3 幸か不幸か
幸か不幸か、荷物は車に詰めこんである。このまま車を走らせて、フェリーをつかい、北の大地にゆくことができる。
バンドのメンバーには、少し頭を冷やしてくると伝えればいい。
ママには迷惑をかけるけれど、たぶん、許してはくれるだろう。帰ってきたら、ものすごい笑顔で「お・ね・が・い」をされそうだけれど、たぶん、問題はない。断れないだろうけれど、お土産をどっさり渡しても断れないだろうけれど、おそらく、悲惨なことにはならない。きっと、問題はない。
「ねえちゃん、これスイッチどこ?」
問題は、どうやってこの少年を、助手席から叩きだすかだ。
さっそくカーオーディオをいじりたおす少年をみながら、麻子は己の過ちを悔やみ、唇を噛んでいた。
一体、どこで間違えたのだろう。はっきりと断ったくらいで引き下がるはずがない。その考えは間違っていない。少年を相手にしてはならない。そこも間違っていなかったはず。
『そんなもん、親が許すわけないだろう』
『よし、いっぺん帰る!』
『おい、ちょっと、待て! 網は!? 虫取り網は!? ペットボトルは!?』
麻子は、少年が放置したペットボトルを処分して、待っていた。
待ちながら、あの元彼と付き合いはじめたころ、ママにいわれた言葉を思い出していた。
『アサコちゃん、気は強いけど、押しには弱いのよねぇ』
虫捕り網でセミと戯れようとする、麻子ではない麻子がそこにいた。
十五分ほどで戻ってきた少年は、シャワーを浴びて着替えを済ませ、旅の荷物を抱えていた。
『どこへでも行ってこいって!』
『……嘘だろ?』
『うちの母ちゃん、ほうひ主義だから』
『放任主義だ。二度と間違えるな。たとえ事実であっても口に出すな』
『じゅんびおーけー』
『聞けよ! っていうか、その荷物……準備、早すぎないか?』
『もともとしてあったから』
『旅行の予定があった? よし、帰れ!』
『あったんだけど、父ちゃんがパチンコで使いこんで』
『ただのクズじゃねーか! くそっ!』
プチパニックに陥った麻子は、虫捕り網を手にしたまま運転席へ乗りこんだ。
そう、常識や良識の範疇で解決を図ったことが誤りだった。
期待や、虫捕り網なんて放置して、さっさと逃げるべきだった。
唇から血が出そうだった。
助手席に乗りこんだ丸刈りの少年は、車内の熱気を意に介さなかった。我慢比べに勝機はない。麻子は虫捕り網を強く握りしめながら、突破口を探るべく少年を観察した。
間近で横から見る少年は、エクステをつけてもここまではと思うほど、まつ毛が長かった。
視線の高さを近づけることで発見できた衝撃の事実をまえに、リーダーがみたら嫉妬するだろうかと、どうでもいいことしか頭に浮かばない。
麻子は静かに歎いた。
このままこいつと旅に出るのかとおもうと、どこまでも気が滅入ってくる。
「私は、このままフェリーに……こいつを、海に……」
「おー、なんかはじまったー」
流れはじめたイントロが、麻子を現実世界に引き戻した。
「なんか、かっこいいなー、これー」
少年の口から、素直な称賛が出てきた。
麻子は、大きすぎる音量を調整して、虫捕り網を後部座席に置いた。
「かっこいいと思うか?」
「うん、なんかすげー」
プランナー麻子はもういない。誰になにをされなくても海に落ちるであろう少年に、あらかじめ救命胴衣を渡してやることができる。
「この曲、好きなんだよ、私も」
単調な旋律が、静かに熱を帯びていく。突っ走らず、協調している。いい感じに弾けている。リーダーの歌声とひとつになって、心地よく響いている。メンバー全員が納得できるまで、何度も何度も録り直したことを、覚えている。
「有名なやつかー? おれ、ぜんぜん知らねー」
「まあ、な」
生きていると、感じる。気分が昂揚する。サビに近づくと歌いたくなる。実際に叫んで、メンバー全員からダメ出しされたことも覚えている。一回や二回ではなかったような気もする。ライブでもやらかしたかもしれない。反省会の記憶はない。二日酔いがひどかった。
曲が終わるまで、少年は黙って聴いていた。
「いまのやつ、もう一回」
「やめろ。私がやる。勝手にいじるな」
「えー、いいけどさー、ねえちゃん、つぎは歌うのやめろよなー」
指摘されて、口ずさんでいたことに気づいた。
「わるい」
「ねえちゃんの声もよかったけどさー」
「……おぉ」
