2 果糖液糖がしみわたる
疲れた体に、果糖液糖がしみわたる。五分くらいは過ぎただろうか。いくらか元気になった気はするものの、誤魔化しているだけのような気もする。
これから、どうする。バンド解散。仲間。リーダーはいない。活動を続けるのか。続けられるのか。まずは謝らないと。落ち着いて話し合いをする。それからどうする。どうなる。どうしたい。ああ、そういえば、今夜は店に出ないと。ママに迷惑がかかる。帰らないとまずい。どこに。帰るところ。もどるべき場所。
麻子はもうひと口だけジュースを飲んだ。
ここがどこかはわからないが、まだ、動けそうにない。
麻子は、のこり四分の一程度となったペットボトルから、となりで地面に座りこんでいる丸刈りの少年に視線をうつした。
「いや、飲んだなら、どっか行けよ」
空になったペットボトルを逆さまに立て、そのうえに虫捕り網を立てようとしては失敗を繰り返している。三回に二回はこちら側に網が倒れてくる。休息するうえで、このうえなく邪魔な存在となっている。
「おれもさー、帰ろうとはおもったんだけどさー」
「よし、すみやかに帰れ」
「なんか、ねえちゃんが、さみしそうだからさー」
不意をつかれて、言葉につまった。
こんな子どもから、気をつかわれているらしい。
こんな子どもにすら、寂しそうにみえるらしい。
「……そう、みえるのか?」
「うん、月はじめにパチンコでボロ負けした父ちゃんが、だいたいそんな感じ」
「一緒にすんな! されてたまるか!」
くそっ、どんな雰囲気を出してるんだ、私は! 負け犬か!? 惨めすぎるわ!
「なにかひどいことがあったんだろー?」
こちらの訴えをスルーしておきながら、「おれが話しをきいてやるよ」といった風情の、神妙なフリをする少年がいた。これまで何度となく、父親から愚痴や泣き言を聞かされているのだろう。うんうんと適当にうなづいていれば、菓子でももらえたのかもしれない。
麻子はあきらめた。黙っていると、しつこくしつこく話を要求してくるにちがいない。いい感じに液体がのこったペットボトルが兇器と化すかもしれない。うまくやれば頭蓋骨が陥没するレベルの鈍器になると、なにかでみたような覚えがある。
「……追いかけていた夢は、夢でしかなかったって話だ」
「ああ、それなー、わかるわかる」
「絶対わかってないだろ」
「そんなことできるわけないって、誰かにいわれたんだろー?」
こいつ、わかっている、のか?
私がまだ、あきらめられないってことまで?
「おれもこのまえ、母ちゃんにいわれて、くやしかった」
ああ、そうだ。
私は悔しかった。
「おれ、昼は毎日とうもろこしを食べるって言ったのに、母ちゃん、特売日じゃないから買わないとかいうんだよ」
「……なんの話だ?」
「だからー、とうもろこしのゆでたやつ、丸ごとかじって食べたときにおもったんだけどさー、あれ、とうもろこし農家の人なら、ぜんぜん歯の間につまらないように食べられるんじゃないかって」
とうもろこし、農家さんならできるのか? 丸かじりだろ? 歯の間に詰まりまくった覚えはあるけど、あれって練習すればどうにかなるものなのか?
「……いや、なんの話だ?」
「だからー、おれの夢」
「とうもろこし農家?」
「歯の間につまらせずに食べられたらさー、すげぇかっこいいだろー?」
かっこいいのか? 男子小学生なら、そうなのか? たしかに、自慢できる類のものなのかもしれない、とは思うけれども、恥ずかしい。こんな少年の言葉にわずかでも揺らいでいた自分が恥ずかしい。
「……すごいは、すごいと思うんだが、農家の人でも無理だろ」
「北の大地の人なら」
「人類には不可能じゃないか」
「北の大地の、農家の人なら」
「齧歯類でも無理だとおもうぞ」
麻子は残っていたジュースを一気に流しこんだ。
炭酸は抜けている。緊張感も失せている。油断していたといってもいい。地面に座りこんでいた少年が立ちあがったことには気づいていたものの、叫び声をあげるほど荒ぶっているとはおもっていなかった。
「北の大地をバカにするなっ! できるっていったらできるんだ!」
今度はどうしたと、麻子は少年をみた。その泣きそうな表情に、それほど悔しかったのかと、意味のなさそうな挑戦にこれほど本気になれるのかと、こいつにとって北の大地はドリームランドかなにかなのかと、驚きと困惑が深まる。
「おれはあきらめないからな! だれになにをいわれたって、ぜったいにあきらめない! おれはねえちゃんとはちがうんだ!」
一緒にするなよ。
麻子は、胸のうちでぼやき、息をもらした。
たしかに、なにかに挑戦している点では、同じなのかもしれない。いつまでも夢をみるなと、あきらめろと、否定されたところも同じなのかもしれない。一緒にされるのは嫌だが、認めたくはないが、受けいれるつもりはないが、構図だけは同じなのかもしれない。
「あきらめたわけじゃない。ちょっと休んでいるだけだ」
言い返す言葉にも力はない。少年とは違い、ぜったいにあきらめないと、言い張ることができない。もうすでに、あきらめているのだろうか? あきらめることができるのだろうか?
私はいつから、こんなに弱くなったのだろう?
私の言葉は、セミの音にすらかき消されて、届かなかったのだろうか?
どうして少年は、北の大地の海産物について、熱く語っているのだろう?
セミの鳴き声に意識を向けながら、麻子はつぶやいた。
「……北の大地か」
そういえばママの出身地だっけ。ママ、もっと出勤してとか言ってたな。いや、天職ではないけど、今夜は店に出ないと。私、なんで客から人気あるんだろ。愛想も良くないのに。いま二番手だっけ。ハゲ限定ならぶっちぎりでナンバーワンだけど。まあ、どうでもいいか。今夜はいつも以上の塩対応だろうな。躾けのなっていない新規の客が来たら流血事件が発生するかも。ママに迷惑がかかる。不安だな。いま優しくされたら惚れるかもっていう逆の不安もある。
セミたちの合唱が、不意に途絶えた。
ふっと、麻子は閃いた。ふたたびはじまる絶叫も、ずっと騒がしい少年のことも、どこか遠くに感じながら、自分自身に語ってきかせるように、思いついたアイデアをささやいた。
「……行ってみようか」
迷いがある。いまはまだ、決断が下せない。たんなる逃避だろうけれど、もう少し、自分の心に問いかける時間が欲しかった。北の大地までゆけば、自分の答えがみつかるような気がした。答えが定まりさえすれば、どんな結末でも受けいれることができるかもしれない。
「よし、おれもいっしょにいく」
麻子は、ささやき声に反応しやがった少年をみた。少年は気合十分といった表情で麻子をみていた。そこは聞こえてんじゃねーよと、麻子はおもった。