八話
山積みになっている書類にルーフィナは呆気に取られる。
舞踏会から一ヶ月余り、人の噂も七十五日とはよく言ったもので、ルーフィナの噂は収束しつつある。だがその代わりではないが、毎日の様にお見合いの書類が続々と届けられていた。
「失礼致します。あの、ルーフィナ様にお会いしたいと仰っている方がおりまして……」
困り顔の侍女からそう言われ、ルーフィナはまたかと内心ため息を吐いた。何度断ってもやって来る彼の精神力の強さはある意味尊敬にあたいするかも知れない。
あれからエリアスはリリアナと婚約破棄で未だに揉めているにも関わらず、その元凶ともいえるルーフィナに平気な顔をして会いに来る。大らかな人だと思っていたが、これではただの空気の読めない人だ。
相手は王太子で従兄でもあるので無下には出来ないが、流石にこれ以上は巻き込まれたくない。折角噂も落ち着いてきたのに、これでは元の木阿弥だ。
最近は侍女に言って居留守を使っていたが、どうやらエリアスには気付かれているらしくあの手この手でルーフィナに会おうとしてくる。例えば今みたいに侍女に自分の名前を伏せる様に言い付けてみたりと、まるで子供みたいだ。これはそろそろルーフィナから直接ハッキリと伝えた方が良さそうだ。
「……」
「……」
(どなたですか⁉︎)
意気込んで応接間へと向かったまでは良かったが、中に入るとエリアスではなく知らない人が待っていた。いや、正確には一ヶ月くらい前に見かけた覚えがあるが知り合いではない。
舞踏会で目撃した王子様の様な風貌の青年は、ソファーに座ったまま一言も話さない。気不味い空気の中、家令であるジルベールが自らお茶を運んで来た。丁寧にお茶を二つ淹れると、ルーフィナと彼の前に置いてくれた。
「あの……」
何時迄もこのままでは埒が明かないと、ルーフィナが先に口を開くがーー。
「初めてまして、ルーフィナ・ヴァノです。お名前をお伺いしても宜しいですか?」
自己紹介をしただけなのに、彼は目を見張り固まってしまった。何かこの瞬間に粗相でもあったのだろうかと心配になるが特別思い当たる事はない。
「坊ちゃま、ルーフィナ様がお困りになられておりますよ」
壁際に控えていたジルベールが優しく諭す様に声を掛けると彼は勢いよくジルベールを振り返り睨んだ。
(坊ちゃまって……ちょっと可愛いかも、というよりジルベールと知り合い?)
明らかにルーフィナより歳上の彼はとても美麗だが、急に可愛く見えてくる。思わず笑いそうになるのを必死で堪えた。
すると彼は誤魔化す様に少し大きな咳払いをした。恥ずかしかったのだと思われる。
「僕はクラウス・ヴァノだ」
「……」
(クラウス、ヴァノって……なんだ、私の旦那様ですか……)
「え……え⁉︎」
今度はルーフィナが驚く番だった。
折角なのでお茶でも飲もうかと持ち上げたカップを危うく落としそうになってしまうが、俊敏な動きでジルベールがカップを支えてくれた。
「あ、ありがとう……」
「いえ、ルーフィナ様に大事がない様で安心致しました」
こんな状況だが優雅にお茶を啜り全く動じないクラウスを見て、ルーフィナは流石だと感心をする。まだ若いが、やはり侯爵ともなると風格が違う。
ルーフィナは居住いを正し、改めて彼に向き合った。
「あの、それで……侯爵様が私に何のご用でしょうか?」
「侯爵様ね……まあいい。あのさ、僕は君の何?」
「何とは……何ですか?」
質問を質問で返され更に質問で返してしまった為か、クラウスから睨まれた。
「僕と君の関係性を聞いているんだよ」
尋問を受けている気分になってくるが、そもそも八年振りにいきなり押し掛けて来て一体何の確認ですかと困惑をする。
「一応、夫婦? です」
形式上は夫婦だが、何しろ十六年生きてきた中でこれまで彼と会ったのは一回きりでそれもほんの数時間顔を合わせただけだ。しかもつい先程まで顔を見ても夫だと分からなかった、その程度の認識しかない。これではただの他人と言っても過言ではないだろう。
「何故疑問符が付くのかな」
「それは……えっと、何となくです」
「……」
まさか他人同然だからとは言えない。流石に怒られそうだと言葉を濁した。
「あぁ、そう。まあそれは兎も角、自覚しているのなら余り事を荒立てない様に」
「え……」
「勿論分かっているだろう? ここ最近、随分と君の下賎な噂話が広まっているらしいね」
「それは……」
「反論は不要だよ。僕は噂の真相に興味がある訳じゃない。君が何処の誰と懇意にしようと正直どうでもいい。だが、例え名ばかりだとしても曲がりなりにも君は僕の妻なんだ。君の軽率な言動一つでヴァノ家の家名に傷が付く事になる。君はもう十六になり、これからは正式に社交の場にも出る事になる。理解出来たなら、肝に銘じてこれからは気を付ける様に」
(下賎な噂……)
辛辣に言い捨てられるが、彼が言っている事は間違ってはいないし同意は出来る。事実無根ではあるが、これまでエリアスを言われるがままに屋敷に上げていたルーフィナにも非はあるので何も言えない。
「申し訳ありませんでした……」
「話は仕舞いだよ。それじゃあ、僕はこれで失礼するから」
彼は席を立つと冷めた目でルーフィナを一瞥すると、帰って行った。
八年振りの夫の来訪だったが、どっと疲れた気がした。