「どっちがいいかっていうとむずかしいけどさー」
麻子は口もとを手で隠した。
ゆるんでいた口もとが、ゆがみそうになる自覚があった。
カラオケに行きたくなってきた。
「やっぱり、オリジナルをリスペクトしないとなー」
「……おまえがいうと、違和感がすげぇな」
「そうかー?」
「そもそも英単語が似合わねぇよ」
ぞわっときて真顔にもどった麻子が、オーディオを操作する。
「じゃあ、ロックは?」
「まったく似合わねぇ。まあ、アニソンなら許容範囲かもな」
「えぇー、じゃあ、クイー○は?」
「やめろ。伝説のロックバンドだ。おまえが口にしていい名前じゃない。違和感がすごすぎて鳥肌がたってきた。知っているだけでも、いや、さすがに知っていてもおかしくはないのか?」
「鏡のなかのマリオ──」
「おい! やめろ! なんで知ってる!? おっさんしか反応しないのに!? ママでも知らなかったのに!?」
「このまえ父ちゃんが配信動画をみつけて、だいぶうるさかったから」
「くそっ、評価がむずかしいなあっ、おまえの父ちゃんは!」
イントロが流れはじめて、少年は黙った。
麻子も両手で肌をさすりながら、黙って考えていた。
リーダーが歌わないのなら、私が歌ってもいいのだろうか。個人的な欲求に過ぎないけれど、もしも私が歌わないのだとしたら、どうなる。もしもメンバー全員が活動をやめてしまったなら、これまで私たちが創りあげてきた楽曲は、どうなる。
「ロックだよなー」
「やめろと言ってるだろうが」
曲が終われば、余韻もなく騒がしくなった。べつの曲が流れはじめたが、少年は目的を忘れていなかったらしい。「よし、出発しようぜ、ねえちゃん」と、当たり前のように仕切りはじめた。
溜め息をこぼしつつ、麻子はエンジンを稼働させた。
「とりあえず、ガソリンスタンドに寄らないとな。燃料代をふくめて、どれくらいかかるんだろう。ひとりなら……そういえば、お前、旅行代はどれくらいもらったんだ?」
「えっ? おれ、金とかもってねーぞ?」
「マジかよ」
空調やシートベルトなど、手慣れた動きで準備を整え、ハンドルに手をかけたあたりで、ふっと思った。もしかして、こいつの費用も、ぜんぶ私が支払うのかと。
「えっ、マジで?」
少年は首をかしげていた。自分がなにを問われているのか、麻子がなにを驚いているのか、心あたりがない様でいた。
麻子は戸惑った。少年がお金に縛られることなく己の欲求を満たさんとする生き物であることは受け入れつつあるものの、自分の知る常識では考えられない事態に遭遇していると感じていた。
少年の親は、一体、なにを考えているんだ? あとで好きなだけ請求してくれたらいいと? 特売日をうまく利用する母親が? それは考えにくい。となると、やはり費用はこちら持ち?
そんなこと、ありえるのか? こいつの親ならありえるのか? 素性も知らない相手に自分の子どもを預けるような親だからな。やはり、親からみても可愛くないのか。どうなってもかまわないと考えるくらい? さすがにそれはないか。ネグレクトされている体型じゃない。となると、おかしくないか?
いくら放任主義とはいえ、見知らぬ他人だぞ? 会ったこともない他人に、子どもを預ける? ありえるのか? 勢いに押されて鵜呑みにしていたけれど、こいつ、ほんとうに親から許可をもらってきたのか?
「おまえ、親から許可をもらうのに、どういう説明をした?」
「えっ? 美人のねえちゃんといっしょに北の大地に行ってくるーって」
「……それだけ?」
「なんかまちがってる?」
足りていない。間違ってはいないが、圧倒的に説明が足りていない。おそらく事情は伝わっていない。こいつの親はなにも理解していない可能性が高い。また変なこと言いだしたなーと、かるく受け流されて終わっている気がする。
麻子は大きく息を吐いた。
ちょっと落ち着いて考えようとおもった。
そもそも常識というのなら、子どもの親と、間接的にしかやりとりをしていないのは、まずいのではないだろうか。子どもの親の立場からすると、私はどう見えるのだろう。もしかして私は、未成年者の誘拐犯になりかけているのでは……。
「あー、すっげぇ美人っていわないとだめだったのかー」
社交辞令は学んでいた少年に、「そこじゃねーよ」と返しながら、いま、自分の声がちょっと震えているんじゃないかと、麻子はおもった。