十一話
先程まであんなに和かだったのに、馬車の扉が閉まった瞬間クラウスは無愛想になった。向かい側で足を組み無言のまま座っている。
「あの、侯爵様……」
「何?」
緊張しつつ声を掛けてみたが……やはり先程と反応が違い過ぎる。何なら声のトーンまで低くなった気がする。
「何か、私にご用事でもございましたか?」
先日屋敷に来た事だけでも衝撃的なのに、まさか学院にわざわざお迎えに来るなんて余程の理由があるとしか思えない。
「……別にないよ。今日は本当に近くに来たから、ついでに立ち寄っただけだから」
「ついで……」
先程も思ったが、学院の周りには何もない。あるのは森林くらいだ。もしかして、彼は自然をこよなく愛していて森林浴に来たのか……。
「夫が妻を迎えに来た、ただそれだけの事だけど……何か問題でもあるのかな」
「いえ問題なんて……ありません」
「ならいい」
まあ学院からルーフィナの屋敷までは大した距離はない。少しの我慢だ。そう思っていたのに……。
「もしかして、寄って行かれるんですか?」
「何、もしかして迷惑だった?」
「いえ、迷惑なんてそんな事は……ないです?」
流石に迷惑ですなんて言えず否定をするものの、思わず疑問符を付けてしまい本音がでかける。無論クラウスから睨まれた。
屋敷に到着しようやく解放されると胸を撫で下ろしたのも束の間、クラウスも当たり前の様に馬車から降りて来た。何故……。
「ルーフィナ様、お帰りなさい、ませ……」
何時も通り笑顔で出迎えてくれたマリーだが、ルーフィナの後ろにクラウスがいる事に気付き目を見張る。
「いらっしゃいませ、旦那様……」
慌ててぎこちなく挨拶をして頭を下げるマリーに苦笑してしまう。
そうこうしているとドスドスと足音が近付いて来た。至極嬉しそうな顔をしたショコラはルーフィナ目掛けて走って来るとそのまま飛びついた。
ワフ! ワフッ‼︎
「ふふ、ただいま、ショコラ」
暫し出迎えてくれたショコラと戯れていると、視線を感じハッとする。一瞬、存在を忘れていた……。
恐る恐るクラウスを見れば、何故か此方に手を伸ばした状態のまま立ち尽くしていた。何故……。
◆◆◆
「侯爵様、この子はショコラで私が飼っている犬でして」
「犬……」
屋敷に入り侍女に出迎えられた後、何やらドスドスと聞き慣れない音が聞こえた。不審に思い音の方へと視線を向けると、大きな黒い毛玉が此方へと向かって来る。クラウスは驚愕し咄嗟に身構えると反射的にルーフィナへと手を伸ばすが、彼女が満面の笑みを浮かべ手を広げていたのでそのまま固まってしまった。
暫し呆然としていたクラウスは、ルーフィナの声に我に返った。伸ばしていた手を慌てて引っ込めると咳払いをする。そして彼女が抱っこ、いや抱っこされている生き物に目を凝らした。
(これは本当に犬、なのか……?)
真っ黒くふさふさな毛並みに垂れ下がった耳、つぶらな瞳で形状は確かに犬そのものだ。だが、それにしては大き過ぎる。確かにルーフィナは小柄で華奢だが、犬が人間を抱っこするなどあり得ない。クラウスの知っている大型犬とは訳が違う。
ワフ!
黒い毛玉は、大きな尻尾を力強く振りながらクラウスに近付いて来た。思わず一歩後退る。
「少し大きめですが、人懐こくて良い子なんです」
少し……? いやこれの何処が少しなんだ! そう思いながらもクラウスは平静を装う。ルーフィナがいる手前、取り乱すなど出来ない。
ワフっ! ワフッ‼︎
そうしている間にも犬は目と鼻の先まで迫っていた。暫し互いに見つめ合う。
犬は好きでも嫌いでもない。得意でも苦手でもない。知人の屋敷で触れた事はあるが、飼った経験はなく扱い方はいまいち分からない。だが所詮は犬だ。
クラウスはショコラを撫でようと頭へと手を伸ばしたがーー。
「痛っ‼︎」
「侯爵様⁉︎」
手を噛まれた。
帰りの馬車に揺られながら、手の包帯を見て先程の事を思い出す。
(僕としたことが、まさか噛まれるとはね……)
あの後大騒ぎになった。ただ噛まれはしたが出血などはない。まあ歯形はくっきりとついているが。どうやら本気で噛んだ訳でないらしいが、地味に痛かった……。心配した彼女が念の為と言って自ら包帯を巻いてくれた。少し捩れているが……まあいい。
噛まれたクラウスを見たルーフィナは、慌てふためきながら平謝をして必死に黒い毛玉にも謝罪をさせ様としていたが、流石にそれは無理だろうと脱力した。
因みに黒い毛玉は、彼女曰くこれまで人を噛んだ事は疎か威嚇すらした事がないくらい温厚な性格らしいが……。
「余程嫌われたみたいだね」
クラウスは鼻を鳴らす。
今日は外出する用事があったのは本当だ。ただ予定より早く用が済み、何時もならそのまま屋敷に戻る所だがふと彼女の事が頭に浮かんだ。時間的にそろそろ終業時刻だろうか……。
別に他意はない。たまたま外出先で時間に余裕が出来ただけで、要は物のついでだ。クラウスはそう理由付けて馭者に声を掛け、学院へと向かわせた。
『ヴァノ侯爵様ですよね⁉︎』
彼女を待っている間、瞬く間に女性等に取り囲まれた。別段珍しい事ではない、良くある事だ。女性等からああでもない、こうでもないと下らない質問や話をされうんざりしているとようやく彼女がやって来た。紫を帯びた銀色の艶やかな髪が風に靡くのが視界入り、遠目でも直ぐに彼女だと分かった。
迎えに来た事を告げると戸惑っていたが、それよりも隣にいた男が気になった。友人だというが、彼女と随分と親し気に見える。確か、舞踏会の時に彼女と一緒にいた男だ。
成る程、彼が先約だった訳か……。
『……テオフィル・モンタニエです。ルーフィナ嬢には何時もお世話になっております』
和かに手を差し出し笑みを浮かべながら握手を交わすも、互いに目が笑っていない事に気付いていた。若さ特有の挑戦的な目だ。分かり易い態度に笑えてしまう。
「まあ、僕には関係ないけどね」
馬車は少し揺れてゆっくりと止まった。屋敷に着いた様だ。クラウスはほつれ掛かった包帯を逆手で押さえながら馬車を降りた。




