴言を投げつけ、我を言いなりにさせようと日々必死であったと記憶している」
「……つまり敵だな」
サンビタリアにもっと早く会えていたなら、絶対に守ってやったのに。その頃俺はまだ生まれてもいなかったかもしれないが、些細な問題だろう……多分。
「お、お、俺はお前の婚約者だろうがっ!!」
「話はあったが受ける前に我は里を出ただろう。故に婚約者ではない──昔も、今も」
「他の奴らの標的にならないように、俺が守ってやったのが分からないのか……!」
「守るものが率先して暴力を振るうのか。それは我が思う守り方とは随分と違うようだ」
ふっと冷たく笑うサンビタリアの顔がどこか寂しそうに見えて、背中を軽く撫でた。俺を見上げた彼女は口元を緩め、優しく微笑む。俺はお前を絶対に傷付けたりしない。
「んなっ──! まずはその下等な生き物から離れろ……! 里に帰って結婚し、我が家に入れば結界で守れるのだ。多少の行き違いで拗ねるものではない! 誇り高きエルフとして正当な道を選ぶべきだろう!」
「正当、正当か……。生憎と我は既にその正当な道から外れた身。わざわざこのような場所までご苦労なことであったが、その申し出謹んで断らせていただく」
「何を──っ、そんな、そんなこと許さない。許さないぞサンビタリア……! お前は俺の、俺の物だと決まっているんだ……!」
カルミアがこめかみに青筋を浮かべ、目を血走らせながらその青白い腕を振り上げた。
咄嗟に俺はサンビタリアの前に立つ。
「《風よ!》我が命に従いその者たちを切り裂け! サンビタリアよ、絶対に後悔させてやるからな……!」
地面の砂や石がぶわりと舞い上がり、一陣の風と共にこちらへ襲い掛かってくる。頬や手、肌の露出した部分に当たったそれらが一瞬の熱さと同時に皮膚を切り裂いた。
その時、俺の後ろに隠していたはずのサンビタリアの華奢な腕がすっと前へ伸びてきて、ダンスを誘うように優雅な動きでくるりと円を描いた。その柔らかな肌を傷付けたくなくて下げさせようとしたものの、いつもとは逆に俺の背を優しく撫でた彼女の手が「大丈夫だ」と雄弁に伝えてくる。サンビタリアが大丈夫だと言うのならば、きっとそうなのだ。強張っていた肩の力を抜けば、聞きなれた彼女の声が歌のように紡ぐ言葉たちが耳に流れ込んでくる。
「《風よ》願わくはこの柔らかな頬を撫で草木を揺らす涼風とならんことを」
その声が響き渡ると同時、荒れ狂っていた風の嵐がサンビタリアの腕に巻きとられるように収まって、ふわりと霧散した。周囲の草木が楽し気に揺れ、さらさらと音を立てる。
茫然としたカルミアはその場でがくりと膝をついた。
「な、なんで……俺の精霊魔法が」
「カルミア、お前は精霊を何と心得る。縛り付け、命じ、従わせるなど言語道断よ。ましてやここはエルフの里ではないのだ。ヒトの世を好み居つく精霊はヒトの営みを慈しんでおる。やりたくもないことを強要され続けるのは誰しも辛いものだろう? 気まぐれな風の精霊たちは己の生きたいように生きるべきだ」
「やりたくも、ないことを……」
新緑の瞳がこちらを見上げる。実年齢は知らないが、見た目は俺にまとわりついてくる若手の冒険者と同程度だろう。初めて己が敵いそうもない、強い魔物に遭遇したかのような、怯えと不安の混ざった表情をしている。
「なあ、カルミアよ。我は母の腹に宿ったその時より、既に正当なエルフの道から外れた存在であったこと。お前も散々罵ってきたではないか? あの里は、我にとってただ息苦しいだけの檻なのだ。お前の一族は確かに力を持っておるから、そこに加われば直接的な冷遇は受けぬかもしれぬ。しかしもう、我は戻れぬのだ」
「もど、戻れる……俺と共に戻れ……」
「知らなかった頃には、決して戻れぬのだよ。自分の足で歩み、好きなものを見付け、技術を磨いて力を付けて。信頼できる者と共に生き、自分自身の将来を選び生きられる喜びを」
「俺が、もし幼き頃から、お前を大事に守っていたなら……」
縋るような瞳でじり、と前に出ようとするカルミアを見て、サンビタリアは笑った。
「時は戻らぬ。知らなかった頃にも戻れぬ。そして我は、里にも戻らぬ。帰れ、カルミア。ミズナラの子として永劫エルフの里を守る重責に敬意を表する。しかし我はもう誰に守られずとも生きて行けるのだ。帰れ、カルミア。我が身、我が未来は我だけのものなのだから」
騒ぎに気付いたか誰かが呼んだのか、ギルドから職員が出てくる様子が見えた。潮時だろう。
既にカルミアたち里のエルフと、サンビタリアの行く道は分かたれた。
その背を押して、踵を返す。事情を聞きたければ遣いが来るだろう。
サンビタリアはもう振り返らない。優しい風がさらさらと草木を揺らしていた。




